間に合った、井筒は心の底から安堵した。階段を3段とばしで駆け上がったせいで膝が悲鳴を上げているが不幸中の幸いか、月が出ていたおかげで相手の姿を目に映すことができた。聞き込みの情報と一致している風貌であることをまず確認する。
確認したらまた安心して倒れ込みそうになったが、気を引き締めようと深呼吸して息を整えて目の前の相手に問う。
「佐々木紘華だな」
ところが相手は微動だにしない。内心の焦りを隠した上で井筒はさらに言葉を浴びせる。
「話してもらうぞ。何もかも。お前の意思とは無関係に、な」
そう井筒がいうと相手はおもむろに方向を180度変換して走り出した。屋上の柵の方へと。だが井筒には動揺する様子は見られない。いや見せないようにしているといった方が正確か。声を張り上げて相手の背中に投げかける。
「逃げるのか? 好きな彼氏を置いて。自分で勝手に問題抱えて、納得して、諦めて、それで逃げ出すのか」
「あんたに何が分かる!!!!!!!!! 知った風な口をきくな!! 何も知らないくせに」
ようやく佐々木が足を止めて振り返った。柵のすぐそばで。柵と隣り合わせ、つまり死と隣り合わせの状態で叫ぶ。
くしゃくしゃに顔を歪めて獣のように慟哭する佐々木に対して、井筒は冷淡に受け流す。
「何も知らないくせに、だと? 知るわけないだろうが。俺たちはテレパシーなんか使えねえんだよ。自分から悩みを暴露しねえ奴を気にかけてやるほど暇じゃないんだ。あんたには友達がいただろう。みんな気にかけていたよ、ここ数日様子がおかしかったからどうしたんだろうってな」
「うるさいうるさいうるさい!!!!! あいつらもどうせあたしのことを陰で悪口言ってるんだ!!」
「…………」
「あたしは感情が不安定だからみんなに迷惑をかけてるし。みんなあたしのことを良く思ってないに決まってる!!!!」
どうするか、井筒は考えを巡らせていた。大体一般の大学生は自殺をしようとしている人を説得することに慣れていない。それは古今東西あらゆる人の問題を解決してきている井筒隆幸にとっても同様であった。売り言葉に買い言葉で今まで会話してきたが、さすがにこれ以上不用意な発言をすると佐々木が飛び降りる可能性がある、そう危惧した井筒は慎重に言葉を選ぶことにした。
「……付き合っていた人はどうなんだ。彼だけはあんたのことをわかってやれてたんじゃないのか?」
まずは相手の話を真っ向から否定せず、弱そうなところから少しずつ攻めて説得する。独自のやり方を用いて相手をなだめようとする井筒は、佐々木の反応を待った。
「もう無理よ。あたしはボーダーラインを壊したの。決定的に徹底的に。だから彼もきっとあたしを許さない」
ここだ、井筒は佐々木の弱点を見抜いた。正直話してる内容は理解しがたいが佐々木は動揺を隠しきれず、語調が弱くなっている。ここで畳み掛けなければ、説得することは難しくなる。
ボーダーラインとはつまり境界のこと。境界を壊した? 違う。そんな直接的な意味じゃない。文脈的にこの場合は真逆の意味で使われているんだ。それを壊したとは……つまり。井筒は自分の推理に賭けることにした。ここで推理が的外れだったら、もう打つ手がない。意を決して井筒は口を開いた。
「大丈夫だ。あんたは彼とのつながりを壊してはいないよ。あんたは猫に関しては手を出していないじゃないか。猫の死体はあんたが見つける前からあったものだろう?」
「……違う。あれはあたしの所為なの。あたしがいけないの」
やった、井筒は内心で思わず手を叩きたい衝動に駆られた。彼とのつながりが猫、そしてそのつながりを壊したとくれば今日の一件に違いないという読みが当たったのだ。自分の感情の不安定さで猫を傷つけまいと猫除けまでしていた、佐々木にとっては今日のことは相当なショックになると読んだのだ。
「それは違うよ。全部が全部君の所為なわけがないんだ。ほらこっちに来てゆっくりと話そうぜ。悩みならいくらでも聞いてやるさ」
そういって井筒は左手を佐々木の方へと手を伸ばした。これは井筒の本心からの言葉であった。佐々木にもそれが伝わったのだろう。井筒の方へと涙で汚れてしまった顔を上げ、差し出された手を掴もうと佐々木が身を乗り出そうとした。そのとき、
「この俺、井筒隆幸がな」
と井筒が続けた瞬間、佐々木が恐怖に顔を歪めた。そして、あんた、悪魔の、と呟きながら佐々木が体をまたも反転させ柵にしがみついた。
戸惑った井筒がどうしたんだ、と声をかけると
「あたしを騙したのね!!!!! やっぱりあたしには死しか道がないのよ」
と半狂乱になって佐々木が吼えた。
そして突然佐々木は屋上の柵をがむしゃらに上り始めた。そこを乗り越えられると、もう物理的に止められなくなってしまう。そう思った井筒はおもむろに右手を伸ばし佐々木にかざした。
するとその右手から常人には見ることのできない漆黒の炎が湧き出てきた。夜の闇を食い破るかのように燃え盛る黒炎。
人の記憶を強制的に奪い去り自分のものにしてしまう、井筒が持つ最強かつ最終的な手段。
井筒自身この忌まわしき力をこう呼ぶ。滅殺炎(インフェルノ)、と_______
「できることなら使いたくなかったがしょうがない、か。貪り尽せえええええええ、
滅殺炎(インフェルノ)!!!!!!!!!!!!!!!
佐々木が死のうと思った直接的な記憶のみを焼き尽くせ!!!!」
その言葉に呼応するかのように黒炎は、火柱となって佐々木の方へと向かっていき、あっという間に佐々木の体全体を包み込んだ。それと同時に佐々木の記憶が井筒へと流れ込んでくる。佐々木の焼き尽くされた記憶(トラウマ)が。
確認したらまた安心して倒れ込みそうになったが、気を引き締めようと深呼吸して息を整えて目の前の相手に問う。
「佐々木紘華だな」
ところが相手は微動だにしない。内心の焦りを隠した上で井筒はさらに言葉を浴びせる。
「話してもらうぞ。何もかも。お前の意思とは無関係に、な」
そう井筒がいうと相手はおもむろに方向を180度変換して走り出した。屋上の柵の方へと。だが井筒には動揺する様子は見られない。いや見せないようにしているといった方が正確か。声を張り上げて相手の背中に投げかける。
「逃げるのか? 好きな彼氏を置いて。自分で勝手に問題抱えて、納得して、諦めて、それで逃げ出すのか」
「あんたに何が分かる!!!!!!!!! 知った風な口をきくな!! 何も知らないくせに」
ようやく佐々木が足を止めて振り返った。柵のすぐそばで。柵と隣り合わせ、つまり死と隣り合わせの状態で叫ぶ。
くしゃくしゃに顔を歪めて獣のように慟哭する佐々木に対して、井筒は冷淡に受け流す。
「何も知らないくせに、だと? 知るわけないだろうが。俺たちはテレパシーなんか使えねえんだよ。自分から悩みを暴露しねえ奴を気にかけてやるほど暇じゃないんだ。あんたには友達がいただろう。みんな気にかけていたよ、ここ数日様子がおかしかったからどうしたんだろうってな」
「うるさいうるさいうるさい!!!!! あいつらもどうせあたしのことを陰で悪口言ってるんだ!!」
「…………」
「あたしは感情が不安定だからみんなに迷惑をかけてるし。みんなあたしのことを良く思ってないに決まってる!!!!」
どうするか、井筒は考えを巡らせていた。大体一般の大学生は自殺をしようとしている人を説得することに慣れていない。それは古今東西あらゆる人の問題を解決してきている井筒隆幸にとっても同様であった。売り言葉に買い言葉で今まで会話してきたが、さすがにこれ以上不用意な発言をすると佐々木が飛び降りる可能性がある、そう危惧した井筒は慎重に言葉を選ぶことにした。
「……付き合っていた人はどうなんだ。彼だけはあんたのことをわかってやれてたんじゃないのか?」
まずは相手の話を真っ向から否定せず、弱そうなところから少しずつ攻めて説得する。独自のやり方を用いて相手をなだめようとする井筒は、佐々木の反応を待った。
「もう無理よ。あたしはボーダーラインを壊したの。決定的に徹底的に。だから彼もきっとあたしを許さない」
ここだ、井筒は佐々木の弱点を見抜いた。正直話してる内容は理解しがたいが佐々木は動揺を隠しきれず、語調が弱くなっている。ここで畳み掛けなければ、説得することは難しくなる。
ボーダーラインとはつまり境界のこと。境界を壊した? 違う。そんな直接的な意味じゃない。文脈的にこの場合は真逆の意味で使われているんだ。それを壊したとは……つまり。井筒は自分の推理に賭けることにした。ここで推理が的外れだったら、もう打つ手がない。意を決して井筒は口を開いた。
「大丈夫だ。あんたは彼とのつながりを壊してはいないよ。あんたは猫に関しては手を出していないじゃないか。猫の死体はあんたが見つける前からあったものだろう?」
「……違う。あれはあたしの所為なの。あたしがいけないの」
やった、井筒は内心で思わず手を叩きたい衝動に駆られた。彼とのつながりが猫、そしてそのつながりを壊したとくれば今日の一件に違いないという読みが当たったのだ。自分の感情の不安定さで猫を傷つけまいと猫除けまでしていた、佐々木にとっては今日のことは相当なショックになると読んだのだ。
「それは違うよ。全部が全部君の所為なわけがないんだ。ほらこっちに来てゆっくりと話そうぜ。悩みならいくらでも聞いてやるさ」
そういって井筒は左手を佐々木の方へと手を伸ばした。これは井筒の本心からの言葉であった。佐々木にもそれが伝わったのだろう。井筒の方へと涙で汚れてしまった顔を上げ、差し出された手を掴もうと佐々木が身を乗り出そうとした。そのとき、
「この俺、井筒隆幸がな」
と井筒が続けた瞬間、佐々木が恐怖に顔を歪めた。そして、あんた、悪魔の、と呟きながら佐々木が体をまたも反転させ柵にしがみついた。
戸惑った井筒がどうしたんだ、と声をかけると
「あたしを騙したのね!!!!! やっぱりあたしには死しか道がないのよ」
と半狂乱になって佐々木が吼えた。
そして突然佐々木は屋上の柵をがむしゃらに上り始めた。そこを乗り越えられると、もう物理的に止められなくなってしまう。そう思った井筒はおもむろに右手を伸ばし佐々木にかざした。
するとその右手から常人には見ることのできない漆黒の炎が湧き出てきた。夜の闇を食い破るかのように燃え盛る黒炎。
人の記憶を強制的に奪い去り自分のものにしてしまう、井筒が持つ最強かつ最終的な手段。
井筒自身この忌まわしき力をこう呼ぶ。滅殺炎(インフェルノ)、と_______
「できることなら使いたくなかったがしょうがない、か。貪り尽せえええええええ、
滅殺炎(インフェルノ)!!!!!!!!!!!!!!!
佐々木が死のうと思った直接的な記憶のみを焼き尽くせ!!!!」
その言葉に呼応するかのように黒炎は、火柱となって佐々木の方へと向かっていき、あっという間に佐々木の体全体を包み込んだ。それと同時に佐々木の記憶が井筒へと流れ込んでくる。佐々木の焼き尽くされた記憶(トラウマ)が。
=================================
私が彼に告白したら彼は私に何も返事することなく、ただ曖昧に笑ってごまかすだけだった。その次の日から彼は来なくなった。連絡も来ない。当然だろう。気を遣わなくてよかったところが気まずくなってしまったのだから。
そのまま一週間ずっと様子は見てきたが彼が来る様子はない。
そして今日もいつも通り夜の七時頃にサークル会館の傍の駐車所の茂みのところで隠れていたら、見知らぬ男たちに突如襲われた。本当に突然だった
怖かった。恥辱や屈辱というというよりも恐怖心が混じって声も出せないでいる私をいいことに、そのまま男たちは服をちぎろうとしてきた。その時、「あらあらお楽しみのところ悪いんですが、ここは公共の場ですわよ」と場違いに温和な声が聞こえてきたと思った直後、私を押さえていた男が蹴り飛ばされた。周りにいた男たちも状況がつかめなかったのか呆然としていると、いつの間にか全員地面に倒されていた。その後、一番始めに倒された男が立ち上がって逃げ出すのをきっかけにして、他の男たちも一斉に逃げ出してしまった。一瞬のことで何が起こったの分からなかった私に助けてくれた女性はゆっくりと手を伸ばして、大丈夫でしたか? と私に問いかけているが、手を伸ばそうにも恐怖で体が震えてしまっている状態では不可能だったので、私は手短に自己紹介とお礼を述べることにした。声に出して初めて声すら震えていることに気が付いた。するとその女性はにっこりと微笑んで、「良かった」と心の底から安堵するように言い、「すいません、これからバイトなんです。帰り道は明るい場所を通るといいですよ」といってあっという間に去ってしまった。
そういえば名前も聞いてないな、とぼんやりと考えた。他のことは考えないようにしよう。男たちに触られたところが服の上からでも気持ち悪くて、考えるだけでおぞましいから。そして私が若干早足で帰ろうとサークル会館の前を通り過ぎようすると、いつの間に現れたのだろうか。
全身真っ白なスーツ姿の男が超然と立っていた。
なぜか顔が見れない。光の加減とかの所為じゃなく、なぜか視界にもやがかかった状態といった方が正しいだろう。
「お前はこう思っている。なぜ誰もここを通りかからないのか、と」
おもむろにその男は喋り出した。その声は外見の色とは裏腹に、重苦しく冷たい響きを出している。男に対する嫌悪感からすぐにでも逃げ出したいのに、逃げることを許されない。足が地面に縫えつけられたかのようだ。
「それは私の所為だ。実験をしてみたくてね。さてそんなことより佐々木紘華よ、男と女。戦争するとなると勝つのはどちらになると思う?」
異論や疑問を挟めないほどその男の言葉には威圧感がある。なぜ私の名前を知っているのかという疑問さえ口に出すことができない。まるで問いかけるのではなく、相手の体に直接答えろと命令するかのような重圧に私は思わず屈してしまった。この人に対する恐怖はさっきの怖さとは別物だ。畏敬とでもいえるだろうか。
「お、女かな? だって男って女と比べると頭悪いから」
よくよく考えれば目の前の男に対して大変失礼なセリフだが、これは本音だった。というか本音以外この男の前では口にできない。虚実、虚構、虚言はこの男の前では意味をなさない。そして相手の男は感情を露わにすることも無く、ふむと考え込んだ。そして、
「見込みはない、か。壊すか」
何か言葉を呟いたようだったが私には聞き取れなかった。
「ときに、恋愛というのは実にくだらないと思わないか。佐々木。人と人は決して分かり合うことなど出来ないのに、お互いが心の底からわかり合っているという幻想を引き起こす。これでは薬物と一緒だよ」
また話題を変えた動揺よりも相手の恋愛を小馬鹿にするような態度への苛立ちの方が強かった。思わず私は相手に向かって言い返す。
「恋愛は素晴らしいとまでは言わないけれど、美しいものです。あなたがとやかく言う権利はありません。取り消してください」
「ふふ。美しい、か。面白いこと言う」
相手は私の言葉に冷笑で返す。
「ならばその美しい恋愛は人に何を与えてくれる? 心の充足か? そんなものは他で補える。もはや栄養すら最近はサプリメントで代用できるのだぞ。代替物になり得るものは腐るほどあるだろう。それに君の理論だと恋愛をしていない人は美しくないという言い方だな」
「そ、そんなことは言ってません。それに恋愛でしか得られないものもあると思います」
「ふふ。そうだな君の言うとおりだよ。佐々木。確かに恋愛でしか得られないものはたくさんある」
てっきり否定するかと思った私は拍子抜けした気持ちになった。だが次の発言で私は身がすくむ思いがした。
「例えば、恋人だと思っていた男の裏切りからの絶望とか。好意の押し付けとか。恋愛によって人生はいくらでも狂う」
「う、裏切り? 好意の押し付け?」
今の私には耳の痛い話だ。
「そうだ。相手は自分のことを好きだから傍にいてくれていたのかと思っていると、それは打算的な行動だったということはいくらでも例があることだ」
「そ、そんなことは」
「あるのだ、残念なことにな」
断言するように言う相手の言葉一つ一つに私はじわじわと揺さぶられていった。彼と会っておらず、ついさっき男たちに襲われて精神的にぼろぼろになっていた状態の私。相手の発言がボディーブローのように効いてくる。
「まして他の男たちに触られた穢れた身体と知ったら、普通の男は毛嫌いするだろうな」
「え?」
それは自分でも思うほど間の抜けた声だった。まるで頼りにしていたものがガラガラと音を立てて壊れていくような錯覚に陥った。
「下らないだろう。恋愛なんて。そんな僅かなことで壊れてしまうものなのだ。だからもうそんなつながりなど、いっそ自分の手で壊してしまえ。壊せば楽になれる」
「こ……わす? そんなこと……でき……ない」
「安心しろ。全て私の言うとおりに動けばいい。まずは君と彼をつなぐものを思い出の場所から遠ざけるんだ。そして次は何か似ている別の物を傷つけろ。そうしていく内に一週間後にはもう壊せるようになっている。大丈夫だ。君は正しい」
「ただしい? あたしはただしい?」
もうまともな思考ができない。もう考えるのが面倒くさい。相手に従ってればいい。そうすればきっとあたしは救われるはずだ。だってあたしは正しいことをするのだから。
「そうだ君は正しい。それでは具体的な中身を話してくれないか? そうすれば指示をしやすくなるからね」
「はい、わかりました」
あたしは壊れたロボットのように頷くことしかできなかった。唯々諾々として従った。
「そうだ。その前に自己紹介しておこうか。私の名前は」
相手の言葉がすべて残響のように脳で響き渡る。一言一句聞き漏らすことは無い。
そのまま一週間ずっと様子は見てきたが彼が来る様子はない。
そして今日もいつも通り夜の七時頃にサークル会館の傍の駐車所の茂みのところで隠れていたら、見知らぬ男たちに突如襲われた。本当に突然だった
怖かった。恥辱や屈辱というというよりも恐怖心が混じって声も出せないでいる私をいいことに、そのまま男たちは服をちぎろうとしてきた。その時、「あらあらお楽しみのところ悪いんですが、ここは公共の場ですわよ」と場違いに温和な声が聞こえてきたと思った直後、私を押さえていた男が蹴り飛ばされた。周りにいた男たちも状況がつかめなかったのか呆然としていると、いつの間にか全員地面に倒されていた。その後、一番始めに倒された男が立ち上がって逃げ出すのをきっかけにして、他の男たちも一斉に逃げ出してしまった。一瞬のことで何が起こったの分からなかった私に助けてくれた女性はゆっくりと手を伸ばして、大丈夫でしたか? と私に問いかけているが、手を伸ばそうにも恐怖で体が震えてしまっている状態では不可能だったので、私は手短に自己紹介とお礼を述べることにした。声に出して初めて声すら震えていることに気が付いた。するとその女性はにっこりと微笑んで、「良かった」と心の底から安堵するように言い、「すいません、これからバイトなんです。帰り道は明るい場所を通るといいですよ」といってあっという間に去ってしまった。
そういえば名前も聞いてないな、とぼんやりと考えた。他のことは考えないようにしよう。男たちに触られたところが服の上からでも気持ち悪くて、考えるだけでおぞましいから。そして私が若干早足で帰ろうとサークル会館の前を通り過ぎようすると、いつの間に現れたのだろうか。
全身真っ白なスーツ姿の男が超然と立っていた。
なぜか顔が見れない。光の加減とかの所為じゃなく、なぜか視界にもやがかかった状態といった方が正しいだろう。
「お前はこう思っている。なぜ誰もここを通りかからないのか、と」
おもむろにその男は喋り出した。その声は外見の色とは裏腹に、重苦しく冷たい響きを出している。男に対する嫌悪感からすぐにでも逃げ出したいのに、逃げることを許されない。足が地面に縫えつけられたかのようだ。
「それは私の所為だ。実験をしてみたくてね。さてそんなことより佐々木紘華よ、男と女。戦争するとなると勝つのはどちらになると思う?」
異論や疑問を挟めないほどその男の言葉には威圧感がある。なぜ私の名前を知っているのかという疑問さえ口に出すことができない。まるで問いかけるのではなく、相手の体に直接答えろと命令するかのような重圧に私は思わず屈してしまった。この人に対する恐怖はさっきの怖さとは別物だ。畏敬とでもいえるだろうか。
「お、女かな? だって男って女と比べると頭悪いから」
よくよく考えれば目の前の男に対して大変失礼なセリフだが、これは本音だった。というか本音以外この男の前では口にできない。虚実、虚構、虚言はこの男の前では意味をなさない。そして相手の男は感情を露わにすることも無く、ふむと考え込んだ。そして、
「見込みはない、か。壊すか」
何か言葉を呟いたようだったが私には聞き取れなかった。
「ときに、恋愛というのは実にくだらないと思わないか。佐々木。人と人は決して分かり合うことなど出来ないのに、お互いが心の底からわかり合っているという幻想を引き起こす。これでは薬物と一緒だよ」
また話題を変えた動揺よりも相手の恋愛を小馬鹿にするような態度への苛立ちの方が強かった。思わず私は相手に向かって言い返す。
「恋愛は素晴らしいとまでは言わないけれど、美しいものです。あなたがとやかく言う権利はありません。取り消してください」
「ふふ。美しい、か。面白いこと言う」
相手は私の言葉に冷笑で返す。
「ならばその美しい恋愛は人に何を与えてくれる? 心の充足か? そんなものは他で補える。もはや栄養すら最近はサプリメントで代用できるのだぞ。代替物になり得るものは腐るほどあるだろう。それに君の理論だと恋愛をしていない人は美しくないという言い方だな」
「そ、そんなことは言ってません。それに恋愛でしか得られないものもあると思います」
「ふふ。そうだな君の言うとおりだよ。佐々木。確かに恋愛でしか得られないものはたくさんある」
てっきり否定するかと思った私は拍子抜けした気持ちになった。だが次の発言で私は身がすくむ思いがした。
「例えば、恋人だと思っていた男の裏切りからの絶望とか。好意の押し付けとか。恋愛によって人生はいくらでも狂う」
「う、裏切り? 好意の押し付け?」
今の私には耳の痛い話だ。
「そうだ。相手は自分のことを好きだから傍にいてくれていたのかと思っていると、それは打算的な行動だったということはいくらでも例があることだ」
「そ、そんなことは」
「あるのだ、残念なことにな」
断言するように言う相手の言葉一つ一つに私はじわじわと揺さぶられていった。彼と会っておらず、ついさっき男たちに襲われて精神的にぼろぼろになっていた状態の私。相手の発言がボディーブローのように効いてくる。
「まして他の男たちに触られた穢れた身体と知ったら、普通の男は毛嫌いするだろうな」
「え?」
それは自分でも思うほど間の抜けた声だった。まるで頼りにしていたものがガラガラと音を立てて壊れていくような錯覚に陥った。
「下らないだろう。恋愛なんて。そんな僅かなことで壊れてしまうものなのだ。だからもうそんなつながりなど、いっそ自分の手で壊してしまえ。壊せば楽になれる」
「こ……わす? そんなこと……でき……ない」
「安心しろ。全て私の言うとおりに動けばいい。まずは君と彼をつなぐものを思い出の場所から遠ざけるんだ。そして次は何か似ている別の物を傷つけろ。そうしていく内に一週間後にはもう壊せるようになっている。大丈夫だ。君は正しい」
「ただしい? あたしはただしい?」
もうまともな思考ができない。もう考えるのが面倒くさい。相手に従ってればいい。そうすればきっとあたしは救われるはずだ。だってあたしは正しいことをするのだから。
「そうだ君は正しい。それでは具体的な中身を話してくれないか? そうすれば指示をしやすくなるからね」
「はい、わかりました」
あたしは壊れたロボットのように頷くことしかできなかった。唯々諾々として従った。
「そうだ。その前に自己紹介しておこうか。私の名前は」
相手の言葉がすべて残響のように脳で響き渡る。一言一句聞き漏らすことは無い。
「井筒隆幸、職業は魔術師(マジシャン)だ」
特にこの名前だけは絶対に忘れることはできない。私を地獄へと突き落とした男。悪魔の化身なのだから。
=================================
井筒が持つ特殊なスキル『滅殺炎』で対象の記憶を燃やす時、その記憶がまるで映画館にいるかのように強制的に映像が流れ始める。そしてその時の相手の感情が自分の感情とリンクするのだ。相手の感情が直接流れ込んでくるというオプション付きの映画館といった方が分かり易いだろう。まあ視点は第三者視点ではなくその本人の視点なのだが。そしてその時間は一瞬に過ぎない。そのため使用者の脳は、膨大な情報処理のせいで大きな負担がかかってしまう。
だから今回も井筒に強烈な頭痛が襲ってきている。しかしその頭痛を振り切って、柵から手を放して気絶しながら屋上の方へと落ちている佐々木を抱き上げた。この対象者の気絶も滅殺炎の後遺症といえる。脳が消えてしまった情報を補完するためだ。
「まあ、色々と問題が発生したけど、なにはともあれこれで今回は解決かな」
そういって、井筒は佐々木をお姫様抱っこの状態で抱きながら廃ビルの屋上を後にした。
天国から再び地上へと舞い降りるように。
だから今回も井筒に強烈な頭痛が襲ってきている。しかしその頭痛を振り切って、柵から手を放して気絶しながら屋上の方へと落ちている佐々木を抱き上げた。この対象者の気絶も滅殺炎の後遺症といえる。脳が消えてしまった情報を補完するためだ。
「まあ、色々と問題が発生したけど、なにはともあれこれで今回は解決かな」
そういって、井筒は佐々木をお姫様抱っこの状態で抱きながら廃ビルの屋上を後にした。
天国から再び地上へと舞い降りるように。
そしてその最中、井筒は優しく眠れる姫に優しく語りかけた。
「キミのなくした想い(キオク)は、確かに俺が引き受けた」
だから安心して眠ってくれ、と続けて。
「キミのなくした想い(キオク)は、確かに俺が引き受けた」
だから安心して眠ってくれ、と続けて。
######
気が付いたら私はサークル会館のそばのいつもの場所にいた。いやいつもの場所というのは語弊があるかな、だって最近は行ってないんだから。
「あれ? 行ってなかった?」
なんだか記憶があいまいだ。ぼんやりとしか覚えてない。ええと確か私が彼に告白して、告白? そうだ。私は彼に告白してなんとなくお互い来なくなっていたんだった。ということは……。
「フラれちゃったか、私」
俯いて目を閉じながら自嘲気味に呟いてみる。そうしていると彼との思い出がなんとなく思い出されて胸が締め付けられる思いがした。今でも耳を澄ますと聞こえてくる。
「久しぶりだね、紘華ちゃん」
そう、そういって彼はにこにこと微笑むだろうな。なんだかすごくリアルに感じるのは女々しさから来るものだろうな、と自分で反省する。
「あれ聞こえてないのかな? もしかして怒ってる? ごめんね最近ちょっと忙しくて来れなくて」
違う。これは妄想なんかじゃない。目をしっかりと開いて顔を上げると、暗がりで少し見えにくいが確かにそこには彼がいた。
いつもの場所でいつもの表情でいつもと同じ姿勢で猫を撫でながら。
「っ先輩」
思わず駆け寄ってしまった。すると彼の周りにいた猫たちがするりと、まるで私に道を譲るかのように移動した。
そのまま私は彼の胸に飛び込んだ。そのまま赤子のように泣きじゃくる私を、彼は優しく抱きしめながらゆっくりと髪を撫でて「ごめんね」と何度も私の耳元で呟いた。
なんで泣いているのかは私自身全く分からない。だけれどそれはものすごい悪い夢を見たときの感覚によく似ていた。きっと悪夢を見ていたんだと思う。そうでなければ説明できないから。
「ほらもう大丈夫だよ。もう俺がそばにいるから」
ようやく涙が収まってきた私は今の言葉を頭の中で反芻した。
「先輩。それって?」
「うん。こういうのって初めてだったから、どうしていいかわからなくてさ。とりあえずいいものを送ろうと思って、ここ最近朝から晩までずっとバイトしてたんだよ。びっくりさせようと思って連絡も取らないようにしたんだけど、不安にさせちゃったみたいだね。ごめんね」
悪戯がばれた子供のように謝る彼は半ば呆然自失している状態の私に、はい、と私の右手の薬指に何かを嵌めた。
指輪だ。闇を切り裂くかのようにまばゆい光を放っているように感じられる。
「ええと、これは男の方から言うべきだったよね。こほん。改めて
俺と付き合ってください。佐々木紘華さん」
事態がうまく呑み込めない私は、嵌められた指輪と彼の顔を交互に視線を移動させる。
「…………」
何も返事をしない彼。いや違う。私からの返事を待っているんだ。彼のこんなに真剣な表情を私は初めて見る。周りを取り囲む猫たちも空気を読んでいるのか、身じろぎ一つしない。
そんな状態がどれくらい続いただろうか。実際はそんなに経っていないだろうが、何時間もその状態が続いたかのような錯覚に陥っていた。
またいつしか涙が私の目から溢れだしていた。
裏切ってなどいなかった。彼は告白を受け止められないからって逃げるような人でないと知っていたのに。どうして疑ってしまったのだろう。子供のように純粋な彼を疑う余地なんてあってはならなかったはずに。信じることができなかった自分のことが許せなかった。好きな人を信じられない自分が情けなくて仕方がない。
「っっ返事は」
声が震えて上手く出せない。だけれどこの思いだけは伝えないといけないんだ。だって私たちはテレパシーなんてできないんだから。
「______」
私の返事は夜風に溶けて流されていった。でもその風は彼の耳へとすんなりと入っていったに違いない。だってそのときの彼の笑顔はいつもよりも輝いていたんだから。
「あれ? 行ってなかった?」
なんだか記憶があいまいだ。ぼんやりとしか覚えてない。ええと確か私が彼に告白して、告白? そうだ。私は彼に告白してなんとなくお互い来なくなっていたんだった。ということは……。
「フラれちゃったか、私」
俯いて目を閉じながら自嘲気味に呟いてみる。そうしていると彼との思い出がなんとなく思い出されて胸が締め付けられる思いがした。今でも耳を澄ますと聞こえてくる。
「久しぶりだね、紘華ちゃん」
そう、そういって彼はにこにこと微笑むだろうな。なんだかすごくリアルに感じるのは女々しさから来るものだろうな、と自分で反省する。
「あれ聞こえてないのかな? もしかして怒ってる? ごめんね最近ちょっと忙しくて来れなくて」
違う。これは妄想なんかじゃない。目をしっかりと開いて顔を上げると、暗がりで少し見えにくいが確かにそこには彼がいた。
いつもの場所でいつもの表情でいつもと同じ姿勢で猫を撫でながら。
「っ先輩」
思わず駆け寄ってしまった。すると彼の周りにいた猫たちがするりと、まるで私に道を譲るかのように移動した。
そのまま私は彼の胸に飛び込んだ。そのまま赤子のように泣きじゃくる私を、彼は優しく抱きしめながらゆっくりと髪を撫でて「ごめんね」と何度も私の耳元で呟いた。
なんで泣いているのかは私自身全く分からない。だけれどそれはものすごい悪い夢を見たときの感覚によく似ていた。きっと悪夢を見ていたんだと思う。そうでなければ説明できないから。
「ほらもう大丈夫だよ。もう俺がそばにいるから」
ようやく涙が収まってきた私は今の言葉を頭の中で反芻した。
「先輩。それって?」
「うん。こういうのって初めてだったから、どうしていいかわからなくてさ。とりあえずいいものを送ろうと思って、ここ最近朝から晩までずっとバイトしてたんだよ。びっくりさせようと思って連絡も取らないようにしたんだけど、不安にさせちゃったみたいだね。ごめんね」
悪戯がばれた子供のように謝る彼は半ば呆然自失している状態の私に、はい、と私の右手の薬指に何かを嵌めた。
指輪だ。闇を切り裂くかのようにまばゆい光を放っているように感じられる。
「ええと、これは男の方から言うべきだったよね。こほん。改めて
俺と付き合ってください。佐々木紘華さん」
事態がうまく呑み込めない私は、嵌められた指輪と彼の顔を交互に視線を移動させる。
「…………」
何も返事をしない彼。いや違う。私からの返事を待っているんだ。彼のこんなに真剣な表情を私は初めて見る。周りを取り囲む猫たちも空気を読んでいるのか、身じろぎ一つしない。
そんな状態がどれくらい続いただろうか。実際はそんなに経っていないだろうが、何時間もその状態が続いたかのような錯覚に陥っていた。
またいつしか涙が私の目から溢れだしていた。
裏切ってなどいなかった。彼は告白を受け止められないからって逃げるような人でないと知っていたのに。どうして疑ってしまったのだろう。子供のように純粋な彼を疑う余地なんてあってはならなかったはずに。信じることができなかった自分のことが許せなかった。好きな人を信じられない自分が情けなくて仕方がない。
「っっ返事は」
声が震えて上手く出せない。だけれどこの思いだけは伝えないといけないんだ。だって私たちはテレパシーなんてできないんだから。
「______」
私の返事は夜風に溶けて流されていった。でもその風は彼の耳へとすんなりと入っていったに違いない。だってそのときの彼の笑顔はいつもよりも輝いていたんだから。
誰しもどこかでボーダーラインを引いている。誰しもどこかで他人を拒絶している。でも誰かにはその境界線を取り外している。そのときボーダーラインは分けるためのものじゃなく、その人たち同士を繋ぐためのものへと成り代わる。
私たちを繋いでくれたボーダーラインは、今私たちを暖かく取り囲む。そんなとげだたない穏やかなものが私と彼とのボーダーライン。
この想い(キオク)だけは決して誰であっても譲ることはできない…………。
私たちを繋いでくれたボーダーラインは、今私たちを暖かく取り囲む。そんなとげだたない穏やかなものが私と彼とのボーダーライン。
この想い(キオク)だけは決して誰であっても譲ることはできない…………。
≪GOOD END≫