文化系サークル会館三階の最も東に位置する絵本創作同好会の部室は、総床面積三畳にも満たない小さな部屋だ。南側に設置された窓とその反対、北側の出入り口以外の二面には本棚が並んでおり、そこには絵本創作と言う名の通り、薄っぺらい子供向けの絵本ばかりが森に乱立するポプラの木のようににずらりと背表紙を並べている。
ここに出入りするのはせいぜい部に所属している数人の学生とそれに稀に手を引かれてやってくる小学生くらいなものだけど、最近ではその部員たちですら週に一度の部会に来るかどうかになってしまった。だから私が部室の扉に手をかけたとき、今日も人の気配はまるでなかった。室内は物置きとしてこそ使われているけれども、その実態はどこか空虚で何もない。その、物が詰まっているのに何もない淡白で無機質な雰囲気は、どこか真っ白なのに質量をもった冷奴を連想させる。
その想像に、私は思わずクス、と笑った。
冷奴、そうだ、この部屋は冷奴。壁を全部真っ白に塗って、中に置いてある扇風機や机、何に使うかもよくわからない細長い棒とか鳴らない電話とか、全部白いペンキで塗りつぶしたら面白いかもしれない。食べても食べても味と見た目が変わらない豆腐であるから、もっと部屋の中に物を詰めてから白く塗ったほうがよいのかも。例えば、どこかでぬいぐるみや綿を買ってきて、部屋に入れないくらいにまでそれを放り込む、とか。
「どう?」
<どう、って>
私が誰もいない部屋でクスクス笑いながらつぶやくと、どこからともなく私と同じ声が聞こえてきた。私の問いに少し困ったような、何を言っているのかわからないというような声。そうは言っても、もちろん部室にも、廊下にも、私のほかには誰もいない。でもその声は確かに私の耳にはっきりと聞こえるし、それどころかその存在すらも、私には感じ取れる。天啓のようにぼんやりとした輪郭をもって現れる、別の意識。意識、というと少し乱暴かもしれない。それ(というよりも彼女、いやあるいは私?)は私とは別の私。私であって私でないもの。中学二年生のときからのパートナーの、もう一人の自分。
「だから、この部屋を豆腐みたいに真っ白でずっしりしたものにするの。カコはどう思う?」
カコ。私は彼女をそう呼ぶ。カコは、はあ? と不可解そうな声で反応する。
<どうも何も。意味がわからないとしか言いようがないっていうか>
カコは言葉にならない思考をもごもごと私にぶつけてくる。私の頭の中では、既に綿とぬいぐるみで敷き詰められて重量感を増した部室が見えている。面白いと思うんだけどなあ、カコにはわからないのかなあ、と私は考える。まあ、理解できなかったからといってどうということはないのだけれど。
私はふふ、と呼吸をするように笑う。
ここに出入りするのはせいぜい部に所属している数人の学生とそれに稀に手を引かれてやってくる小学生くらいなものだけど、最近ではその部員たちですら週に一度の部会に来るかどうかになってしまった。だから私が部室の扉に手をかけたとき、今日も人の気配はまるでなかった。室内は物置きとしてこそ使われているけれども、その実態はどこか空虚で何もない。その、物が詰まっているのに何もない淡白で無機質な雰囲気は、どこか真っ白なのに質量をもった冷奴を連想させる。
その想像に、私は思わずクス、と笑った。
冷奴、そうだ、この部屋は冷奴。壁を全部真っ白に塗って、中に置いてある扇風機や机、何に使うかもよくわからない細長い棒とか鳴らない電話とか、全部白いペンキで塗りつぶしたら面白いかもしれない。食べても食べても味と見た目が変わらない豆腐であるから、もっと部屋の中に物を詰めてから白く塗ったほうがよいのかも。例えば、どこかでぬいぐるみや綿を買ってきて、部屋に入れないくらいにまでそれを放り込む、とか。
「どう?」
<どう、って>
私が誰もいない部屋でクスクス笑いながらつぶやくと、どこからともなく私と同じ声が聞こえてきた。私の問いに少し困ったような、何を言っているのかわからないというような声。そうは言っても、もちろん部室にも、廊下にも、私のほかには誰もいない。でもその声は確かに私の耳にはっきりと聞こえるし、それどころかその存在すらも、私には感じ取れる。天啓のようにぼんやりとした輪郭をもって現れる、別の意識。意識、というと少し乱暴かもしれない。それ(というよりも彼女、いやあるいは私?)は私とは別の私。私であって私でないもの。中学二年生のときからのパートナーの、もう一人の自分。
「だから、この部屋を豆腐みたいに真っ白でずっしりしたものにするの。カコはどう思う?」
カコ。私は彼女をそう呼ぶ。カコは、はあ? と不可解そうな声で反応する。
<どうも何も。意味がわからないとしか言いようがないっていうか>
カコは言葉にならない思考をもごもごと私にぶつけてくる。私の頭の中では、既に綿とぬいぐるみで敷き詰められて重量感を増した部室が見えている。面白いと思うんだけどなあ、カコにはわからないのかなあ、と私は考える。まあ、理解できなかったからといってどうということはないのだけれど。
私はふふ、と呼吸をするように笑う。
部室中央に置いてある机は普段あまり人がこないためか妙に散らかっている。インクのなくなったペンや青いビーダマ、使いっぱなしのコピー用紙や画用紙が机の底を覆い隠していて、とても作業が出来る状態ではない。私はとりあえずそれらを手にとり間近にあった輪ゴムでまとめて、本棚脇の物入れの中に放り込んでいった。紙の束を運ぶのは少し重かったけれども、三分もすると作業が出来るくらいのスペースを確保することが出来た。
「今日は、大きくなったネズミの話だよ」
片付けられた机を見ながら描きかけの絵本をバッグから取り出して、誰にともなく呟く。
<そういえば、前にそんなの描いてたわね>
独り言を聞いたカコが私に言葉を返す。
<ネズミは自分の体が小さいのを気にしていた。体を大きくするためにはどうすればいいのかを、他の動物に教えてもらうことにした。最後はどんなに大きくなっても、空には絶対勝てないから、元の大きさのままでいいだろうって教えられるんだっけ?>
「そうそう」
それで、今はモグラより大きくなったネズミが、もっと体の大きいウサギに会う場面の絵を書いているところだ。ウサギと、カピパラほどのサイズのネズミが対面しているページを開いて、私は水色の色鉛筆を持った。やや大雑把に空を塗ってから、雲の形をくっきりと描画する。絵本はわかりやすさを意識して、登場キャラクターたちをダイナミックに描くのが望ましい。
「けど、この本は少し対象年齢が高めかな。小学4年生くらい」
ウサギの目を塗るために赤の色鉛筆に持ち替えて、私はカコに話す。
「金子みすヾの『私と小鳥と鈴と』なんかを勉強しているとわかりやすいからね。そのくらいになると絵本と言うよりもう児童文学の年齢だけど。ああ、いっそのこともっとシュールでバッドエンドな方がよかったかなあ」
未だに時々絵本の話の展開の仕方がよくわからないことがあるから少し難しい。でも難しいから楽しいと言うこともあって、どういうものを作っても大体自分で楽しめてしまう。だからある意味、私の絵本創作は子供のためにやっているというより、自分のためにやっている帰来があって、それだったらもっとどす黒いものでも作ってみようか、という考えがふと頭をよぎる。
<でもあんた、それだと子供に読んでもらう楽しさがなくなっちゃう、って前に言ってたでしょ>
「そうなんだよねえ」
確かに、自分のために描くならただどす黒いだけで誰にも理解されないような話を描くのも面白い。しかし、それだと読む方の反応が、ツマンナイとか怖かったとか落ち込んだとか、大体一様になってしまう。だったら、もっといろいろ感想がもらえそうな、ハッピーエンドに向かう物語を描く方が面白い。言葉遊びもいろいろできるし。
私が物事を判断する基準はいつもそれに終始する。楽しそうなもの二つを天秤にかけたとき、どちらがより楽しい重さを持っていそうか、主観で選ぶだけ。これを人に話すと「よくそんな危なっかしい選択が出来るね」と言われるけど、私自身はこの方法で後悔したことが一度もないから結構万能なんじゃないかと思っている。
「でもたまには、すっごく変な話が描きたくなるものだよ。まあ、そういうときは何も考えないで自分の描きたいものを描くけどね」
<そりゃあ、あんたが描きたいと思うなら描けばいいだけでしょ>
カコは至極興味がなさそうに私の話に相槌を打つ。私はふふ、と笑う。何がおかしいのか、とカコが頭の中で言っているが、別におかしいことは特にない。カコと会話をしていると、どうも無意識のうちに顔が綻んでしまうだけだ。
「今日は、大きくなったネズミの話だよ」
片付けられた机を見ながら描きかけの絵本をバッグから取り出して、誰にともなく呟く。
<そういえば、前にそんなの描いてたわね>
独り言を聞いたカコが私に言葉を返す。
<ネズミは自分の体が小さいのを気にしていた。体を大きくするためにはどうすればいいのかを、他の動物に教えてもらうことにした。最後はどんなに大きくなっても、空には絶対勝てないから、元の大きさのままでいいだろうって教えられるんだっけ?>
「そうそう」
それで、今はモグラより大きくなったネズミが、もっと体の大きいウサギに会う場面の絵を書いているところだ。ウサギと、カピパラほどのサイズのネズミが対面しているページを開いて、私は水色の色鉛筆を持った。やや大雑把に空を塗ってから、雲の形をくっきりと描画する。絵本はわかりやすさを意識して、登場キャラクターたちをダイナミックに描くのが望ましい。
「けど、この本は少し対象年齢が高めかな。小学4年生くらい」
ウサギの目を塗るために赤の色鉛筆に持ち替えて、私はカコに話す。
「金子みすヾの『私と小鳥と鈴と』なんかを勉強しているとわかりやすいからね。そのくらいになると絵本と言うよりもう児童文学の年齢だけど。ああ、いっそのこともっとシュールでバッドエンドな方がよかったかなあ」
未だに時々絵本の話の展開の仕方がよくわからないことがあるから少し難しい。でも難しいから楽しいと言うこともあって、どういうものを作っても大体自分で楽しめてしまう。だからある意味、私の絵本創作は子供のためにやっているというより、自分のためにやっている帰来があって、それだったらもっとどす黒いものでも作ってみようか、という考えがふと頭をよぎる。
<でもあんた、それだと子供に読んでもらう楽しさがなくなっちゃう、って前に言ってたでしょ>
「そうなんだよねえ」
確かに、自分のために描くならただどす黒いだけで誰にも理解されないような話を描くのも面白い。しかし、それだと読む方の反応が、ツマンナイとか怖かったとか落ち込んだとか、大体一様になってしまう。だったら、もっといろいろ感想がもらえそうな、ハッピーエンドに向かう物語を描く方が面白い。言葉遊びもいろいろできるし。
私が物事を判断する基準はいつもそれに終始する。楽しそうなもの二つを天秤にかけたとき、どちらがより楽しい重さを持っていそうか、主観で選ぶだけ。これを人に話すと「よくそんな危なっかしい選択が出来るね」と言われるけど、私自身はこの方法で後悔したことが一度もないから結構万能なんじゃないかと思っている。
「でもたまには、すっごく変な話が描きたくなるものだよ。まあ、そういうときは何も考えないで自分の描きたいものを描くけどね」
<そりゃあ、あんたが描きたいと思うなら描けばいいだけでしょ>
カコは至極興味がなさそうに私の話に相槌を打つ。私はふふ、と笑う。何がおかしいのか、とカコが頭の中で言っているが、別におかしいことは特にない。カコと会話をしていると、どうも無意識のうちに顔が綻んでしまうだけだ。
そうしてゆっくり白いページを色付けしていると、時間はあっという間に過ぎた。私は十時に部室を訪れたのだけれども、気づいたときにはもう時計の針が十一時半を指していた。かれこれ一時間半も絵を描いていたことになる。進度としては、先週描き始めたばかりのものが、あと半分のところまで来た。
「そろそろ休憩しようか」
私はパイプ椅子から立って両手を上に上げ、思いっきり背中を伸ばす。肩の緊張をほぐすために両腕をぐるぐる回し、ふう、と一つため息をつく。少しお腹も減った。二時間目の終業時間である十一時五十分になって人が出てきてしまう前に、どこかで昼食を取ってこよう。本をバッグの中に仕舞おうと思ったけど、どうせこの部屋には誰も来ないだろう、と思い直してそのままにしておいた。色鉛筆は、ばらばらにならないようにケースに戻しておく。そうして休憩の準備を終えて、さて外に出ようかと椅子を畳み掛けたときだった。突然、部室のドアがギギッと鈍い音を立てて、勢いよく開かれ、急な角度を付けた扉が丁度その前においてあった机にぶつかった。ドアの向こう、奥の廊下に人影がぼんやり見えた。そこに立っていたのは――珍しい、絵本創作同好会の部員の子だ。
<あら>
私と同じことを思ったのか、カコもそれを見て声を上げる。
「珍しいねえ、部会もないのに人が来るなんて」
私はカコに答えたつもりだったが、入ってきた部員が自分へのつぶやきだと勘違いして、ええ、まあ、と答えた。三階まで階段だけで上がってくるのがキツかったのか、普段はカエルのように大きな目が、疲労のために半分ぐらいまでまぶたに覆われている。髪の寝癖も、呼吸に合わせてゆらゆら揺れる。
「きっと、先輩がここにいるだろうと思いましてね」
その子はどうやら私に用があるらしく、荷物も置かないで私のほうにゆっくり近寄ってきた。部室に飛び込んできた直後の息を深呼吸で整え、なにやら真剣な顔つきをしている。膝や肩もガタガタ震えているみたいだけど、相当疲れてるのかな。あるいは部室に入るだけで緊張する子なのかな、面白い。
「先輩」
その子は大きく息を一つ吐いて、気分を落ち着かせた。何か重大な決定でもするかのように一瞬顔を曇らせた後、再度私の方を強い視線で見据える。
「倉沢先輩」
それにしても、と私は思う。この強い視線を向けているときのカエルのような目と毎朝付けてくる寝癖。確かに顔は覚えてるし、この子が部員だってこともわかるんだけど。
「俺、先輩のことが好きです」
この子、何て名前だっけ。
「付き合ってくれませんか」
確か二年生だった気がするんだけど、最近あんまり関ってなかったからなあ。
「嫌な思いはさせませんから……ええっと、ええっと……」
暗記は得意なんだけど、どうも人の名前と顔を覚えるのは苦手なんだよねえ。
「えぇっと……その」
<小川吉宏、じゃなかったっけ?>
「ああ、そうだ!」
「!」
私が名前を思い出してスッキリ、という具合で手を打つと、小川君はまるでお化け屋敷のお客さんみたいにびくっと肩を震わせた。と、同時に眉をひそめて私を見ている。そうそう、このキャラクターっぽい顔、小川君だよね。確か去年の小学校での読み聞かせのときに、うっかり付きまとってきた小学生を蹴り飛ばして、そのあと小学校の校長と学科の先生に大目玉食らったっていう。
そんな小川君はまた肩をガタガタ震わせながら深呼吸を繰り返している。あれ、それで今、何の話してたんだっけ? というか、小川君、今何て言った? ああ、そうか、きっとこの部屋の掃除用具を買いたいんだけど、何買えばいいか分からないから付き合ってください、って話だ。うん、付き合ってって、言ってたような気がするし。でも私、今掃除用具が買えるほどお金もってないんだよねえ。それにそういうことは私より、直接会計さんに言ったほうがいいんじゃないかなあ。
「そうだねえ」
小川君は私を見つめる。目の前に飛んでいるハエを捕食しようとしているカエルにそっくり。
「ちょっと、今は無理かなあ」
私は無理といいながら、もし掃除用具を買うとしたらどのくらいの金額が必要になるか頭のなかで計算してみる。
「い」
万年箒、自在箒。これは各1つずつでいいね。1000+690=1690。
「今ってことは、そのうちならいいってことですよね」
ちりとり、それと収納用のカラーボックス。ちりとりは1つでいいけど、カラーボックスは入れるものがたくさんあるから、最低3つは必要だね。590+1280*3=4430。
「いつならいいんですか?」
できれば掃除機なんかもあると便利かも。ああ、でも掃除機があるなら万年箒と自在箒はいらないか。
「というか、先輩は俺のことどう思ってるんですか?」
そうすると最初の箒の値段1690円を4430円から引くからその差2740円が支払い金額ってことかな。
「ねえ、先輩」
あ、そうか、掃除機買うならちりとりもいらないか。2740-590=2150。これでおしまい?
「ねえ……さっきから黙ってばっかりですけど、一体どうしたんですか」
いやいや、一番重要なのがあった。掃除機の値段足してないや。それで、掃除機っていくらくらいだっけ。
「先輩」
物にもよるけどこの前買い物に行ったときに見かけたのは4230円だったかな。そうすると2150円と4330円ってことだから全部で……
「先輩!」
「わっ」
最後の計算が終わる直前、今まで何かぶつぶつ言っていた小川君が、突然声をあげて私の肩を掴んだ。下一桁から暗算していた数字が、私の頭の中でぐるぐる回る。
「答えてくださいってば!」
ああ、もう。
「お願いですから」
さっきからこっちが一生懸命計算してるっていうのに。
「ね?」
困った。
「ね?」
困った人だなあ、この子。
「……さい」
「へ?」
「うっさいのよ、あんた」
「そろそろ休憩しようか」
私はパイプ椅子から立って両手を上に上げ、思いっきり背中を伸ばす。肩の緊張をほぐすために両腕をぐるぐる回し、ふう、と一つため息をつく。少しお腹も減った。二時間目の終業時間である十一時五十分になって人が出てきてしまう前に、どこかで昼食を取ってこよう。本をバッグの中に仕舞おうと思ったけど、どうせこの部屋には誰も来ないだろう、と思い直してそのままにしておいた。色鉛筆は、ばらばらにならないようにケースに戻しておく。そうして休憩の準備を終えて、さて外に出ようかと椅子を畳み掛けたときだった。突然、部室のドアがギギッと鈍い音を立てて、勢いよく開かれ、急な角度を付けた扉が丁度その前においてあった机にぶつかった。ドアの向こう、奥の廊下に人影がぼんやり見えた。そこに立っていたのは――珍しい、絵本創作同好会の部員の子だ。
<あら>
私と同じことを思ったのか、カコもそれを見て声を上げる。
「珍しいねえ、部会もないのに人が来るなんて」
私はカコに答えたつもりだったが、入ってきた部員が自分へのつぶやきだと勘違いして、ええ、まあ、と答えた。三階まで階段だけで上がってくるのがキツかったのか、普段はカエルのように大きな目が、疲労のために半分ぐらいまでまぶたに覆われている。髪の寝癖も、呼吸に合わせてゆらゆら揺れる。
「きっと、先輩がここにいるだろうと思いましてね」
その子はどうやら私に用があるらしく、荷物も置かないで私のほうにゆっくり近寄ってきた。部室に飛び込んできた直後の息を深呼吸で整え、なにやら真剣な顔つきをしている。膝や肩もガタガタ震えているみたいだけど、相当疲れてるのかな。あるいは部室に入るだけで緊張する子なのかな、面白い。
「先輩」
その子は大きく息を一つ吐いて、気分を落ち着かせた。何か重大な決定でもするかのように一瞬顔を曇らせた後、再度私の方を強い視線で見据える。
「倉沢先輩」
それにしても、と私は思う。この強い視線を向けているときのカエルのような目と毎朝付けてくる寝癖。確かに顔は覚えてるし、この子が部員だってこともわかるんだけど。
「俺、先輩のことが好きです」
この子、何て名前だっけ。
「付き合ってくれませんか」
確か二年生だった気がするんだけど、最近あんまり関ってなかったからなあ。
「嫌な思いはさせませんから……ええっと、ええっと……」
暗記は得意なんだけど、どうも人の名前と顔を覚えるのは苦手なんだよねえ。
「えぇっと……その」
<小川吉宏、じゃなかったっけ?>
「ああ、そうだ!」
「!」
私が名前を思い出してスッキリ、という具合で手を打つと、小川君はまるでお化け屋敷のお客さんみたいにびくっと肩を震わせた。と、同時に眉をひそめて私を見ている。そうそう、このキャラクターっぽい顔、小川君だよね。確か去年の小学校での読み聞かせのときに、うっかり付きまとってきた小学生を蹴り飛ばして、そのあと小学校の校長と学科の先生に大目玉食らったっていう。
そんな小川君はまた肩をガタガタ震わせながら深呼吸を繰り返している。あれ、それで今、何の話してたんだっけ? というか、小川君、今何て言った? ああ、そうか、きっとこの部屋の掃除用具を買いたいんだけど、何買えばいいか分からないから付き合ってください、って話だ。うん、付き合ってって、言ってたような気がするし。でも私、今掃除用具が買えるほどお金もってないんだよねえ。それにそういうことは私より、直接会計さんに言ったほうがいいんじゃないかなあ。
「そうだねえ」
小川君は私を見つめる。目の前に飛んでいるハエを捕食しようとしているカエルにそっくり。
「ちょっと、今は無理かなあ」
私は無理といいながら、もし掃除用具を買うとしたらどのくらいの金額が必要になるか頭のなかで計算してみる。
「い」
万年箒、自在箒。これは各1つずつでいいね。1000+690=1690。
「今ってことは、そのうちならいいってことですよね」
ちりとり、それと収納用のカラーボックス。ちりとりは1つでいいけど、カラーボックスは入れるものがたくさんあるから、最低3つは必要だね。590+1280*3=4430。
「いつならいいんですか?」
できれば掃除機なんかもあると便利かも。ああ、でも掃除機があるなら万年箒と自在箒はいらないか。
「というか、先輩は俺のことどう思ってるんですか?」
そうすると最初の箒の値段1690円を4430円から引くからその差2740円が支払い金額ってことかな。
「ねえ、先輩」
あ、そうか、掃除機買うならちりとりもいらないか。2740-590=2150。これでおしまい?
「ねえ……さっきから黙ってばっかりですけど、一体どうしたんですか」
いやいや、一番重要なのがあった。掃除機の値段足してないや。それで、掃除機っていくらくらいだっけ。
「先輩」
物にもよるけどこの前買い物に行ったときに見かけたのは4230円だったかな。そうすると2150円と4330円ってことだから全部で……
「先輩!」
「わっ」
最後の計算が終わる直前、今まで何かぶつぶつ言っていた小川君が、突然声をあげて私の肩を掴んだ。下一桁から暗算していた数字が、私の頭の中でぐるぐる回る。
「答えてくださいってば!」
ああ、もう。
「お願いですから」
さっきからこっちが一生懸命計算してるっていうのに。
「ね?」
困った。
「ね?」
困った人だなあ、この子。
「……さい」
「へ?」
「うっさいのよ、あんた」
◆◇◆
二限の授業が予定終了時刻より三十分も早く終わったのは、今日の俺にとって好ましい以外の何ものでもなかった。それは早く飯が食える、とか、講義の内容が少なくなってラッキーだとか考えている連中みたいにセコくて単純な理由からではない。前々から人知れず胸中で立案してきた計画を実行するチャンスが、ついにめぐってきたからだ。
すなわち、一年以上前から気になっていた倉沢先輩に、この思いを伝える。
最初はただ、ちょっと綺麗だな、と思う程度だった。身長は低いが顔は整っているし、体格も細すぎず太すぎずの丁度いい肉付き。何より倉沢先輩を見ていて一番目を引かれたのは、後頭部から重力に従ってしなやかに流れるあの三つ編みだ。黒々と奥深い色に揺れながら、艶やかな光沢を宿し、少し見ただけであの人の手入れのよさが伺えた。ただ、それに触ってみたいとか、いじってみたいとか、出来心で思ったこともあったが、それ以上の感情を抱くことはなかった。
しかしいつからだろうか、気づくと俺はあの人のことを目で追うようになっていて、視界に入る限りであればずっとあの人のことを見ているようになった。あの人が子供に向ける笑顔も時々何も無いところで独り言のようなものをつぶやく様子も、いつの間にか俺は全部覚えていた。まるで記憶の内側に刷り込まれたみたいに。たぶん他の連中は、あの人のことを「よく分からないけどいい人」程度にしか思っていないことだろう。けれど俺は違う。あの人の見ているもの、あの人の思っていることが全部分かる。
あの人は、おそらく常人ではない。では何か。それは俺にもわからない。分からないが、俺にとって重要なのはあの人が何者か、なのではなくて、あの人が他の人間とは明らかに違うということ、それだけだ。
危なっかしい態度も誰に向けて言っているのかも分からない言葉も、俺にとっては倉沢先輩と他の連中を隔てる決定的な差としか思えない。あの人は他の連中とは明らかに違っていて、そしてそんな烏合の衆を超越したあの人を支えることができるのは、同じく他の奴らとは違うこの俺だけだと思った。俺は金だってあるし、頭だっていいし、いろんなことを受け入れられるだけの懐の広さもある。何より倉沢先輩と直接面識があって、あの人を特別だと見抜けたこと自体が、俺が特別な人間だという証拠だ。きっとこのことを話せば倉沢先輩も俺のことを認めてくれるに違いない。
すなわち、一年以上前から気になっていた倉沢先輩に、この思いを伝える。
最初はただ、ちょっと綺麗だな、と思う程度だった。身長は低いが顔は整っているし、体格も細すぎず太すぎずの丁度いい肉付き。何より倉沢先輩を見ていて一番目を引かれたのは、後頭部から重力に従ってしなやかに流れるあの三つ編みだ。黒々と奥深い色に揺れながら、艶やかな光沢を宿し、少し見ただけであの人の手入れのよさが伺えた。ただ、それに触ってみたいとか、いじってみたいとか、出来心で思ったこともあったが、それ以上の感情を抱くことはなかった。
しかしいつからだろうか、気づくと俺はあの人のことを目で追うようになっていて、視界に入る限りであればずっとあの人のことを見ているようになった。あの人が子供に向ける笑顔も時々何も無いところで独り言のようなものをつぶやく様子も、いつの間にか俺は全部覚えていた。まるで記憶の内側に刷り込まれたみたいに。たぶん他の連中は、あの人のことを「よく分からないけどいい人」程度にしか思っていないことだろう。けれど俺は違う。あの人の見ているもの、あの人の思っていることが全部分かる。
あの人は、おそらく常人ではない。では何か。それは俺にもわからない。分からないが、俺にとって重要なのはあの人が何者か、なのではなくて、あの人が他の人間とは明らかに違うということ、それだけだ。
危なっかしい態度も誰に向けて言っているのかも分からない言葉も、俺にとっては倉沢先輩と他の連中を隔てる決定的な差としか思えない。あの人は他の連中とは明らかに違っていて、そしてそんな烏合の衆を超越したあの人を支えることができるのは、同じく他の奴らとは違うこの俺だけだと思った。俺は金だってあるし、頭だっていいし、いろんなことを受け入れられるだけの懐の広さもある。何より倉沢先輩と直接面識があって、あの人を特別だと見抜けたこと自体が、俺が特別な人間だという証拠だ。きっとこのことを話せば倉沢先輩も俺のことを認めてくれるに違いない。
そんなこんなでそのまま休み時間に入ってもよかった三十分を使って、俺はわざわざ文科系サークル会館の三階まで来た。果たして倉沢先輩は俺の読みどおり絵本創作同好会の部室にいた。しかし、俺が緊張に体を震わせ、まともに動こうとしない口を動かし、意を決して先輩に思いを告げた後の反応は、予想とは大きく異なるものだった。
「うっさいのよ、あんた」
倉沢先輩はいつものどこを見ているのか分からないぼんやりとした視線ではなく、確実に俺を見据えてそう言った。口調も、いつも使っている柔和なものとは大きく違った。明らかに敵意をむき出しにした、言うなれば、ライオン、ピューマ、ヒョウ、とにかく猛獣のような荒々しさを秘めた鋭い威嚇。
俺はその声が聞き間違えであることを切に願った。だってそうだろう、一年以上思いを寄せていてずっと観察していて、考えてることも全部わかるはずだった先輩が、あの倉沢先輩が、そんな乱暴な口調で俺を脅すなんてこと、あるはずないじゃないか。俺の告白を聞いていなかったのは、まあ仕方ないと思う。この人は他の奴らとは違って、何が見えていても何を考えていても一向に不思議じゃないのだから。しかし今の状況はそういう「不思議」で済ませられるような事じゃなかった。もっとこう、倉沢先輩を構成している何か重大で底知れないものが、全部ひっくり返って、倉沢先輩の考えとか価値観とかが何もかもリセットされて、その上でまた別のものが作られているかのような。俺は今の状況を冷静に判断してみることにした。そうだ、人間誰にだって、表裏の一つや二つ、いくらでも存在するじゃないか。これは倉沢先輩の本音のうちの一つなんだ。そうだ、きっとそうに違いない。
「す、すみません、いきなり詰め寄ったりして」
ここは冷静に、冷静に、だ。
「で、でも、俺が先輩のこと好きなのは本当なんです、だから少しでいいので先輩の、ご、意見、を」
あくまでも平静を装うんだ。何も考えてはいけないんだ。倉沢先輩は特別な人で、他の奴らとは違って、俺も先輩と同じで。
無理だった。
先ほどの豹変振りに圧倒された俺は、その場で先輩に対して謝るのが精一杯だった。とても、自分の思っていること全てを口に出すなどできそうにもない。先輩は特別な人? 特別というより、特殊といった方が正しい。俺も先輩と同じ? 違う、俺はこんな、自分の全てがひっくり返るほどの出来事なんて経験したことはない。今の状況を認識しようとあがけばあがくほど、膝が振るえ、肩が振るえ、体が崩れていくような感覚が、頭を襲った。頭痛ともめまいとも違う感覚に、呼吸するのだけは忘れてしまわないように、口から多めに空気を取り込む。
「えと、あ……」
俺は、明らかに挙動不審になっていくのを自覚しながらそれでも勇敢に先輩の顔を見続けた。もう顎も膝も肩もがくがく震えて、自分でもどうすればいいのかわからない。先輩はやはりいつもと違う、不快なものを見るかような視線でこちらを睨んでいた。いつの間にか、衝動に任せて掴んでしまった肩の一方に、あれだけ憧れてやまなかった三つ編みが乗せられている。シャンプーやリンスやコンディショナーでしっかり手入れされた、枝毛一つ無い艶やかで美しい黒髪。だが先輩の視線の前で、その黒髪の感触を楽しんでいる程の心の余裕が、今の俺にはなかった。それどころか、その髪に触れてしまったことがひどく恐ろしく感じられてきて、俺は慌てて先輩の肩から手を離した。
「意見? どうしてあたしに意見なんか求めるの?」
恐怖を感じて肩から手を離した俺に対して、先輩は全く動じずに、先ほどと同じ調子で喋る。怖いくらいに自嘲的な笑みを浮かべて、少し距離をとろうと後退を試みていた俺の考えを読み取ったかのように、先輩はじわじわと近寄ってくる。
「あたしに意見を求めるのはお門違いよ。それはあたしが決めることじゃない」
人間には裏表があるから当然? 違う、そんなレベルじゃない。この人は、人知では到底図りきれないところまできている。きているというより、きてしまっている。
「あたしの“本心”が決めることなの。だからあんたは駄目」
一体何を言っているんだ? 本心が? 決める? わけがわからない。でも一つだけわかったことがある。
「“本心”の代わりに言ってあげるわ。グズで鈍間でプライドばっかり高くて他人のことを考える余裕もないあんたといるより、一人でいるか、他の奴といる未来のほうが何倍も楽しいだろう、ってさ」
駄目なんだ、きっと。
「あんたは駄目だと判断されたの」
駄目なんだ。この人に、何か普通に通じる理屈を通そうとしても。
「残念だったわね」
「うっさいのよ、あんた」
倉沢先輩はいつものどこを見ているのか分からないぼんやりとした視線ではなく、確実に俺を見据えてそう言った。口調も、いつも使っている柔和なものとは大きく違った。明らかに敵意をむき出しにした、言うなれば、ライオン、ピューマ、ヒョウ、とにかく猛獣のような荒々しさを秘めた鋭い威嚇。
俺はその声が聞き間違えであることを切に願った。だってそうだろう、一年以上思いを寄せていてずっと観察していて、考えてることも全部わかるはずだった先輩が、あの倉沢先輩が、そんな乱暴な口調で俺を脅すなんてこと、あるはずないじゃないか。俺の告白を聞いていなかったのは、まあ仕方ないと思う。この人は他の奴らとは違って、何が見えていても何を考えていても一向に不思議じゃないのだから。しかし今の状況はそういう「不思議」で済ませられるような事じゃなかった。もっとこう、倉沢先輩を構成している何か重大で底知れないものが、全部ひっくり返って、倉沢先輩の考えとか価値観とかが何もかもリセットされて、その上でまた別のものが作られているかのような。俺は今の状況を冷静に判断してみることにした。そうだ、人間誰にだって、表裏の一つや二つ、いくらでも存在するじゃないか。これは倉沢先輩の本音のうちの一つなんだ。そうだ、きっとそうに違いない。
「す、すみません、いきなり詰め寄ったりして」
ここは冷静に、冷静に、だ。
「で、でも、俺が先輩のこと好きなのは本当なんです、だから少しでいいので先輩の、ご、意見、を」
あくまでも平静を装うんだ。何も考えてはいけないんだ。倉沢先輩は特別な人で、他の奴らとは違って、俺も先輩と同じで。
無理だった。
先ほどの豹変振りに圧倒された俺は、その場で先輩に対して謝るのが精一杯だった。とても、自分の思っていること全てを口に出すなどできそうにもない。先輩は特別な人? 特別というより、特殊といった方が正しい。俺も先輩と同じ? 違う、俺はこんな、自分の全てがひっくり返るほどの出来事なんて経験したことはない。今の状況を認識しようとあがけばあがくほど、膝が振るえ、肩が振るえ、体が崩れていくような感覚が、頭を襲った。頭痛ともめまいとも違う感覚に、呼吸するのだけは忘れてしまわないように、口から多めに空気を取り込む。
「えと、あ……」
俺は、明らかに挙動不審になっていくのを自覚しながらそれでも勇敢に先輩の顔を見続けた。もう顎も膝も肩もがくがく震えて、自分でもどうすればいいのかわからない。先輩はやはりいつもと違う、不快なものを見るかような視線でこちらを睨んでいた。いつの間にか、衝動に任せて掴んでしまった肩の一方に、あれだけ憧れてやまなかった三つ編みが乗せられている。シャンプーやリンスやコンディショナーでしっかり手入れされた、枝毛一つ無い艶やかで美しい黒髪。だが先輩の視線の前で、その黒髪の感触を楽しんでいる程の心の余裕が、今の俺にはなかった。それどころか、その髪に触れてしまったことがひどく恐ろしく感じられてきて、俺は慌てて先輩の肩から手を離した。
「意見? どうしてあたしに意見なんか求めるの?」
恐怖を感じて肩から手を離した俺に対して、先輩は全く動じずに、先ほどと同じ調子で喋る。怖いくらいに自嘲的な笑みを浮かべて、少し距離をとろうと後退を試みていた俺の考えを読み取ったかのように、先輩はじわじわと近寄ってくる。
「あたしに意見を求めるのはお門違いよ。それはあたしが決めることじゃない」
人間には裏表があるから当然? 違う、そんなレベルじゃない。この人は、人知では到底図りきれないところまできている。きているというより、きてしまっている。
「あたしの“本心”が決めることなの。だからあんたは駄目」
一体何を言っているんだ? 本心が? 決める? わけがわからない。でも一つだけわかったことがある。
「“本心”の代わりに言ってあげるわ。グズで鈍間でプライドばっかり高くて他人のことを考える余裕もないあんたといるより、一人でいるか、他の奴といる未来のほうが何倍も楽しいだろう、ってさ」
駄目なんだ、きっと。
「あんたは駄目だと判断されたの」
駄目なんだ。この人に、何か普通に通じる理屈を通そうとしても。
「残念だったわね」
その言葉が、今まで必死で塞き止めていた俺の怒りと欲望の引き金を引いた。こんな小さな女にナメられてたまるか、という衝動が、俺の中でふつふつと湧き上がり、瞬間、俺は人を小馬鹿にしたように笑う倉沢加奈子に向かって無意識のうちに突進していった。
何も考えていなかった。俺より十センチ以上も低い身長の彼女は、突然体重をぶつけてきた俺になすすべも無く、足を取られて声すら上げずに転倒した。そのまま俺は持てる力を全て駆使して彼女を自分の下に組み敷いた。太ももの上に膝を乗せ、左手でその細く白い首を掴んで喉を握りつぶした。空気の通り道をふさがれて、ぐ、という小さい声が漏れる。右手には彼女の滑らかなわき腹の素肌が当たり、そうしてそのくびれを確かめてからようやく、自分が何をしようとしているのかに気づく。
ハッとした、でも止めようがなかった。仕方がなかった。何も考えてなかったからこそ、俺は左手で握った彼女の喉に力を込めて、意を決した。
「あんたが悪いんだよ! 俺を馬鹿にしたような真似するから!」
俺は考えなしに動いた体に無理矢理理由を付けて叫ぶ。
「嫌なら嫌って、最初からそう言えばだろうが! どうしてそんなんで、俺があんたに否定されなきゃならねえんだよ!」
否定、そのとおり、俺は否定されたんだ。じゃあ動機はそれでいい。後付だろうとなんだろうと、事実があれば、それで。
そうだ、俺はこういう人を馬鹿にする奴が一番嫌いだった。
どうして皆俺のこと馬鹿にするんだ。俺は間違ってない。間違ってるのはこういう何考えてるのか分からないのに、他人を一方的に否定する変な奴らなんだ。俺の考えていることも知らずに、俺の言っていることも聞かずに、勝手に俺のこと決め付けて俺を否定してくる連中。世の中そういう奴ばっかりだ。よく知りもしないくせに人のこと勝手に決め付けやがって。俺は馬鹿じゃない、少なくともお前よりは利口だ。俺は駄目じゃない。少なくともお前よりはマトモだ。俺は正気だ。俺は冷静だ。俺は謙虚だ。俺は、俺は、俺は……
一瞬、目の前に広がる光景が、別の何かに見えた。気づくと倉沢加奈子は俺を見てまた冷たい笑みを浮かべていた。その表情には、いつも絵本創作同好会で象や犬や猫を描きながら楽しそうに「何か」と会話している線の細さは微塵も感じられなかった。男に喉を握りつぶされ、素肌に触れられてなおも、冷笑を保ち続けられる女なんて見たのは初めてだった。俺の手にはまだ、彼女の頭に通う血液と薄い皮膚の感触がぴくぴくと伝っている。それは、生きたヤモリを鷲づかみにして、その命の音を確かめた、小学生の残酷で無邪気な感覚を連想させた。そうか、こいつも生きてるんだ、と子供ながらに思った昔の体験。今目の前の光景はそれとそっくりだ。脈拍に伴ってわずかな律動を繰り返す、頚動脈。頭と体の、接合部分。
わずか一本の、首。
殺すのか? 俺が、この女を。そんな非現実的な発想が一瞬脳裏を掠めて、背筋が凍った。この一本の首を流れる血液が、女の生きている証であって、それを自分が断ち切る。そんなのできるのか。それをすると、これから俺はどうなるんだ。心の内で、不安が積乱雲のように急激に膨れ上がった。殺す? そんなの、きっと無理だ。だって俺は別に殺すつもりで体を動かしたんじゃなかった。ああ、そうだ、俺が殺したんじゃない。こいつが勝手に死んだんだ。そういうことにすればいい。どうせ悪いのは俺じゃない。俺の話をまともに聞かずに俺のことを馬鹿にした、こいつがいけないんだ。
「だか、ら」
女が喋った。俺は思わずひっと声をあげた。何で喋るんだ、今、死のうとしてるんじゃないのか。虫の息なんじゃないのか。これから俺はこいつを殺すんじゃないのか、いや、そのつもりはなかった。そうじゃない、殺そうなんて考えていなかった。ただ……ただ、何だ?
「駄目だ、って言ってるんだって」
空いていた女の右手が俺の喉下を狙っていた。いや、狙っていたのではなかった。既に形勢は逆転していた。女はいつの間にか右手に握っていたカッターで、俺の首のごく薄い皮膚に傷を付けていた。それは常識的に考えたら、かすり傷程度で済むような、かなり浅い傷だった。致命傷どころか擦過傷にすらなるかどうか怪しい、とても小さな傷。しかし、そこにあったカッターナイフと、そのわずかな、ごく小さな傷から細く流れる血が、忘れかけていたある重大な発見を俺に思い出させた。
駄目なんだ、この女は常識が通じない。
このままだと確実に、俺は。
「うわあああああ!」
俺は迫りくる「何か」への恐怖を感じて、組み敷いていた倉沢加奈子から飛び離れた。もう無様でもいい、格好悪くてもいい。とにかくこの場から、倉沢加奈子から一刻も早く離れたかった。俺はほとんど四つん這いの状態で絵本創作同好会の部室のドアを開け、そこから廊下に転げ出た。そして恐怖に混乱する頭を抱えながら、文科系サークル会館の階段を、一目散に降りていった。
何も考えていなかった。俺より十センチ以上も低い身長の彼女は、突然体重をぶつけてきた俺になすすべも無く、足を取られて声すら上げずに転倒した。そのまま俺は持てる力を全て駆使して彼女を自分の下に組み敷いた。太ももの上に膝を乗せ、左手でその細く白い首を掴んで喉を握りつぶした。空気の通り道をふさがれて、ぐ、という小さい声が漏れる。右手には彼女の滑らかなわき腹の素肌が当たり、そうしてそのくびれを確かめてからようやく、自分が何をしようとしているのかに気づく。
ハッとした、でも止めようがなかった。仕方がなかった。何も考えてなかったからこそ、俺は左手で握った彼女の喉に力を込めて、意を決した。
「あんたが悪いんだよ! 俺を馬鹿にしたような真似するから!」
俺は考えなしに動いた体に無理矢理理由を付けて叫ぶ。
「嫌なら嫌って、最初からそう言えばだろうが! どうしてそんなんで、俺があんたに否定されなきゃならねえんだよ!」
否定、そのとおり、俺は否定されたんだ。じゃあ動機はそれでいい。後付だろうとなんだろうと、事実があれば、それで。
そうだ、俺はこういう人を馬鹿にする奴が一番嫌いだった。
どうして皆俺のこと馬鹿にするんだ。俺は間違ってない。間違ってるのはこういう何考えてるのか分からないのに、他人を一方的に否定する変な奴らなんだ。俺の考えていることも知らずに、俺の言っていることも聞かずに、勝手に俺のこと決め付けて俺を否定してくる連中。世の中そういう奴ばっかりだ。よく知りもしないくせに人のこと勝手に決め付けやがって。俺は馬鹿じゃない、少なくともお前よりは利口だ。俺は駄目じゃない。少なくともお前よりはマトモだ。俺は正気だ。俺は冷静だ。俺は謙虚だ。俺は、俺は、俺は……
一瞬、目の前に広がる光景が、別の何かに見えた。気づくと倉沢加奈子は俺を見てまた冷たい笑みを浮かべていた。その表情には、いつも絵本創作同好会で象や犬や猫を描きながら楽しそうに「何か」と会話している線の細さは微塵も感じられなかった。男に喉を握りつぶされ、素肌に触れられてなおも、冷笑を保ち続けられる女なんて見たのは初めてだった。俺の手にはまだ、彼女の頭に通う血液と薄い皮膚の感触がぴくぴくと伝っている。それは、生きたヤモリを鷲づかみにして、その命の音を確かめた、小学生の残酷で無邪気な感覚を連想させた。そうか、こいつも生きてるんだ、と子供ながらに思った昔の体験。今目の前の光景はそれとそっくりだ。脈拍に伴ってわずかな律動を繰り返す、頚動脈。頭と体の、接合部分。
わずか一本の、首。
殺すのか? 俺が、この女を。そんな非現実的な発想が一瞬脳裏を掠めて、背筋が凍った。この一本の首を流れる血液が、女の生きている証であって、それを自分が断ち切る。そんなのできるのか。それをすると、これから俺はどうなるんだ。心の内で、不安が積乱雲のように急激に膨れ上がった。殺す? そんなの、きっと無理だ。だって俺は別に殺すつもりで体を動かしたんじゃなかった。ああ、そうだ、俺が殺したんじゃない。こいつが勝手に死んだんだ。そういうことにすればいい。どうせ悪いのは俺じゃない。俺の話をまともに聞かずに俺のことを馬鹿にした、こいつがいけないんだ。
「だか、ら」
女が喋った。俺は思わずひっと声をあげた。何で喋るんだ、今、死のうとしてるんじゃないのか。虫の息なんじゃないのか。これから俺はこいつを殺すんじゃないのか、いや、そのつもりはなかった。そうじゃない、殺そうなんて考えていなかった。ただ……ただ、何だ?
「駄目だ、って言ってるんだって」
空いていた女の右手が俺の喉下を狙っていた。いや、狙っていたのではなかった。既に形勢は逆転していた。女はいつの間にか右手に握っていたカッターで、俺の首のごく薄い皮膚に傷を付けていた。それは常識的に考えたら、かすり傷程度で済むような、かなり浅い傷だった。致命傷どころか擦過傷にすらなるかどうか怪しい、とても小さな傷。しかし、そこにあったカッターナイフと、そのわずかな、ごく小さな傷から細く流れる血が、忘れかけていたある重大な発見を俺に思い出させた。
駄目なんだ、この女は常識が通じない。
このままだと確実に、俺は。
「うわあああああ!」
俺は迫りくる「何か」への恐怖を感じて、組み敷いていた倉沢加奈子から飛び離れた。もう無様でもいい、格好悪くてもいい。とにかくこの場から、倉沢加奈子から一刻も早く離れたかった。俺はほとんど四つん這いの状態で絵本創作同好会の部室のドアを開け、そこから廊下に転げ出た。そして恐怖に混乱する頭を抱えながら、文科系サークル会館の階段を、一目散に降りていった。
◆◇◆
「珍しいね、カコが人前に出たの」
小川吉宏があたしたちの前に現れてから十八時間。午前二時半に居酒屋のバイトが終わり、三時に帰宅。身体的な疲労もピークに達し、そろそろ床に就こうかと思った、そのときだった。不意に、カナコがあたしに向かって、今日の昼の出来事についての感想を漏らした。尤も、小川のことではなくて、あたしが人前に出た、ということに関してだったけど。
<そういえばそうね。最後に出たの、いつだったか覚えてないけど>
あたしの言葉にカナコはうーん、と唸る。
「あれ、もしかしてこれが初めてかな。それとも忘れてるだけ?」
<さあ? まあ、どうでもいいでしょ、そんなの>
正直な話、あたしがカナコと入れ替わろうが入れ替わるまいが、双方の記憶が繋がっているのだから大した差ではない。どうせ一人の人間として、見ているものは同じなのだ。今日だって、あの小川の無様な姿を、カナコはその瞳を通してしっかり見ていたはず。まあ、それに対する感じ方や反応の仕方は、ずいぶん違うみたいだけど。
「うん、そうだねえ」
カナコは頷く。それから何がおかしいのか、ふふ、と呼気を漏らすように笑う。
<何?>
「久しぶりに出たはいいけど、誰に対しても態度が一緒だよね、カコって」
<それはあたしの性格だから仕方ないでしょう>
それに、あんな奴に対面して、ああいう態度以外の接し方をしろといわれてもいまいちよくわからない。あたしにはそういう行動は取れない。
カナコはまた、ふふ、と笑っている。本当に、この子はよく笑う子だ。誰に対しても、何も面白いことがなくても、よく笑う。笑うことがまるで自分の全てであるかのように、幸せそうな笑みを、一点の曇りもない笑みを浮かべる。その笑みに、危うく話を忘れそうになってしまい、あたしは慌てて言葉を付け足した。
<あたしは、そうならざるを得なかったんだから>
うん、とカナコは頷く。あたしの言わんとしていることを察しているのかどうかは、語調からでは判断できない。猫のように優しく明るく高い、しっとりとした声音。少し息を吸えば、たちまち歌のようなリズムで言葉が紡がれる。カナコの声は聞いているだけで安心するし、その物腰もゆったりとしていて、落ち着いている。いつもカナコのことだけを考えてツッケンドンに相手を押しまくるあたしとは大違いだ。
「まあ、私はカコがいれば、何でもいいけどね」
<……………>
カナコの言葉に、あたしは虚を突かれて、一瞬ポカンとなってしまう。
「どしたの?」
その微妙な間に、カナコはすかさず反応した。同じ体を共有してるから、考えることは全部半身に筒抜けだ。特に、あたしからカナコへの感情の捉え方は、いつも赤く見えるものが突然白くなるのが分かるように簡単に見分けがつく。
<……いや、なんでもない>
あたしはそう言うしかなかった。カナコもそれ以上、深く詮索はしない。
「そう、じゃあもう、寝るよ。お休み」
<お休み>
電気を消して、ベッドに潜り込んで、目を閉じる。明日も早いかな、とカナコが考えている。
小川吉宏があたしたちの前に現れてから十八時間。午前二時半に居酒屋のバイトが終わり、三時に帰宅。身体的な疲労もピークに達し、そろそろ床に就こうかと思った、そのときだった。不意に、カナコがあたしに向かって、今日の昼の出来事についての感想を漏らした。尤も、小川のことではなくて、あたしが人前に出た、ということに関してだったけど。
<そういえばそうね。最後に出たの、いつだったか覚えてないけど>
あたしの言葉にカナコはうーん、と唸る。
「あれ、もしかしてこれが初めてかな。それとも忘れてるだけ?」
<さあ? まあ、どうでもいいでしょ、そんなの>
正直な話、あたしがカナコと入れ替わろうが入れ替わるまいが、双方の記憶が繋がっているのだから大した差ではない。どうせ一人の人間として、見ているものは同じなのだ。今日だって、あの小川の無様な姿を、カナコはその瞳を通してしっかり見ていたはず。まあ、それに対する感じ方や反応の仕方は、ずいぶん違うみたいだけど。
「うん、そうだねえ」
カナコは頷く。それから何がおかしいのか、ふふ、と呼気を漏らすように笑う。
<何?>
「久しぶりに出たはいいけど、誰に対しても態度が一緒だよね、カコって」
<それはあたしの性格だから仕方ないでしょう>
それに、あんな奴に対面して、ああいう態度以外の接し方をしろといわれてもいまいちよくわからない。あたしにはそういう行動は取れない。
カナコはまた、ふふ、と笑っている。本当に、この子はよく笑う子だ。誰に対しても、何も面白いことがなくても、よく笑う。笑うことがまるで自分の全てであるかのように、幸せそうな笑みを、一点の曇りもない笑みを浮かべる。その笑みに、危うく話を忘れそうになってしまい、あたしは慌てて言葉を付け足した。
<あたしは、そうならざるを得なかったんだから>
うん、とカナコは頷く。あたしの言わんとしていることを察しているのかどうかは、語調からでは判断できない。猫のように優しく明るく高い、しっとりとした声音。少し息を吸えば、たちまち歌のようなリズムで言葉が紡がれる。カナコの声は聞いているだけで安心するし、その物腰もゆったりとしていて、落ち着いている。いつもカナコのことだけを考えてツッケンドンに相手を押しまくるあたしとは大違いだ。
「まあ、私はカコがいれば、何でもいいけどね」
<……………>
カナコの言葉に、あたしは虚を突かれて、一瞬ポカンとなってしまう。
「どしたの?」
その微妙な間に、カナコはすかさず反応した。同じ体を共有してるから、考えることは全部半身に筒抜けだ。特に、あたしからカナコへの感情の捉え方は、いつも赤く見えるものが突然白くなるのが分かるように簡単に見分けがつく。
<……いや、なんでもない>
あたしはそう言うしかなかった。カナコもそれ以上、深く詮索はしない。
「そう、じゃあもう、寝るよ。お休み」
<お休み>
電気を消して、ベッドに潜り込んで、目を閉じる。明日も早いかな、とカナコが考えている。
目を閉じてから数分で、カナコの意識は闇へと落ちた。体の疲れからか、今は夢を見ることもなくぐっすり眠っている。夢の中まで相手の意識が見えてしまうというのは、確かに不便ではあるが、便利なことも一応ある。日中ずっと傍らにいる自分の半身に意識を覗かれないのは、就寝後、自分が自分だと分からなくなった時間だけだからだ。半身が深く眠っている今、もう半分の意識であるあたしは、カナコに何を考えているのか悟られることなく、いろいろなことを考えられる。逆に、自分が先に眠ってしまった場合は、相手が何を考えていてもこちらには伝わってこないのだが。
あたしは、床に就く前、カナコの言っていたことを思い出している。
――私はカコがいれば、何でもいいや。
あの子がそんなことを考えているなんて、正直驚いた。確かにカナコは身の周りで起きるあらゆることを、何でも楽しく感じてしまう性格だ。だからあたしの存在自体も、カナコにとってはただの楽しい相棒としか捉えられていないのかもしれない。そう考えるのが妥当だし、実際そうだからあんな台詞が出てくるのだと思う。
でも、本当はそんなことあってはならない。あたしはカナコの一部ではあるけど、カナコはあたしの一部ではないのだ。あたしたちはずっと一緒にいていいはずはない。
あたしは、床に就く前、カナコの言っていたことを思い出している。
――私はカコがいれば、何でもいいや。
あの子がそんなことを考えているなんて、正直驚いた。確かにカナコは身の周りで起きるあらゆることを、何でも楽しく感じてしまう性格だ。だからあたしの存在自体も、カナコにとってはただの楽しい相棒としか捉えられていないのかもしれない。そう考えるのが妥当だし、実際そうだからあんな台詞が出てくるのだと思う。
でも、本当はそんなことあってはならない。あたしはカナコの一部ではあるけど、カナコはあたしの一部ではないのだ。あたしたちはずっと一緒にいていいはずはない。
もともと、あたしの人格は、中学二年生の時に、加奈子がストレスから腹にナイフを刺したことから生まれた。いわゆる自殺未遂というやつである。その日、運良く早めに帰宅した母が、自室で切腹して苦痛に身もだえする加奈子を発見し、すぐさま病院に連れて行ったため、加奈子は一命を取り留めることができた。しかし、さまざまなことに疲れた精神は自殺未遂後も安定する様子を見せず、遂には医者から学校を休んでしばらく精神病院に通うよう命じられるほどになった。あのときの医者の対応は大分手馴れたものだったように思う。
「いいですか、あなたは生まれつき、セロトニンという物質の分泌が普通の人に比べて、遥かに少ないのです。だからいろいろなものに恐怖を感じるし、どんな人にも疑い深い視線を向けたり、信用できなかったりする」
まずは弱い薬を飲んで、少し様子を見ましょう。これにはほとんど抗鬱作用はありませんが、いきなり強い薬を出すと体が驚いてしまいますからね。あんまり回復しないようでしたら、少しずつ薬を強くしますので。
医者はそう説明して加奈子を薬を渡した。しかし、どんなに強い薬を飲んでも症状は一向に回復しなかった。それどころか、強い薬を飲めば飲むほど、薬への依存性が高まってすぐに新しい薬を欲するようになってしまった。薬が切れるとまるでスイッチが入ったかのように気分が悪くなり、誰かに命令されるのが信じられないくらいに不快で、その度に理由の無い怒りがこみ上げた。意味もなく辛く当たる加奈子を、両親は心配していた。だが怒ると余計に悪くなるから、といって、加奈子を叱ることもできなかった。両親は手をこまねいていた。そして薬以外の方法でどうにかすることはできないのか、と医者に相談したところ、次に勧められたのが認知療法だった。
認知療法は事実と感情を切り分けて考え、ネガティブな思考に陥ることを防ぐための思考転換術の一つだ。例えば「隣の人が今日自分に挨拶してくれなかった」という事実があったとしたら、「きっと私のことが嫌いなのだ」と悪い方に考えるのではなく、「何だ、忙しかっただけなのだ」とよい方に考えるようにする。すると精神的なストレスが徐々に軽減されていくため、最終的にポジティブな思考ができるようになる。更年期障害などで精神科に訪れる女性などに、薬を処方する前に医者がよく薦める方法らしい。
当初、医者は加奈子への認知療法を、薬の量を減らすため、として行うことにした。しかし、認知療法は、本来薬を飲む以前の患者を対象として行われるため、加奈子のように薬を飲んでからこの方法で治療を行ったところで、どの程度の効果が得られるのかは分からなかった。だから医者は先に、完全に成功するかどうかは分からないが、薬から逃れるということだけが目的なのであれば問題はないであろうと説明していた。両親は悩んではいたが、薬の副作用に激しく苦しむ加奈子を見て、少しでも辛さがまぎれるなら、と療法を承諾した。
しかし不運なことに、薬漬けになった加奈子の精神は、ごく普通の認知療法を行って回復できるほどの力を持ち合わせてはいなかった。彼女は医者から認知療法の説明を受けたとき、それを「自分とは別の何ものかに嫌な感情を押し付ける方法」と誤解した。加奈子は不快な感情を、名無しの誰かに向かってひたすら吐き続けた。吐き続けた結果、その感情の固まりは別の人格として彼女の中に意識を表した。
「いいですか、あなたは生まれつき、セロトニンという物質の分泌が普通の人に比べて、遥かに少ないのです。だからいろいろなものに恐怖を感じるし、どんな人にも疑い深い視線を向けたり、信用できなかったりする」
まずは弱い薬を飲んで、少し様子を見ましょう。これにはほとんど抗鬱作用はありませんが、いきなり強い薬を出すと体が驚いてしまいますからね。あんまり回復しないようでしたら、少しずつ薬を強くしますので。
医者はそう説明して加奈子を薬を渡した。しかし、どんなに強い薬を飲んでも症状は一向に回復しなかった。それどころか、強い薬を飲めば飲むほど、薬への依存性が高まってすぐに新しい薬を欲するようになってしまった。薬が切れるとまるでスイッチが入ったかのように気分が悪くなり、誰かに命令されるのが信じられないくらいに不快で、その度に理由の無い怒りがこみ上げた。意味もなく辛く当たる加奈子を、両親は心配していた。だが怒ると余計に悪くなるから、といって、加奈子を叱ることもできなかった。両親は手をこまねいていた。そして薬以外の方法でどうにかすることはできないのか、と医者に相談したところ、次に勧められたのが認知療法だった。
認知療法は事実と感情を切り分けて考え、ネガティブな思考に陥ることを防ぐための思考転換術の一つだ。例えば「隣の人が今日自分に挨拶してくれなかった」という事実があったとしたら、「きっと私のことが嫌いなのだ」と悪い方に考えるのではなく、「何だ、忙しかっただけなのだ」とよい方に考えるようにする。すると精神的なストレスが徐々に軽減されていくため、最終的にポジティブな思考ができるようになる。更年期障害などで精神科に訪れる女性などに、薬を処方する前に医者がよく薦める方法らしい。
当初、医者は加奈子への認知療法を、薬の量を減らすため、として行うことにした。しかし、認知療法は、本来薬を飲む以前の患者を対象として行われるため、加奈子のように薬を飲んでからこの方法で治療を行ったところで、どの程度の効果が得られるのかは分からなかった。だから医者は先に、完全に成功するかどうかは分からないが、薬から逃れるということだけが目的なのであれば問題はないであろうと説明していた。両親は悩んではいたが、薬の副作用に激しく苦しむ加奈子を見て、少しでも辛さがまぎれるなら、と療法を承諾した。
しかし不運なことに、薬漬けになった加奈子の精神は、ごく普通の認知療法を行って回復できるほどの力を持ち合わせてはいなかった。彼女は医者から認知療法の説明を受けたとき、それを「自分とは別の何ものかに嫌な感情を押し付ける方法」と誤解した。加奈子は不快な感情を、名無しの誰かに向かってひたすら吐き続けた。吐き続けた結果、その感情の固まりは別の人格として彼女の中に意識を表した。
それがあたし、集積された負の感情の人格だ。初めてあたしがカナコに会ったのは、もういつだったか覚えていない。何せ、人格が分裂するなんてことは初めてだったのだ。だが、自分が生み出した存在であるからなのか、思いの外カナコはあたしをあっさりと受け入れ、呼びにくいから名前でも付けようとさえ言い出した。カナコはあたしをカコ、と名づけた。自分の名前から「奈」という字を取って名無しの存在、加えて“過去”の産物であるから、というのが理由だそうだ。
とてもいい名をもらった、と思った。あたしは負の感情の塊であり、カナコが認知療法によって苦痛を苦痛と感じなくなるためには、あたし自身を倉沢加奈子として存在していないものとみなす必要があった。カコという名は、現在で意識されていないということを、ありありと自覚できる名前だった。
とてもいい名をもらった、と思った。あたしは負の感情の塊であり、カナコが認知療法によって苦痛を苦痛と感じなくなるためには、あたし自身を倉沢加奈子として存在していないものとみなす必要があった。カコという名は、現在で意識されていないということを、ありありと自覚できる名前だった。
だからあたしはカナコの一部ではあるけど、カナコはあたしの一部ではない、ということができる。ましてや、意識の一部でしかないあたしが、主人格であるカナコを自分と同格とみなすなど、おこがましいにも程がある。これはカナコがあたしのことをどう思っていようと、あたしの中で揺がない考えだ。カナコは人間であるが、あたしは人間ではない。
さらに言うならば、医者の勧めた認知療法は、意図しない形であたしという存在を生み出しはしたものの、結果だけ言えば成功したことになる。あたしが生まれたことにより、カナコはあらゆるものに楽しい、とだけ感じるようになった。これは認知療法の目指していた最終的な加奈子のありかたであり、逆に、カナコが楽しい以外の感情を捨て去った今、別の人格として形成されたあたしの役目は終わった。楽しい以外の、怒り、悲しみ、不快、躊躇い、という感情を苦痛と感じてあたしが生み出されたのなら、その苦痛の権化であるあたしを消してしまえば、カナコはもっと楽になれる。あたしは所詮、意識の塊であって人間ではない。カナコがその気になれば、いつだって消滅させることが可能なはずであって、カナコもそのことに気づいていないはずはなかった。
しかし、どういうわけかカナコはいつまで経ってもあたしを消滅させようとしなかった。あまつさえ、今日などはあたしがいればそれでいいとさえ言った。違うのだ、カナコにとっての本当の幸せは、一つの体に一つの意識、即ち本来のあり方に戻ること。負の感情の塊であるあたしと一緒にいることなどではない、はずなのだ。今まで苦労してきた分、カナコはこれから、もっと普通の、穏やかで悩みのない人生を送るべきであり、そのためならあたしはいつ消滅しようと構わなかった。でも、それなのにカナコはあたしを消したりしなかった。
あたしの考えは次第に堂々巡りに陥っていった。自分の半身ながら、カナコの考えは分からないことが多かった。あたしに伝わってくるカナコの感情は全て、楽しい、面白い、嬉しい、気持ち良い、でしかない。それは赤ん坊の笑みを見ているかのような打算も穢れもないまっさらな感情で、だからこそあたしはカナコの発想、思いに戸惑わざるを得ない。自分が負ならばあの子は正。あたしがどんなに疑り深くなったところで、カナコはそれを疑問にも思わないだろう。しかしそれは、あたしに対してだけではない。おそらくこれから出会うどんな人間に対しても、カナコは何の疑いもなく信用してしまう。自分がどんな酷い目に合わされても、きっとそれすら楽しいと感じてしまう。それが本当にあの子にとっての幸せ? いや、そんなはずはない。
今日の昼、小川という男と組み合ったときに思った。カナコは人を引き付ける割に無防備すぎる。負の感情が残っていないからこそ、人を引き付けるのだとは思う。だが、それでカナコに寄ってくる連中の中に、小川のような奴がいないとも限らない。そしてそいつが今日のように突然衝動的な行動に出てしまったとしたら――カナコ自身がそれすら楽しい、と感じてしまう以上、この体を守れるのはあたししかいない。
カナコが何のためにあたしを消滅させないのかはわからない。でも、あたしに流れてくる負の感情が少なくなった今、あたしがカナコにしてあげられることは、カナコの心の隙間につけこむ奴らからカナコを守ることだけだ。どんな奴が来ても、何人敵に回しても、カナコのためならあたしはいくらでも前に出よう。あたしの半身であり、パートナーであり、飼い主であり、元はあたし自身でもあった、倉沢加奈子に誓って。
さらに言うならば、医者の勧めた認知療法は、意図しない形であたしという存在を生み出しはしたものの、結果だけ言えば成功したことになる。あたしが生まれたことにより、カナコはあらゆるものに楽しい、とだけ感じるようになった。これは認知療法の目指していた最終的な加奈子のありかたであり、逆に、カナコが楽しい以外の感情を捨て去った今、別の人格として形成されたあたしの役目は終わった。楽しい以外の、怒り、悲しみ、不快、躊躇い、という感情を苦痛と感じてあたしが生み出されたのなら、その苦痛の権化であるあたしを消してしまえば、カナコはもっと楽になれる。あたしは所詮、意識の塊であって人間ではない。カナコがその気になれば、いつだって消滅させることが可能なはずであって、カナコもそのことに気づいていないはずはなかった。
しかし、どういうわけかカナコはいつまで経ってもあたしを消滅させようとしなかった。あまつさえ、今日などはあたしがいればそれでいいとさえ言った。違うのだ、カナコにとっての本当の幸せは、一つの体に一つの意識、即ち本来のあり方に戻ること。負の感情の塊であるあたしと一緒にいることなどではない、はずなのだ。今まで苦労してきた分、カナコはこれから、もっと普通の、穏やかで悩みのない人生を送るべきであり、そのためならあたしはいつ消滅しようと構わなかった。でも、それなのにカナコはあたしを消したりしなかった。
あたしの考えは次第に堂々巡りに陥っていった。自分の半身ながら、カナコの考えは分からないことが多かった。あたしに伝わってくるカナコの感情は全て、楽しい、面白い、嬉しい、気持ち良い、でしかない。それは赤ん坊の笑みを見ているかのような打算も穢れもないまっさらな感情で、だからこそあたしはカナコの発想、思いに戸惑わざるを得ない。自分が負ならばあの子は正。あたしがどんなに疑り深くなったところで、カナコはそれを疑問にも思わないだろう。しかしそれは、あたしに対してだけではない。おそらくこれから出会うどんな人間に対しても、カナコは何の疑いもなく信用してしまう。自分がどんな酷い目に合わされても、きっとそれすら楽しいと感じてしまう。それが本当にあの子にとっての幸せ? いや、そんなはずはない。
今日の昼、小川という男と組み合ったときに思った。カナコは人を引き付ける割に無防備すぎる。負の感情が残っていないからこそ、人を引き付けるのだとは思う。だが、それでカナコに寄ってくる連中の中に、小川のような奴がいないとも限らない。そしてそいつが今日のように突然衝動的な行動に出てしまったとしたら――カナコ自身がそれすら楽しい、と感じてしまう以上、この体を守れるのはあたししかいない。
カナコが何のためにあたしを消滅させないのかはわからない。でも、あたしに流れてくる負の感情が少なくなった今、あたしがカナコにしてあげられることは、カナコの心の隙間につけこむ奴らからカナコを守ることだけだ。どんな奴が来ても、何人敵に回しても、カナコのためならあたしはいくらでも前に出よう。あたしの半身であり、パートナーであり、飼い主であり、元はあたし自身でもあった、倉沢加奈子に誓って。
<現在設定より1年前の話>