走る。
電車を降り、階段を二段とばしで降りていく。革靴で走るのは辛い。必死の形相で改札を抜け大学側の階段をのぼる羽住を、道行く人々が奇妙な物を見る目で見ていた。仕方ないよなあと心の中で苦笑する。信号がちょうど青になり、止まることなくスーツ姿の羽住は走った。
ちらりと腕時計を見ると、四時半を少し過ぎた頃だった。あと十分もない。焦りが足の運びに絡みつき転びそうになった。あげそうになった悲鳴を飲み込み代わりに二酸化炭素の増えた息を吐く。法経学部棟まであと数分で到着するのか不安がよぎったが無視した。ここまで走っておいて間に合わなかったらとんだ笑い物だという自覚はある。
少し考えて、法経学部棟入り口からではなく文学部棟入り口からはいることにした。工学部の数字を横目に見ながら図書館の後ろを通って文学部棟へ走る。赤ぶちめがねの青年がドアを閉めようとするのを後ろから手を差し込んで止めた。青年が驚いたように声を上げたが気にするほどの余裕はない。休講掲示板を無視して連絡通路を抜け、ようやく左手に106講義室のドアが見えた。
ビジネスバッグを持っていない右手で重いドアを開けた。想像以上に大きく響いたドアの開閉音に壇上の教授が不快そうに羽住を見、講義室の右側で井筒がほっとしたような笑いたそうな目で羽住を見た。
時刻、四時三十九分。仕方なさそうに教授が席に着けと促してくる。差し出された問題用紙と解答用紙を手にとった。
テストは無事受けられそうだ。
電車を降り、階段を二段とばしで降りていく。革靴で走るのは辛い。必死の形相で改札を抜け大学側の階段をのぼる羽住を、道行く人々が奇妙な物を見る目で見ていた。仕方ないよなあと心の中で苦笑する。信号がちょうど青になり、止まることなくスーツ姿の羽住は走った。
ちらりと腕時計を見ると、四時半を少し過ぎた頃だった。あと十分もない。焦りが足の運びに絡みつき転びそうになった。あげそうになった悲鳴を飲み込み代わりに二酸化炭素の増えた息を吐く。法経学部棟まであと数分で到着するのか不安がよぎったが無視した。ここまで走っておいて間に合わなかったらとんだ笑い物だという自覚はある。
少し考えて、法経学部棟入り口からではなく文学部棟入り口からはいることにした。工学部の数字を横目に見ながら図書館の後ろを通って文学部棟へ走る。赤ぶちめがねの青年がドアを閉めようとするのを後ろから手を差し込んで止めた。青年が驚いたように声を上げたが気にするほどの余裕はない。休講掲示板を無視して連絡通路を抜け、ようやく左手に106講義室のドアが見えた。
ビジネスバッグを持っていない右手で重いドアを開けた。想像以上に大きく響いたドアの開閉音に壇上の教授が不快そうに羽住を見、講義室の右側で井筒がほっとしたような笑いたそうな目で羽住を見た。
時刻、四時三十九分。仕方なさそうに教授が席に着けと促してくる。差し出された問題用紙と解答用紙を手にとった。
テストは無事受けられそうだ。
青いネクタイをゆるめると、横で井筒が笑った。
「なんだい井筒君」
「いや、スーツ似合ってますよ先輩」
「そうかいありがとう」
暗い窓に映った青年は、暗色のスーツを着込んで髪をオールバックにしていた。どこのサラリーマンかという風貌で自分のことながら笑いそうになる。暖色のカフェテリアには似合いそうにない、まじめ一辺倒のサラリーマン風羽住は中華丼を食べることに全神経を集中させていた。井筒はイチゴソースのかかったケーキとお茶を目の前に、全力で食事にありつく羽住を面白そうに見ていた。
「昼飯抜きだったんですか」
「そうそう、午前の面接から午後の説明会までシームレス」
「そしてテストまでって忙しいですね。さすが就活生」
「君も来年なったらこうなるんだよ」
「うげ」
「就活始まったらテスト抜きとか、そういう措置はしてくれないのかなあ、この就職氷河期に」
あまり現実的ではない願望を口にしながらため息をつく。中華丼のうずらの卵がなかなか箸に捕まってくれない。刺そうとするとつるりと逃げる。箸で挟もうとしてもつるりと逃げる。卵相手に格闘しているのが笑いのツボにはまったのか、プラスチックフォークを片手に井筒が笑いだした。
結局うずらの卵を諦めきくらげを摘んだ。
「ところで先輩、今の時間ここにいるって珍しいですよね」
「そうかも。いつも椿屋とかに行くけど、今日はちょっと時間ないから」
「もしかしてこれからバイト入ってたりとか」
「するんだよなあ」
「過労死しませんか?」
「この格好で過労死って言われたら冗談にもならないよ井筒君」
「そうですね、先輩まじめそうですからね。同僚の残業を手伝った挙げ句帰宅は零時過ぎ、妻もかわいい子供達も寝てしまって迎えてくれる人はいない。テーブルには冷えた夕食が……」
「冗談にもならないよ井筒君」
摘んだきくらげを落としそうになり慌てて口に放り込んだ。とろみのある中華丼のソースはあまりおいしくない。学外の飲食店や椿屋に行こうと思ったのだが、そうするとバイトの時間に間に合わなくなる。また全力疾走、しかも食後というのはどうしても避けたかったのでカフェテリアにしたのまでは間違ってはいない。だが中華丼はどうやらはずれらしかった。
「……あっ」
「うん?」
渋い顔をしながらまたうずらの卵に挑戦していると、井筒が羽住の後ろへ視線を向け、小さく声を上げた。誰かがいるのかちらちらと見ている。羽住が後ろを振り向くと、見知った青年が少し離れたところに立っていた。
相手も井筒と羽住、二人分の視線に気付いたのか、軽く手を振りながら近づいてきた。
「やあ、井筒、羽住、席良い?」
二人と同じ学部の、水野尊だった。同席を問われてたので、井筒と羽住の荷物を急いで一つのいすにまとめ、水野の分の席を確保する。そこに座った彼がテーブルに置いたお盆には、サラダや唐揚げが盛られた皿が乗っていた。ご飯や味噌汁も乗り、どうやら本格的な夕食のようだった。
とうとうつまむことを諦めたうずらの卵を箸で串刺す。口の中に放り込み咀嚼していると、尊がいただきますと手を合わせて箸を手に取った。
「タケさん、それ夕飯?」
「そうそう。家に帰って作るの面倒で。羽住はどうしたんだ、その格好」
「似合ってるだろー」
「うん、まじめなサラリーマンみたいで良いんじゃないかな」
「でも過労死寸前なんですよね」
「?」
「まだそのネタを引っ張るのかい井筒君」
水野が不思議そうにしていたが、羽住は中華丼をかきこむにとどめた。井筒もそれ以上言うつもりはないらしく残り少ないケーキを崩していく。話が読めない水野は首を傾げていたが、それより羽住の格好に興味の矛先を変えたようだった。
「ところで、羽住はなんでスーツ? 就活?」
「就活、プラスバイトってところ」
「何やってるっけ」
「ホテルのフロントマン」
「おお、格好いい」
「格好いいだろー」
「フロントマンってスーツなんですね」
「そうそう。このままバイト先に行けるから楽だよ。それに、結構良い仕事なんだ」
「給料が?」
「給料も、だね。いろいろ学べるんだ」
実際フロントマンの仕事は就活の上でも何かと役に立っている。スーツも以前から買い溜めていたおかげで換えはいくらでもある上に、丁寧な言葉遣いも習得出来た。そう思うとなかなか良い仕事を選んだものだと、我がことながら胸を張りたくなる。
「それは良いんですけど先輩」
先輩と呼ばれて水野と羽住、二人が井筒の方を向いた。慌てた井筒が羽住先輩、と言い直す。なんだい、と答えると、彼はどこか不安げな顔で壁に掛けられた時計を見ていた。
「羽住先輩のバイトって何時からですか」
「七時からだけど」
「今六時半ですね」
「ああ、うん。……うん?」
「今六時半ですね」
「……」
「正確には六時三十一分だなあ」
井筒とは対照的に、水野がのんびりした声色で時刻を告げた。背筋を冷たいものが滑り落ちたような感覚がして羽住は急いで自分の腕時計を見る。勢いをつけて置いた箸が転がりそうになって慌てて押さえた。銀色のベルトが暖色のライトに不気味に輝いていた。
時刻、六時三十一分。
次の瞬間羽住が考えたのは、また走らなければならないことに対する諦めだった。
「なんだい井筒君」
「いや、スーツ似合ってますよ先輩」
「そうかいありがとう」
暗い窓に映った青年は、暗色のスーツを着込んで髪をオールバックにしていた。どこのサラリーマンかという風貌で自分のことながら笑いそうになる。暖色のカフェテリアには似合いそうにない、まじめ一辺倒のサラリーマン風羽住は中華丼を食べることに全神経を集中させていた。井筒はイチゴソースのかかったケーキとお茶を目の前に、全力で食事にありつく羽住を面白そうに見ていた。
「昼飯抜きだったんですか」
「そうそう、午前の面接から午後の説明会までシームレス」
「そしてテストまでって忙しいですね。さすが就活生」
「君も来年なったらこうなるんだよ」
「うげ」
「就活始まったらテスト抜きとか、そういう措置はしてくれないのかなあ、この就職氷河期に」
あまり現実的ではない願望を口にしながらため息をつく。中華丼のうずらの卵がなかなか箸に捕まってくれない。刺そうとするとつるりと逃げる。箸で挟もうとしてもつるりと逃げる。卵相手に格闘しているのが笑いのツボにはまったのか、プラスチックフォークを片手に井筒が笑いだした。
結局うずらの卵を諦めきくらげを摘んだ。
「ところで先輩、今の時間ここにいるって珍しいですよね」
「そうかも。いつも椿屋とかに行くけど、今日はちょっと時間ないから」
「もしかしてこれからバイト入ってたりとか」
「するんだよなあ」
「過労死しませんか?」
「この格好で過労死って言われたら冗談にもならないよ井筒君」
「そうですね、先輩まじめそうですからね。同僚の残業を手伝った挙げ句帰宅は零時過ぎ、妻もかわいい子供達も寝てしまって迎えてくれる人はいない。テーブルには冷えた夕食が……」
「冗談にもならないよ井筒君」
摘んだきくらげを落としそうになり慌てて口に放り込んだ。とろみのある中華丼のソースはあまりおいしくない。学外の飲食店や椿屋に行こうと思ったのだが、そうするとバイトの時間に間に合わなくなる。また全力疾走、しかも食後というのはどうしても避けたかったのでカフェテリアにしたのまでは間違ってはいない。だが中華丼はどうやらはずれらしかった。
「……あっ」
「うん?」
渋い顔をしながらまたうずらの卵に挑戦していると、井筒が羽住の後ろへ視線を向け、小さく声を上げた。誰かがいるのかちらちらと見ている。羽住が後ろを振り向くと、見知った青年が少し離れたところに立っていた。
相手も井筒と羽住、二人分の視線に気付いたのか、軽く手を振りながら近づいてきた。
「やあ、井筒、羽住、席良い?」
二人と同じ学部の、水野尊だった。同席を問われてたので、井筒と羽住の荷物を急いで一つのいすにまとめ、水野の分の席を確保する。そこに座った彼がテーブルに置いたお盆には、サラダや唐揚げが盛られた皿が乗っていた。ご飯や味噌汁も乗り、どうやら本格的な夕食のようだった。
とうとうつまむことを諦めたうずらの卵を箸で串刺す。口の中に放り込み咀嚼していると、尊がいただきますと手を合わせて箸を手に取った。
「タケさん、それ夕飯?」
「そうそう。家に帰って作るの面倒で。羽住はどうしたんだ、その格好」
「似合ってるだろー」
「うん、まじめなサラリーマンみたいで良いんじゃないかな」
「でも過労死寸前なんですよね」
「?」
「まだそのネタを引っ張るのかい井筒君」
水野が不思議そうにしていたが、羽住は中華丼をかきこむにとどめた。井筒もそれ以上言うつもりはないらしく残り少ないケーキを崩していく。話が読めない水野は首を傾げていたが、それより羽住の格好に興味の矛先を変えたようだった。
「ところで、羽住はなんでスーツ? 就活?」
「就活、プラスバイトってところ」
「何やってるっけ」
「ホテルのフロントマン」
「おお、格好いい」
「格好いいだろー」
「フロントマンってスーツなんですね」
「そうそう。このままバイト先に行けるから楽だよ。それに、結構良い仕事なんだ」
「給料が?」
「給料も、だね。いろいろ学べるんだ」
実際フロントマンの仕事は就活の上でも何かと役に立っている。スーツも以前から買い溜めていたおかげで換えはいくらでもある上に、丁寧な言葉遣いも習得出来た。そう思うとなかなか良い仕事を選んだものだと、我がことながら胸を張りたくなる。
「それは良いんですけど先輩」
先輩と呼ばれて水野と羽住、二人が井筒の方を向いた。慌てた井筒が羽住先輩、と言い直す。なんだい、と答えると、彼はどこか不安げな顔で壁に掛けられた時計を見ていた。
「羽住先輩のバイトって何時からですか」
「七時からだけど」
「今六時半ですね」
「ああ、うん。……うん?」
「今六時半ですね」
「……」
「正確には六時三十一分だなあ」
井筒とは対照的に、水野がのんびりした声色で時刻を告げた。背筋を冷たいものが滑り落ちたような感覚がして羽住は急いで自分の腕時計を見る。勢いをつけて置いた箸が転がりそうになって慌てて押さえた。銀色のベルトが暖色のライトに不気味に輝いていた。
時刻、六時三十一分。
次の瞬間羽住が考えたのは、また走らなければならないことに対する諦めだった。
※羽住蓮の一年後の話
※フロントマン羽住はサラリーマン羽住へ進化する予定のようです
※フロントマン羽住はサラリーマン羽住へ進化する予定のようです