時刻は午前十時。絵本創作同好会の部室には、今日も今日とて私以外に人はいない。まだ朝も早い。二限の授業前の気だるい空気がここそこで停滞して渦を巻いているかのように、優しい沈黙が会館全体を満たしている。だからいつもこの階の南端から聞こえてくる音楽系サークルのトランペットやサックスなどの金管楽器の練習の賑やかな音も、今は聞こえない。ここにあるのはただひたすらの静寂。
静かだ、ひたすら静かだ。私の思考を邪魔するものは何もない。何もないのだけれども、いや寧ろ何もないからこそ、
「ふう」
私は手に持っていた鉛筆を離して少し息を吐いた。顔を上げて、少しぼーっとする。
何もないからこそ、なぜか、今日は静かなのが身体に堪えた。昨日はちゃんと寝たはずなんだけどなあ、と思いながら椅子を引いて身体を縦に伸ばす。
何もないのは確かにいいことだと思う。疲れた頭を落ち着かせて、ぼんやり何を考えるわけでもない時間は、絵本創作家なんて立場の私には一番大事とさえ言っていいかもしれない。よく、眠りに落ちる前にはインスピレーションが働くから普段出来ない発想が出来る、なんて言われているけれども、それをいうなら呆けている時間も同じだ。目に見えている何か、あるいは実際の物が歪んで見える、というかなりちょっとしたことが、この意識がはっきりしない数秒間のうちに起こる。
例えば今こうしてぼんやりしている間にも視界の端に移り行くカラフルな丸い粒、目を閉じると暗い中できらきら光る星みたいなもの、とかからも、頑張れば絵本の題材を探すことは可能だ、とは思う。色を魚に見立てて、空中で魚が浮遊し移動していく様子か何かを想像してみれば、案外面白い作品が出来るんじゃないかなあ、とか思わなくもない。しかし、理学部の生物学科なんかにいると、そういうちょっとした不思議に妄想を働かせなくなるような変な知識を吹き込まれることもしばしばだ。先の例でいえば、人の視界の端を行き来する光は飛蚊症と呼ばれる病気の初期症状であり、ただ単に目が乾いて普段見えないものが見えているだけ。目を閉じて見える無数の星々は目の裏の神経細胞が見えているだけで、暗い中に走る線があれば、それは瞼の裏の毛細血管が見えてるだけ、らしい。こう考えると、常識って結構つまらない。いや、不思議なことを常識で説明してくれるってことは確かに面白いんだけれども、一方で想像をする楽しみを奪われているなあ、とも思う。
「……って、そんなことよりもだねえ」
私は呟く。呟かざるを得ない。理由は、目の前にある原稿用紙だ。一行目が掠れてやや黒くなっている以外は真っ白で、三行目から先には消しカスやゴミすら付いていない。ちなみにこれはまだ一枚目。つまり先ほどから私は一枚目の一行目で書いたり消したりを繰り返している。消し屑ばかりが、右手のすぐ脇にたまっている。どうしたものか、と手をこまねいている。さて、静かだ。音が聞こえないとはこうも意識するようなことだったかしら、と思う。だから困っているんだよ。これじゃあまるで夏休みの宿題に追われている小学生みたいだけど、実際今の状況はかなりそれに近いからあながち外れでもない。
ネタ切れ、っていうのはこういうことを言うのだと、私は大学四年生になって初めて知ったのでした。
「ねえねえ」
私は誰もいない空間にわざとらしく声を響かせてみせる。頭の半球でびくっと意識が震えるのが分かった。なんて言うか、そんなに露骨に驚いたら仮に別々の身体だったとしても考えていることが筒抜けだよ、カコ。ああでも、私がこう思ったらカコも私のことわかっちゃうのか。
「というわけで、何か面白いことはないかな」
意識の片隅で軽くブイサインをしている私に、カコはたじたじになりながらも話を振られると途端に存在感を小さくしようと頑張っていた。いや、だから、私たちは同じ体を使ってるんだからどんなに意識を小さくしようとしても意味ないんだって。都市伝説で一人かくれんぼっていう遊びがあるって聞いたことがあるけど、私たちの場合は本当に脳内でかくれんぼが出来てしまうのだから凄い。ただし、どんなに隠れようとしても一秒もかからずに見つけられるわけだけれども。
《はあ》
というわけでいつもと同じくあっさり隠れ場所を探し当てられたカコは諦めて私の話を聞いてくれる気になっていたようだ。不機嫌そうにも、で、何だっけ? と尋ねてくる。何だかんだで言うことを聞いてくれるのが、この子の良い所だなあ、と思う。
「だから、ネタがないんだよね。何か面白いことが欲しい」
普段だったらこういうことはカコにも言う前に自分で見つけに行く主義なんだけど、生憎今日はどこも静かだし、変な知識をつけたせいで妄想に耽ることも出来そうにない。あとはもう他人頼み。正直他人に頼るのってあんまり好きじゃないんだけれども、いつも一人で考えているから、今日くらいはいいかなあと思ってしまう。
《っていうか、あたしはあんたにとっての他人じゃないでしょ》
あ、そういえばそうだった。
《おいおい》
確かに、カコは私から見たら他人ではない。別の意識ではあるけれども、他人というと何かが違う。私たちの固有の感覚はいわゆる他人に説明しようとするととても難しいのだけれど、簡単に言えば、同じ体を共有しているから考えていることの大半は一致していてある種の気持ちが私とカコ、どちらの箱に入るのか、だけが違う。だから結論から言えば私が考えられないことは大方カコも考えられないのだ。何せ同じ脳を共有しているのだから、私に出てこないアイデアがカコから出てくるはずがない。どういうわけか、記憶力だけは私とカコで結構な差があるみたいなんだけれども。
「あー」
しかしそうすると結構困ったことになる。私とカコがどういう関係であれ、どういう考え方の違いがあれ、とにかくネタがないということには変わりがないのである。これではやはり原稿用紙の行は進まず絵本が書けないという現状にも変わりがないわけで、たいていのことは気にしない私でもそれはさすがにまずいだろうと思う。カコが私の焦りを感じてむず痒そうにしているのがよくわかるけれども、やはりネタがないという事実には何の変化もないわけで。
どうしよう、と私は思った。周りにネタになりそうなものがないかと見回してみても、壁際は一面本棚で特に変わったものはない。音も聞こえてこないし、部屋に誰かが訪れる様子もない。これは困ったことになったなあ、と私は何とはなしに首を窓外に向けた。文科系サークル会館の窓から見えるのは、丁度まん前にある第一食堂の白い壁面のみ。
しかしふとその下に視線を落としたとき、そこに丁度いいものを見つけた。
「ああ、あれって」
《ん?》
カコの意識も私の見ているほうに向かう。食堂とサークル会館の隘路を縫うようにして歩いているのは、細身の男性と黒毛のラブラトールレトリバーだ。一人と一匹、という言葉が良く似合うほど歩行の速度とテンポが一定で、まさに息がぴったりと言った具合だった。しかし犬を連れて大学構内を歩いているあたり、きっと学内の人ではないと思う。
「最近よく見かける人だ。ペット連れて歩いているから目立つんだよね、すっごく」
《あんたに顔覚えられるって、そりゃあ相当だね》
違うよ、カコ。私はあの人の顔を覚えてるんじゃなくて、犬を連れて歩いているから覚えてるんだよ、と思えば多分伝わるだろうから口にはしないけれども、実際あの人の印象は私の中で結構強かったりする。まだ話したことがないからよくわからないけど、大学構内にいると日に一度は誰かと話しているのをよく見かけるし、来る時間もばらばらだから逆に不自然だし。いつだったか、ベンチであの犬の毛づくろいをしている姿を目撃したときには、普段のキビキビとした歩き方ととてつもないギャップを感じて、見て見ぬ振りなんかしたこともあったような気がする。とにかく興味の対象として見るのにはうってつけというわけだ。
「こんな時間でも散歩してるんだねえ、あの人。」
何気なく呟いて、そういえばあの人、一体何をして食べてるんだろう、と思う。昼食に抜ける正午や夕方五時以降ならともかく、今は公務員やパートタイムで働いている人も職場にいなくてはならない午前十時だ。この時間帯、あの人と同年齢の人を大学構内で見た試しがない、というかそもそも授業中だから外には人影もまばらだ。あの人の他に外で見かけるのは清掃員の皆さんと、空きコマで時間をもてあましている学生だけで、間違ってもペットを連れて散歩に来ている見た目三十代くらいのおじさんなんているはずもない。あのくらいの年齢ならこんな時間にぶらぶらしているよりも、奥さん子供のために汗水たらして働く姿の方が似合ってる。
まあそうは言ってもあの人がこの時間帯に大学をうろついているとう事実は変わりないのだから、ここはやっぱり順当にそれっぽい職業をしている、と考えた方が正しいのだろうな、と思う。
しかし何だろう、この時間帯が空く職業。私みたいに夜勤してれば、確かに翌朝の時間は空くけれど、動物と慣れ親しんで静かに慎ましやかに過ごしているあの人が、人間相手に働く姿はちょっと想像できない。
あ、と、そこで一つ思いつく。
「そうか、じゃあ人間相手じゃないのかもねえ」
例えば動物、例えば植物。世の中にはその他にも人間以外を相手にする職業はたくさんあるわけだし、それに準じて想像していけば、あの人のやってそうな職業は結構たくさん見つかるような気がする。見たところ、あのペットに愛情を注ぎ尽くしているようだから、きっと仕事自体は愛着を持つようなものでもないのかもしれない。例えば、そう、例えば。
「例えば、顧客情報管理、とかかなあ。じゃなきゃ対面式でない事務仕事」
前に一度、バイトの求人誌で結構好条件のデータ打ち込みの仕事を見かけたことがある。在宅、出来高制、一文字当たりいくら、って感じの何の特殊性もないただのタイピングの仕事で、自分の好きな時間に働けて報酬がもらえるのが魅力的だった。ただ、ネットで調べたら「それは確実にブラック。仕事が来る前に初期費用に八万円ほど取られるよ。サクラなので登録は控えましょう」と出てきたので私はそこで手を引いてしまった。事前に調べておいてよかったなあ、と思いながらも、どうしてこんなアルバイトを募集している人がいるのかが疑問だった。その手の会社の人は、詐欺ではないけれど、限りなくグレーゾーンに近い職業と言ったところだろう。上手い話に食いついてきたバイト素人をあっさり釣り上げてしまう。ある意味策士だ。
しかしあの人だったらそういう業界の上役でもうまく勤めていけそうな気がする。話したことがないから詳しいことはわからないけれども、何かこう、窓越しに伝わってくるペットと人への接し方の温度差がまるで熱湯と氷なのだ。上手く言えないが、まるで他人を食ってでも生きていけそうな人、とでも言おうか。学生と話しているときの平然とした態度と、ペットに対しての底知れない愛情の間に恐るべき溝を感じる。おそらく彼の関心は、外側ではなく内側に向かっているのだろう。だからこそ、機械相手の仕事なんてものを想像したんだろうけれども。
しかしまあ、実際本人がどういう職業についていたとしても、それはそれでちょっとその面白いかな、と思う。
《なんでまた》
ああ、暫く黙ってたから私とは別のことを考えているのかと思ったけどやっぱり今の空想、カコにも伝わってたんだね。私が面白いと思うことはカコには伝わらないけど、その面白い光景を想像してみればいいと思う。
「だって、表向きには薄暗いところで人知れずセキュリティを強化したパソコンで個人情報管理なんかやってるのに、その途中でもあの子が膝の上に乗ってきたら多分、仕事放っておいてブラッシング始めるよ、きっと」
想像した場面から今にも音が聞こえてきそうでくすっ、と笑いが漏れる。こっそり仕事をやりに部屋にこもったはいいけど、あの子が後をゆっくりついてくる。あの人はパソコンの電源をつけて渋い顔でパチパチとキーを叩き始めるんだけれども、その途中で視界に黒いラブラドールレトリバーを見つける。あくまでも仕事の様子をあの子に見られたくないあの人は部屋からどうにかしてあの子を追いだそうとするんだけれども、素直に「向こうに行っててくれ」とは何となく言いづらくて、結局仕事を中断する。それで、手近にあった櫛でブラッシング。その様子は動物と人間でありながら、まるで場を弁えた恋人か夫婦のよう。
「何ともシュールでいいじゃない。いわゆる凸凹コンビ、って奴だねえ」
《シュール……いや、その面白さは、あたしにはちょっと良く分からないわ》
カコは何やら考え込んでいるようだけれども、とにかく面白いものは面白い。何より、人を食っても生きられそうなあの人が、ペットの前では頭も上がらないってあたりが。人には向き不向きがあるってことかなあ、なんて考えてみる。まあ所詮、今のは全部、私があの人の印象から導き出した空想にすぎない訳だけどね。
「そうだ!」
そこで私はパチン、と手を合わせた。名案が思いついた。
《何、いきなり》
「今回はあの人たちをモデルに話を描けばいいんだよ。ちょっと聡明な動物と、人前ではクールなのにペットには頭が上がらない飼い主。キャラの色を思いっきり濃くして、モデルが原型留めないくらい捏造すれば、きっといいものができるよ。普段はあまり人を題材にしては書かないけど、こういうのもたまにはアリかなあ、と」
それはまた対象年齢が高くなりそうな絵本ね、とカコが頭の片隅で考えているけれどそうも言ってられない。何せ今はネタ切れ中なのだ。妄想できる余地があれば、火に入る虫すらも顔負けの速度で飛びこんでいくのが創作家ってもの。ネタにできるものは、目に映る不思議な物体であろうと視界の端にわずかに映った通行人であろうと、全部ネタにする。
最初はどうしよう。登場人物は、もっと年齢が低めの方がいいな。いっそのこと、クールであれば少年なんかでもいい。犬は他の動物、例えばハムスターとか癒し系小動物に変えてみたら、より発想が広がるのではないか――
私は机上に投げていた鉛筆を再び手にとって、椅子を引き、原稿用紙の一行目からまた文字を書き始めた。
静かだ、ひたすら静かだ。私の思考を邪魔するものは何もない。何もないのだけれども、いや寧ろ何もないからこそ、
「ふう」
私は手に持っていた鉛筆を離して少し息を吐いた。顔を上げて、少しぼーっとする。
何もないからこそ、なぜか、今日は静かなのが身体に堪えた。昨日はちゃんと寝たはずなんだけどなあ、と思いながら椅子を引いて身体を縦に伸ばす。
何もないのは確かにいいことだと思う。疲れた頭を落ち着かせて、ぼんやり何を考えるわけでもない時間は、絵本創作家なんて立場の私には一番大事とさえ言っていいかもしれない。よく、眠りに落ちる前にはインスピレーションが働くから普段出来ない発想が出来る、なんて言われているけれども、それをいうなら呆けている時間も同じだ。目に見えている何か、あるいは実際の物が歪んで見える、というかなりちょっとしたことが、この意識がはっきりしない数秒間のうちに起こる。
例えば今こうしてぼんやりしている間にも視界の端に移り行くカラフルな丸い粒、目を閉じると暗い中できらきら光る星みたいなもの、とかからも、頑張れば絵本の題材を探すことは可能だ、とは思う。色を魚に見立てて、空中で魚が浮遊し移動していく様子か何かを想像してみれば、案外面白い作品が出来るんじゃないかなあ、とか思わなくもない。しかし、理学部の生物学科なんかにいると、そういうちょっとした不思議に妄想を働かせなくなるような変な知識を吹き込まれることもしばしばだ。先の例でいえば、人の視界の端を行き来する光は飛蚊症と呼ばれる病気の初期症状であり、ただ単に目が乾いて普段見えないものが見えているだけ。目を閉じて見える無数の星々は目の裏の神経細胞が見えているだけで、暗い中に走る線があれば、それは瞼の裏の毛細血管が見えてるだけ、らしい。こう考えると、常識って結構つまらない。いや、不思議なことを常識で説明してくれるってことは確かに面白いんだけれども、一方で想像をする楽しみを奪われているなあ、とも思う。
「……って、そんなことよりもだねえ」
私は呟く。呟かざるを得ない。理由は、目の前にある原稿用紙だ。一行目が掠れてやや黒くなっている以外は真っ白で、三行目から先には消しカスやゴミすら付いていない。ちなみにこれはまだ一枚目。つまり先ほどから私は一枚目の一行目で書いたり消したりを繰り返している。消し屑ばかりが、右手のすぐ脇にたまっている。どうしたものか、と手をこまねいている。さて、静かだ。音が聞こえないとはこうも意識するようなことだったかしら、と思う。だから困っているんだよ。これじゃあまるで夏休みの宿題に追われている小学生みたいだけど、実際今の状況はかなりそれに近いからあながち外れでもない。
ネタ切れ、っていうのはこういうことを言うのだと、私は大学四年生になって初めて知ったのでした。
「ねえねえ」
私は誰もいない空間にわざとらしく声を響かせてみせる。頭の半球でびくっと意識が震えるのが分かった。なんて言うか、そんなに露骨に驚いたら仮に別々の身体だったとしても考えていることが筒抜けだよ、カコ。ああでも、私がこう思ったらカコも私のことわかっちゃうのか。
「というわけで、何か面白いことはないかな」
意識の片隅で軽くブイサインをしている私に、カコはたじたじになりながらも話を振られると途端に存在感を小さくしようと頑張っていた。いや、だから、私たちは同じ体を使ってるんだからどんなに意識を小さくしようとしても意味ないんだって。都市伝説で一人かくれんぼっていう遊びがあるって聞いたことがあるけど、私たちの場合は本当に脳内でかくれんぼが出来てしまうのだから凄い。ただし、どんなに隠れようとしても一秒もかからずに見つけられるわけだけれども。
《はあ》
というわけでいつもと同じくあっさり隠れ場所を探し当てられたカコは諦めて私の話を聞いてくれる気になっていたようだ。不機嫌そうにも、で、何だっけ? と尋ねてくる。何だかんだで言うことを聞いてくれるのが、この子の良い所だなあ、と思う。
「だから、ネタがないんだよね。何か面白いことが欲しい」
普段だったらこういうことはカコにも言う前に自分で見つけに行く主義なんだけど、生憎今日はどこも静かだし、変な知識をつけたせいで妄想に耽ることも出来そうにない。あとはもう他人頼み。正直他人に頼るのってあんまり好きじゃないんだけれども、いつも一人で考えているから、今日くらいはいいかなあと思ってしまう。
《っていうか、あたしはあんたにとっての他人じゃないでしょ》
あ、そういえばそうだった。
《おいおい》
確かに、カコは私から見たら他人ではない。別の意識ではあるけれども、他人というと何かが違う。私たちの固有の感覚はいわゆる他人に説明しようとするととても難しいのだけれど、簡単に言えば、同じ体を共有しているから考えていることの大半は一致していてある種の気持ちが私とカコ、どちらの箱に入るのか、だけが違う。だから結論から言えば私が考えられないことは大方カコも考えられないのだ。何せ同じ脳を共有しているのだから、私に出てこないアイデアがカコから出てくるはずがない。どういうわけか、記憶力だけは私とカコで結構な差があるみたいなんだけれども。
「あー」
しかしそうすると結構困ったことになる。私とカコがどういう関係であれ、どういう考え方の違いがあれ、とにかくネタがないということには変わりがないのである。これではやはり原稿用紙の行は進まず絵本が書けないという現状にも変わりがないわけで、たいていのことは気にしない私でもそれはさすがにまずいだろうと思う。カコが私の焦りを感じてむず痒そうにしているのがよくわかるけれども、やはりネタがないという事実には何の変化もないわけで。
どうしよう、と私は思った。周りにネタになりそうなものがないかと見回してみても、壁際は一面本棚で特に変わったものはない。音も聞こえてこないし、部屋に誰かが訪れる様子もない。これは困ったことになったなあ、と私は何とはなしに首を窓外に向けた。文科系サークル会館の窓から見えるのは、丁度まん前にある第一食堂の白い壁面のみ。
しかしふとその下に視線を落としたとき、そこに丁度いいものを見つけた。
「ああ、あれって」
《ん?》
カコの意識も私の見ているほうに向かう。食堂とサークル会館の隘路を縫うようにして歩いているのは、細身の男性と黒毛のラブラトールレトリバーだ。一人と一匹、という言葉が良く似合うほど歩行の速度とテンポが一定で、まさに息がぴったりと言った具合だった。しかし犬を連れて大学構内を歩いているあたり、きっと学内の人ではないと思う。
「最近よく見かける人だ。ペット連れて歩いているから目立つんだよね、すっごく」
《あんたに顔覚えられるって、そりゃあ相当だね》
違うよ、カコ。私はあの人の顔を覚えてるんじゃなくて、犬を連れて歩いているから覚えてるんだよ、と思えば多分伝わるだろうから口にはしないけれども、実際あの人の印象は私の中で結構強かったりする。まだ話したことがないからよくわからないけど、大学構内にいると日に一度は誰かと話しているのをよく見かけるし、来る時間もばらばらだから逆に不自然だし。いつだったか、ベンチであの犬の毛づくろいをしている姿を目撃したときには、普段のキビキビとした歩き方ととてつもないギャップを感じて、見て見ぬ振りなんかしたこともあったような気がする。とにかく興味の対象として見るのにはうってつけというわけだ。
「こんな時間でも散歩してるんだねえ、あの人。」
何気なく呟いて、そういえばあの人、一体何をして食べてるんだろう、と思う。昼食に抜ける正午や夕方五時以降ならともかく、今は公務員やパートタイムで働いている人も職場にいなくてはならない午前十時だ。この時間帯、あの人と同年齢の人を大学構内で見た試しがない、というかそもそも授業中だから外には人影もまばらだ。あの人の他に外で見かけるのは清掃員の皆さんと、空きコマで時間をもてあましている学生だけで、間違ってもペットを連れて散歩に来ている見た目三十代くらいのおじさんなんているはずもない。あのくらいの年齢ならこんな時間にぶらぶらしているよりも、奥さん子供のために汗水たらして働く姿の方が似合ってる。
まあそうは言ってもあの人がこの時間帯に大学をうろついているとう事実は変わりないのだから、ここはやっぱり順当にそれっぽい職業をしている、と考えた方が正しいのだろうな、と思う。
しかし何だろう、この時間帯が空く職業。私みたいに夜勤してれば、確かに翌朝の時間は空くけれど、動物と慣れ親しんで静かに慎ましやかに過ごしているあの人が、人間相手に働く姿はちょっと想像できない。
あ、と、そこで一つ思いつく。
「そうか、じゃあ人間相手じゃないのかもねえ」
例えば動物、例えば植物。世の中にはその他にも人間以外を相手にする職業はたくさんあるわけだし、それに準じて想像していけば、あの人のやってそうな職業は結構たくさん見つかるような気がする。見たところ、あのペットに愛情を注ぎ尽くしているようだから、きっと仕事自体は愛着を持つようなものでもないのかもしれない。例えば、そう、例えば。
「例えば、顧客情報管理、とかかなあ。じゃなきゃ対面式でない事務仕事」
前に一度、バイトの求人誌で結構好条件のデータ打ち込みの仕事を見かけたことがある。在宅、出来高制、一文字当たりいくら、って感じの何の特殊性もないただのタイピングの仕事で、自分の好きな時間に働けて報酬がもらえるのが魅力的だった。ただ、ネットで調べたら「それは確実にブラック。仕事が来る前に初期費用に八万円ほど取られるよ。サクラなので登録は控えましょう」と出てきたので私はそこで手を引いてしまった。事前に調べておいてよかったなあ、と思いながらも、どうしてこんなアルバイトを募集している人がいるのかが疑問だった。その手の会社の人は、詐欺ではないけれど、限りなくグレーゾーンに近い職業と言ったところだろう。上手い話に食いついてきたバイト素人をあっさり釣り上げてしまう。ある意味策士だ。
しかしあの人だったらそういう業界の上役でもうまく勤めていけそうな気がする。話したことがないから詳しいことはわからないけれども、何かこう、窓越しに伝わってくるペットと人への接し方の温度差がまるで熱湯と氷なのだ。上手く言えないが、まるで他人を食ってでも生きていけそうな人、とでも言おうか。学生と話しているときの平然とした態度と、ペットに対しての底知れない愛情の間に恐るべき溝を感じる。おそらく彼の関心は、外側ではなく内側に向かっているのだろう。だからこそ、機械相手の仕事なんてものを想像したんだろうけれども。
しかしまあ、実際本人がどういう職業についていたとしても、それはそれでちょっとその面白いかな、と思う。
《なんでまた》
ああ、暫く黙ってたから私とは別のことを考えているのかと思ったけどやっぱり今の空想、カコにも伝わってたんだね。私が面白いと思うことはカコには伝わらないけど、その面白い光景を想像してみればいいと思う。
「だって、表向きには薄暗いところで人知れずセキュリティを強化したパソコンで個人情報管理なんかやってるのに、その途中でもあの子が膝の上に乗ってきたら多分、仕事放っておいてブラッシング始めるよ、きっと」
想像した場面から今にも音が聞こえてきそうでくすっ、と笑いが漏れる。こっそり仕事をやりに部屋にこもったはいいけど、あの子が後をゆっくりついてくる。あの人はパソコンの電源をつけて渋い顔でパチパチとキーを叩き始めるんだけれども、その途中で視界に黒いラブラドールレトリバーを見つける。あくまでも仕事の様子をあの子に見られたくないあの人は部屋からどうにかしてあの子を追いだそうとするんだけれども、素直に「向こうに行っててくれ」とは何となく言いづらくて、結局仕事を中断する。それで、手近にあった櫛でブラッシング。その様子は動物と人間でありながら、まるで場を弁えた恋人か夫婦のよう。
「何ともシュールでいいじゃない。いわゆる凸凹コンビ、って奴だねえ」
《シュール……いや、その面白さは、あたしにはちょっと良く分からないわ》
カコは何やら考え込んでいるようだけれども、とにかく面白いものは面白い。何より、人を食っても生きられそうなあの人が、ペットの前では頭も上がらないってあたりが。人には向き不向きがあるってことかなあ、なんて考えてみる。まあ所詮、今のは全部、私があの人の印象から導き出した空想にすぎない訳だけどね。
「そうだ!」
そこで私はパチン、と手を合わせた。名案が思いついた。
《何、いきなり》
「今回はあの人たちをモデルに話を描けばいいんだよ。ちょっと聡明な動物と、人前ではクールなのにペットには頭が上がらない飼い主。キャラの色を思いっきり濃くして、モデルが原型留めないくらい捏造すれば、きっといいものができるよ。普段はあまり人を題材にしては書かないけど、こういうのもたまにはアリかなあ、と」
それはまた対象年齢が高くなりそうな絵本ね、とカコが頭の片隅で考えているけれどそうも言ってられない。何せ今はネタ切れ中なのだ。妄想できる余地があれば、火に入る虫すらも顔負けの速度で飛びこんでいくのが創作家ってもの。ネタにできるものは、目に映る不思議な物体であろうと視界の端にわずかに映った通行人であろうと、全部ネタにする。
最初はどうしよう。登場人物は、もっと年齢が低めの方がいいな。いっそのこと、クールであれば少年なんかでもいい。犬は他の動物、例えばハムスターとか癒し系小動物に変えてみたら、より発想が広がるのではないか――
私は机上に投げていた鉛筆を再び手にとって、椅子を引き、原稿用紙の一行目からまた文字を書き始めた。
*
てことで、倉沢加奈子の予想はアブナイ顧客情報管理者。
事務仕事でもいいけど、やはり久賀さんは危険な仕事の方が合ってそうな気がするってことで。
久賀さんとの対談は、いつか書くであろう本編の方に回します。
事務仕事でもいいけど、やはり久賀さんは危険な仕事の方が合ってそうな気がするってことで。
久賀さんとの対談は、いつか書くであろう本編の方に回します。