寒いのは嫌いだが、暑いのも嫌いだ。ベンチの上でぐったりしながら仰いだ頭上は気持ち悪いほどの青空だ。木の葉の合間から差し込む光が優しければ何の問題もないが、夏真っ盛りの今、地上の人間への思いやりなど一切無い。ようするに暑い。
夏休みに入った大学構内は人通りが少ないようで、その実多い。特に図書館前は自転車が目がくらむほど並んでいる。おそらく図書館の冷房目当ての学生達だろう。その中に入ろうとした羽住が学生証という大切なものを忘れたことに気付いたのは一時間前だ。そのまま帰る気にもなれず、ぐだぐだと外にいたらあっという間に一時間経っていた。
ポロシャツもカーゴパンツも汗で気持ち悪く濡れているような錯覚を覚えた。昨日買ったばかりのシルバーのブレスレットが重い。体の重心が定まらない。頭が痛い、と誰に言うでもなく羽住は呟いた。そう、頭痛がした。
まさかな、と嫌な予感がした。こんな炎天下に、いくら木陰といえどずっといるのは自殺行為以外の何物でもない。水分摂取はしていない。頭痛を自覚すると、今度は眩暈にまで気付いてしまった。体が重い。座って背筋を伸ばしているのでさえ辛くなってきた。仕方なくベンチの上に寝転がる体勢を取った。
青空が見える。
「…………あーあ」
ようするに、羽住は熱中症に罹ってしまったようだった。
夏休みに入った大学構内は人通りが少ないようで、その実多い。特に図書館前は自転車が目がくらむほど並んでいる。おそらく図書館の冷房目当ての学生達だろう。その中に入ろうとした羽住が学生証という大切なものを忘れたことに気付いたのは一時間前だ。そのまま帰る気にもなれず、ぐだぐだと外にいたらあっという間に一時間経っていた。
ポロシャツもカーゴパンツも汗で気持ち悪く濡れているような錯覚を覚えた。昨日買ったばかりのシルバーのブレスレットが重い。体の重心が定まらない。頭が痛い、と誰に言うでもなく羽住は呟いた。そう、頭痛がした。
まさかな、と嫌な予感がした。こんな炎天下に、いくら木陰といえどずっといるのは自殺行為以外の何物でもない。水分摂取はしていない。頭痛を自覚すると、今度は眩暈にまで気付いてしまった。体が重い。座って背筋を伸ばしているのでさえ辛くなってきた。仕方なくベンチの上に寝転がる体勢を取った。
青空が見える。
「…………あーあ」
ようするに、羽住は熱中症に罹ってしまったようだった。
これは救急車でも呼ぶべきなのだろうかと考えていたところで、救い主は簡単に現れた。
「こんなところでどうした」
「あ」
黒いラブラドールレトリーバーを連れた、モノトーンの青年だった。久賀と名乗る細身の青年は訝しげに羽住を見ている。彼の横では八千代さんというラブラドールレトリーバーが、黒い割には羽住とは対照的な涼しげな顔をしているように思えた。
「どうやら熱中症のようです」
「大丈夫なのか」
「あんまり大丈夫じゃないです。すいません、水買って来ていただけたりします?」
知り合いとはいえあまり親しくない人間に頼むのは気が引けたが、この際どうしようもなかった。想像していたよりもあっさりと久賀は了承し、近くの自販機からスポーツドリンクを買ってきてくれた。感謝の言葉と共に受け取り、なんとか蓋を開けて一口二口と飲む。体に水分が染み渡るような感覚がした。頭痛も気怠さもまだ治る兆しはないが、おそらく水分摂取さえしておけばこれ以上酷くはならないだろう、と羽住は結論づけた。
久賀はそんな羽住をいたって普通な目で見ていた。無駄に心配されるよりかは気分が楽だった。看病してくれる人がいればそれはそれで嬉しいが、その役目はどちらかというと可愛らしい女性にして欲しいものである。男に看病やら心配やらされてもあまり嬉しくない、というのが正直なところだ。
「久賀さんは、こんな暑い日に散歩ですか?」
ペットボトルの中身が半分ほどになったところで、ようやく羽住の思考能力が戻り始めた。上半身を起こし、木陰に八千代さんと寄り添うように立つ久賀に問いかける。一緒にいると感覚まで似るのだろうか、久賀は暑さをまったく気に掛けていないような表情だった。
「いや、仕事帰りだ」
「へ?」
「といっても、家に帰る前に少し散歩をしようと思って大学に来たから、やはり散歩になるのか」
「あ、いや、仕事帰りですか」
狼狽したような声が出た。気付けば大学内を散歩している彼を、羽住は勝手に仕事をしていないと認識していたのだ。久賀が奇妙な物を見る目で羽住を見ていたので、慌てて驚きの表情を取り繕って消した。
しかし、久賀が仕事をしているとは夢にも思っていなかった。勝手な想像だったが、彼は仕事をしなくても生きていける環境にいるような気がしていたのだ。むしろ八千代さんがいればそれで生活できるんじゃないだろうかとも考えたがそれはあまりにも酷すぎるので考えなかったことにした。だが、熱中症に罹った状態でまともなことを言えるはずがない。口が滑った。
「てっきり、仕事してないかと思ってまし……あ、いや、なんでもないです」
「…………」
「すみません。……でも、いつも散歩してるので、仕事してるのかな、と」
はぐらかすようにペットボトルに口をつけた。あっという間に生ぬるくなったスポーツドリンクはあまり美味しくない。
「これでも仕事はしている」
「どんな職業か伺っても?」
「あまり人に言えた職業ではないな」
「ではヒントをお願いします」
「クイズじゃないんだが」
「そこをなんとか」
しばらく久賀と羽住はお互いを見つめ合っていたが、ふ、と息を吐いて久賀が視線を逸らした。おそらく八千代さんを見たのだろう。八千代さんの尻尾がぱたぱた跳ねていて、なんとなく気分が和む。またスポーツドリンクを飲む。残りは四分の一と言ったところだろうか。
沈黙は数秒だった。
「……週何度か会社へ、基本的に家で出来る、人に言えた職業ではない。まあ、こんなところだ」
それでもヒントを出してくれる辺り、久賀も良い人である、と羽住は思う。
出されたヒントを頭の中で反芻する。頭痛はすっかり忘れていた。家で出来る、週何度か行くだけで良い。自宅で出来る仕事、と頭の中で言い換える。だが会社にも行かなければいけないのだからまるっきり在宅系ではないだろう。まるで作家のようだと思った。そう考えると久賀という人間に似合うように思えてくるのだから人間の思考はいい加減だ。熱中症のせいだと自分の短絡的な思考の責任を押しつけとりあえず考え続ける。おそらく一番重要だろう、人に言えた職業ではないという条件を付け加える。
真っ先に思い浮かんだのは、
「ゴーストライターですかね」
「?」
不思議そうな目と合った。
「や、俺の予想です」
「ほう」
「えっと、答え合わせをお願いしても」
だが、久賀は肩を竦めて見せた。答える気はない、ということらしい。クイズ番組で答えはCMの後に発表、と言われた時の気分になった。だがこの場合、CMが永遠に続く可能性もあるのだからどうしようもない気分である。思わず口を尖らせた。
そんな子供らしい表情を作ったところで、彼が答えてくれることはないだろうというのは薄々感じ取っていた。人の事情にあまり深く突っ込むのは良くないと経験が物語っている。残っていたスポーツドリンクを飲み干して、羽住はゆっくり立ち上がった。思考で忘れていたが、頭痛と体の倦怠感はまだ残っている。ペットボトル一本分ではまだ水分は足りないようだが体は動く。飲み物を買って、さっさと家に帰るのが得策だろう、と結論づけた。
木陰に佇む久賀と八千代さんにもう一度スポーツドリンクの礼を言い、羽住は帰宅することを告げた。
「教える気になったら、是非教えてください」
「その気になったらな」
一応言っておいたが、はたしてその時が来るのだろうか。ふらり、と一歩踏み出すその背に、お大事に、と涼やかな声がかけられた。振り向くと彼と彼女も羽住に背を向け歩き出していた。
ため息と共に頭上を仰ぐ。空は青い。肌を焼く日差しは穏やかさの欠片もなく、羽住は痛む頭と久賀の職業という疑問を抱えながら帰路へついた。
「こんなところでどうした」
「あ」
黒いラブラドールレトリーバーを連れた、モノトーンの青年だった。久賀と名乗る細身の青年は訝しげに羽住を見ている。彼の横では八千代さんというラブラドールレトリーバーが、黒い割には羽住とは対照的な涼しげな顔をしているように思えた。
「どうやら熱中症のようです」
「大丈夫なのか」
「あんまり大丈夫じゃないです。すいません、水買って来ていただけたりします?」
知り合いとはいえあまり親しくない人間に頼むのは気が引けたが、この際どうしようもなかった。想像していたよりもあっさりと久賀は了承し、近くの自販機からスポーツドリンクを買ってきてくれた。感謝の言葉と共に受け取り、なんとか蓋を開けて一口二口と飲む。体に水分が染み渡るような感覚がした。頭痛も気怠さもまだ治る兆しはないが、おそらく水分摂取さえしておけばこれ以上酷くはならないだろう、と羽住は結論づけた。
久賀はそんな羽住をいたって普通な目で見ていた。無駄に心配されるよりかは気分が楽だった。看病してくれる人がいればそれはそれで嬉しいが、その役目はどちらかというと可愛らしい女性にして欲しいものである。男に看病やら心配やらされてもあまり嬉しくない、というのが正直なところだ。
「久賀さんは、こんな暑い日に散歩ですか?」
ペットボトルの中身が半分ほどになったところで、ようやく羽住の思考能力が戻り始めた。上半身を起こし、木陰に八千代さんと寄り添うように立つ久賀に問いかける。一緒にいると感覚まで似るのだろうか、久賀は暑さをまったく気に掛けていないような表情だった。
「いや、仕事帰りだ」
「へ?」
「といっても、家に帰る前に少し散歩をしようと思って大学に来たから、やはり散歩になるのか」
「あ、いや、仕事帰りですか」
狼狽したような声が出た。気付けば大学内を散歩している彼を、羽住は勝手に仕事をしていないと認識していたのだ。久賀が奇妙な物を見る目で羽住を見ていたので、慌てて驚きの表情を取り繕って消した。
しかし、久賀が仕事をしているとは夢にも思っていなかった。勝手な想像だったが、彼は仕事をしなくても生きていける環境にいるような気がしていたのだ。むしろ八千代さんがいればそれで生活できるんじゃないだろうかとも考えたがそれはあまりにも酷すぎるので考えなかったことにした。だが、熱中症に罹った状態でまともなことを言えるはずがない。口が滑った。
「てっきり、仕事してないかと思ってまし……あ、いや、なんでもないです」
「…………」
「すみません。……でも、いつも散歩してるので、仕事してるのかな、と」
はぐらかすようにペットボトルに口をつけた。あっという間に生ぬるくなったスポーツドリンクはあまり美味しくない。
「これでも仕事はしている」
「どんな職業か伺っても?」
「あまり人に言えた職業ではないな」
「ではヒントをお願いします」
「クイズじゃないんだが」
「そこをなんとか」
しばらく久賀と羽住はお互いを見つめ合っていたが、ふ、と息を吐いて久賀が視線を逸らした。おそらく八千代さんを見たのだろう。八千代さんの尻尾がぱたぱた跳ねていて、なんとなく気分が和む。またスポーツドリンクを飲む。残りは四分の一と言ったところだろうか。
沈黙は数秒だった。
「……週何度か会社へ、基本的に家で出来る、人に言えた職業ではない。まあ、こんなところだ」
それでもヒントを出してくれる辺り、久賀も良い人である、と羽住は思う。
出されたヒントを頭の中で反芻する。頭痛はすっかり忘れていた。家で出来る、週何度か行くだけで良い。自宅で出来る仕事、と頭の中で言い換える。だが会社にも行かなければいけないのだからまるっきり在宅系ではないだろう。まるで作家のようだと思った。そう考えると久賀という人間に似合うように思えてくるのだから人間の思考はいい加減だ。熱中症のせいだと自分の短絡的な思考の責任を押しつけとりあえず考え続ける。おそらく一番重要だろう、人に言えた職業ではないという条件を付け加える。
真っ先に思い浮かんだのは、
「ゴーストライターですかね」
「?」
不思議そうな目と合った。
「や、俺の予想です」
「ほう」
「えっと、答え合わせをお願いしても」
だが、久賀は肩を竦めて見せた。答える気はない、ということらしい。クイズ番組で答えはCMの後に発表、と言われた時の気分になった。だがこの場合、CMが永遠に続く可能性もあるのだからどうしようもない気分である。思わず口を尖らせた。
そんな子供らしい表情を作ったところで、彼が答えてくれることはないだろうというのは薄々感じ取っていた。人の事情にあまり深く突っ込むのは良くないと経験が物語っている。残っていたスポーツドリンクを飲み干して、羽住はゆっくり立ち上がった。思考で忘れていたが、頭痛と体の倦怠感はまだ残っている。ペットボトル一本分ではまだ水分は足りないようだが体は動く。飲み物を買って、さっさと家に帰るのが得策だろう、と結論づけた。
木陰に佇む久賀と八千代さんにもう一度スポーツドリンクの礼を言い、羽住は帰宅することを告げた。
「教える気になったら、是非教えてください」
「その気になったらな」
一応言っておいたが、はたしてその時が来るのだろうか。ふらり、と一歩踏み出すその背に、お大事に、と涼やかな声がかけられた。振り向くと彼と彼女も羽住に背を向け歩き出していた。
ため息と共に頭上を仰ぐ。空は青い。肌を焼く日差しは穏やかさの欠片もなく、羽住は痛む頭と久賀の職業という疑問を抱えながら帰路へついた。
※羽住蓮の予想は「ゴーストライター」ということで。