「あなた様はベルウゼブ領の領主様、「滅殺炎(インフェルノ)」の紫苑様では御座いませぬか。」
おとなしそうな少女が放ったその言葉がよもや僕に向けられたものだとは夢にも思わなかった。
大学通りの銀杏並木が色付きはじめた頃。人々は白い息を寒々しく吐きながら往来を行き来していた。僕はその日講義を終えるとさっさと帰宅しようと大学構内を歩いていた。予定が立て込んでいたわけではない。大学の周辺には肩を寄せ合い幸せそうにしているアベック共が数あまた存在する。そういった類を目にすると甘酸っぱいを通り越した粘っこいどろりとした不健康な塊がこみ上げてくる。ただでさえ不養生なやもめ暮らしに追い討ちをかけられてはタマラナイ、だから僕は己の身体をいたわって帰宅するのだ。決して悔しくて逃げたわけではない。
「何をそんなに急いどるのか。」
突然の声にはっとして振り返ると茶髪ボブカットの女性が不審そうに僕の顔をのぞいていた。
「ははあ、その慌てよう、わかった白馬のお姫様と逢引のご予定かね。」
「馬鹿じゃないですか。」
同じサークルに所属する志村佳子先輩はフムム、とうなった。
「馬鹿とは生意気な坊やだこと。せっかくこの心優しき先輩がいい話を持ってきたというのに。」
「いい話?」
「おう、今日は特別に晩ご飯を奢ってやる。」
「ふむ、却下。」
「ひゃいっ!?」
彼女が素っ頓狂な声を上げると小さな顔に掛けていたあかぶち眼鏡が激しくずり落ちた。
「どうせまた怪しい店を見つけたから僕をゲテモンの毒見に使おうって腹でしょう。そうはいきませんよ。」
僕は彼女のそうした悪行に悩まされていた。この間なぞプリンのアンチョビ風筑前煮というエキセントリックな食い物を食わされ一週間トイレに篭城する羽目になったのであった。
「失敬な、ちゃんとしたもんじゃ焼き屋だよ。」
「ちゃんとした、ねぇ・・・。まあ、まともかどうかはとにかく何で一人で行かないんすか?」
「それはだね、その店は男女2名様でご来店すると1時間に限り食べ放題3000円のところを1000円にするという素敵なサービスが存在するのだ。」
その素敵なサービスを饒舌に語る彼女の顔はなぜか誇らしげであった。
「へえ・・。でも相手の男は俺じゃなくてもいいのでは。暇な野郎ならサークルにごろごろころがっているじゃないすか。」
「馬鹿言えうちのサークルは君を除いてみな彼女持ちだ。私とのディナーをもんじゃデートに間違われたら事だよ。」
君を除いて、という部分は癇に障ったが奢ってくれるということなので(しかもまともな店を)僕はほいほいとついていくことにした。
そこがゲテモノ料理の皿の上より暗い深淵だったとも知らずに・・・。
おとなしそうな少女が放ったその言葉がよもや僕に向けられたものだとは夢にも思わなかった。
大学通りの銀杏並木が色付きはじめた頃。人々は白い息を寒々しく吐きながら往来を行き来していた。僕はその日講義を終えるとさっさと帰宅しようと大学構内を歩いていた。予定が立て込んでいたわけではない。大学の周辺には肩を寄せ合い幸せそうにしているアベック共が数あまた存在する。そういった類を目にすると甘酸っぱいを通り越した粘っこいどろりとした不健康な塊がこみ上げてくる。ただでさえ不養生なやもめ暮らしに追い討ちをかけられてはタマラナイ、だから僕は己の身体をいたわって帰宅するのだ。決して悔しくて逃げたわけではない。
「何をそんなに急いどるのか。」
突然の声にはっとして振り返ると茶髪ボブカットの女性が不審そうに僕の顔をのぞいていた。
「ははあ、その慌てよう、わかった白馬のお姫様と逢引のご予定かね。」
「馬鹿じゃないですか。」
同じサークルに所属する志村佳子先輩はフムム、とうなった。
「馬鹿とは生意気な坊やだこと。せっかくこの心優しき先輩がいい話を持ってきたというのに。」
「いい話?」
「おう、今日は特別に晩ご飯を奢ってやる。」
「ふむ、却下。」
「ひゃいっ!?」
彼女が素っ頓狂な声を上げると小さな顔に掛けていたあかぶち眼鏡が激しくずり落ちた。
「どうせまた怪しい店を見つけたから僕をゲテモンの毒見に使おうって腹でしょう。そうはいきませんよ。」
僕は彼女のそうした悪行に悩まされていた。この間なぞプリンのアンチョビ風筑前煮というエキセントリックな食い物を食わされ一週間トイレに篭城する羽目になったのであった。
「失敬な、ちゃんとしたもんじゃ焼き屋だよ。」
「ちゃんとした、ねぇ・・・。まあ、まともかどうかはとにかく何で一人で行かないんすか?」
「それはだね、その店は男女2名様でご来店すると1時間に限り食べ放題3000円のところを1000円にするという素敵なサービスが存在するのだ。」
その素敵なサービスを饒舌に語る彼女の顔はなぜか誇らしげであった。
「へえ・・。でも相手の男は俺じゃなくてもいいのでは。暇な野郎ならサークルにごろごろころがっているじゃないすか。」
「馬鹿言えうちのサークルは君を除いてみな彼女持ちだ。私とのディナーをもんじゃデートに間違われたら事だよ。」
君を除いて、という部分は癇に障ったが奢ってくれるということなので(しかもまともな店を)僕はほいほいとついていくことにした。
そこがゲテモノ料理の皿の上より暗い深淵だったとも知らずに・・・。
地上編 完 銀の貴公子紫苑の館編へ続く