季節は梅雨である。梅雨といえばじめじめとしてアンニュイな気持ちになりやすそうなものだが、
意外にもハルヒはいつも通りのハイテンションで、春先の佐々木をめぐる騒動以来、古泉のアルバ
イトもトンと減っているようである。そんなこんなで、世界の平穏を気にすることもなく、いつも
どおりハルヒにつれまわされて体力と財布の重量だけが減っていくなか、束の間の平穏を謳歌して
いた日曜日のことである。ちょっとした事件が起こった。
意外にもハルヒはいつも通りのハイテンションで、春先の佐々木をめぐる騒動以来、古泉のアルバ
イトもトンと減っているようである。そんなこんなで、世界の平穏を気にすることもなく、いつも
どおりハルヒにつれまわされて体力と財布の重量だけが減っていくなか、束の間の平穏を謳歌して
いた日曜日のことである。ちょっとした事件が起こった。
いつものように部屋でごろごろと漫画を読んでいた俺に、妹が猪のごとく突撃してきた。
「ねぇ、ねぇ、キョンくん。明日学校でね。そうごうがくしゅうっていうので外国の人と日本の文
化の勉強をするの。」
学習指導要綱が代わったことにより総合的な学習が強化されたらしいが、外国人と触れ合うとはほ
んのちょっと前じゃ考えられなかったことである。あの頃は、出島などの一部を除いて外国人がい
るところなどは存在しなかった。
「そうか。楽しんでこいよ。」
俺は大いなる平穏を維持するためにも受け流すことにした。うむ、ナイスな判断だ、俺。
「うんっ。それでね。みんな一人一人が日本っぽいものを持っていって紹介するんだって。だから
ね。あたし剣玉にしたのっ。」
「ほう、そうかそうか。それは何よりだ。しかし、家に剣玉なんてあったか。」
「ないよ。だからキョンくん買ってき」
「断る。」
妹が言い終わる前に返事をした。何が悲しくてせっかくの休日に剣玉を買いに行かなければならな
いのだろうか。日本っぽいものなら、俺が十秒ほどで水墨画を描いてやるからそれをもって行きな
さい。俺の水墨画は凄いぞ。
観念的過ぎて本人にも何が書いてあるんだか分からないんだからな。
「えー、それじゃあダメだよう。さっきテレビで剣玉やってたんだもん。」
つまり、テレビでやってた剣玉に感化されてやりたくなったわけだな。これはいよいよもって、行
く必要がなくなってきたぞ。
「それにね。お母さんからもうお金貰ってきたの。キョンくんにもお駄賃でこのきれいなお札を」
「行かせて貰おう。」
俺は再度、台詞の途中で割り込んだ。妹の手には剣玉代と見られる野口秀夫さんと、俺へのお駄賃
と見られる源氏物語の絵巻物が握られていた。
その後、任務を果たすべく駅前まで出張ってきた俺であったが、すぐに窮地に立たされる事にな
った。剣玉が売ってないのである。むぅ、どうすべきか。このまま帰ったのでは紫式部さんは返却
されてしまうだろうし、かといって電車に乗って都会まで出たのでは、俺の取り分が減ってしまう。
そもそも剣玉なんてどこに売ってるんだ。やはり、おもちゃ売り場しかないだろうか。んー、んっ、
待てよ。大きめの100円ショップになら売ってるんじゃないのか。あそこなら値段も100円で
電車賃を考慮に入れても足が出ることはない。うむ、決定だ。膳は急げとばかりに、俺は電車に揺
られホームタウンを後にした。これがトラブルのもとになるとも知らずにな。
「ねぇ、ねぇ、キョンくん。明日学校でね。そうごうがくしゅうっていうので外国の人と日本の文
化の勉強をするの。」
学習指導要綱が代わったことにより総合的な学習が強化されたらしいが、外国人と触れ合うとはほ
んのちょっと前じゃ考えられなかったことである。あの頃は、出島などの一部を除いて外国人がい
るところなどは存在しなかった。
「そうか。楽しんでこいよ。」
俺は大いなる平穏を維持するためにも受け流すことにした。うむ、ナイスな判断だ、俺。
「うんっ。それでね。みんな一人一人が日本っぽいものを持っていって紹介するんだって。だから
ね。あたし剣玉にしたのっ。」
「ほう、そうかそうか。それは何よりだ。しかし、家に剣玉なんてあったか。」
「ないよ。だからキョンくん買ってき」
「断る。」
妹が言い終わる前に返事をした。何が悲しくてせっかくの休日に剣玉を買いに行かなければならな
いのだろうか。日本っぽいものなら、俺が十秒ほどで水墨画を描いてやるからそれをもって行きな
さい。俺の水墨画は凄いぞ。
観念的過ぎて本人にも何が書いてあるんだか分からないんだからな。
「えー、それじゃあダメだよう。さっきテレビで剣玉やってたんだもん。」
つまり、テレビでやってた剣玉に感化されてやりたくなったわけだな。これはいよいよもって、行
く必要がなくなってきたぞ。
「それにね。お母さんからもうお金貰ってきたの。キョンくんにもお駄賃でこのきれいなお札を」
「行かせて貰おう。」
俺は再度、台詞の途中で割り込んだ。妹の手には剣玉代と見られる野口秀夫さんと、俺へのお駄賃
と見られる源氏物語の絵巻物が握られていた。
その後、任務を果たすべく駅前まで出張ってきた俺であったが、すぐに窮地に立たされる事にな
った。剣玉が売ってないのである。むぅ、どうすべきか。このまま帰ったのでは紫式部さんは返却
されてしまうだろうし、かといって電車に乗って都会まで出たのでは、俺の取り分が減ってしまう。
そもそも剣玉なんてどこに売ってるんだ。やはり、おもちゃ売り場しかないだろうか。んー、んっ、
待てよ。大きめの100円ショップになら売ってるんじゃないのか。あそこなら値段も100円で
電車賃を考慮に入れても足が出ることはない。うむ、決定だ。膳は急げとばかりに、俺は電車に揺
られホームタウンを後にした。これがトラブルのもとになるとも知らずにな。
大都会に着いた後はとんとん拍子に話が進んだ。100円ショップも剣玉もすぐに見つかり、店
員さんのさわやかな笑顔にも癒されながら、晴れやかな気持ちでお店を後にした。ルンルン気分で、
柄にもなく口笛でも吹いてやろうかと思いつつ歩いていると、突然、雨が降ってきた。サムデイイ
ンザレインなんてものではなく、サムデイインザスコールだ。突如として振り出した大雨は、あた
ふたとしている俺の服をあっという間にびしょびしょにし、普段のさえない俺を水も滴るいい男へ
と変身させてしまった。って冗談を言っている場合ではない。早いとこ雨宿りできる場所を見つけ
なくては。あたりを見回すとどこの店もびしょびしょのまま入れるような雰囲気ではなく、雨宿り
は出来そうにない。ええい、どこかないのか。俺は走りながらも懸命にあたりを捜索した。普段の
不思議探索でも、このくらい真剣に行えば何か見つかっていたかもしれない。何せこっちにはハル
ヒがいるんだからな。俺の弛まぬ努力の結果、一箇所だけ雨宿りが出来そうな場所を見つけた。そ
の店は歩道の方向にも屋根がせり出しており、雨の大部分はしのげることだろう。はやる気持ちを
押さえつつ、ダッシュでその店まで行き、びしょ濡れの髪を掻き揚げてショーウィンドウを覗いた。
ランジェリーショップだった。幸いにして店内に客はいないようだが、店員さんの目線が痛い。い
や、向こうも事情はわかっているといった様子だが、そのためかやや笑みをこぼしており猛烈に恥
ずかしい。思春期のうぶな男子生徒には拷問のような仕打ちだ。もしもこの姿を知り合いに見られ
ようものなら生き地獄だ。やれやれ、泣きっ面に蜂とはこのことだな。
員さんのさわやかな笑顔にも癒されながら、晴れやかな気持ちでお店を後にした。ルンルン気分で、
柄にもなく口笛でも吹いてやろうかと思いつつ歩いていると、突然、雨が降ってきた。サムデイイ
ンザレインなんてものではなく、サムデイインザスコールだ。突如として振り出した大雨は、あた
ふたとしている俺の服をあっという間にびしょびしょにし、普段のさえない俺を水も滴るいい男へ
と変身させてしまった。って冗談を言っている場合ではない。早いとこ雨宿りできる場所を見つけ
なくては。あたりを見回すとどこの店もびしょびしょのまま入れるような雰囲気ではなく、雨宿り
は出来そうにない。ええい、どこかないのか。俺は走りながらも懸命にあたりを捜索した。普段の
不思議探索でも、このくらい真剣に行えば何か見つかっていたかもしれない。何せこっちにはハル
ヒがいるんだからな。俺の弛まぬ努力の結果、一箇所だけ雨宿りが出来そうな場所を見つけた。そ
の店は歩道の方向にも屋根がせり出しており、雨の大部分はしのげることだろう。はやる気持ちを
押さえつつ、ダッシュでその店まで行き、びしょ濡れの髪を掻き揚げてショーウィンドウを覗いた。
ランジェリーショップだった。幸いにして店内に客はいないようだが、店員さんの目線が痛い。い
や、向こうも事情はわかっているといった様子だが、そのためかやや笑みをこぼしており猛烈に恥
ずかしい。思春期のうぶな男子生徒には拷問のような仕打ちだ。もしもこの姿を知り合いに見られ
ようものなら生き地獄だ。やれやれ、泣きっ面に蜂とはこのことだな。
15分ほどその場で雨宿りしていたが、一向に雨脚が弱くなりそうな気配はない。さて、どうし
ようか、と思いをめぐらせていると、
「あれっ、こんなところで何してるんですか。」
とできれば二度と聞きたくない声が聞こえてきた。地獄に仏という言葉はあるが、地獄にはやはり
鬼しかいないようだな。俺はそう言うと顔をもたげて、そいつ、橘京子を見据えた。白いブラウス
にオレンジのワンピースを着て、三度目にあったときも持っていたフェンディーの傘を掲げていた。
橘は、思わず笑い返してしまいそうになる楽しげな笑みを浮かべ、こちらへと近づいてきた。
「ふふっ、そんなこと言ってると、本当に鬼にしか会えなくなってしないますよ。…それにしても
どうしたんですか。こんなところにお一人で。高校生の女の子に下着をプレゼントするのはあんま
りベターな選択とはいえませんよ。」
くそっ、誰がそんなことするか。かくかくしかじかで雨に降られちまっただけだ。まぁ、お前には
関係ないがな。
「もう、またっ。見ればわかりますよ。ちょっと冗談を言っただけじゃないですか。それで、どう
するんですか。そんな格好のままじゃ電車にだって乗れませんし、風邪を引いてしまいますよ。」
お前に言われなくてもわかってるさ。だからこそこうして途方にくれていたわけだ。
「なるほど、ランジェリーショップに駆け込みたくなるほど途方に暮れていたのですね。」
くっ、しつこいぞお前。朝比奈さんのこともこないだのことも絶対に許してやらないからな。
「あっ、そうだ。」
俺の悪態にも涼しい顔をしていた橘は、今まさに思いついた、というような声を上げると、右手の
人差し指をあごに当て、やさしげな笑みを浮かべた。そして、ややあってこう言い放った。
「あたしの家に来ませんか。このすぐ近くなのです。」
さて、どうするべきか。
ようか、と思いをめぐらせていると、
「あれっ、こんなところで何してるんですか。」
とできれば二度と聞きたくない声が聞こえてきた。地獄に仏という言葉はあるが、地獄にはやはり
鬼しかいないようだな。俺はそう言うと顔をもたげて、そいつ、橘京子を見据えた。白いブラウス
にオレンジのワンピースを着て、三度目にあったときも持っていたフェンディーの傘を掲げていた。
橘は、思わず笑い返してしまいそうになる楽しげな笑みを浮かべ、こちらへと近づいてきた。
「ふふっ、そんなこと言ってると、本当に鬼にしか会えなくなってしないますよ。…それにしても
どうしたんですか。こんなところにお一人で。高校生の女の子に下着をプレゼントするのはあんま
りベターな選択とはいえませんよ。」
くそっ、誰がそんなことするか。かくかくしかじかで雨に降られちまっただけだ。まぁ、お前には
関係ないがな。
「もう、またっ。見ればわかりますよ。ちょっと冗談を言っただけじゃないですか。それで、どう
するんですか。そんな格好のままじゃ電車にだって乗れませんし、風邪を引いてしまいますよ。」
お前に言われなくてもわかってるさ。だからこそこうして途方にくれていたわけだ。
「なるほど、ランジェリーショップに駆け込みたくなるほど途方に暮れていたのですね。」
くっ、しつこいぞお前。朝比奈さんのこともこないだのことも絶対に許してやらないからな。
「あっ、そうだ。」
俺の悪態にも涼しい顔をしていた橘は、今まさに思いついた、というような声を上げると、右手の
人差し指をあごに当て、やさしげな笑みを浮かべた。そして、ややあってこう言い放った。
「あたしの家に来ませんか。このすぐ近くなのです。」
さて、どうするべきか。
二十分後、俺はとある大手ファッションセンターの前で一人たたずんでいた。人が出入りするた
びに店内から店のオリジナルの歌が流れてくる。軽快かつ単純なそのリズムは、俺の脳細胞の中に
もすっかりと刻まれてしまった。だがそれも仕方のないことだろう。なんせ十分もここに立ったま
まなのだから。
橘のやつが、『家に帰る前に一箇所だけ寄って行きたいところがあるんですが、いいですか。す
ぐ済みますから。』と言って、やってきたのがここである。女の感覚からすれば十分というのは大
変短い時間になるのだろうが、いつも買いたいものだけを買ってすぐに帰る俺にとっては、ずいぶ
んと長い時間である。無論、これから世話になる人間に対して文句を言う権限などあろうはずもな
いが、相手はあの橘だ。なんとなく、その行動すべてに難癖をつけてしまうのである。それにして
も、ここで買える服は、現代の女子高校生が利用する衣服としてはいささかミスマッチではないだ
ろうか。ハイブランドの服で全身をそろえろという気はないが、もう少しハイカラな店をチョイス
して欲しいものである。あと付け加えておくが、俺は決してこの店を批判しているわけではないか
らな。この不況の中、低価格を堅持しているその姿勢には感動すら覚えているくらいだ。むっ、そ
うか。橘のやつ貧乏なのか。神的な能力をハルヒが所持している以上、あっちの組織は機関ほど裕
福ではないはずだ。いや、しかし、朝比奈さんを@誘拐したときはワゴン車を一台丸々放棄してい
たな。ふむ、やはり橘のセンスに問題があるだけか。などと取り留めのない思考によって雨や風に
因る体温の低下を紛らわしていると、やっとこさツインテールが自動ドアを潜り抜けてこちらへ走
ってきた。
「お待たせしてしまってごめんなさい。こんな天気なのに、会計が込んでいたの。」
橘は軽く頭を下げると、左手にぶら下げた荷物を俺に突き出してきた。ちょっと待て、なんでお前
が買ったものまで俺が持たなきゃならんのだ。断固拒否させてもらう。
「そんなんじゃ女の子に嫌われちゃいますよ。あっ、でも今モテモテでしたよね。あなたのそんな
そっけない態度に惹かれてるのかしら。」
大きなお世話だ。それに俺は全くもててなどいない。誘拐だけじゃなく、嫌味まで言えるようにな
ったようだな。お前の家に行かざるをえないとはいえ、荷物持ちまでするつもりはないぞ。
「今日のあなたはなんだか藤原さんみたいですね。文句ばっかり。ふふっ、そんな怖い顔しないで
下さい。ほんとにあの人のことが嫌いなんですね。それと、今買ってきたのはあなたの服なのです。
ビショ濡れの服を乾かす間に着る服がないと困るでしょう。あたしはメンズ服は持ってないですし…。」
ぐっ、卑怯な。それを先に言っていれば俺とて何の文句もなく持っていたものを。
「あたしが言おうとした矢先に、あなたが発言したんでしょう。面白かったのですぐには訂正しな
かったですけど。じゃ、そろそろ行きましょうか。」
橘は俺に荷物を預けると、当たり前のようにこちらへ身を寄せてきた。そもそも傘は一本しかった
わけで、相合傘のようになるのは必然である。これが初めての相合傘なら相手が橘とはいえ多少狼
狽気味にもなろうが、こちとらハルヒで一度経験済みだ。俺はうろたえることなく悠然と歩を進め
た。橘の家へ向かう途中は取り立てて言及することもない。橘が大体しゃべっていて、俺がそれに
相槌を打つという構図だ。たまに橘が俺の肩に頭を預けて、俺の反応をからかったりしていたが、
どうということもない。俺は顔を赤くなどしてないしな。そこ、嘘じゃないからな。
一人で暮らしているという橘の家は、わりと新らしい高層マンションだった。入り口にはカード
キーのロックだけでなく、リアル警備員まで常駐していた。いたるところに監視カメラも取り付け
てあり、女の子の一人でもこれなら安心して暮らせそうである。橘の部屋はそのマンションの最上
階に位置しており、エレベーターで5分以上も揺られてやっと到着した。まったく、景色はきれい
なのかもしれんが利便性には疑問を持たざるを得んな。こつこつと前を歩く橘について行きながら
そんなことを考えていた。そのうちに、橘が立ち止まった。
「着きました。ここです。」
そう言うと、鍵を空けて部屋のドアを開けた。
「ふふふ、ようこそあたしの家へ。あっ、ちょっと玄関で待っててくださいね。今、タオルを持っ
てきますから。」
俺はとことこと部屋の中へ入っていく橘を見ながら、ドアを閉めた。玄関には今橘が脱いだ靴しか
置いておらず、それ以外はちゃんと靴箱にしまってあるようだった。また、壁にはくまさんのポス
ターが張っており、同じ一人暮らしでも、長門とは違い女の子を感じさせるインテリアで占められ
ている。
「お待たせしました。まずはこれで大体の雫を拭っちゃってください。」
橘がこりゃまたくまさんの描かれたバスタオルをもって戻ってきた。全裸に赤いTシャツのくまさ
んだ。
「おう、悪いな。」
「そうしたらそこの扉がバスルームになってますので、先にシャワー浴びちゃってください。あと、
濡れた服は乾燥機に入れておいてくれれば乾かしますから。」
橘は今出てきたばかりの扉を指差しながらそういった。俺は体を拭くと、やっと少し落ち着けると
思いながらバスルームへ向かった。バスルームには橘の下着が干してるなどといったお約束もなく、
すぐに熱いお湯を浴びることが出来た。シャワーを浴びると先ほど買ったばかりの地味なスウェッ
トの上下を着てバスルームを後にした。
廊下に出ると、食欲をそそる匂いが鼻腔をついてきた。
「ん、なんか作ってるのか。」
「あっ、お湯加減はどうでしたか。」
かわいらしいフリルのついたイエローのエプロンを着た橘が、キッチンから顔を覗かせてきた。
「おかげさまで生き返る思いだ。礼を言っておこう。それで、何を作ってるんだ。」
「ビーフシチューです。あなたも昼ごはんはまだでしょう。服が乾くまで時間がかかりますし、食
べて行きませんか。」
確かにもう昼時だな。今日は休日ということで朝起きるのも遅く、朝ごはんを食べてないし腹が減
ってきたな。
「何から何まで悪いな。」
「いえ、気にしないで下さい。あなたにはこれからもいろいろと迷惑をかけることもあるでしょう
から。ギブアンドテイクなのです。」
橘は腰に手を当てて誇らしげにそう言った。というかこれからまだ迷惑をかけるつもりなのかよ。
出来れば勘弁してもらいたいもんだ。
びに店内から店のオリジナルの歌が流れてくる。軽快かつ単純なそのリズムは、俺の脳細胞の中に
もすっかりと刻まれてしまった。だがそれも仕方のないことだろう。なんせ十分もここに立ったま
まなのだから。
橘のやつが、『家に帰る前に一箇所だけ寄って行きたいところがあるんですが、いいですか。す
ぐ済みますから。』と言って、やってきたのがここである。女の感覚からすれば十分というのは大
変短い時間になるのだろうが、いつも買いたいものだけを買ってすぐに帰る俺にとっては、ずいぶ
んと長い時間である。無論、これから世話になる人間に対して文句を言う権限などあろうはずもな
いが、相手はあの橘だ。なんとなく、その行動すべてに難癖をつけてしまうのである。それにして
も、ここで買える服は、現代の女子高校生が利用する衣服としてはいささかミスマッチではないだ
ろうか。ハイブランドの服で全身をそろえろという気はないが、もう少しハイカラな店をチョイス
して欲しいものである。あと付け加えておくが、俺は決してこの店を批判しているわけではないか
らな。この不況の中、低価格を堅持しているその姿勢には感動すら覚えているくらいだ。むっ、そ
うか。橘のやつ貧乏なのか。神的な能力をハルヒが所持している以上、あっちの組織は機関ほど裕
福ではないはずだ。いや、しかし、朝比奈さんを@誘拐したときはワゴン車を一台丸々放棄してい
たな。ふむ、やはり橘のセンスに問題があるだけか。などと取り留めのない思考によって雨や風に
因る体温の低下を紛らわしていると、やっとこさツインテールが自動ドアを潜り抜けてこちらへ走
ってきた。
「お待たせしてしまってごめんなさい。こんな天気なのに、会計が込んでいたの。」
橘は軽く頭を下げると、左手にぶら下げた荷物を俺に突き出してきた。ちょっと待て、なんでお前
が買ったものまで俺が持たなきゃならんのだ。断固拒否させてもらう。
「そんなんじゃ女の子に嫌われちゃいますよ。あっ、でも今モテモテでしたよね。あなたのそんな
そっけない態度に惹かれてるのかしら。」
大きなお世話だ。それに俺は全くもててなどいない。誘拐だけじゃなく、嫌味まで言えるようにな
ったようだな。お前の家に行かざるをえないとはいえ、荷物持ちまでするつもりはないぞ。
「今日のあなたはなんだか藤原さんみたいですね。文句ばっかり。ふふっ、そんな怖い顔しないで
下さい。ほんとにあの人のことが嫌いなんですね。それと、今買ってきたのはあなたの服なのです。
ビショ濡れの服を乾かす間に着る服がないと困るでしょう。あたしはメンズ服は持ってないですし…。」
ぐっ、卑怯な。それを先に言っていれば俺とて何の文句もなく持っていたものを。
「あたしが言おうとした矢先に、あなたが発言したんでしょう。面白かったのですぐには訂正しな
かったですけど。じゃ、そろそろ行きましょうか。」
橘は俺に荷物を預けると、当たり前のようにこちらへ身を寄せてきた。そもそも傘は一本しかった
わけで、相合傘のようになるのは必然である。これが初めての相合傘なら相手が橘とはいえ多少狼
狽気味にもなろうが、こちとらハルヒで一度経験済みだ。俺はうろたえることなく悠然と歩を進め
た。橘の家へ向かう途中は取り立てて言及することもない。橘が大体しゃべっていて、俺がそれに
相槌を打つという構図だ。たまに橘が俺の肩に頭を預けて、俺の反応をからかったりしていたが、
どうということもない。俺は顔を赤くなどしてないしな。そこ、嘘じゃないからな。
一人で暮らしているという橘の家は、わりと新らしい高層マンションだった。入り口にはカード
キーのロックだけでなく、リアル警備員まで常駐していた。いたるところに監視カメラも取り付け
てあり、女の子の一人でもこれなら安心して暮らせそうである。橘の部屋はそのマンションの最上
階に位置しており、エレベーターで5分以上も揺られてやっと到着した。まったく、景色はきれい
なのかもしれんが利便性には疑問を持たざるを得んな。こつこつと前を歩く橘について行きながら
そんなことを考えていた。そのうちに、橘が立ち止まった。
「着きました。ここです。」
そう言うと、鍵を空けて部屋のドアを開けた。
「ふふふ、ようこそあたしの家へ。あっ、ちょっと玄関で待っててくださいね。今、タオルを持っ
てきますから。」
俺はとことこと部屋の中へ入っていく橘を見ながら、ドアを閉めた。玄関には今橘が脱いだ靴しか
置いておらず、それ以外はちゃんと靴箱にしまってあるようだった。また、壁にはくまさんのポス
ターが張っており、同じ一人暮らしでも、長門とは違い女の子を感じさせるインテリアで占められ
ている。
「お待たせしました。まずはこれで大体の雫を拭っちゃってください。」
橘がこりゃまたくまさんの描かれたバスタオルをもって戻ってきた。全裸に赤いTシャツのくまさ
んだ。
「おう、悪いな。」
「そうしたらそこの扉がバスルームになってますので、先にシャワー浴びちゃってください。あと、
濡れた服は乾燥機に入れておいてくれれば乾かしますから。」
橘は今出てきたばかりの扉を指差しながらそういった。俺は体を拭くと、やっと少し落ち着けると
思いながらバスルームへ向かった。バスルームには橘の下着が干してるなどといったお約束もなく、
すぐに熱いお湯を浴びることが出来た。シャワーを浴びると先ほど買ったばかりの地味なスウェッ
トの上下を着てバスルームを後にした。
廊下に出ると、食欲をそそる匂いが鼻腔をついてきた。
「ん、なんか作ってるのか。」
「あっ、お湯加減はどうでしたか。」
かわいらしいフリルのついたイエローのエプロンを着た橘が、キッチンから顔を覗かせてきた。
「おかげさまで生き返る思いだ。礼を言っておこう。それで、何を作ってるんだ。」
「ビーフシチューです。あなたも昼ごはんはまだでしょう。服が乾くまで時間がかかりますし、食
べて行きませんか。」
確かにもう昼時だな。今日は休日ということで朝起きるのも遅く、朝ごはんを食べてないし腹が減
ってきたな。
「何から何まで悪いな。」
「いえ、気にしないで下さい。あなたにはこれからもいろいろと迷惑をかけることもあるでしょう
から。ギブアンドテイクなのです。」
橘は腰に手を当てて誇らしげにそう言った。というかこれからまだ迷惑をかけるつもりなのかよ。
出来れば勘弁してもらいたいもんだ。
「それじゃあ、あたしもシャワーを浴びてきますね。鍋の火はこのままかけといてください。」
そう言うと、エプロンをはずし着替えを持ってバスルームに入っていった。お約束のやり取りがあ
ってもいいものだが、橘はお約束が嫌いなようで、そのまま鼻歌を歌いながら出て行ってしまった。
しばらくするとシャワーの音が聞こえてきた。同世代の女の部屋に一人残されるというのはなんと
も落ち着かないもので、あちらへ歩いてはすわり、歩いてはすわりと、おまわりさんが見ていたら
職務質問されそうな装いだった。橘の部屋はホワイトを基調として、暖色系のオレンジやイエロー
のマットや家具、それにすっかりおなじみのくまさんのグッズが並べられていた。また、棚の上に
はにおいつきのアロマキャンドルが弱弱しい明かりをともしている。玄関でも述べたが、長門(部
屋には何もない)や中学時代に訪れた佐々木の部屋(佐々木らしくスタイリッシュにまとめられて
いた)とは違って、ザ・女の子といった部屋は、俺に一切の安らぎを与えることはなかった。しか
しながら、徐々にではあるが落ち着いてきた俺は、背の低い机の前に身じろぎもせずに座っていた。
「ふーいい湯だった。やっぱりシャワーは生きる活力を与えてくれるのです。」
20分後、橘がバスルームから出てきた。湯上りということもあって、いつもよりやわらかい印象
を与える表情をしている。また、濡れた髪がわずらわしいからだろうが、自慢のツインテールを解
いて、髪をシニヨンに結い上げていた。Tシャツにジャージという色気のない服装ではあるものの、
そこから覗くうなじは、普段、幼い印象を与える橘を女性的に演出していた。ギャップとは恐ろし
いものである。なるほど、あのツインテールはこういう効果もあるわけか。谷口あたりなら野獣と
かしているところだろう。いや、あいつはいつでも野獣か。
「あっ、シチューもそろそろ煮えたみたいですよ。」
俺が風呂上りの橘に面食らってる間に、当の本人はキッチンへすいすいと入っていたようだ。
「パンしかないんですけど、かまいませんか。」
キッチンから橘の声が聞こえる。昼食にパンとは日本も国際化したものである。俺はどちらかとい
えばお米のほうが好きだが、メインディッシュがビーフシチューならパンもなかなかいいものだ。
「じゃあ、運ぶの手伝ってもらえますか。」
「おう。」
それから、しばらくは世間話をしながら橘の料理に舌鼓を打った。一人暮らししているだけあって
こいつの料理がなかなか上手く、一瞬こいつのしてきた悪行―主に誘拐―を忘れてしまいそうにな
るほどだった。
昼食を終えて一段落すると、橘がコーヒーとカステラを持ってきた。
「食後はやっぱりコーヒーですよね。砂糖やミルクは入れますか。」
「いや、俺はブラックでいい。」
ゆらゆらと湯気を立てるコーヒーを口に含むと、強い苦味が広がった。しかしただ苦いだけでなく、
その奥にはしっかりとこくがあった。意外にも橘もブラックのようであったが、カステラを片手に
幸せそうにコーヒーを飲んでいた。ん、そういえばお前の両親はどうしてるんだ。組織のこととか
知ってるのか。
「いえ、二人とも機関については何も知りません。もちろん、佐々木さんや涼宮さんのことも知り
ません。ごくごく普通の一般人なのです。今は仕事の関係でアンドラで暮らしています。」
アンドラってどこにあるんだ。アフリカのどっかか。いや、あれはアンゴラだったか。ええい、や
やこしい。まぁそれはともかく、よく一人暮らしが許されたな。俺の妹じゃ絶対許してもらえない
だろうな。
そう言うと、エプロンをはずし着替えを持ってバスルームに入っていった。お約束のやり取りがあ
ってもいいものだが、橘はお約束が嫌いなようで、そのまま鼻歌を歌いながら出て行ってしまった。
しばらくするとシャワーの音が聞こえてきた。同世代の女の部屋に一人残されるというのはなんと
も落ち着かないもので、あちらへ歩いてはすわり、歩いてはすわりと、おまわりさんが見ていたら
職務質問されそうな装いだった。橘の部屋はホワイトを基調として、暖色系のオレンジやイエロー
のマットや家具、それにすっかりおなじみのくまさんのグッズが並べられていた。また、棚の上に
はにおいつきのアロマキャンドルが弱弱しい明かりをともしている。玄関でも述べたが、長門(部
屋には何もない)や中学時代に訪れた佐々木の部屋(佐々木らしくスタイリッシュにまとめられて
いた)とは違って、ザ・女の子といった部屋は、俺に一切の安らぎを与えることはなかった。しか
しながら、徐々にではあるが落ち着いてきた俺は、背の低い机の前に身じろぎもせずに座っていた。
「ふーいい湯だった。やっぱりシャワーは生きる活力を与えてくれるのです。」
20分後、橘がバスルームから出てきた。湯上りということもあって、いつもよりやわらかい印象
を与える表情をしている。また、濡れた髪がわずらわしいからだろうが、自慢のツインテールを解
いて、髪をシニヨンに結い上げていた。Tシャツにジャージという色気のない服装ではあるものの、
そこから覗くうなじは、普段、幼い印象を与える橘を女性的に演出していた。ギャップとは恐ろし
いものである。なるほど、あのツインテールはこういう効果もあるわけか。谷口あたりなら野獣と
かしているところだろう。いや、あいつはいつでも野獣か。
「あっ、シチューもそろそろ煮えたみたいですよ。」
俺が風呂上りの橘に面食らってる間に、当の本人はキッチンへすいすいと入っていたようだ。
「パンしかないんですけど、かまいませんか。」
キッチンから橘の声が聞こえる。昼食にパンとは日本も国際化したものである。俺はどちらかとい
えばお米のほうが好きだが、メインディッシュがビーフシチューならパンもなかなかいいものだ。
「じゃあ、運ぶの手伝ってもらえますか。」
「おう。」
それから、しばらくは世間話をしながら橘の料理に舌鼓を打った。一人暮らししているだけあって
こいつの料理がなかなか上手く、一瞬こいつのしてきた悪行―主に誘拐―を忘れてしまいそうにな
るほどだった。
昼食を終えて一段落すると、橘がコーヒーとカステラを持ってきた。
「食後はやっぱりコーヒーですよね。砂糖やミルクは入れますか。」
「いや、俺はブラックでいい。」
ゆらゆらと湯気を立てるコーヒーを口に含むと、強い苦味が広がった。しかしただ苦いだけでなく、
その奥にはしっかりとこくがあった。意外にも橘もブラックのようであったが、カステラを片手に
幸せそうにコーヒーを飲んでいた。ん、そういえばお前の両親はどうしてるんだ。組織のこととか
知ってるのか。
「いえ、二人とも機関については何も知りません。もちろん、佐々木さんや涼宮さんのことも知り
ません。ごくごく普通の一般人なのです。今は仕事の関係でアンドラで暮らしています。」
アンドラってどこにあるんだ。アフリカのどっかか。いや、あれはアンゴラだったか。ええい、や
やこしい。まぁそれはともかく、よく一人暮らしが許されたな。俺の妹じゃ絶対許してもらえない
だろうな。
「ええ、それはもう、説得するのに苦労したのです。でも、あたしはしっかり者で、信頼も厚かっ
たですから、いろいろと理由を言ったら許してくれました。一人暮らしは高校に入ってからですけ
ど。両親には感謝しないといけないですね。そのおかげで、今、こうしてあなたの前にいられるの
ですから。」
俺にとっては残念な結果だがな。
「もうっ。」
橘はそういいながら手をパタパタとさせている。しかし、親御さんが何も知らないということは、
こいつはずっと秘密にしながら活動していたわけだ。こいつといい古泉といい怪しいやつばっかり
だな。それにしても、一人娘が母国で誘拐なんかしてると知ったら、お前の親も泣いてるんじゃな
いか。
「それは…、そうかも知れません。でも、あたしたちにとっては絶対に必要なことだったの。機会
を設けてくれるなら、朝比奈さんにも是非謝りたいと思っているわ。」
おう、是非ともそうすべきだね。出来れば会わせたくはないが、今日は借りもできたし、考えてお
いてやろう。だがな、お前たちがなんと言おうが、あんな行為に意味などあるはずもない。
「そうですね…。まだあなたの服が乾くのに時間がかかりますし、いい機会だから話しておこうと
思います。」
橘は、神妙にそう言うと語り始めた。
「あの誘拐劇の意味を理解して頂くには、まず、あたしたちの置かれた状況を理解して頂かなくて
はなりません。佐々木さんが神のような存在であるということや、あたしたちに力を与えた存在が
佐々木さんであること。これらのことは事実です。少なくともあたしたちにとっては真実なのです。
これは絶対に譲ることの出来ないことなの。また、佐々木さんが神のごとき力を持っていたほうが、
世界が平穏である、ということにも、確信を持っています。事実、涼宮さんは、幾度となく今の世
界を変容させようとしてきました。中学時代は特にひどかったのです。しかし、そんなあたしたち
の思いとは裏腹に、改変能力は涼宮さんが所有し、宇宙人や未来人はあちらに近づいて行きました。
あたしたちは不安になりました。」
橘は、ここでいったん言葉を切ると、少し冷めたコーヒーをこくりと飲み込んだ。
「あたしたちはその不安を解消するために、様々な意見を出し合いました。その中には、非常に危
険な強硬手段、つまり、佐々木さんや涼宮さんを暗殺しよう、と言う者たちまでいました。二人が
いなくなれば、世界の消失を心配する必要はなくなりますからね。殺した時点で、世界が消えてし
まう危険性もありますが…。ただ、そういったリスクがなかったとしても、そのような手段に賛成
することは出来ないのです。絶対に。ですが、それに対して強く反対し、そう主張する者たちが組
織から出て行ってしまったら、もう彼らを止める事はできません。組織は彼らに対して何の拘束力
も持たなくなるのですから。できることといえば、せいぜい佐々木さんたちの護衛を強めることく
らい。だからあたしたちは、彼らを組織に留めつつも、そういった手段を今後、絶対に実行させな
いようにする必要があったの。あっ、でも、これで組織のことを軽蔑しないでほしいの。だって、
同じような火種は、機関も未来人も宇宙人も抱えているんだから。宇宙人に関しては、あなた自身、
身をもって体験したんじゃなかったかしら。」
たですから、いろいろと理由を言ったら許してくれました。一人暮らしは高校に入ってからですけ
ど。両親には感謝しないといけないですね。そのおかげで、今、こうしてあなたの前にいられるの
ですから。」
俺にとっては残念な結果だがな。
「もうっ。」
橘はそういいながら手をパタパタとさせている。しかし、親御さんが何も知らないということは、
こいつはずっと秘密にしながら活動していたわけだ。こいつといい古泉といい怪しいやつばっかり
だな。それにしても、一人娘が母国で誘拐なんかしてると知ったら、お前の親も泣いてるんじゃな
いか。
「それは…、そうかも知れません。でも、あたしたちにとっては絶対に必要なことだったの。機会
を設けてくれるなら、朝比奈さんにも是非謝りたいと思っているわ。」
おう、是非ともそうすべきだね。出来れば会わせたくはないが、今日は借りもできたし、考えてお
いてやろう。だがな、お前たちがなんと言おうが、あんな行為に意味などあるはずもない。
「そうですね…。まだあなたの服が乾くのに時間がかかりますし、いい機会だから話しておこうと
思います。」
橘は、神妙にそう言うと語り始めた。
「あの誘拐劇の意味を理解して頂くには、まず、あたしたちの置かれた状況を理解して頂かなくて
はなりません。佐々木さんが神のような存在であるということや、あたしたちに力を与えた存在が
佐々木さんであること。これらのことは事実です。少なくともあたしたちにとっては真実なのです。
これは絶対に譲ることの出来ないことなの。また、佐々木さんが神のごとき力を持っていたほうが、
世界が平穏である、ということにも、確信を持っています。事実、涼宮さんは、幾度となく今の世
界を変容させようとしてきました。中学時代は特にひどかったのです。しかし、そんなあたしたち
の思いとは裏腹に、改変能力は涼宮さんが所有し、宇宙人や未来人はあちらに近づいて行きました。
あたしたちは不安になりました。」
橘は、ここでいったん言葉を切ると、少し冷めたコーヒーをこくりと飲み込んだ。
「あたしたちはその不安を解消するために、様々な意見を出し合いました。その中には、非常に危
険な強硬手段、つまり、佐々木さんや涼宮さんを暗殺しよう、と言う者たちまでいました。二人が
いなくなれば、世界の消失を心配する必要はなくなりますからね。殺した時点で、世界が消えてし
まう危険性もありますが…。ただ、そういったリスクがなかったとしても、そのような手段に賛成
することは出来ないのです。絶対に。ですが、それに対して強く反対し、そう主張する者たちが組
織から出て行ってしまったら、もう彼らを止める事はできません。組織は彼らに対して何の拘束力
も持たなくなるのですから。できることといえば、せいぜい佐々木さんたちの護衛を強めることく
らい。だからあたしたちは、彼らを組織に留めつつも、そういった手段を今後、絶対に実行させな
いようにする必要があったの。あっ、でも、これで組織のことを軽蔑しないでほしいの。だって、
同じような火種は、機関も未来人も宇宙人も抱えているんだから。宇宙人に関しては、あなた自身、
身をもって体験したんじゃなかったかしら。」
確かに、ハルヒなんていう子供に言いように振り回されて、機関の仕事に嫌気がさしているやつは
いるだろうな。宇宙人にだって俺は一度殺されかけたし、機関に対しても、未来の勢力に対しても
きな臭さは感じているさ。だがな。朝倉の襲撃以来、どの勢力も強硬な手段には出てきてないし、
それどころかいろいろと世話になってる。結局のところ、あいつらの勢力はそういう爆弾をきっち
り抑えることに成功していて、お前らのところは暴発させちまったってことだろ。おまえがどんな
人間であれ、そんなやつらを信じることなど絶対に出来ないな。
「早合点しないで、あれは抑え切れなかった訳ではないの。ガス抜きのようなものなの。あたした
ちは今言ったような状況にあって、ずっと耐えてきたわ。そんな中、やっと転機が訪れたの。」
藤原と九曜か。
「ええ、その通りよ。彼らの出現で、あたしたちはにわかに活気づいたわ。これでやっとスタート
ラインにたてた、ってね。そのおかげで、これまであった強硬論は一切消えうせたわ。むしろ、今
までそういっていた人たちほど深く思いつめていたから、今までの陰鬱とした議論が嘘のように喜
んでいたわ。でもね。だからこそ、未来からの甘言に簡単に乗せられてしまったの。それでも、彼
らを諭すことは出来たと思うわ。だって3年間も抑えてきたんですもの。だけど、そうして抑えた
後で、あたしたちの行った方法が失敗したらどうなるかしら。一度、光を見てしまっただけに、彼
らはきっとひどく落ち込むと思うわ。それこそ強硬な手段も辞さないほどに。そしてそうなったら、
あたしたちは彼らを止める事はできないわ。なぜなら、彼らの主張を遮ってまでやった方法が失敗
しているから、あたしたちに対する信頼が失われてしまうでしょ。もちろん、これはあくまで想像
よ。でも、そうなる可能性が少しでもあるなら、それを排除しておきたかったの。」
つまり、そいつらの主張を一度採用することにより、今後、そいつらが暴走するのを防いだってこ
とか。
「ええ、それにあの誘拐劇が失敗するだろうってことはわかっていたから。失敗すれば彼らも、あ
たしたちの失敗にも寛容にもなるし、一石二鳥だったのです。ただ、これはあくまであたしたちの
都合だし、朝比奈さんには恐ろしい目にあわせてしまって申し訳ないと思っているわ。」
橘はそう言うと、視線を落とし頭を深く下げた。まあ、なんていうか。今の話が本当だとするなら、
さっき言ったとおり朝比奈さんに合わせてやらんでもない。実際、古泉の話によるとお前は反対派
だったらしいし、俺がお前の立場だったら同じことをしたかもしれんしな。
「ふふふ、ありがとう。朝比奈さんに会えるのを楽しみにしているわ。」
橘は少し安堵したように笑顔を浮かべた。うむ、精々、謝罪の言葉でも考えていなさい。だがな、
これはあくまで誘拐のことについてだけで、ハルヒの力を移すとかは待ったくべつだからな。
「ええ、わかっているわ。だから、それに関しては別の手段を考えてるの。」
『それはどんな?』と橘に声をかけようとすると、突然、不意に、猛烈な眠気が襲ってきた。体が
がくりと傾き、腕がテーブルの上を払う、もうコーヒーの入っていないカップが静かに絨毯に落ち
る。しかし、それでもカップは割れることはなかった。状況が全くつかめないまま、頭をもたげ橘
を見据えると、親しみを感じさせる笑顔は消えうせ、橘京子個人から機関の橘京子の表情に変わっ
ていた。
「やっと、睡眠薬が効いてきたみたいね。今飲んでいたコーヒーに入れておいたの。このあと、藤
原さんと九曜さんに協力してもらって、あなたと佐々木さんを監禁させて頂くわ。あなたが何日も
佐々木さんと一緒に行方不明になったら、涼宮さんはどう思うかしら。ふふふ、世界が崩壊してし
まうかもしれないわね。どうすればくい止められるかしら。」
くそっ、一瞬でもこいつを信用した俺が馬鹿だった。意識が朦朧としてきて口が動かない。橘が何
かぐだぐだとしゃべり続けているが、一切頭に入ってこない。体の感覚が段々となくなってくる。
まぶたを開けているのも辛くなってきた。俺は最後の抵抗のつもりで、ありったけの殺意をこめて
橘をにらみつけた。そんな俺の視線も橘は華やかな笑顔で受け流し、ゆっくりと口を4回動かした。
お・や・す・み
と。そしてそれを最後に、俺の意識は夢の世界へと旅立っていった
いるだろうな。宇宙人にだって俺は一度殺されかけたし、機関に対しても、未来の勢力に対しても
きな臭さは感じているさ。だがな。朝倉の襲撃以来、どの勢力も強硬な手段には出てきてないし、
それどころかいろいろと世話になってる。結局のところ、あいつらの勢力はそういう爆弾をきっち
り抑えることに成功していて、お前らのところは暴発させちまったってことだろ。おまえがどんな
人間であれ、そんなやつらを信じることなど絶対に出来ないな。
「早合点しないで、あれは抑え切れなかった訳ではないの。ガス抜きのようなものなの。あたした
ちは今言ったような状況にあって、ずっと耐えてきたわ。そんな中、やっと転機が訪れたの。」
藤原と九曜か。
「ええ、その通りよ。彼らの出現で、あたしたちはにわかに活気づいたわ。これでやっとスタート
ラインにたてた、ってね。そのおかげで、これまであった強硬論は一切消えうせたわ。むしろ、今
までそういっていた人たちほど深く思いつめていたから、今までの陰鬱とした議論が嘘のように喜
んでいたわ。でもね。だからこそ、未来からの甘言に簡単に乗せられてしまったの。それでも、彼
らを諭すことは出来たと思うわ。だって3年間も抑えてきたんですもの。だけど、そうして抑えた
後で、あたしたちの行った方法が失敗したらどうなるかしら。一度、光を見てしまっただけに、彼
らはきっとひどく落ち込むと思うわ。それこそ強硬な手段も辞さないほどに。そしてそうなったら、
あたしたちは彼らを止める事はできないわ。なぜなら、彼らの主張を遮ってまでやった方法が失敗
しているから、あたしたちに対する信頼が失われてしまうでしょ。もちろん、これはあくまで想像
よ。でも、そうなる可能性が少しでもあるなら、それを排除しておきたかったの。」
つまり、そいつらの主張を一度採用することにより、今後、そいつらが暴走するのを防いだってこ
とか。
「ええ、それにあの誘拐劇が失敗するだろうってことはわかっていたから。失敗すれば彼らも、あ
たしたちの失敗にも寛容にもなるし、一石二鳥だったのです。ただ、これはあくまであたしたちの
都合だし、朝比奈さんには恐ろしい目にあわせてしまって申し訳ないと思っているわ。」
橘はそう言うと、視線を落とし頭を深く下げた。まあ、なんていうか。今の話が本当だとするなら、
さっき言ったとおり朝比奈さんに合わせてやらんでもない。実際、古泉の話によるとお前は反対派
だったらしいし、俺がお前の立場だったら同じことをしたかもしれんしな。
「ふふふ、ありがとう。朝比奈さんに会えるのを楽しみにしているわ。」
橘は少し安堵したように笑顔を浮かべた。うむ、精々、謝罪の言葉でも考えていなさい。だがな、
これはあくまで誘拐のことについてだけで、ハルヒの力を移すとかは待ったくべつだからな。
「ええ、わかっているわ。だから、それに関しては別の手段を考えてるの。」
『それはどんな?』と橘に声をかけようとすると、突然、不意に、猛烈な眠気が襲ってきた。体が
がくりと傾き、腕がテーブルの上を払う、もうコーヒーの入っていないカップが静かに絨毯に落ち
る。しかし、それでもカップは割れることはなかった。状況が全くつかめないまま、頭をもたげ橘
を見据えると、親しみを感じさせる笑顔は消えうせ、橘京子個人から機関の橘京子の表情に変わっ
ていた。
「やっと、睡眠薬が効いてきたみたいね。今飲んでいたコーヒーに入れておいたの。このあと、藤
原さんと九曜さんに協力してもらって、あなたと佐々木さんを監禁させて頂くわ。あなたが何日も
佐々木さんと一緒に行方不明になったら、涼宮さんはどう思うかしら。ふふふ、世界が崩壊してし
まうかもしれないわね。どうすればくい止められるかしら。」
くそっ、一瞬でもこいつを信用した俺が馬鹿だった。意識が朦朧としてきて口が動かない。橘が何
かぐだぐだとしゃべり続けているが、一切頭に入ってこない。体の感覚が段々となくなってくる。
まぶたを開けているのも辛くなってきた。俺は最後の抵抗のつもりで、ありったけの殺意をこめて
橘をにらみつけた。そんな俺の視線も橘は華やかな笑顔で受け流し、ゆっくりと口を4回動かした。
お・や・す・み
と。そしてそれを最後に、俺の意識は夢の世界へと旅立っていった