韓国ミステリ史 特別編 - 金来成(キム・ネソン)(1909-1957)【2】

2011年6月19日

 1935年、早稲田大学留学中に日本の探偵雑誌『ぷろふいる』でデビューし、韓国(朝鮮)に戻ってからは探偵作家/大衆文学作家として活躍した金来成(キム・ネソン)の韓国でのミステリ作家としての評価の高まり及び、江戸川乱歩との交流などについて。

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【ここは金来成(キム・ネソン)を紹介するページの2ページ目(最終ページ)です。先に「第一章 韓国ミステリの始祖・金来成(キム・ネソン)の生涯」をご覧ください】

第二章 近年の韓国でのミステリ作家としての再評価

 金来成(キム・ネソン)の大衆文学作品は没後も映画化、ドラマ化が続き、『青春劇場』を中心に書籍も何度か再刊されたが、金来成のミステリ作品に関しては、必ずしも手に入りやすくはない時期が続いた。しかし、生誕100周年を機に(そしておそらく、死去から50年が経って著作権が切れたのを機に)、2008年末から2009年にかけて『魔人』が三社から刊行されると、ミステリ作家としての再評価が進んだ(『魔人』ペーパーハウス版チョンサンメディア版チマンジ古典選集版)。
 2009年春には、ジャンル小説誌『ファンタスティーク』20号が金来成を特集【注1】。やや遅れて、韓国唯一のミステリ専門誌『季刊ミステリ』25号(2009年秋号)も金来成の特集を組んだ。『ファンタスティーク』の特集では、金来成が日本で発表した短編3作(「楕円形の鏡」と「探偵小説家の殺人」の日本語からの翻訳と、「恋文綺譚」(韓国語版))や、金来成の三男のキム・セホン(김세헌)氏【注2】のエッセイ、李建志氏のエッセイ、パク・チニョン氏による年譜などが掲載されている。
 これらの動きは大手の新聞や週刊誌にも取り上げられ、金来成の推理作家としての側面はにわかに脚光を浴びることになった。ほかに2009年には、金来成がラジオドラマ用に翻案した『真珠塔』が約50年ぶりに再刊されたほか、金来成をテーマとする学術大会も開かれている。
 2010年には、新規に編まれた短編集『金来成傑作シリーズ 推理編 恋文綺譚』(こいぶみ きたん、연문기담)、『金来成傑作シリーズ 怪奇・翻案編 白蛇図』(はくじゃ ず、백사도)も刊行され、児童文学『二重の虹のかかる丘』(쌍무지개 뜨는 언덕)も復刊された。

  • 『恋文綺譚』(ペーパーハウス、2010年6月)
    • 「恋文綺譚(こいぶみきたん)」(1938)、「楕円形の鏡」(1935)、「仮想犯人」(1937)(=「探偵小説家の殺人」)、「罰妻記(ばっさいき)」(1949)、「秘密の扉」(????年)
  • 『白蛇図』(ペーパーハウス、2010年7月)
    • 怪奇編: 「狂想詩人」(1937)、「霧魔」(1939)、「白蛇図(はくじゃず)」(1939)、「悪魔派」(1939)(=「屍琉璃(しかばねるり)」の改題)、「異端者の愛」(1939)
    • 翻案編: 「白髪連盟」(=「赤毛連盟」の翻案)、「ヒトラーの秘密」(=「六つのナポレオン」の翻案)、「深夜の恐怖」(1939)(=「まだらの紐」の翻案)

 なお、『魔人』については、『ハヤカワミステリマガジン』2010年1月号の「洋書案内〈世界篇〉」(p.147)にあらすじ紹介がある。

  • 注1:『ファンタスティーク』は韓国のジャンル小説誌。2007年5月創刊。SFやミステリの特集を毎回組んでおり、たとえば18号は横溝正史特集、17号は「日本のジャンル文学の代名詞 早川書房」特集である。『ハヤカワミステリマガジン』2008年10月号に、『ファンタスティーク』編集部インタビューが掲載されている。2010年3月の24号をもって休刊。現在は『Webマガジン ファンタスティーク』として存続。
  • 注2:金来成の探偵小説論「探偵小説の本質的要件」が収録された『幻の探偵雑誌9 「探偵」傑作選』(光文社文庫、2002年)では、金来成の著作権継承者と連絡が取れなかった旨が書かれている。2011年現在ではすでに死去後50年が経過し著作権は切れているが念のため記しておくと、2009年の時点で少なくとも三男のキム・セホン氏がご存命だったようである(金来成の妻の金泳順(キム・ヨンスン)は1997年に死去)。キム・セホン氏は1950年生まれ。2009年の時点で、KAIST(旧・韓国科学技術院)産業システム工学科教授。

第三章 日本での評価と、日本の探偵作家との親交

第一節 日本での評価

現代の日本での知名度
 金来成(キム・ネソン)が日本で発表した2編の探偵小説は、戦後には『幻影城』1975年6月号(『ぷろふいる』特集)に「探偵小説家の殺人」(初出:『ぷろふいる』1935年12月号)が再録されたぐらいで、現在の日本のミステリ界では忘れられた作品となっている。もっとも、金来成という探偵作家の存在がまったく忘れ去られているわけでもなく、2002年に刊行された『幻の探偵雑誌9 「探偵」傑作選』(ミステリー文学資料館編、光文社文庫)に金来成の評論「探偵小説の本質的要件」(初出:『月刊探偵』1936年3号)が再録されているので、戦前の探偵小説に詳しい人であれば名前ぐらいは知っている、という程度の知名度だと考えていいだろう。

金来成が『ぷろふいる』で発表した作品の評価
 金来成の作品が掲載された『ぷろふいる』は新人発掘に力を入れた雑誌で、4年間の刊行期間に約40人の新人を登場させている。しかし、推理小説研究家の中島河太郎によれば、その成果はとぼしく、『ぷろふいる』から育ったのは西尾正(にしお ただし)と蒼井雄(あおい ゆう)ぐらいだという。中島は新人の中で、「キザな文章だが特異な視角をもっている学生服姿の西嶋亮と、これも当時早稲田大学法科在学中の朝鮮生まれの金来成に惹かれた」(日本推理小説史 第九章)というが、西嶋亮はその後目立った活躍をせず、金来成はデビューの1年後には朝鮮に戻ってしまっている。金来成は、「楕円形の鏡」と「探偵小説家の殺人」に続けて、長編探偵小説『血柘榴』を日本語で執筆し完成させていたが、これは日本では発表されず、約20年後の1955年に韓国で『思想の薔薇』(사상의 장미)として発表された。もしこの作品が日本で発表されていれば、日本でも名を残す探偵作家になっていたかもしれない。

第二節 江戸川乱歩との親交

※2013年3月21日~、改訂作業中

江戸川乱歩との親交
 第一章でも触れたが、金来成(キム・ネソン)は留学中に乱歩邸を訪れたこともあった。また、戦後の1952年7月以降、金来成は江戸川乱歩と何度か手紙のやり取りをしている。

江戸川乱歩「欧亜二題」(『読切小説集』1952年11月号(未確認)/引用は江戸川乱歩『子不語随筆』(講談社、1988年)より)
 南鮮の金来成という作家は、昭和十年頃日本の早稲田大学を卒業し、帰鮮後数年間京城(けいじょう)の新聞記者をやったあとで、探偵小説専門の作家となり現在に及んでいるが、これが南北鮮を通じての唯一の探偵作家である。その著書は創作飜訳を合せて十六冊(いずれも諺文)にのぼり、京城ラジオでも度々放送されたことがある。そのほかに、最近は普通文学にも筆を染め、「青春劇場」(諺文)という五冊つづき通計二千数百頁の大作を著し、これが今、南鮮のベストセラーになっている。
 金来成君は早大在学中に、当時の探偵雑誌「ぷろふいる」に二つの短篇を寄せているが、その関係から、私の家へも二三度遊びに来たことがあり、帰鮮の後にも手紙をよこしていたが、そのうちに日支事変となり、十年以上お互の消息を知らないで過した。今度講和になったので、久しぶりに手紙をよこし、文通をはじめている。

 金来成からの手紙を受け取った乱歩が、そのことを最初に書いたのが以下の『宝石』の随筆である。

江戸川乱歩「内外近事一束」(『宝石』1952年9・10月号)
 韓国の探偵作家
 七月はじめ、大韓民国釜山市在住の作家金来成君から、飛行便の手紙が着いた。金君はその前に、岩谷書店気附で九鬼澹【=九鬼紫郎】君に手紙をよこし、私の住所を訊ね、もとの池袋に居ることがわかったので、今度は直接私の所へ手紙をくれたのである。
 今、朝鮮へは、正しいルートでは、日本の本や雑誌は入らないが、闇で入る事があり、「宝石」なども読んでいて、私の随筆や写真を見て、随分お年をおとりになったなどと書いて来た。金君と東京で会っていた頃から十八年もたった事を、同君の手紙で気ずいたわけである。
 昭和十年頃に、「ぷろふいる」の寄稿家が、東京で探偵小説新人会というものを作り、その内の数人が同人誌「探偵文学」を発行したが、それらの青年諸君がよく私の家にやって来た。蘭郁二郎、中島親、大慈宗一郎など、今の読者にも少しは知られている人々の外に、光石介太郎、左頭弦馬、平塚白銀などという人々がいた。多い時には十数人の青年諸君が集まったが、その中に早稲田の角帽をかぶった金来成という朝鮮青年がまじっていた。金君は「ぷろふいる」に探偵小説を投じて、「楕円形の鏡」が入選し、つづいて「探偵小説家の殺人」という作を同誌に発表した関係で、これらの青年諸君のグループに加わっていたのである。九鬼君は当時の「ぷろふいる」編集長で、金君を大いに激励し、屡々会ってもいたので、先ず九鬼君に手紙を出したのであろう。
 私は当時同君と二三度しか会っていない。朝鮮に帰るといって、暇乞いにやって来たのは、はじめて会ってから一年もたっていなかったのではないかと思う。非常な感激屋で、情熱家で、文学青年であった。今度来た手紙にも、その性格が充分残っている。しかし、同君も随分おもかげが変った。四十三四才だが、著書の巻頭に入っている写真を見ても、ちょっと昔の姿は浮かんで来ない。金君の方でも、「宝石」の私の写真を見て、説明文がなければ分らなかっただろうと書いている。

 「探偵小説新人会」というのは、探偵作家新人倶楽部のことだろう。これは『ぷろふいる』の愛読者の集まりで、1934年10月に『新探偵』を創刊している。その後、方針の違いから探偵作家新人倶楽部を離れた一団が1935年3月に『探偵文学』を創刊。この『探偵文学』の同人に乱歩が挙げている蘭郁二郎、中島親、大慈宗一郎らがいた。一方、乱歩が挙げている光石介太郎、左頭弦馬、平塚白銀は、それとはまた別のYDN(ヤンガー・ディテクティブ・ノーベリスト)ペンサークルを結成していた。こちらは、『ぷろふいる』1935年2月号に「綺譚六三四一」が掲載された光石介太郎が、同誌デビューの新人に声を掛けて結成したものである。金来成はこのYDNペンサークルに参加していた。YDNペンサークルについては後に述べる。
 乱歩は引用した文の中で、金来成と九鬼紫郎がしばしば会っていたと書いているが、九鬼自身は『幻影城』1975年6月号に掲載された回想で、金来成とは酒を一回飲んだだけだと書いている。九鬼紫郎の証言についてもあとで見る。

 乱歩の元には、手紙に続いて金来成の著作が届く。同じ記事から引用する。

江戸川乱歩「内外近事一束」(『宝石』1952年9・10月号)
 飛行便の手紙から数日後に、船便で送ってくれた同君の著書が着いた。それは「秘密の門」という短篇探偵小説一冊と、「青春劇場」という五部作の大著五冊であった。金君は昭和十年頃朝鮮に帰ってから、「朝鮮日報で三年間記者生活をやり、その後はずっと探偵小説を書いています。丁度日本に於ける江戸川師のような立場で創作探偵小説の開拓者として云々」(九鬼君への手紙)と書いている。今度の戦争で、京城【=ソウル】の家を焼かれ、身を以て釜山にのがれ、今はそこに定住して、作家生活をつづけている。送って来た五部作の「青春劇場」は普通小説だが、これが最近の南鮮に於けるベストセラーとなり、同君は流行作家になっているらしい。

 この時に送られてきた6冊は、乱歩の蔵書目録『幻影の蔵』を見ると、確かに所蔵が確認できる。

  • 乱歩の蔵書目録にある金来成の著書
    • 蔵書ID 18955 『秘密の門』(青雲社、1949年)(비밀의 문)
    • 蔵書ID 18956 『青春劇場 第一部 青春の伝説』(青雲社、1949年初版、1952年第4版)(2008年版
    • 蔵書ID 18957 『青春劇場 第二部 愛情の原理』(青雲社、1949年初版、1952年第4版)(2008年版
    • 蔵書ID 18958 『青春劇場 第三部 民族の悲劇』(青雲社、1950年初版、1952年第3版)(2008年版
    • 蔵書ID 18959 『青春劇場 第四部 暴風の歴史』(青雲社、1951年初版)(2008年版
    • 蔵書ID 18960 『青春劇場 第五部 大地の審判』(青雲社、1952年初版)(2008年版
(『幻影の蔵』では『青春劇場』の出版年が「檀紀」(Wikipedia)で記されているが、西暦に直した。なお『幻影の蔵』では、著者名の「金來成」に対して「きむ くるす」という日本読みでも韓国読みでもないよく分からない読み方が付けられている。)

 当時、乱歩の身近にはハングルが読める人はいたのだろうか。これらの書籍の内容を乱歩が知ることができたのかは分からない。手元に届いた以上の6冊以外に、長編探偵小説『魔人』、短編探偵小説集『怪奇の画帖』があることが分かっていると乱歩は紹介している。
 また、乱歩の手元に届いた『秘密の門』(原表記は『祕密의門』だが、日本語にするのなら『秘密の扉』とした方がいい)には、短編小説「秘密の門(扉)」、「異端者の愛」、「悪魔派」(屍琉璃)、「白蛇図」、「罰妻記」とともに「探偵小説小論」が収録されていたが、乱歩はこの「探偵小説小論」を読んで、内容をかいつまんで説明している。日本語が漢字ひらがな交じりで書かれるのと同じように、当時の韓国語は漢字ハングル交じりで書かれており、乱歩は漢字のみを拾っておおよその内容が理解できたようである。乱歩は、「彼は本格はむろん認めるけれども、どちらかと云えば文学派的性格が強いように思われる」と書いているが、その理解は間違っていないと思われる。

探偵作家クラブ、韓国政府に手紙を送る
 また同じ記事から引用する。同記事の末尾の部分である。

江戸川乱歩「内外近事一束」(『宝石』1952年9・10月号)
 同君は自作を日本訳にして、こちらの雑誌にのせたい希望のようだし、又久しぶりで東京に来て、旧知に会いたい、東京の作家クラブの様子も見たい意向なのだが、渡航がむずかしいので、探偵作家クラブの名で招待状を送って下されば、渡航出来るかも知れないと、九鬼君への手紙に書いている。クラブの幹部に相談して、その便宜をはかりたいと思っている。

 金来成作品の日本語への翻訳は、おそらく実現していない。やはり、乱歩の身近にハングルが読める人がいなかったのだろうか。来日の件に関しては、『探偵作家クラブ会報』に続報が載っている。

江戸川乱歩「海外近事」(会報66号(1952年11月))
 金来成君に招請状
 「宝石」九・十月合併号に紹介した南鮮の探偵作家、金来成(キンライセイ)君が一度東京に来て旧知に会いたいし、MWJ【=探偵作家クラブ、現・日本推理作家協会】の様子も見たいが、渡航が制限されているので、MWJからの招請状を韓国政府に送ってくれれば、行けるかも知れないと云って来たので、大下会長【=大下宇陀児】その他幹部の諸君に相談して、招請状を飛行便で送っておいた。十一月の記念会【=探偵作家クラブ五周年記念祭】に間に合い、金君が会場に姿を見せてくれるといいと思っている。

 韓国政府に探偵作家クラブから正式に文書を送っているが、結局、金来成の来日は実現しなかったようだ。会報67号(1952年12月)を見ると、1952年11月28日に行われた探偵作家クラブ五周年記念祭には、金来成の祝辞が届いている。ちなみに、この五周年記念祭には、金来成のほか、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)、フランスの「冒険小説クラブ」、フランス版EQMMからも祝辞が届いている。また、イギリス探偵作家クラブ(MWB, Mystery Writers of Britain)からも祝辞が届いているが、結局このMWBは企画はあったものの実現されなかった(その後、1953年に英国推理作家協会(CWA)が結成された)。

金来成の幻の日本語訳?
 『探偵作家クラブ会報』には、もう1つ、金来成についての記事がある。

江戸川乱歩「海外消息」(探偵作家クラブ会報65号(1952年10月))
 金来成君より依頼
 「宝石」に紹介した南鮮作家、金来成(キンライセイ)君から同君の大著「青春劇場」(普通文学の大長篇)が無断日本訳され発売されているということを伝え聞いたが、どこの本屋から出ているか、若しその本が手に入れば見たいと思うから、探してもらえまいかという手紙が来た。
 私は気づいていないが、若し会員諸君でお気づきの方があったら、私まで知らせてほしいと思います。

 『青春劇場』が日本語に訳されているという話については、真偽は不明である。この作品は、第二次世界大戦末期を背景に、朝鮮半島の植民地体制や独立運動をテーマとして扱っているので、当時の日本で受けるとはあまり思えない。ただ、在日韓国・朝鮮人の間で日本語に翻訳されたということが、ひょっとしたらあったのかもしれない。

 さて、どういう事情があったものか分からないが、この後、日本のミステリ界と金来成との交流は途絶えてしまったようだ。

第三節 『ぷろふいる』作家たちとの親交

※2013年3月21日~、改訂作業中

九鬼紫郎の証言
 乱歩が「海外近事一束」で書いていた通り、金来成は乱歩より先に『ぷろふいる』の編集長だった九鬼紫郎に手紙を送っている。その九鬼紫郎は、金来成について以下のように回想している。

九鬼紫郎「「ぷろふいる」編集長時代」(『幻影城』1975年6月号)
 二十三号の発行された十年三月号は、新人紹介として、朝鮮人金来成君の『楕円形の鏡』を載せている。彼は早稲田大学生で、私は上京後に同君と会ったが、激情家らしい気質を持っていた。作品も激情にあふれた文章でつづられ、中村美與子に似た印象がある。金君は乱歩さんの弟子の、光石介太郎と親しかったように思うが、私は酒席をいっしょにした一回だけの知己、ということになる。だが、金君は第二次「ぷろふいる」が出ると、航空便の手紙を私に三通送ってくれた。私もまた金君に返書を出したが、彼は朝鮮(南)の唯一の探偵作家であること、本も沢山出していることなどを、教えてくれやがて探偵小説本一冊、青春小説本四冊を私に寄贈してくれたが、探偵小説本はアルセーヌ・リュパンものみたいであった。金君の航空便三通は、乱歩先生が貸せというので貸し、そのままであり、本は青春小説の一冊が、私の手許にあるだけとなった。同君は来日を希望し、乱歩さんも助力したようだが微妙な国際時期なので、どうもうまくゆかずじまいである。金君のその後のことはわからない。

 40年を経ての回想なので完全に信頼していいのかは分からないが、金来成は日本では光石介太郎と親しかったようである。第二次『ぷろふいる』は、1946年7月から1948年8月にかけて全12冊刊行されている(途中で誌名を『仮面』に変更)。乱歩のもとには1952年に金来成からの第一信が届いているので、手紙の届いた時期については、九鬼の記憶違いだろう。
 ここで金来成が送ってよこした「アルセーヌ・リュパンものみたい」と言われている本は、金来成がルパン物の長編『奇巌城』を翻案した『宝窟王』(1941年に連載開始したが中断、加筆して1948年刊行)ではないかと思う。また「青春小説本四冊」は、乱歩も受け取った『青春劇場』のことだろう。『青春劇場』は全5巻だが、その第5巻は1952年に刊行されているので、九鬼紫郎に著作を送ったときにはまだ第5巻は刊行されていなかったのかもしれない(その後の乱歩への船便では、全5巻が届いている)。また、4冊送られてきたというのが正しければ、『青春劇場』の刊行年から、金来成が書籍を送って来たのは第4巻が刊行された1951年以降だと分かる。

光石介太郎の証言

 九鬼紫郎は金来成と光石介太郎が「親しかったように思う」とエッセイで書いていた。特別親しかったのかは分からないが、光石介太郎のエッセイには金来成への言及があり、交流があったのは確かである。光石介太郎の回想エッセイによれば、金来成は光石介太郎が結成したYDN(ヤンガー・ディテクティブ・ノーベリスト)ペンサークルに参加していた。

光石介太郎「YDN(ヤンガー・ディテクティブ・ノーベリスト)ペンサークルの頃」(『幻影城』1975年7月増刊号)
「ぷろふいる」の新人紹介欄に「綺譚六三四一」が掲載されてから、私はこの欄の登場者に檄をとばしてYDNペンサークルというのを結成していた。集まる者は、平塚白銀、石沢十郎、前田郁美、中山狂太郎、中村美与、中島親などで、毎月新宿ウェルテルの三階で例会を開いたばかりか、この連中は殆ど毎日私のアパートに(たむ)ろして探偵小説()()を論じ合っていたものだ。のちに金来成、左頭(ママ)馬、舞木一郎などが参加し、高橋鐡もその黒服のグロテスクな服装でしばしば現われた。「ぷろふいる」二周年記念の懸賞小説に、平塚白銀、石沢十郎、金来成、そして斯くいう私などが枕を並べて当選した頃が、YDNペンサークルの最も華やかだった頃だ。探偵劇の企画などを樹て、大層げな挨拶状を諸方へ出したのもこの頃である。

光石介太郎「靴の裏――若き日の交友懺悔――」(『幻影城』1976年2月号)
 それから後、私は相変らずの貧乏をしながら、『ぷろふいる』に「綺譚六三四一」を書いて、金五円を貰い、やがて同じ『ぷろふいる』の懸賞に「空間心中の顚末」が当選するという時間的経過の中で、暫次、西嶋亮、平塚白銀、石(ママ)十郎、中島親などと知合い、舞木一郎、中山狂太郎などと語らってYDNペンサークルを結成ということになってゆくのだが、然し何をいうにも、これら同人たちの中で当時良くも悪くも『新青年』に足がかりを持っているのは私一人だった。いうなればこの私の曲りなりのキャリアは、それ自体が彼らにとって一つの作家的ライセンスみたいなものだったらしく、あらゆる意味で一目置かれたし、ペンサークルの運営も、衆議を原則としながら、自然私がイニシャティブをとる形になった。
【中略】
 ともあれこのペンサークルも結局は何もかも計画だおれの有名無実に終ってしまったが、結成当時は決してそう評判の悪いものではなかった。毎月一回、新宿の今は懐かしのウェルテルという高級喫茶店の三階で会合を開き、噂を聞いて集まってくる同人も次第に増えていっただけでなく、殆ど毎日私の大塚在のアパートには四五人誰かしらが()()()を巻きにきた。その頃私は宮仲アパートを出て、すぐ近くの豊島アパートという所に(ねぐら)を変えていたが、そこに集まる常連メンバーは、中島親、西嶋亮、平塚白銀、舞木一郎、中村美与といった所だった。中村美与は、『ぷろふいる』に「火祭」で登場して以来の新メンバーで、私はこの「火祭」を、まるで借金抱えて映画でも観ているような作品、つまり読者の感情移入などまるきり無視した文章でっかちの作文的作品、などと冗談まじりに酷評していたが、あるとき私は彼女のなにかの言節に大変肚を立てて、メンバーが居並ぶ中でさんざんやっつけ、とうとう泣かしてしまった思い出がある。彼女が泣きながら帰って行ったあと、横浜高工の制服姿の西嶋亮が、ニヤリとして「光石さんて人、言うときにはトコトン言う人だなあ」と感慨深げに言ったことも、いま思い出すのだ。それきり彼女は来なくなったが、今でもこの出来事は深い悔恨になって私の心に遺っている。
 ウェルテルで開く会合には、やがて例の高橋鉄が黒服、白皙の、才人らしい癖に何となくグロテスクな雰囲気を漂わせながら現われ始めたり、早大生でありながらちゃんとした背広姿の金来成が、物凄いバイタリティを秘めた風貌で、参加を求めてやってきたりするが、何といってもこのサークル会合の最大のヤマ場は、あるときこの会合に、『ぷろふいる』の東京支社長格だった堀場慶三郎老を先頭に、同じ『ぷろふいる』系の、左頭弦馬、九鬼澹などが、大挙して押しかけてきた時だろう。
 ウェルテルの三階といっても、たかだか六畳部屋ぐらいの広さしかなかった狭い会場だったから、この夜は椅子を並べる余地もなくなって、壁ぎわに立ったままでいた人が随分あったことを思い出す。

 YDN、すなわちヤンガー・ディテクティブ・ノーベリストという名称を私たちのサークルにつけたのも、当然ディテクティブ・ストーリー・ライターというべきだという意見に抗して、探偵小説作家も文学者(ノーベリスト)でなくてはならないという私の主張を通した結果に他ならない。

 その頃の私たちのグループで乱歩さんに直接会ったことがあるのは、私のほかにこの平塚白銀ただ一人ぐらいなものだったのは奇妙なことだ。どうもみんな乱歩さんには一目も二目も置きすぎて、会うのを煙たがるような所があったのではないかと思うが、最初鬼面人を驚かすような印象を私にもたらした左頭弦馬にしても、どうやら御多分に洩れなかったようだ。

第四節 金来成の消息、その後の日韓推理小説界の交流

※2013年3月21日~、改訂作業中

 乱歩と金来成(キム・ネソン)の文通が途絶えて以降、日本には金来成についての情報は入ってこなかったようだ。1975年に雑誌『幻影城』が『ぷろふいる』の特集を組み、金来成の「探偵小説家の殺人」や光石介太郎の「空間心中の顚末」を再録したが、このとき編集長の島崎博は金来成について「戦後は韓国で探偵作家として活躍しているとのことである」と書いている。また同号に掲載の中島河太郎「「ぷろふいる」五年史」には金来成について以下のようにある。

金はたしか戦後に現代小説の著書があると聞いた。今も健在のはずである。

 実際には金来成は1957年に没している。この訃報は1975年の時点でまだ日本のミステリ界には伝わっていなかったわけだ。ところが、中島河太郎はこの約20年後の1996年には、右に引用した箇所を次のように訂正している(『日本推理小説史』第3巻、東京創元社)。

金は大学卒業後朝鮮に戻り、韓国推理文壇の創始者といわれる地位を築いた。現在、その名を冠した「金来成推理文学賞」が設けられている。1957年2月19日に48歳で亡くなったという。

 中島河太郎はいつ、金来成の没年などの情報を知ったのだろうか。あまり知られていないことだが、実は中島河太郎は1970年代半ばから1990年代にかけて韓国のミステリ関係者と交流している。韓国では1972年に推理小説ファンの英文学者を中心として韓国ミステリクラブが結成されており、そこに所属する英文学者のファン・ジョンホ(黄鐘灝)から1974年(または1973年?)に中島河太郎のもとに手紙が来て、交流が始まったようだ。韓国のミステリ事情を知らせるファン・ジョンホの手紙に対して中島河太郎は、1973年の小説サンデー毎日新人賞推理小説部門の受賞者が在日韓国人の麗羅だったことなどを知らせる返信をしている(中島河太郎の随筆「台湾の偵探・武俠小説」『推理文学』16号[1974年5月]参照)。

 つまり、中島河太郎は『幻影城』に「「ぷろふいる」五年史」を寄稿した時点で、すでに韓国のミステリ関係者とやり取りをしていたわけだが、このときにはまだ金来成の話題は出ていなかったのだろう。
 その後、正確な年は分からないが、1980年代初頭には中島河太郎とファン・ジョンホは面会もしている。また、韓国では1983年に韓国ミステリクラブを母体として韓国推理作家協会が創立されているが、中島河太郎はその初代会長のイ・ガヒョン(李佳炯)とも1984年に東京で面会し、『日本推理作家協会会報』1984年6月号掲載の随筆「李会長訪問」でそのことを報告している。そして同号にはファン・ジョンホが「韓国推理小説の現状」を寄稿しており、金来成についても紹介している。日本推理作家協会の会報という限られた読者向けの媒体とはいえ、日本のミステリ界に対して金来成の死去の時期などについて最初に伝えたのはおそらくこの記事ということになるだろう。

黄鐘灝(ファン・ジョンホ)「韓国推理小説の現状」(『日本推理作家協会会報』1984年6月号)
 わが国の推理小説は金来成から始まったと言っても過言ではないでしょう。勿論古典小説や特に李朝時代のいわゆる「公案類」小説にも推理的要素の濃い作品がありますが、近代的意味において氏はいわば韓国の江戸川乱歩でした。
 早稲田在学中「プロフィル」、「モダン日本」に短篇推理を発表し、帰国後本格的推理作家としての彼の活躍は独歩的存在に価いするものでした。彼には飜案物も多くありますが、創作品としては長篇「魔人」と「思想のばら」が一番有名です。
 一九五七年、四八才でなくなったのちには追(ママ)者達のエログロ時代があり、良心的な一部の作家がありましたが、大体において一応低質視された推理小説の復興など絶望的な状態でした。

 この後、交流は一時的に途切れてしまったようだ。中島河太郎は『日本推理作家協会会報』1987年10月号の随筆「台湾の推理小説」で、「李会長【イ・ガヒョン会長】に会って話を伺い、韓国の現状を本会報にも載せたが、私が連絡を怠ったため、交流の機会を失ってしまった」と書いている。その後、韓国推理作家協会の鄭泰原(チョン・テウォン)が『ミステリマガジン』2000年10月号に寄稿した「韓国ミステリ事情」によれば、1990年代には中島河太郎とチョン・テウォン(鄭泰原)【注3】との間で書簡のやり取りがあったようである。これが正確にいつごろのことなのかは分からない。

 1990年代初頭には日韓の推理作家協会間にも密な交流があった、ということもここに記しておこう。1990年8月には韓国推理作家協会の代表団が来日し、日本推理作家協会が歓迎夕食会を開いている。日本側は生島治郎理事長、 阿刀田高国際委員長、韓国語が話せる麗羅と豊田有恒のほか、井沢元彦、大沢在昌、新津きよみらが参加(役職は当時)。韓国側の参加者にはイ・ガヒョンのほか、『最後の証人』の邦訳がある金聖鍾(キム・ソンジョン)らがいた。
 1992年6月には、金聖鍾が私財を投じて開設した韓国・釜山(プサン)推理文学館(1992年3月開館)で交流会が行われ、日本推理作家協会からは生島治郎、山村正夫、豊田有恒、麗羅、大沢在昌、西木正明が参加した。1993年5月には韓国推理作家協会の代表団が再度来日し、今度は一緒に京都の名所や東京の出版社、テレビ局の見学などをしている。これらの交流をきっかけに、1993年には韓国で日本推理作家協会推薦・韓国推理作家協会編訳『日本サスペンス傑作選』が刊行されている。しかし、この後両協会の交流は途絶えてしまったようだ。

 1994年7月、『創元推理』5号(1994年夏号)に李建志氏の「韓国「探偵小説」事始め ――韓国ミステリーの創始者・金來成と『ぷろふいる』誌」が掲載される。日本のミステリ界・ミステリ読者に対して最初に金来成の生涯、その業績を詳細に紹介したのはこの論文だろう。李建志氏は続いて翌年には、『現代思想』1995年2月号に「金來成という歪んだ鏡」を寄稿している。

 中島河太郎『日本推理小説史』第3巻(東京創元社、1996年)では、先ほど引用した箇所が以下のように訂正されている。

金は大学卒業後朝鮮に戻り、韓国推理文壇の創始者といわれる地位を築いた。現在、その名を冠した「金来成推理文学賞」が設けられている。1957年2月19日に48歳で亡くなったという。

 なお、引用中にある金来成推理文学賞は、推理作家の金聖鍾(キム・ソンジョン)【注4】が『季刊推理文学』誌上で立ち上げた推理小説の公募新人賞だが、1990年から1992年の3年間、全3回で終了している。

  • 注3:数日前、韓国のミステリ評論家・翻訳家であるチョン・テウォン氏が亡くなったというニュースが入った。2011年6月10日、癌のため逝去。享年56歳。韓国推理作家協会に所属し、東野圭吾『白夜行』や赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズなどを韓国語訳した。日本ではその名前を知っている人はほぼいないだろうが、『ミステリマガジン』2000年10月号に「韓国ミステリ事情」を寄稿したほか、『ジャーロ』4号(2001年夏号)に掲載された金且愛(キム・チャエ)の短編「わな」の韓国語から日本語への翻訳を担当している。こちら(Togetter)で、氏の訳業を簡単にまとめた。謹んで、哀悼の意を表する。
  • 注4:金聖鍾(キム・ソンジョン)は、金来成の次の世代を担う韓国ミステリ界の中興の祖。邦訳に『最後の証人』(論創社、2009年)、『ソウル 逃亡の果てに』(新風舎文庫、2005年)、「帰ってきた死者」(『ジャーロ』4号(2001年夏号))、「失踪」(『コリアン・ミステリ 韓国推理小説傑作選』バベル・プレス、2002年)がある。

第四章 読書案内

 金来成(キム・ネソン)が日本語で執筆した小説・評論等は、いくつかの方法で読むことができる。小説に関しては、図書館で『近代朝鮮文学日本語作品集 1901~1938 創作篇』(緑蔭書房、2004年6月)を探すのが一番手軽な方法だと思われる。大きめの図書館であれば、復刻版『ぷろふいる』(ゆまに書房、2010年)も置いてあるかもしれない。金来成が韓国語で執筆した作品で、日本語に翻訳されたものは今のところない。

 金来成の作品集、論創社の《論創ミステリ叢書》あたりで出していただけないものだろうか。日本語の探偵小説2作品+日本語の探偵小説論1編+前述の『金来成傑作シリーズ 推理編 恋文綺譚』(こいぶみきたん)、『金来成傑作シリーズ 怪奇・翻案編 白蛇図』(はくじゃず)に収録されている「恋文綺譚」、「罰妻記」、「秘密の扉」、「狂想詩人」、「霧魔」、「白蛇図」、「悪魔派」(「屍琉璃」)、「異端者の愛」などで。著作権もすでに切れていますし……。

小説

  • 楕円形の鏡(初出:『ぷろふいる』1935年3月号)
    • 『新作探偵小説選集』(1936年10月、ぷろふいる社)
    • 『近代朝鮮文学日本語作品集 1901~1938 創作篇』(緑蔭書房、2004年6月、全5巻)の第3巻
  • 探偵小説家の殺人(初出:『ぷろふいる』1935年12月号)
    • 『幻影城』第5号(1975年6月号)
    • 『近代朝鮮文学日本語作品集 1901~1938 創作篇』(緑蔭書房、2004年6月、全5巻)の第3巻
  • 綺譚・恋文往来(初出:『モダン日本』1935年9月号(第6巻第9号))

その他

  • 【評論】探偵小説の本質的要件(初出:『月刊探偵』1936年3号)
    • 『幻の探偵雑誌9 「探偵」傑作選』ミステリー文学資料館編、光文社文庫、2002年1月
  • 【コメント】書けるか!(初出:『ぷろふいる』1936年1月号)
    • 『近代朝鮮文学日本語作品集 1901~1938 評論・随筆篇』(緑蔭書房、2004年10月、全3巻)の第2巻 ※「第一章 第二節」で初出から全文引用した
  • 【随筆】鐘路の吊鐘(初出:『モダン日本 朝鮮版』1939年11月)
    • 『近代朝鮮文学日本語作品集 1939~1945 評論・随筆篇』(緑蔭書房、2002年3月、全3巻)の第3巻

 上に挙げたもののうち、随筆「鐘路の吊鐘(しょうろのつりがね)」については、ここまでで言及しなかった。これは、金来成が早稲田大学を卒業して韓国(朝鮮)に戻ってからのもので、日本の月刊誌『モダン日本』の朝鮮版(2度刊行された)に日本語で寄せた随筆である。ちなみにこの『モダン日本』朝鮮版(1939年11月)では、野口赫宙(のぐち かくちゅう)の随筆が金来成の随筆のすぐ横に掲載されている。野口赫宙(1905-1998)は、1952年に日本に帰化した朝鮮人作家で、1959年ごろから『宝石』や『探偵実話』などで探偵小説を発表した。探偵小説の単行本もいくつか刊行している。また、『モダン日本』の編集長は、朝鮮人のマ・ヘソン(馬海松)だったが、マ・ヘソンおよび『モダン日本』については、『幻影城の時代 完全版』(講談社、2008年)に掲載の末國善己「「獲得言語」編集者の果たした役割 ――馬海松と島崎博」」に簡潔な紹介がある。

第五章 金来成の名を冠した2つの文学賞

 金来成(キム・ネソン)の名を冠した文学賞に、来成文学賞(ネソン文学賞)(1958-1960)と金来成推理文学賞(キム・ネソン推理文学賞)(1990-1993)がある。金来成の死去の直後に開始された来成文学賞は推理小説の賞ではない。金聖鍾(キム・ソンジョン)が『季刊推理文学』誌上で始めた金来成推理文学賞は公募の推理小説新人賞で、受賞作は推理文学社から刊行された。両賞とも短期間で終わってしまっている。

来成文学賞(非公募、京郷新聞主催)
受賞者 タイトル
第1回(1958年) チョン・ハンスク(鄭漢淑、정한숙、1922-1997) 『暗黒の季節』(암흑의 계절)
第2回(1959年) ユホ(兪湖、유호、1921- )
第3回(1960年) パク・キョンニ(朴景利、박경리、1926-2008) 『漂流島』(표류도)
 ユホは小説家、劇作家、大衆歌謡作詞者。

金来成推理文学賞(公募、雑誌『季刊推理文学』主催)
受賞者 タイトル
第1回(1990年) クォン・ギョンヒ(権敬姫、권경희) 『痺れた指先』(저린 손끝)
第2回(1991年) イ・スンヨン(李勝寧、이승영)(1963 - ) 『ミス・コリア殺人事件』(미스코리아 살인사건)
第3回(1992年) イム・サラ(林紗羅、임사라)(1963 - ) 『愛するとき、そして死ぬとき』(사랑할 때, 그리고 죽을 때)

 受賞作のうち、日本語に翻訳されているものはない。
 来成文学賞受賞者では、パク・キョンニ(朴景利)の『土地』(講談社、全6巻予定)の刊行が2011年3月に始まっている。2011年5月には、パク・キョンニの名を冠したパク・キョンニ文学賞(朴景利文学賞)の創設が発表されている。
 金来成推理文学賞受賞者の三人は、2011年現在でも現役の推理作家である。第2回受賞者のイ・スンヨンと第3回受賞者のイム・サラは、『コリアン・ミステリ 韓国推理小説傑作選』(バベル・プレス、2002年5月)に短編が収録されている。

参考文献

主要参考文献

韓国ミステリ全般についての文献
  • 鄭泰原(チョン・テウォン)(2000)「韓国ミステリ事情」(『ミステリマガジン』2000年10月号、pp.64-67)
  • 金容権(2001)「現代の韓国ミステリー事情」(『ジャーロ』4号(2001年夏号)、pp.308-311)
  • 米津篤八(2009)「韓国ミステリー百年の現在」(李垠『アジア本格リーグ3 美術館の鼠』講談社、2009年11月、pp.231-237)

金来成に言及があるその他の文献
  • 江戸川乱歩(1952a)「内外近事一束」(『宝石』1952年9・10月号、pp.304-309)
  • 江戸川乱歩(1952b)「欧亜二題」(『読切小説集』1952年11月号(未確認)/江戸川乱歩『子不語随筆』(講談社、1988年)に収録)
  • 『探偵作家クラブ会報』第65号(1952年10月号)~第67号(1952年12月)
  • 『幻影城』1975年6月号(ぷろふいる特集)
    • 九鬼紫郎「「ぷろふいる」編集長時代」(pp.69-79)
    • 中島河太郎「「ぷろふいる」五年史」(『日本推理小説史』第三巻[東京創元社、1996年]、pp.48-60に加筆訂正して収録)
  • 光石介太郎(1975)「YDN(ヤンガー・ディテクティブ・ノーベリスト)ペンサークルの頃」(『幻影城』1975年7月増刊号、pp.176-177)
  • 光石介太郎(1976)「靴の裏――若き日の交友懺悔――」(『幻影城』1976年2月号、pp.147-155)
  • 黄鐘灝(ファン・ジョンホ)(1984)「韓国推理小説の現狀」(『日本推理作家協会会報』1984年6月号、No.426、p.4)
  • 李建志(2000)「現代韓国ミステリの思想と行動(上) ――金聖鍾(キム・ソンジョン)『最後の証人』とイ・インファ『永遠の帝国』を手がかりに」(『創元推理 20号 人形の夢』2000年10月、pp.238-255)
  • 李建志(2001)「現代韓国ミステリの思想と行動(下) ――金聖鍾(キム・ソンジョン)『最後の証人』とイ・インファ『永遠の帝国』を手がかりに」(『創元推理21(2001年夏号)』2001年5月、pp.295-315)
  • 李建志(2000)「ハングル・ノワール 金来成からイ・インファへ」(『ユリイカ』2000年12月臨時増刊号(総特集:ジェイムズ・エルロイ ノワールの世界)、pp.86-87)

中島河太郎と韓国ミステリ界の交流について
  • 中島河太郎(1974)「台湾の偵探・武俠小説」(『推理文学』第16号、1974年5月、pp.30-31) - 韓国に言及あり
  • 中島河太郎(1984)「李会長訪問」(『日本推理作家協会会報』1984年6月号、No.426、pp.3-4) - 韓国推理作家協会会長(当時)との面会の記録
  • 中島河太郎(1987)「台湾の推理小説」(『日本推理作家協会会報』1987年10月号、466号、pp.3-4) - 韓国に言及あり

その他
  • 長谷部史親『欧米推理小説翻訳史』
    • 「ジョンストン・マッカレー」
    • 「フランス推理小説の怪人たち」

※引用の際、基本的に旧字旧かな遣いは新字新かな遣いに改めている。

最終更新:2011年06月22日 15:34