韓国ミステリ史 特別編 - 金来成(キム・ネソン)(1909-1957)【1】

2011年6月19日

 1935年、早稲田大学留学中に日本の探偵雑誌『ぷろふいる』でデビューし、中島河太郎に将来を期待されながらも1年ほどで韓国(朝鮮)に戻ってしまった金来成(キム・ネソン/김내성[金來成])は、その後何を為したのか。彼が日本語で執筆した長編探偵小説『血柘榴』(ちざくろ)とは?

Index

第二章 近年の韓国でのミステリ作家としての再評価
第三章 日本での評価と、江戸川乱歩との親交
第四章 読書案内
第五章 金来成の名を冠した2つの文学賞

【容量オーバーのため、ページを2ページに分割しました。第二章~第五章は「金来成(キム・ネソン)【2】」をご覧ください】

第一章 韓国ミステリの始祖・金来成(キム・ネソン)の生涯

 日本の江戸川乱歩(1894-1965)、中国の程小青(てい しょうせい)(1893-1976)(「中国ミステリ史 第一章 第二節」参照)に相当する人物として、韓国には金来成(キム・ネソン)(1909-1957)がいる。

第一節 少年時代

【少年時代については、チョ・ヨンアム(趙霊巖/조영암)(1953)「雅人 金来成 略伝」(아인 김내성 약전)の記述に依拠している(リンク先はパク・チニョン(박진영)氏のブログ)】

 1909年旧暦5月29日(新暦7月16日)、平壌(ピョンヤン)近郊に生まれる(日本では蒼井雄、日影丈吉、松本清張が同年生まれ)【注1】。1925年、平壌公立高等普通学校(韓国語版Wikipedia)に入学。ここで、早稲田出身の教師・渡邊力造の影響を受けて文学を読み始める。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』やドストエフスキーから、レオン・サジイの探偵小説『ジゴマ』まで、多種の本を乱読した【注2】。のちに『真珠塔』のタイトルで翻案して韓国でベストセラーとなるデュマの『巌窟王(モンテクリスト伯)』にもこの頃出会った【注3】。また、英語教師の龍口直太郎(たつのくち なおたろう、1903-1979)(Wikipedia東京創元社公式サイト 龍口直太郎)が授業時間中に話すコナン・ドイル作品の話は彼を魅了した。日本の推理作家の江戸川乱歩はアメリカの小説家のエドガー・アラン・ポーをもじって筆名をつけたという逸話もこの時に聞いた。
 学校の文芸誌『大同江』(대동강)の編集を務めたり、同人誌『曙光』(서광)を発行したりし、自らも小説を発表するなど、文芸活動にいそしんだ。1930年、同校を卒業。

  • 注1:『ぷろふいる』1935年12月号では、誕生日は5月25日とされている。
  • 注2:レオン・サジイ『ジゴマ』が初めて日本語になったのは1937年である(長谷部史親『欧米推理小説翻訳史』「フランス推理小説の怪人たち」)。金来成が高等普通学校時代に『ジゴマ』を読んだという記述を信じるのなら、金来成は『ジゴマ』を日本語以外のなんらかの言語(韓国語or原語(フランス語)or英語等)で読んだことになる。なお、『ジゴマ』は1911年にフランスで映画が作られ、同年に日本でも公開され大ヒットした(長谷部史親、前掲書)。
  • 注3:当時の朝鮮半島では、黒岩涙香が翻案した『巌窟王』(1901)(2006年版)をさらに翻案して韓国語にしたイ・サンヒョプ(이상협)の『海王星(해왕성)』(1916)(2007年版)が出ていた。金来成がどちらを読んだのか(または、さらに別のバージョンで読んだのか)は分からない。

第二節 日本への留学と探偵作家デビュー(1931年~1936年、21歳~26歳)

 日本では2編の短編探偵小説と1編のユーモア掌編、探偵小説論「探偵小説の本質的要件」を発表した。また、日本語で執筆されたものの日本では発表されなかった長編探偵小説『血柘榴』がある。

(1)「楕円形の鏡」、「探偵小説家の殺人」、「綺譚・恋文往来」

「楕円形の鏡」
 1931年、早稲田第二高等学院文科(Wikipedia)入学(2年制)【注4】。1933年、早稲田大学法学部独法科に進学【注5】。この1933年に京都で創刊された探偵小説雑誌『ぷろふいる』(1933年~1937年、全48冊)は、原稿用紙50枚以下の創作探偵小説を随時募集しており、金来成はこれに日本語で執筆した「楕円形の鏡」を応募して入選。『ぷろふいる』1935年3月号に掲載された(twitpic)。以下にあらすじと、「作者の言葉」を示す。(ちなみに、このころの日本探偵小説界について簡単に示すと、1935年というのは『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』が刊行された年である。前年の1934年には木々高太郎がデビューしており、甲賀三郎と木々高太郎の間で「本格/変格論争」がなされたのもちょうどこのころである)

  • 「楕円形の鏡」あらすじ
    • 平壌(ピョンヤン)で起こった迷宮入りの殺人事件に対して、ソウルの探偵小説雑誌『怪人』は、読者から広く推理を募ることにした。その数年前、小説家の毛賢哲(もう けんてつ)の邸宅で、元舞台女優の妻・桃英(とうえい)が殺害されるという事件が起こった。警察は、夫の毛賢哲か、二人と同居していた詩人の劉光影(りゅう こうえい)のいずれかが犯人だと推定したが、確たる証拠もなく、最終的には外部犯説をとり、結局事件は迷宮入りした。この事件で当初、最有力の容疑者とされた劉光影は、自らの無実を示すためこの懸賞に応募することを決意するが、なんの解答にも至らないまま、すでに締め切り直前を迎えていた――。

「楕円形の鏡」の「作者の言葉」(『ぷろふいる』1935年3月号、p.35)
  作者の言葉
「白粉の香りいとほし夏の宵、人ごみの中にそを嗅ぎにゆく」
「誰も彼も殺して見たき此心、噫々!此心窓越の梅雨」
「踏切に命投げんと戯れて、死の誘ひにツと歩去り」
――ツと歩去つた時、人間固有の探(耽?)異慾――耽美と共に有らゆる煩惱から人間を解放する所の――が全身を支配した。筆を執つた。「橢圓形の鏡」が探偵小說の要素をどれたけ備へてゐるかを作者は知らない。讀者の()()な御批評を乞ふ。
(見やすいように改行したが、実際は改行なし)
(一首めは、石川啄木の短歌「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の本歌取りだと思われる。あとの2首については分からない)

 「楕円形の鏡」が掲載された号の編集後記には、「新人紹介の金来成氏の「楕円形の鏡」亦、本誌が太鼓判を押して推薦したい新人中の逸材である」(左頭弦馬)と書かれている。「楕円形の鏡」は、ぷろふいる社が刊行した新人作品集の第2集『新作探偵小説選集』(1936年10月刊/1935年の作品から選出)にも収録されているので、当時の新人のなかでも、金来成がそれなりに高い評価を受けていたことが分かる。なおこの作品集は5編収録で、金来成の作品以外に、光石介太郎「綺譚六三四一」星庭俊一「棒紅殺人事件」西嶋亮「秋晴れ」平塚白銀「セントルイス・ブルース」が収録されている【注6】。金来成の作品がこのアンソロジーに収録されたことは、のちに金来成が朝鮮でデビューする際に、決定的な役割を果たすことになる。

  • 注4:『ぷろふいる』1935年12月号では、早稲田第二高等学院「独文科」とされている。
  • 注5:『幻影城』1975年6月号(ぷろふいる特集)の特集ページ冒頭で金来成の出身校が「東京帝大」とされているが、誤り。また、『ジャーロ』4号(2001年夏号)掲載の金容権「現代の韓国ミステリー事情」など一部の文献では早稲田大学「独文科」とされているが、これも誤り。
  • 注6:光石介太郎「綺譚六三四一」と平塚白銀「セントルイス・ブルース」は、『探偵小説の風景 トラフィック・コレクション』下巻(光文社文庫、2009年)で読める。西嶋亮「秋晴れ」は、『幻影城』35号(1977年10月号)に再録。

「探偵小説家の殺人」
 「楕円形の鏡」(1935年3月号掲載)に続いて、『ぷろふいる』1935年1月号から3月号にかけて募集告知が載った創刊2周年記念の特別懸賞募集(原稿用紙50枚から100枚)に投じた「探偵小説家の殺人」も入選し、1935年12月号に掲載された(twitpic)。この時の入選作は金来成の作品を含め計5作。ほかの入選作は、平塚白銀「セントルイス・ブルース」(8月号掲載)、光石介太郎「空間心中の顚末」(9月号)、宮城哲「龍美夫人事件」(10月号)、石沢十郎「鐘楼の怪人」(11月号)である。この5編の入選作のうち、金来成「探偵小説家の殺人」と光石介太郎「空間心中の顚末」は、『幻影城』1975年6月号(ぷろふいる特集)に再録された【注7】

  • 「探偵小説家の殺人」あらすじ
    • 海王座の探偵劇「二発の銃声」の第二幕が終わったとき、観客は息をのんだ。――それは恐るべき劇だった。探偵劇「二発の銃声」は、実際に起こった海王座の座長殺害事件を題材にした劇で、舞台に立っているのも、実際に現場に居合わせた海王座のメンバーだった。この事件では、殺害された座長の妻が犯人として投獄されているが、なんと第三幕で、真の犯人が明かされるのだという――。事件の真実を明らかにするために、そしてひそかに恋慕する夫人のために「二発の銃声」の脚本を書いたのは、殺害された座長の友人で探偵小説家の劉不乱(りゅう ふらん)である。彼は、探偵雑誌『ぷろふいる』に掲載された「楕円形の鏡」という探偵小説をヒントに、座長殺害のトリックを見抜き、彼が真犯人と目する人物に脚本を送りつける。脚本を送られた「仮想犯人」は、大胆にも真犯人役の俳優として舞台に上がることを承諾した。そして、第三幕。劉不乱と「仮想犯人」の対決の行方は――。

 なお、『ぷろふいる』1935年5月号に掲載された一次予選通過作一覧に金来成の作品がないことから、「探偵小説家の殺人」は懸賞に応募されたものではなく、先に入選した「楕円形の鏡」を高く評価していた編集部の依頼で執筆し、受賞作とされたものだという説がある(李建志1994)。この説については真偽のほどは分からない。この一次予選通過作一覧を確認しようとしたところ、ミステリー文学資料館蔵書の『ぷろふいる』1935年5月号では該当ページ(p.105)がちょうど切り取られており、確認できなかった。特別懸賞募集の最終結果は『ぷろふいる』1935年7月号で発表されるが、ここでは金来成の「探偵小説家の殺人」が受賞作として挙げられている。ちなみに、応募作品の総数は119編。賞金は受賞者5人に対してそれぞれ賞金50円が与えられた(当時の物価は、例えば、1935年に刊行された田中早苗訳『ルルージュ事件』が1円60銭)。
 「探偵小説家の殺人」掲載号の編集後記には以下のように書かれている。「金君の入選作は完璧を期するために、金君の手許へ送って改めて書き直して貰った。編輯部ではまだ金君の作品としては物足らぬ点もあるのだが、将来有望なライタアであるし、作品も水準には入っていると認めて、十二月号に頂いた。常にアプリオリ的角度を剪ろうとするかのような、金君の創作観点に注目して貰いたい。」(九鬼澹)


「綺譚・恋文往来」
 「探偵小説家の殺人」には劉不乱(りゅう ふらん)という探偵小説家が登場している。これは、モーリス・ルブランの姓をもじったものだが、金来成がその「劉不乱」と似た柳不乱(読みはやはり「りゅう ふらん」か?)という筆名で雑誌『モダン日本』の懸賞に投じた「綺譚・恋文往来」も入選、掲載されている【注8】。【2011年9月16日追記:この作品は当サイトで全文公開している。→金来成「綺譚・恋文往来」

 日本語で発表されたこれらの3作品は、のちに改題翻訳の上、韓国(朝鮮)でも発表されている。改題後のタイトルはそれぞれ、「楕円形の鏡」「殺人芸術家」(살인 예술가)(1938年)、「探偵小説家の殺人」「仮想犯人」(가상 범인)(1937年)、「綺譚・恋文往来」「恋文綺譚」(연문기담)(1938年)である。このうち「仮想犯人」は、金来成の朝鮮半島におけるデビュー作になった。

 金来成が日本で発表した2編の探偵小説は本格謎解きもので、編集後記などを見ると、『ぷろふいる』編集部からは将来有望な作家として期待されていたことが分かる。中島河太郎も、『ぷろふいる』から出た新人の中で、金来成には特に目を惹かれていたようである(日本推理小説史 第九章 「ぷろふいる」五年史)。当時の日本での金来成の評価については、「第三章」で改めて述べる。

  • 注8:米津(2009)では、金来成の日本時代のペンネームは「劉不乱」だったとされているが、正確ではない。『ぷろふいる』に掲載された2編の作者名は「金来成」(振り仮名はないが、キンライセイと読んでいたものと思われる)であり、「綺譚・恋文往来」の作者名は「柳不乱」である。

(2)日本では発表されなかった長編探偵小説『血柘榴』

 金来成は、日本で発表した「楕円形の鏡」(1935)、「探偵小説家の殺人」(1935)に続いて、1936年には長編探偵小説『血柘榴』(ちざくろ)を日本語で執筆し、完成させていた。しかし、これは日本では発表されず、約20年後の1955年に韓国で『思想の薔薇』(사상의 장미)として発表された(『思想の薔薇』の序文に、この作品が1936年に日本語で執筆された金来成の最初の長編小説である旨が書かれている/李建志1994:118)。
 『思想の薔薇』は雑誌連載後に2分冊で刊行されたが、こちら(リンク)でその前篇の目次の一部が見えるので、以下に書き出してみる。
 第一章第一節「薔薇病患者」の書き出しの一行は、「もしや、ペク君は精神に異常をきたしたのではないか?……」

思想の薔薇 前篇
第一章 自称天才作家
 第一節 薔薇病患者
 第二節 司法官と小説家
第二章 犯罪の告白
 第一節 暴風前夜
 第二節 殺人犯
 第三節 親友
 第四節 殺意
第三章 黒白の人生観
 第一節 僕はもう少し生きていたい
 第二節 悪魔的
 第三節 検事代理
第四章 秋薔薇殺人事件
 第一節 検証調書
 第二節 証人聴取書
 第三節 映画・「××××××××」(写真不鮮明のため読めず)
第五章 疑惑の人物たち
 第一節 美貌の俳優
 第二節 殺人監督
 第三節 ペクス(白秀)の母親
第六章 原稿・「思想の薔薇」
 第一節 恋慕少年
 第二節 ××××××石榴(写真不鮮明のため読めず)
 第三節 ××恋愛史(写真不鮮明のため読めず)
 第四節 蛇恋の伝説
 第五節 ××××薔薇(写真不鮮明のため読めず)
第七章 (写真不鮮明のため読めず)

 1936年に執筆したものをそのまま発表したわけではないだろうが、小説家が登場することや、作中作、作中劇など、1935年に日本で発表した「楕円形の鏡」、「探偵小説家の殺人」と共通のモチーフの使用がうかがえる。この『思想の薔薇』は、1955年・1956年に最初に刊行されて以降は、1964年に別の出版社から一度再刊されたのみで、現在の韓国ではほぼ忘れられた作品になっているようである。さすがにもう日本語で書いた原稿は残っていないだろうが、「楕円形の鏡」、「探偵小説家の殺人」に続いて金来成が日本語で書いた作品なので、ぜひどこかの出版社から邦訳を出して頂きたい。

(3)探偵小説論等

「書けるか!」
 『ぷろふいる』1936年1月号には、『ぷろふいる』でデビューした新人の新春コメントを集めた「新人の言葉」コーナーがあり、そこに金来成もコメント「書けるか!」を寄せている。以下に全文を引用する。

『ぷろふいる』1936年1月号、p.115
  書けるか!
 「一年の計が元旦にある」とは思わないから、別に感想も気焔もないのだが――
(一)脅し文句を用いずに刺戟的な探偵小説が書きたい。出来るかしら?
(ニ)探偵小説で人間が書きたい。出来るかしら?
(三)最初の一字を見たら飛びつくようなものが書きたい。出来るかしら?
(四)探偵小説を二度繰返して読んだ覚えがない。だがある。江戸川乱歩氏の初期の諸作である。私にそのような作品が書けるかしら? 書けたら書きたいと思う。書けなかったら?
(見やすいように改行したが、実際は改行なし。また、原文は旧字旧かな遣い)

 このコメントから、金来成の乱歩作品への強い憧れが読み取れる。乱歩の証言によれば、金来成はこの当時、『ぷろふいる』の寄稿家が結成した探偵小説新人会に参加していたらしく、その仲間とともに乱歩邸を数回訪れている(江戸川1952a)。『ぷろふいる』の仲間では、特に光石介太郎と仲が良かったそうである(九鬼1975)。
 金来成は韓国(朝鮮)に戻ってからも乱歩と文通し、戦争でそのやりとりは一時途絶えたが、1952年ごろになってまた文通を再開している。乱歩と金来成の親交については、「第三章」で改めて述べる。

「探偵小説の本質的要件」
 『月刊探偵』1936年3号に掲載された探偵小説論「探偵小説の本質的要件」は、2002年の『幻の探偵雑誌9 「探偵」傑作選』(ミステリー文学資料館編、光文社文庫)に再録された。甲賀三郎と木々高太郎の本格/変格論争にいち早く反応したもので、探偵小説の本質とは何であるかを論じたごく短いものだが、なかなかに先進的な探偵小説論である。
 金来成はここで、「探偵小説の本質は、「エッ?」という心持であり「ハッ!」という気持であり「ウーン!」と頷ずく心理作用である」と述べている。そのような「奇異に原因する衝動」を呼び起こすのが探偵小説の本質であり、形式的要件(「謎の提出、論理的推理、謎の解決」)にのみこだわって、その本質を忘れてしまうのは本末転倒だと断じている。
 金来成は、探偵小説の「探偵」という語は、探偵人の推理を指すのではなく、非凡への「探求探異」に置き換えて解すべきだと述べている。この「探異」という言葉は、金来成がデビュー作に付した「作者の言葉」にも見られる。金来成にとって、探偵小説とはすなわち「探異小説」だったのだろう。その考え方を実作に生かしたものか、第三節で詳しく述べるが、金来成は韓国(朝鮮)に戻ってからは、日本で発表していたような本格短編(形式的要件を備えたもの)ではなく、乱歩風の変格短編(すなわち、「奇異に原因する衝動」を呼び起こすもの)を多く執筆するようになる。

第三節 韓国での作家活動(1937年~1957年)

 1936年3月に早稲田大学を卒業すると金来成は朝鮮に戻り、1937年より作家として活躍する(終戦時までは現在の北朝鮮側におり、その後1945年の内に越境し、韓国に暮らした)。朝鮮半島での約20年の活動期間は、前半の約10年と後半の約10年に二分できる。前半は、朝鮮半島初の探偵小説専業作家として人気を博した時期で、金来成は一般向け探偵小説や少年向け探偵小説、さらには翻訳・翻案、評論と八面六臂の活躍をした。朝鮮半島の初の探偵小説は1908年から1909年にかけて発表されたイ・ヘジョ『双玉笛(そうぎょくてき)』で、その後も探偵小説はしばしば書かれているが、探偵小説を専門に書く作家は金来成が初めてだった。また、金来成はこのときの印税で家を購入しているが、朝鮮半島で家を買えるほどの膨大な印税を稼いだ作家は金来成が最初だと言われている(李建志1994:116)。
 後半は、1949年に連載を開始した『青春劇場』を代表作とする一般の大衆文学を執筆した時期で、ここでも金来成は、作品が二度三度と繰り返し映画化・舞台化・ドラマ化されるほどの圧倒的な人気を得る。

(1)探偵小説(少年向け含む)

【韓国の国文学研究者パク・チニョン(박진영)氏のブログ記事「金来成略年譜(간추린 김내성 연보)」および「金来成著書目録(김내성 작품집 목록)」を参考にしている。この2つはパク・チニョン氏の研究の成果であり、2009年に韓国で刊行された金来成の翻案小説『真珠塔』(パク・チニョン編)に付録として掲載された】

 1937年、日本で発表した「探偵小説家の殺人」を翻訳改題した「仮想犯人」(가상 범인)を『朝鮮日報』に連載し朝鮮半島デビュー。最初は掲載を断られたが、その後日本から送られてきた『新作探偵小説選集』(1936年10月、ぷろふいる社、「楕円形の鏡」を収録)を見せたところ、掲載が決まったという(チョ・ヨンアム(1953))。これが朝鮮半島におけるユ・ブラン(劉不乱/유불란)の初登場作品となった。同年には、少年向け探偵小説『白仮面』(백가면)と『黄金窟』(황금 굴)も連載している【注9】。「仮想犯人」で探偵小説家として登場したユ・ブランは、この2作品では探偵として活躍している。『白仮面』は、ユ・ブランが盗賊白仮面と対決する物語で、『黄金窟』は少年たちがユ・ブランとともに暗号を解きながら宝を探す物語である。この年はほかに短編「狂想詩人」(광상 시인)を発表した。

 1938年には、日本で発表した「楕円形の鏡」を翻訳改題した「殺人芸術家」(살인 예술가)、同じく日本で発表した「綺譚・恋文往来」を原型として大幅に加筆した「恋文綺譚」(연문기담)などを発表。続いて1939年には、『朝鮮日報』でユ・ブランの登場する長編探偵小説『魔人』を連載し、同年のうちに単行本も刊行した【注10】【注11】。この作品は、のちに数度映画化、舞台化される人気作となった。1939年にはほかに、「異端者の愛」(이단자의 사랑)、「霧魔」(무마)、「屍琉璃(しかばね るり)」(시유리)、「白蛇図(はくじゃず)」(백사도)なども発表。また、1939年から1941年の間に、『赤毛のレドメイン家』やホームズの短編、ルパンの長編を翻訳・翻案しているが、これについては後述する。1942年には、ユ・ブランが登場する長編探偵小説『台風』の連載を開始。単行本は1944年刊行(何度も版を重ねた『魔人』と異なり、『台風』はこれ以降一度も再刊されていない)。

 戦後には、探偵小説の短編集『狂想詩人』(1947)(のちに『怪奇の画帖』に改題)、『秘密の扉』(1949)(乱歩の蔵書にあり)などを刊行し、短編「罰妻記(ばっさいき)」(1949)などを発表してはいるが、1949年に連載を始めた『青春劇場』を機に大衆文学作家へと転身し、以降は少年向け探偵小説(翻案含む)は執筆したが、一般向けの新作探偵小説は執筆しなかった。
 1954年には、1936年に日本語で執筆した長編探偵小説『血柘榴』『思想の薔薇』として連載開始。1955年に上巻、1956年に下巻刊行。この作品は、金来成が最初に書きあげた長編探偵小説であり、また最後に発表した探偵小説となった。

金来成が韓国(朝鮮)で発表した探偵小説の作風
 2008年末から2009年にかけて、金来成の生誕100周年を記念して『魔人』が3社から相次いで出版されると、金来成のミステリ作家としての再評価が進んだ。2010年には、新規に編まれた短編集『金来成傑作シリーズ 推理編 恋文綺譚』(こいぶみきたん)、『金来成傑作シリーズ 怪奇・翻案編 白蛇図』(はくじゃず)が刊行されている。これ以前には、金来成の手に入りやすい探偵小説短編集としては『秘密の扉(비밀의 문)』(1994年)があった(収録作:「秘密の扉」、「異端者の愛」、「悪魔派」(屍琉璃)、「白蛇図」、「罰妻記」、「狂想詩人」、「楕円形の鏡」、「復讐鬼」、「霧魔」)。『京城探偵録』の作者の一人(原案担当)のハン・サンジン氏が、ブログでこの短編集のレビューを書いている(極限推理 hansang's world: 秘密の扉 - 金来成(2007年3月5日))。それによれば、金来成が韓国で書いた短編探偵小説は、「江戸川乱歩と非常によく似た雰囲気の変格物」で、「乱歩の影響を強く受けたことは明らか」だという。
 また、金来成の長編探偵小説『魔人』は、あらすじを読むと、乱歩の『黄金仮面』などの通俗長編を思わせるし、少年向け探偵小説は、あらすじから知れる限りでは、やはり乱歩の少年探偵団シリーズを思い起こさせるものである。金来成の作品が日本語に訳され、乱歩の作風との比較などの研究が進むことを期待したい。
(なお、李建志「金來成という歪んだ鏡」(『現代思想』1995年2月号)には、この時期のいくつかの作品についてごく簡単な内容紹介がある)

  • 注9:『白仮面』の1993年版(現時点で最も新しいもの)の書影(『京城探偵録』作者のハン・ドンジン氏提供)。
  • 注10:『魔人』の1986年版(2008-2009年以前では最新のもの)の書影(ハン・ドンジン氏提供)。
  • 注11:『ハヤカワミステリマガジン』2010年1月号の洋書案内コーナー(p.147)では、金来成の『魔人』が「朝鮮最初の長篇ミステリ!」という見出しで紹介されている。現代の韓国でも一般的にはこのように言われることがあるので必ずしも誤りとは言えないが、『魔人』の前にも、たとえば、1934年5月から11月にかけて連載されたチェ・マンシク(蔡萬植)の『艶魔』(えんま)などがある(『ミステリマガジン』2000年10月号掲載の鄭泰原(チョン・テウォン)「韓国ミステリ事情」参照)。『魔人』は現代の韓国では、韓国(朝鮮)初の「本格的な」長編ミステリと認識されている作品であり、この「本格的な」という枕詞が必須である。

(2)翻訳・翻案

【韓国の国文学研究者パク・チニョン(박진영)氏のブログ記事「金来成略年譜(간추린 김내성 연보)」および「金来成著書目録(김내성 작품집 목록)」を参考にしている】

 パク・チニョン氏の「金来成略年譜(간추린 김내성 연보)」、「金来成単行本目録(김내성 작품집 목록)」によれば、金来成は以下の作品の翻訳・翻案を行なっている。

金来成が翻訳・翻案した作品(単行本刊行順)
著者 邦題 金来成訳
1940年 イーデン・フィルポッツ(英) 『赤毛のレドメイン家』 『홍두 레드메인 일가(赤毛のレドメイン一家)』 翻訳
1947年 アレクサンドル・デュマ(仏) 『巌窟王(モンテクリスト伯)』 『진주탑(真珠塔)』 翻案
1947年 コナン・ドイル(英) (ホームズ物5編) 短編集『심야의 공포(深夜の恐怖)』 翻案・翻訳
1948年 モーリス・ルブラン(仏) 『奇巌城』 『보굴왕(宝窟王)』 翻案
1948年 エミール・ガボリオ(仏) 『ルルージュ事件』 『마심 불심(魔心仏心)』 翻案
1949年 フォルチュネ・デュ・ボアゴベ(仏) 『鉄仮面』 【少年向け】『비밀의 가면(秘密の仮面)』 翻案
1954年 ジョンストン・マッカレー(米) 『黒星(くろぼし)』 【少年向け】『검은 별(黒い星)』 翻訳?

 金来成の翻訳・翻案が原典に基づくものだったのか、それとも日本語や他の言語からの重訳だったのか、明言している文献は目にしていない。李建志(1995)では、「まだらの紐」の翻案「深夜の恐怖」について、「日本語からの重訳か、原典からの翻訳かはっきりしない」としている。

『赤毛のレドメイン家』と『ルルージュ事件』
 金来成の翻訳・翻案作品リストの中で特に日本のミステリファンの興味を引きそうなのは、金来成がイーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』を翻訳していることだろう。日本のミステリファンにとって、『赤毛のレドメイン家』はそのタイトルを聞けばすぐ乱歩が思い浮かぶような作品であり、乱歩が非常に高く評価した作品として知られている(集英社文庫版)。『赤毛のレドメイン家』の最初の日本語訳が刊行されたのは、金来成が日本で探偵作家デビューした1935年のことなので、金来成もおそらく日本で(日本語で)この作品に触れたのだろう。金来成はこのころ、乱歩邸にも出入りしていたので、あるいは乱歩から直接読むように勧められたのかもしれない。乱歩は、1936年1月号からこの作品の翻案作品『緑衣の鬼』を連載するぐらい、この作品を気にいっていた。また、金来成の「探偵小説家の殺人」が掲載された『ぷろふいる』1935年12月号では、編集後記で九鬼紫郎がこの作品に言及し、「良書として推薦」している。『赤毛のレドメイン家』が当時の話題作だったことがわかる。金来成がこれを翻訳したのも頷ける話である。

 金来成訳の『赤毛のレドメイン家』は、小説家のアン・フェナム(安懐南/안회남)が訳した『ルルージュ事件』(루루쥬 사건)と合わせて『世界傑作探偵小説全集 第1巻』(1940年)として刊行された(パク・チニョン氏のブログ「김내성의 번안 소설 《마심 불심》」、「김내성과 안회남의 추리 소설 번역」参照)。『ルルージュ事件』も、乱歩が高く評価した作品として知られている。
 そしてこの8年後、金来成は自ら『ルルージュ事件』を翻案し、『魔心仏心』というタイトルで刊行している。『ルルージュ事件』は世界初の長編探偵小説とされる作品で、日本で完訳が出たのは2008年だが(完訳版)、古くは1888年に黒岩涙香が『人()()』というタイトルで翻案しており(こちらで全文読める)、1931年には田中早苗が『人か鬼か』というタイトルで雑誌に抄訳を連載している。この田中早苗版が『ルルージュ事件』というタイトルで単行本化されたのが、やはり金来成が探偵作家デビューした1935年のことである。金来成のコメント「書けるか!」が掲載されている『ぷろふいる』1936年1月号の編集後記には『ルルージュ事件』への言及があり、『赤毛のレドメイン家』と同じく、『ルルージュ事件』も当時の話題作だったことがわかる。金来成は「探偵小説家の殺人」の入選で賞金50円を得ているが、それで『赤毛のレドメイン家』や『ルルージュ事件』などの当時の人気作を大量に買い込んだのかもしれない(ちなみに、1935年版『ルルージュ事件』は1円60銭)。

 ところで、「人か鬼か」という言いまわし自体はあまり珍しいものではないかもしれないが、日本において『人か鬼か』というタイトルで訳されたことのある『ルルージュ事件』(原題:L'Affaire Lerouge)を、金来成が『魔心仏心』というタイトルに訳しているのはやはり注目すべきだろう。『赤毛のレドメイン家』と『ルルージュ事件』の日本語訳の刊行のタイミングから考えても、やはり金来成は日本語でこれらの作品に触れ、日本語から重訳したと考えるのが自然である(たまたまそういう文献を目にしていないだけで、金来成の訳が重訳か否かということについてはもう決着がついているのかもしれない)。

ホームズとルパン
 1947年の『深夜の恐怖』は、ホームズ物の翻訳・翻案短編集。パク・チニョン氏によれば、韓国で出版された最初のコナン・ドイルの短編集だとのこと。ちなみにホームズが登場する作品が最初に韓国語になったのは1918年で、1921年には『緋色の研究』も訳されている。金来成の『深夜の恐怖』では、ホームズは「ペンニン(白麟)」という名前になっている。「白髪連盟(백발 연맹)」(=「赤毛連盟」の翻案)、「ヒトラーの秘密(히틀러의 비밀)」(=「六つのナポレオン」の翻案)、「深夜の恐怖(심야의 공포)」(=「まだらの紐」の翻案)、「革命家の妻(혁명가의 아내)」(金縁の鼻眼鏡)、「王宮の秘密(왕궁의 비밀)」(ボヘミアの醜聞)の5編を収録。(パク・チニョン氏のブログ「코난 도일 단편 소설집 《심야의 공포》 서문」参照)

 『宝窟王』は、ルパン物の『奇巌城』の翻案作品である。1941年に『怪巌城(괴암성)』というタイトルで連載し中断していた作品だが、後半を付け加えて改題の上、1948年に刊行された。人名は韓国名になっており、ルパンは劉判(ユパン/유판)、少年探偵イジドール・ボートルレはイ・ボドル(李保乭/이보돌)となっている。

『巌窟王』と『鉄仮面』
 この2作品は、黒岩涙香が翻案した作品として知られているが、朝鮮半島では、黒岩涙香が翻案したものをさらに翻案したものが流布していた。
  • アレクサンドル・デュマ『モンテクリスト伯』(1844) → 黒岩涙香『巌窟王』(1901) → イ・サンヒョプ『海王星(해왕성)』(1916)(2007年版
  • ボアゴベ『サンマール氏の二羽のツグミ』(1878) → 黒岩涙香『鉄仮面』(1892) → ミン・テウォン『鉄仮面(무쇠탈)』(1922)(2008年版
 金来成がどれをもとに翻案を行ったのかは分からない。『モンテクリスト伯』の翻案作品である『真珠塔』は、金来成がもとはラジオドラマ用に翻案したものだが、平易な語り口が受け、書籍版もよく売れた。『モンテクリスト伯』は韓国では2002年に初の完訳が刊行された。
 『鉄仮面』の翻案作品である『秘密の仮面』は、青少年向けの翻案作品である。

ジョンストン・マッカレーの『黒星』
 ジョンストン・マッカレーは現在の日本ではあまり知名度のない作家だが、戦前は『新青年』に地下鉄サムシリーズが何度も掲載されており、人気作家だった。金来成が翻訳した作品は、日本では『黒星(くろぼし)』というタイトルで1930年に改造社世界大衆文学全集の第53巻として刊行されたのが唯一の翻訳である(長谷部史親『欧米探偵小説翻訳史』「ジョンストン・マッカレー」)。韓国では、金来成の訳から50年を経て、2009年に完訳版『黒い星』が刊行されている。

(3)大衆文学

【韓国の国文学研究者パク・チニョン(박진영)氏のブログ記事「金来成略年譜(간추린 김내성 연보)」および「金来成著書目録(김내성 작품집 목록)」を参考にしている】

 戦争が終わると、1946年、金来成は終戦後の混乱やその中での市民の生活を描いた短編の発表を始める。これらの作品は、のちに短編集『幸福の位地』(행복의 위치)、『夫婦日記』(부부 일기)にまとめられている。また1946年には、ラジオドラマ用に書いた翻案作品『真珠塔』がヒット。子供向けラジオドラマ『トルトリの冒険 コウモリ編』(똘똘이의 모험—박쥐 편)もヒットさせ、ラジオドラマの作家としても活躍した。

 1949年には、金来成の大衆文学作品の代表作である『青春劇場』(청춘 극장)(全5巻)の新聞連載を開始。これを完結させると、続いて『人生画報』(인생 화보)(全3巻)【注12】、『恋人』(애인)(全2巻)、『白鳥の調べ』(백조의 곡)と連続して作品を発表し、どれも人気を博し、繰り返し映画化・舞台化・ドラマ化された。1954年には、『白鳥の調べ』、『恋人』、推理小説『思想の薔薇』(사상의 장미)を平行連載するなど多忙を極めた。またこれらに平行して、児童文学の『夢見る海』(꿈꾸는 바다)、『黄金蝙蝠』(황금 박쥐)、『二重の虹がかかる丘』(쌍무지개 뜨는 언덕)、『おばけ敢闘』(도깨비감투)なども執筆している。

 1956年には『失楽園の星』の新聞連載を開始したが、この連載を完結させないまま金来成は脳溢血で倒れ、1957年2月19日に逝去した。享年47歳。臨終の直前に洗礼を受け、カトリック墓地に埋葬された。新たな長編小説『孤独の河』(고독의 강)の構想もあったが、この作品が執筆されることはなかった。『失楽園の星』は、金来成の構想ノートを元に金来成の長女が完結させ、同年に刊行された。翌年には、『失楽園の星』が連載されていた『京郷(キョンヒャン)新聞』が主催する文学賞、来成文学賞が制定されている(後述)。

 さて、金来成の作家業以外の面にあまり触れてこなかったので、最後に簡単にまとめる。
 1921年、12歳で親の決めた相手と結婚(相手は17歳)。1929年に離婚。その後日本に留学し、韓国(朝鮮)に戻った年に別の女性と再婚した。1938年から1940年までは朝鮮日報社出版部記者として働き、1941年から1944年までは文房具店に勤務した。以降、専業作家。



参考文献

最終更新:2011年06月20日 00:01