巻四 本紀第四

唐書巻四

本紀第四

則天皇后 中宗


  則天順聖皇后武氏は、諱を曌といい、并州文水の人である。父の武士は、官が工部尚書・荊州都督にいたり、応国公に封ぜられた。

  は年十四のとき、太宗がその容色を聞いて、選ばれて才人となった。太宗が崩ずると、は髪を切って比丘尼となり、感業寺に住持した。高宗が感業寺に幸すると、見てよろこび、再び召されて宮殿に入った。しばらくして昭儀となり、号を宸妃に進めた。永徽六年(655)、高宗皇后王氏を廃すると、宸妃を立てて皇后とした。高宗は顕慶年間(656-661)以降、多く病に苦しみ、百官の奏上は、時々后に決裁させ、意にそわぬことはなかったため、国政に参与した。后はすでに寵をもっぱらにして政務をともにし、しばしば上書して天下の利害を申し、人心をおさめようと努めた。しかし高宗は年を経るにつれ病に苦しみ、后はますます用いられ、ついには抑えがきかなくなってしまった。高宗は悔んで密かに廃そうとしたが、謀は洩れて果たせなかった。上元元年(674)、高宗が天皇を号し、皇后もまた天后を号し、天下の人はこれを「二聖」といった。

  弘道元年(683)十二月、高宗が崩じ、皇太子が皇帝の位につき、軍国大務不決者、天后に進止を兼取させるよう詔を遺された。甲子、皇太子が皇帝の位につき、は尊せられて皇太后となり、臨朝称制した。大赦をおこない、九品以下の勲官に一級を賜った。庚午、韓王李元嘉が太尉となり、霍王李元軌が司徒となり、舒王李元名が司空となった。甲戌、劉仁軌が尚書左僕射となり、裴炎が中書令となり、劉斉賢が侍中となり、ともに同中書門下三品となった。戊寅、郭待挙魏玄同岑長倩が同中書門下三品となった。癸未、郭正一が宰相を退いた。

  光宅元年(684)正月癸未、嗣聖と改元した。癸巳、左散騎常侍の韋弘敏が太府卿・同中書門下三品となった。
  二月戊午、皇帝を廃して廬陵王とし、これを幽閉した。己未、豫王李旦を立てて皇帝とし、妃の劉氏を皇后とし、永平郡王李成器を立てて皇太子とした。大赦をおこない、改元して文明とした。文武の官の五品以上のものに爵一等を、九品以上のものに勲両転を賜った。老人に版して官を授け、粟帛を賜った。職官五品以上に副官一人を推挙させた。皇太后は臨朝称制した。庚申、皇太孫李重照を廃して庶人とし、庶人李賢を巴州で殺した。甲子、皇帝が群臣を率いて武成殿に尊号をたてまつった。丁卯、皇太后は皇帝に冊した。丁丑、太常卿の王徳真が侍中となり、中書侍郎の劉禕之が同中書門下三品となった。庚辰、玉清観の道士で太中大夫の王遠知に金紫光禄大夫を贈った。
  三月丁亥、李上金を徙封して畢王とし、李素節を葛王とした。
  四月丁巳、滕王李元嬰が薨去した。辛酉、李上金を徙封して沢王とし、李素節を許王とした。癸酉、廬陵王を房州にうつした。丁丑、また均州にうつした。
  五月癸巳、大喪のため狩猟を禁じた。
  閏月甲子、礼部尚書の武承嗣が太常卿・同中書門下三品となった。
  七月戊午、広州の崑崙がその都督の路元叡を殺した。乙丑、突厥が朔州を寇し、左武衛大将軍の程務挺がこれを破った。辛未、彗星が西方に出現した。
  八月庚寅、天皇大帝を乾陵に葬った。丙午、武承嗣が宰相を退いた。
  九月甲寅、大赦をおこない、改元した。旗幟は白を尚び、内外の官服で青のものを碧にかえ、大いに官名をかえ、東都を改めて神都とした。老子の母を追尊して先天太后とした。丙辰、左威衛大将軍の程務挺が単于道安撫大使となり、突厥に備えた。己巳、武氏の五代の祖の武克己を追尊して魯国公とし、妣の裴氏を魯国夫人とした。高祖父の武居常を太尉・北平郡王とし、妣の劉氏を王妃とした。曾祖父の武倹を太尉・金城郡王とし、妣の宋氏を王妃とした。祖の武華を太尉・太原郡王とし、妣の趙氏を王妃とした。父の武士彠を太師・魏王とし、妣の楊氏を王妃とした。丁丑、柳州司馬の李敬業が揚州で挙兵して乱を起こした。韋弘敏を左遷して汾州刺史とした。
  十月癸未、楚州司馬の李崇福が山陽・安宜・塩城の三県をもって李敬業に帰順した。甲申、左玉鈐衛大将軍の梁郡公李孝逸が揚州道行軍大総管となり、左金吾衛大将軍の李知十が副総管となり、兵三十万を率いて李敬業をはばんだ。丁亥、左肅政台御史大夫の騫味道が内史を検校し、同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣舎人の李景諶が同鳳閣鸞台平章事となった。壬辰、李敬業が潤州を落とした。丙申、裴炎を殺した。五代の祖の魯国公を追謚して靖といい、高祖父の北平郡王を恭粛といい、曾祖父の金城郡王を義康といい、祖父の太原郡王を安成といい、父の魏王を忠孝といった。丁酉、揚・楚の二州に曲赦を行った。李敬業の姓を徐氏に復した。劉斉賢を左遷して辰州刺史とした。李景諶が宰相を退いた。右史沈君諒・著作郎崔詧が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。
  十一月辛亥、左鷹揚衛大将軍の黒歯常之が江南道行軍大総管となった。庚申、右監門衛将軍の蘇孝祥徐敬業と阿谿で戦い、ここに死んだ。乙丑、徐敬業の将の王那相が徐敬業を殺して降った。丁卯、郭待挙が宰相を退いた。鸞台侍郎の韋方質が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。
  十二月戊子、御史を遣わして風俗を監察させた。癸卯、程務挺を殺した。

  垂拱元年(685)正月丁未、大赦をおこない、改元した。庚戌、騫味道が内史を代行した。戊辰、劉仁軌が薨去した。
  二月乙巳、春官尚書の武承嗣・秋官尚書の裴居道・右肅政台御史大夫の韋思謙が、ともに同鳳閣鸞台三品となった。突厥が辺境を寇し、左玉鈐衛中郎将の淳于処平が陽曲道行軍総管となってこれを攻撃した。沈君諒が宰相を退いた。
  三月、崔詧が宰相を退いた。丙辰、廬陵王が房州にうつされた。辛酉、武承嗣が宰相を退いた。辛未、頒垂拱格。
  四月丙子、騫味道を左遷して青州刺史とした。癸未、淳于処平が突厥と忻州で戦い、敗れた。
  五月丙午、裴居道が納言となった。丁未、王徳真が象州に流された。己酉、冬官尚書の蘇良嗣が納言を代行した。皇帝の子の李成義を封じて恒王とした。壬戌、旱魃のため囚人の再審を行った。壬申、韋方質が同鳳閣鸞台三品となった。
  六月、天官尚書の韋待價が同鳳閣鸞台三品となった。
  九月丁卯、揚州で地から毛が生えた。
  十一月癸卯、韋待価が燕然道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。

  二年(686)正月辛酉、大赦をおこない、宴を賜うこと三日、内外官に勲一階をあげた。
  二月辛未朔、日食があった。
  三月戊申、銅を鋳造して匭(祭器)を造らせた。
  四月庚辰、岑長倩が内史となった。
  五月丙午、裴居道が内史となった。
  六月辛未、蘇良嗣が同鳳閣鸞台三品となった。己卯、韋思謙が納言を代行した。
  十月己巳、新豊県で山が突然盛り上がって出現し、新豊県を改め慶山とし、囚を赦して、一年税の減免を行い、民間に三日の宴会を賜った。
  十二月、并州の百姓の庸・調を免除し、その終身におよんだ。
  この冬、雪がなかった。

  三年(687)閏正月丁卯、皇帝の子の李隆基を封じて楚王とし、李隆範を衛王とし、李隆業を趙王とした。
  二月己亥、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、突厥が昌平を寇し、黒歯常之がこれを攻撃した。
  三月乙丑、韋思謙が宰相を退いた。
  四月辛丑、孝敬皇帝の妃の裴氏を追号して哀皇后といい、恭陵に葬った。癸丑、旱魃のため囚人の再審を行い、京官の九品以上に命じて言事させた。壬戌、裴居道が納言となった。
  五月丙寅、夏官侍郎の張光輔が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、劉禕之を殺した。
  七月丁卯、冀州の雌の鶏が雄と化した。乙亥、京師で地震があり、広州で金の雨が降った。
  八月壬子、魏玄同が検校納言を兼ねた。交趾の人の李嗣仙が安南都護の劉延祐を殺し、交州に拠ったので、桂州司馬の曹玄静がこれを破った。この月、突厥が朔州を寇し、燕然道行軍大総管の黒歯常之がこれを破った。
  九月己卯、虢州の人の楊初成が郎将を自称し、州人を募って廬陵王を房州で迎えようとしたが、果たせず、殺された。
  十月庚子、右監門衛中郎将の爨宝璧が突厥と戦い、敗れた。
  十二月壬辰、韋待価が安息道行軍大総管となり、安西大都護の閻温古が副総管となって、吐蕃を攻撃した。
  この年、大飢饉があった。

  四年(688)正月甲子、七廟を増やし、高祖太宗高宗の廟を神都に立てた。庚午、乾元殿を壊し、明堂を作った。
  三月壬戌、麟台少監の周思茂を殺した。
  四月戊戌、太子通事舎人の郝象賢を殺した。
  五月庚申、「宝図」を洛水で得た。乙亥、尊号を加えて聖母神皇とした。
  六月丁亥朔、日食があった。汜水で瑞石を得た。
  七月丁巳、大赦をおこない、「宝図」を改めて「天授聖図」とし、洛水を永昌洛水とし、その神を封じて顕聖侯とし、特進を加え、漁や釣りを禁じた。嵩山を改めて神岳とし、その神を封じて天中王・太師・使持節・大都督とした。賜酺五日。戊午、京師で地震があった。
  八月戊戌、神都で地震があった。丙午、博州刺史の琅邪郡王李沖が乱を討つ名目で挙兵したので、左金吾衛大将軍の丘神勣を派遣してこれをはばませた。戊申、李沖がここに死んだ。庚戌、越王李貞が乱を討つ名目で豫州で挙兵した。辛亥、曲赦博州。
  九月丙辰、左豹韜衛大将軍の麴崇裕が中軍大総管となり、岑長倩が後軍大総管となり、越王李貞をはばんだ。張光輔が諸軍節度となった。越王李貞および琅邪郡王李沖の属籍を削って、その姓を改めて虺氏とした。李貞はここに死んだ。丙寅、豫州で赦した。韓王李元嘉・魯王李霊夔・范陽郡王李靄・黄国公李譔・東莞郡公李融および常楽公主を殺し、みなその姓を改めて虺氏とした。丁卯、左肅政台御史大夫の騫味道と夏官侍郎の王本立が同鳳閣鸞台平章事となった。
  十月辛亥、大風で木が抜けた。
  十一月辛酉、済州刺史の薛顗およびその弟の駙馬都尉の薛紹を殺した。
  十二月乙酉、霍王李元軌・江都郡王李緒および殿中監の裴承光を殺した。唐の宗室を大いに殺し、その幼い者を嶺南に流した。己亥、騫味道を殺した。己酉、洛受図を拝した。辛亥、明堂を改めて万象神宮とし、大赦をおこなった。

  永昌元年(689)正月乙卯、万象神宮で享し、大赦をおこない、改元し、賜酺七日。丁巳、舒王李元名を司徒とした。戊午、万象神宮で政務を行い、九条にわかって百官に読み上げた。己未、朗州の雌の鶏が雄と化した。
  二月丁酉、父の太師魏忠孝王を尊んで周忠孝太皇といった。崇先府官を置いた。戊戌、妣の楊氏を追謚して周忠孝太后といった。太原郡王を周安成王といい、妃の趙氏を王妃とした。金城郡王を魏義康王といい、妃の宋氏を王妃とした。北平郡王を趙粛恭王といい、妃の劉氏を王妃とした。五代の祖の魯国公(武克己)を太原靖王といい、夫人の裴氏を王妃とした。
  三月甲子、張光輔が納言を代行した。癸酉、天官尚書の武承嗣が納言となり、張光輔が内史を代行した。
  四月甲辰、汝南郡王李瑋・鄱陽郡公李諲・広漢郡公李謐・汶山郡公李蓁・零陵郡王李俊・広都郡公李璹を殺し、その家を巂州にうつした。己酉、天官侍郎の鄧玄挺を殺した。
  五月丙辰、韋待価が吐蕃と寅識迦河で戦い、敗れた。己巳、白馬寺の僧の薛懐義が新平道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。
  七月丁巳、紀王李慎を巴州に流し、その姓を虺氏に改めた。丙子、韋待価を繡州に流し、閻温古を殺した。戊寅、王本立が同鳳閣鸞台三品となった。
  八月癸未、薛懐義が新平道中軍大総管となり、突厥を攻撃した。甲申、張光輔・洛州司馬の弓嗣業・洛陽令の弓嗣明・陜州参軍の弓嗣古・流人の徐敬真を殺した。乙未、松州の雌の鶏が雄と化した。辛丑、陜州刺史の郭正一を殺した。丁未、相州刺史の弓志元・蒲州刺史の弓彭祖・尚方監の王令基を殺した。
  九月庚戌、恒山郡王李承乾の子の李厥を殺した。
  閏月甲午、魏玄同と夏官侍郎崔詧を殺した。戊申、彭州長史の劉易従を殺した。
  十月癸丑、涼州都督の李光誼を殺した。丁巳、陜州刺史の劉延景を殺した。戊午、右武威衛大将軍黒歯常之と右鷹揚衛将軍趙懐節を殺した。己未、嗣鄭王李璥を殺した。丁卯、春官尚書の范履冰と鳳閣侍郎の邢文偉が同鳳閣鸞台平章事となった。

  天授元年(690)正月庚辰、大赦をおこない、改元して載初といい、十一月を正月とし、十二月を臘月とし、来る年の正月を一月とした。周・漢の後裔を二王後とし、舜・禹・湯の後裔を封じて三恪とし、周・隋の後裔を同列国とし、その嗣を封じた。乙未、唐の宗室の属籍を除いた。
  臘月丙寅、劉斉賢を殺した。
  一月戊子、王本立が宰相を退いた。邢文偉が内史となり、岑長倩武承嗣が同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣侍郎武攸寧が納言となった。甲午、韋方質を儋州に流した。
  二月丁卯、地官尚書の王本立を殺した。
  三月乙酉、旱害のため膳を減らした。丁亥、蘇良嗣が薨去した。
  五月戊子、范履冰を殺した。己亥、梁郡公李孝逸を殺した。
  六月戊申、汴州刺史の柳明肅を殺した。
  七月辛巳、舒王李元名を和州に流した。大雲経を天下に頒布した。壬午、豫章郡王李亶を殺した。丁亥、沢王李上金・許王李素節を殺した。甲午、永昌県で赦した。癸卯、太常丞の蘇踐言を殺した。
  八月辛亥、許王李素節の子の李璟と曾江県令の白令言を殺した。甲寅、裴居道を殺した。壬戌、将軍の阿史那恵と右司郎中の喬知之を殺した。癸亥、尚書右丞の張行廉と太州刺史の杜儒童を殺した。甲子、流人の張楚金を殺した。戊辰、流人の元万頃苗神客を殺した。辛未、南安郡王李潁・鄅国公李昭および諸宗室の李直李敞李然李勲李策李越李黯李玄李英李志業李知言李玄貞を殺した。
  九月乙亥、鉅鹿郡公李晃と麟台郎の裴望およびその弟の司膳丞の裴璉を殺した。壬午、国号を周と改めた。大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。乙酉、尊号を加えて聖神皇帝といい、皇帝を降格して皇嗣とし、武氏の姓を賜り、皇太子を皇孫とした。丙戌、武氏の七廟を神都に立てた。周の文王を追尊して始祖文皇帝といい、妣の姒氏を文定皇后といった。四十代の祖にあたる平王の少子の武を睿祖康皇帝といい、妣の姜氏を康恵皇后といった。太原靖王(武克己)を厳祖成皇帝といい、妣を成荘皇后といった。趙粛恭王(武居常)を粛祖章敬皇帝といい、妣を章敬皇后といった。魏義康王を烈祖昭安皇帝といい、妣を昭安皇后といった。周安成王を顕祖文穆皇帝といい、妣を文穆皇后といった。忠孝太皇を太祖孝明高皇帝といい、妣を孝明高皇后といった。伯父および兄弟の子を追封して王とし、堂兄を郡王とし、諸姑姉を長公主とし、堂姉妹を郡主とした。司賓卿の史務滋が納言を代行し、鳳閣侍郎の宗秦客が内史を検校し、給事中の傅游芸が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。
  十月丁巳、并州武興県の百姓に税の減免を行い、子孫が相承すること漢の高祖が豊・沛で行ったようにさせた。甲子、宗秦客を左遷して遵化尉とした。丁卯、流人の韋方質を殺した。己巳、許王李素節の子の李瑛李琪李琬李瓚李瑒李瑗李琛李唐臣を殺した。辛未、邢文偉を左遷して珍州刺史とした。大雲寺を置いた。周公を封じて褒徳王とし、孔子を隆道公とした。唐の太廟を改めて享徳廟とし、武氏の七廟を太廟とした。

  二年(691)正月甲戌、改めて社稷を置き、旗幟は赤を尚んだ。戊寅、雅州刺史の劉行実とその弟の渠州刺史の劉行瑜・尚衣奉御の劉行感・兄の子の左鷹揚衛将軍の劉虔通を殺した。戊子、武承嗣が文昌左相となった。庚寅、宴を賜った。乙未、丘神勣・左豹韜衛将軍の衛蒲山を殺した。庚子、史務滋を殺した。
  臘月己未、始めて周臘を用いた。
  四月壬寅朔、日食があった。丙午、大赦をおこなった。
  五月丁亥、大風で木が折れた。岑長倩が武威道行軍大総管となり、吐蕃を攻撃した。
  六月庚戌、左肅政台御史大夫の格輔元が地官尚書となり、鸞台侍郎の楽思晦、鳳閣侍郎の任知古、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。
  七月庚午、徙関内七州戸以實神都。
  八月戊申、武攸寧が宰相を退いた。夏官尚書の欧陽通が司礼卿となり判納言事を兼ねた。庚申、右玉鈐衛大将軍の張虔勗を殺した。
  九月乙亥、岐州刺史の雲弘嗣を殺した。壬辰、傅游芸を殺した。癸巳、左羽林衛大将軍の武攸寧が納言を代行し、冬官侍郎の裴行本、洛州司馬の狄仁傑が地官侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。
  十月己酉、岑長倩欧陽通格輔元を殺した。壬戌、楽思晦・左衛将軍の李安静を殺した。

  長寿元年(692)一月戊辰、夏官尚書の楊執柔が同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、任知古を左遷して江夏令とし、狄仁傑を彭沢令とした。裴行本を嶺南に左遷した。乙亥、右衛大将軍泉献誠を殺した。庚辰、司刑卿の李遊道が冬官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。
  二月戊午、秋官尚書の袁智弘が同鳳閣鸞台平章事となった。
  四月丙申朔、日食があった。大赦をおこない、如意と改元した。
  五月、洛水が氾濫した。七月、また氾濫した。
  八月甲戌、黄河が氾濫し、河陽県を破壊した。戊寅、武承嗣武攸寧楊執柔が宰相を退いた。秋官侍郎の崔元綜が鸞台侍郎となり、夏官侍郎の李昭徳が鳳閣侍郎となり、権検校天官侍郎の姚璹が文昌左丞となり、検校地官侍郎の李元素が文昌右丞となり、営繕大匠の王璿が夏官尚書となり、そして司賓卿の崔神基、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。
  九月戊戌、大霧。庚子、大赦をおこない、改元した。改用九月社、七日間の宴会を賜った。癸卯、并州を北都とした。癸丑、李遊道袁智弘王璿崔神基李元素を嶺南に流した。
  十月丙戌、武威道行軍総管の王孝傑が吐蕃を破り、四鎮に勝利した。


  二年(693)臘月癸亥、皇嗣の妃の劉氏徳妃竇氏を殺した。丁卯、皇孫李成器を降封して寿春郡王とし、恒王李成義を衡陽郡王とし、楚王李隆基を臨淄郡王とし、衛王李隆範を巴陵郡王とし、趙王李隆業を彭城郡王とした。
  一月庚子、夏官侍郎の婁師徳が同鳳閣鸞台平章事となった。甲寅、尚方監の裴匪躬と内常侍の范雲仙を殺した。
  三月己卯、左衛員外大将軍の阿史那元慶と白潤府果毅の薛大信を殺した。
  五月乙未、冬官尚書の蘇幹と相州刺史の来同敏を殺した。癸丑、黄河が棣州で氾濫した。
  九月丁亥朔、日食があった。乙未、金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、賜酺七日、七宝を作った。庚子、烈祖昭安皇帝を追尊して渾元昭安皇帝といい、顕祖文穆皇帝を立極文穆皇帝といい、太祖孝明高皇帝を無上孝明高皇帝といった。辛丑、姚璹が宰相を退いた。文昌右丞の韋巨源が同鳳閣鸞台平章事となり、秋官侍郎の陸元方が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、司賓卿の豆盧欽望が内史を代行した。

  延載元年(694)臘月甲戌、突厥默啜が霊州を寇した。右鷹揚衛大将軍の李多祚がこれを破った。
  一月甲午、婁師徳が河源・積石・懐遠等軍営田大使となった。
  二月庚午、薛懐義が伐逆道行軍大総管となり、十八将軍を領して默啜を攻撃した。乙亥、旱魃のため囚人の再審を行った。己卯、武威道大総管の王孝傑が吐蕃と冷泉で戦い、これを破った。
  三月甲申、鳳閣舎人の蘇味道が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、李昭徳が内史を検校した。薛懐義が朔方道行軍大総管となり、默啜を攻撃した。李昭徳]]が朔方道行軍長史となり、蘇味道が司馬となった。
  四月壬戌、常州で地震があった。
  五月甲午、越古金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。
  七月癸未、嵩嶽山の人の武什方が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。
  八月、武什方が宰相を退いた。戊辰、王孝傑が瀚海道行軍総管となった。己巳、司賓少卿の姚璹が納言を代行した。左肅政台御史大夫の楊再思が鸞台侍郎となり、洛州司馬の杜景佺が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。戊寅、崔元綜を振州に流した。
  九月壬午朔、日食があった。壬寅、李昭徳を左遷して南賓尉とした。
  十月壬申、文昌右丞の李元素が鳳閣侍郎となり、右肅政台御史中丞の周允元が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。嶺南の獠が辺境を寇し、容州都督の張玄遇が桂・永等州経略大使となった。癸酉、雨で木が凍った。

  天冊万歳元年(695)正月辛巳、慈氏越古金輪聖神皇帝の号を加え、証聖と改元した。大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。戊子、豆盧欽望を左遷して趙州刺史とし、韋巨源を鄜州刺史とし、杜景佺を溱州刺史とし、蘇味道を集州刺史とし、陸元方を綏州刺史とした。丙申、万象神宮で火事があった。丙午、王孝傑が朔方行軍総管となり、突厥を攻撃した。
  二月己酉朔、日食があった。壬子、薛懐義を殺した。甲子、「慈氏越古」の号をやめた。
  三月丙辰、周允元が薨去した。
  四月戊寅、大周万国頌徳天枢の碑柱を建てた。
  七月辛酉、吐蕃が臨洮を寇し、王孝傑が肅辺道行軍大総管となってこれを攻撃した。
  九月甲寅、南郊を祀った。天冊金輪大聖皇帝の号を加えた。大赦をおこない、改元し、九日間の宴会を賜った。先廟を崇んで崇尊廟とした。


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最終更新:2024年04月03日 23:18
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