『海の夢』


雪解け間もない春の日のことだった。

父の運転するワンボックスカーから飛び出した私の目の前に、一面の海が広がっていた。
静かな海だった。
ざぶんという波の音。
にゃーにゃーと鳥の声。
ぴゅーぴゅーと風が耳を撫でる音。
きらきらと光が跳ねる音。
どこまでも静かな海だった。

思いがけず私は歓声を上げて駆け出す。
無人の海岸の端から端まで自分の足跡をつけるように、
自分の陣地を主張するように、
胸の真ん中で熱を持って脈を打つ不思議な興奮に突き動かされて、
私は夢中になって駆け回った。
泳ぐにはまだ少し早い涼しい空気が、焼ける喉に心地よかった。

波止の先端まで来たとき、突然、地面がゴトゴトと激しく揺れだした。
足元のコンクリートが縦に横に激しく暴れ、私は堪える手段もなく眼下の海へ弾き飛ばされた。

「あっ」

死ぬ。
二度と家に帰れない。もう友達にも会えない。それは酷く恐ろしいことだと思った。
私は必死に空を掻いた。
暗い水面が近づいてくる。怖い。
じたばたと目茶苦茶に手足を動かす。もがく。
激しく揺れる景色は上に昇っているのか下に落ちているのか判別がつかない。

一瞬とも永遠ともとれる時間の後、
やがて地震が収まったことに気づいた私は、波止の固いコンクリートの上にいた。
海は静かだった。
ざぶんと、
にゃーにゃーと、
ぴゅーぴゅーと、
きらきらと、
静かな音が辺りを満たしていた。なんだか急に恐ろしくなった。

「お父さあーん!お母さあーん!」

私は両親のもとへ走った。

波止には私の他に誰もいなかった。
海岸には私の他に誰もいなかった。

両親はワンボックスカーの中で私を待っていた。
車の中に入りドアを閉めると、もう海からは何の音も聞こえなくなった。
代わりに、一人で飛び出していった私を叱る両親の声が聞こえた。

そういう夢を、いつか見た。