2014年11月4日
米国『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(EQMM)は1945年から12年間、短編探偵小説の年次コンテストを開催している。数年の間が空いたのち、1961年に第13回のコンテストが開催され、それが最後となった。詳しい要項は未調査だが、少なくとも当初は世界に門戸を開いたコンテストだったそうで、たとえばアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスはスペイン語短編「八岐(やまた)の園」を第3回コンテストに応募し、入選。アンソニー・バウチャーの英訳で『EQMM』1948年8月号に掲載された。
この米国版のコンテストについては、小森収氏が『Webミステリーズ!』の連載「短編ミステリ読みかえ史」で受賞作の一覧を公開している(
リンク)。
当ページで紹介する「EQMM短篇探偵小説年次日本コンテスト」はその日本版であり、日本版『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』で(募集年度で)1958年度~1963年度の6回開催された。結城昌治を生んだコンテストとして知られるもので、ほかの入選作家や佳作作家、最終候補者には、江戸川乱歩賞の最終候補者や『宝石』に作品が載ったアマチュア作家らの名前が散見される。
このコンテストの特色は、これが「日本のすぐれた短篇探偵小説を、本誌アメリカ版を通じて、ひろく海外に紹介しようとするためのもの」だったことである。入選作は英訳され、米国版『EQMM』編集部に送られることが約束された。
コンテストの開催が最初に告知された1958年9月号にはエラリー・クイーンと江戸川乱歩、松本清張による激励文が載っており、選考委員は佐藤春夫、大井広介、福永武彦(および編集部の都筑道夫)という豪華な布陣である。選考委員は途中で開高健、佐野洋、村松剛、結城昌治(および生島治郎)にかわっている。第1回、第2回、第5回、第6回は選考座談会も掲載されており、選考委員のミステリへの見方が分かって興味深い。
Index
募集要項の一部抜粋
以下は「第2回コンテスト募集規定」(1959年6月号)より。その他の回も基本的には同じ文面。
- このエラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン短篇探偵小説年次日本コンテストは、アメリカ版発行所デイヴィス・パブリケイションの協力をえて、早川書房が主催し、毎年行います。
- このコンテストの主旨は、日本のすぐれた短篇探偵小説を、本誌アメリカ版を通じて、ひろく海外に紹介しようとするためのものです。(略)わが日本語版は(略)日本作家の海外進出に道をひらこうため、エラリイ・クイーン氏ならびにアメリカ版編集部に交渉、ここに日本コンテストをひらいて、その当選作品をアメリカに送ることになったのです。
- 入選発表後、入選作1篇のみを作品内容に相応しい訳者を選び、早川書房の費用負担で英訳して、アメリカに送ります。エラリイ・クイーン氏およびアメリカ版編集部が、これを特別に検討してくれることになっています。
- ただし、入選作がない場合は、アメリカへ送りません。
クイーン、乱歩、清張および編集部のコメント
コンテストの応募規定が発表された1958年9月号に上記の3人と編集部のコメントが載っている。一部を抜粋する。(改行は省略する)
- エラリー・クイーン
- ≪エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン≫日本語版の発行所である早川書房が日本の作家諸君のために日本コンテストを主催する、という知らせほどすばらしいニュースは近来にありません。激励と歓迎の言葉をもとめられたことをエラリイ・クイーンはたいへん名誉に思っております。諸君が、探偵小説の女神に服従を誓った、レヴェルの高い日本の人びとのために、われわれがねたましく思うほどの、記録を打ちたてるであろうことは、疑いもないところです。(略)では、日本ミステリ文学の謙虚にして義務ある使徒諸君、頑張ってください。成功をお祈りします。
- 江戸川乱歩
- 翻訳ブームに刺激されて、創作もさかんになってきたのは、日本の探偵文壇のために、大変よろこばしいことである。こんどは、こちらのものを向うへ紹介する番だ。(略)短篇を向うへ紹介する手段として、翻訳ブームのきっかけをつくった早川書房が、E・Q・M・M日本コンテストを催すということは、時期を得た好企劃だと思う。優秀な作品があつまって、これから毎年、日本人の作品がアメリカ版に載るようになったら、日本作家のはげみにもなるし、また考えただけでも楽しいことだ。日本の作家の水準はいまや高まっている。海外に紹介できないはずはない。このコンテストの成果に私は大きな期待を寄せている。
- 松本清張
- 日本の創作ものが、言語の障害から、一度も世界に認められなかったのは、甚だ残念で、日本のものだって外国人に読まれても、相当に鑑賞に堪えるのではないかと思う。米英の二流作家よりも、日本作家の方が上ではないかと考えるときもある。今度のハヤカワのこの企劃は、その意味で日本の作家の真価を問う絶好の機会で、世界に於ける日本のランキングが決定するだろう。最初から外国に読まれるのを目標にして書かれる意義は大きい。この新企劃から早晩、世界的な推理小説作家が生れるかもしれない。
- 編集部(都筑道夫)
- だいぶ予定より遅れましたが、アメリカと日本を結ぶ探偵小説コンテストの企画を、いよいよ発表できることになりました。(略)当編集部が日本コンテストを企画したところ、クイーン氏はじめアメリカ編集部が賛成してくれて、ここに実現することになったのです。アメリカ版編集部からは、日本人の作品をぜひ載せたい、コンテストの成果を期待している、という手紙がきています。日本側の銓衡委員長には、佐藤春夫先生の快諾を得ることが出来て、探偵文壇の芥川賞になるぞ、と編集部一同、大いに張切っています。みなさんも大いに張切って、傑作を寄せてくださることを期待しています。ドルで原稿料がもらえるかも知れないというのは悪くないので ぼくなどもやりたいくらいなのですが、早川書房の従業員は応募資格がないので、残念です。規定には書いておきませんでしたが、応募資格の制限が、そのひとつだけあるのです。
選考委員のコメントは、大井広介と福永武彦が1958年10月号、佐藤春夫が1958年11月号に掲載されている。
募集規定
- 応募資格:制限なし(米国版のコンテストと同じく、プロも応募可能)
- 対象:日本語で書かれた未発表の探偵小説
- 枚数:400字詰め原稿用紙80枚以内
- 締切:毎年12月25日
- 賞金:入選 3万円、佳作 1万円
選考委員
- 第1回~第4回:佐藤春夫、大井広介、福永武彦、都筑道夫
- 第5回:開高健、佐野洋、村松剛、結城昌治
- 第6回:開高健、佐野洋、村松剛、結城昌治、生島治郎
※都筑道夫は第1回選考には編集部代表として参加。その後早川書房を退社したが、第4回まで選考委員を務めた。
受賞作一覧
|
発表 |
総数 |
|
作者 |
タイトル |
掲載号 |
備考 |
第1回 |
1959年6月号 |
376 |
入選 |
結城昌治 |
「寒中水泳」 |
1959年7月号 |
|
準佳作 |
田中小実昌 |
「火のついたパイプ」 |
非掲載 |
|
準佳作 |
杉山季美子(小泉喜美子) |
「我が盲目の君」 |
非掲載 |
「夜のジャスミン」として発表 |
第2回 |
1960年7月号 |
358 |
入選 |
該当作なし |
|
|
佳作 |
安永一郎 |
「恥目家の亡霊」 |
1960年8月号 |
『幻影城』1978年10月号に再録 |
佳作 |
横山藤衛 |
「くらがりの男への手紙」 |
1960年9月号 |
|
努力賞 |
膳哲之助 |
「清算屋の家」 |
非掲載 |
|
第3回 |
1961年8月号 |
363 |
入選 |
該当作なし |
|
|
佳作 |
膳哲之助 |
「死者には夢を」 |
1961年9月号 |
|
佳作 |
村みつる |
「棺」 |
1961年10月号 |
|
第4回 |
1962年8月号 |
359 |
入選 |
該当作なし |
|
|
佳作 |
該当作なし |
|
|
第5回 |
1963年8月号 |
358 |
入選 |
該当作なし |
|
|
佳作 |
和久一(和久峻三) |
「円空の鉈」 |
1963年9月号 |
|
佳作 |
朝倉三郎(土井稔) |
「作中人物」 |
1963年10月号 |
|
努力賞 |
安永一郎 |
「朝の常連」 |
非掲載 |
|
第6回 |
1965年2月号 |
446 |
入選 第一席 |
土井稔(朝倉三郎) |
「会議は踊る」 |
1965年3月号 |
|
入選 第三席 |
広乃美智 |
「一片の真実」※ |
1965年5月号 |
|
入選 第三席 |
宇美吉彦 |
「解毒剤」 |
非掲載 |
|
※掲載時タイトル「一片の真実 ――あるいはミステリのすすめ――」
第1回(1958年募集、1959年発表)
1958年12月25日締切、応募総数376点
結果発表:1959年6月号、銓衡座談会:1959年7月号(佐藤春夫、大井広介、福永武彦、都筑道夫)
- 入選
- 佳作
- 準佳作
- 田中小実昌「火のついたパイプ」
- 杉山季美子(小泉喜美子)「我が盲目の君」(のちに「夜のジャスミン」に改題改稿して発表)
- 最終候補作
- 貝原昌明「巨大な墓標」
- 田岡典夫「ルイス・デ・アルメイダの手記」 ※直木賞作家(1943年受賞)
- 膳哲之助「殺人のご褒美」
結城昌治「寒中水泳」は日本版『EQMM』に載った最初の日本人の小説。最所フミにより英訳されて米国EQMM編集部に送られた。英訳版のタイトルは「A Midwinter Swim」(1960年2月号扉)。この小説は米国『EQMM』には残念ながら掲載されなかった。1960年7月号扉ページには「クイーン氏の手紙によれば、第1回の入選作『寒中水泳』は今一歩のところだということです」とある。
第2回(1959年募集、1960年発表)
1959年12月25日締切、応募総数358点
結果発表:1960年7月号、銓衡座談会:1960年7月号(佐藤春夫、大井広介、福永武彦、都筑道夫)
- 入選
- 佳作
- 安永一郎「恥目家の亡霊」(1960年8月号)
- 横山藤衛「くらがりの男への手紙」(1960年9月号)
- 努力賞
- 最終候補作
- 北ひろし「奥様は魔女」
- 倉持功(二上洋一)「古事記殺人事件」
- 範多貞彦「隠れた仕事」
- 谷山久作「憑かれた風流物」
第3回(1960年募集、1961年発表)
1960年12月25日締切、応募総数363点
結果発表:1961年8月号(前号で「第二次審査通過作品」発表)、選後評:1961年9月号(佐藤春夫、大井広介、福永武彦、都筑道夫)
- 入選
- 佳作
- 膳哲之助「死者には夢を」(1961年9月号)
- 村みつる「棺」(1961年10月号)
- 最終候補作
- 猪股聖吾「知らない街、知らない人」
- 鈴木五郎「廊下で消えた男」
- 西岡恭太郎「名探偵の死」 ※第4回最終候補者の西崎恭(西村京太郎)と居住市町村が同じ。同一人物か?
- 宝生康雄「白い降誕祭」
- 横山藤衛「ある男の犯罪」
西岡恭太郎(=西村京太郎?)の「名探偵の死」は、選後評で誰も言及していないため作品内容は不明。
膳哲之助は鮎川哲也の「
新・幻の探偵作家を求めて」で扱われている(『EQ』91号、1993年1月号)。
※佐藤春夫の選後評では「廊下で消えた男」は「廊下に消えた男」、「ある男の犯罪」は「或る男の犯罪」となっている。上記の最終候補作一覧は1961年7月号での記載に従った。
第4回(1961年募集、1962年発表)
1961年12月25日締切、応募総数359点
結果発表:1962年8月号(前号で「第二次審査通過作品」発表)、選後評:1962年9月号(佐藤春夫、大井広介、福永武彦、都筑道夫)
- 最終候補作
- 出雲健「枠の中の顔」
- 貴方行「ぬけ目ない奴」
- 坂本恵宣「魔法使いの弟子」
- 善哲之助「憧憬」 ※膳哲之助の誤植か?
- 園田淳「手術」
- 西崎恭(西村京太郎)「変身願望」 ※のちに同題作品を発表している。
- 十八女菊男「トリコニーNo.6を打った靴」
※佐藤春夫の選後評では「トリコニーNo.6を打った靴」は「トリコニーNo.6をつけた靴」となっている。上記の最終候補作一覧は1962年7月号での記載に従った。
第5回(1962年募集、1963年発表)
1962年12月25日締切、応募総数358点
結果発表:1963年8月号(前号で「第二次審査通過作品」発表)、銓衡座談会:1963年9月号(開高健、佐野洋、村松剛、結城昌治)
- 入選
- 佳作
- 和久一(和久峻三)「円空の鉈」(1963年9月号)
- 朝倉三郎(本名:土井稔)「作中人物」(1963年10月号)
- 努力賞
- 最終候補作
- 膳哲之助「警官こそ理想の良人」
- 土英雄「決断の時」
第6回(1963年募集、1964年[1965年2月号]発表)
1963年12月25日締切、応募総数446点
結果発表:1965年2月号(1964年9月号で「第二次審査通過作品」発表)、銓衡座談会:1965年3月号(佐野洋、村松剛、結城昌治、生島治郎)、同号に開高健「欠席の弁」掲載
- 入選
- 第一席 土井稔「会議は踊る」(1965年3月号) ※第5回「佳作」作家
- 第二席 該当作なし
- 第三席 広乃美智「一片の真実」(1965年5月号 / 掲載時タイトル「一片の真実 ――あるいはミステリのすすめ――」)
- 第三席 宇美吉彦「解毒剤」
- 最終候補作
- 滝三之介「家出」
- 広田一義「碁狂」
- 立花明「殺意の構成」
- 筒井道生「食後の妙薬」
- 早奈也人「風船」 ※『宝石』臨時増刊 昭和38年度(1963年度)新人中篇力作10人集に「翠水館説話」掲載(第2回宝石中編賞、佳作二席)
- 柊芥子太郎(膳哲之助)「兇器の履歴」 ※第二次審査通過作品発表では「凶器の履歴」
- 安永一郎「碧眼」 ※第2回「佳作」、第5回「努力賞」
土井稔は朝倉三郎名義の作品も含め『ミステリマガジン』に5編掲載(1963年10月号~1966年2月号)。また、ミステリー文学資料館編『甦る推理雑誌8「エロティック・ミステリー」傑作選』(光文社文庫、2003年)では土井稔「青田師の事件」(1964)が読める。オール讀物新人賞の第30回(1967年上半期)の受賞作は土井稔「隣家の律義者」だがこれも同一人物だろうか。朝倉三郎名義では、第9回(1963年)江戸川乱歩賞で『妻よねむれ』が最終候補になっている(この年の受賞作は藤村正太『孤独なアスファルト』)。また『宝石』増刊にも何度か作品が掲載されている。
第三席の宇美吉彦は本名・緒方正太郎。1965年3月号への寄稿文に「折から進行していた知事選挙を材料に四五〇枚のものを書きましたところ、それが乱歩賞選外佳作のビリに入りましたが選評はさんざんでした」とある。タイトルから判断するに、第5回(1959年)最終候補作の『当選させたのは誰だ』(大雅寛生)のことだろうか。この年の受賞作は新章文子『危険な関係』。
第7回(1965年募集、結果発表されず)
1965年12月25日締切
第6回(1963年募集)の結果発表が遅れたため年次コンテストの1964年の募集は中止となり、1965年12月25日を締切とする第7回年次コンテストの開催が告知された(1965年4月号、p.90)。入選作は1966年7月号で発表するとされたが、実際には結果発表はされていない。選考委員は第6回と同じく開高健、佐野洋、村松剛、結城昌治、生島治郎の5人が予定されていた。
日本版『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』は1965年12月号をもって終刊となり、続く1966年1月号からは『(Hayakawa’s)ミステリマガジン』と改題して刊行されている。この際に米国『EQMM』との契約が一度切れ、1966年3月号から同誌との新契約が結ばれている。第7回日本コンテストがうやむやになってしまったのはこのことが関係しているのだろうか。
最終更新:2014年11月04日 22:30