2013年6月30日公開
スペイン最初の探偵小説
釘 (1853年、スペイン語原題 El clavo)
ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン (Pedro Antonio de Alarcón、1833年3月10日 - 1891年7月19日)
スペインの探偵小説史を扱ったパトリシア・ハート(Patricia Hart)『The Spanish Sleuth: The Detective in Spanish Fiction』(1987年)の第1章「Detective Biginnings in Spain」(
Googleブックスで閲覧可能)によれば、スペイン最初の探偵小説はペドロ・アントニオ・デ・アラルコンが1853年に発表した「釘」(原題 El clavo)だとするのが通説だという。探偵小説の嚆矢とされるエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」は1841年の発表なので、その12年後の作品ということになる。
この「釘」は戦前に邦訳がある。
- ペドロ・ド・アラルコン「釘」(『世界短篇小説大系 探偵家庭小説篇』[近代社、1926年3月]、pp.261-303、谷口武[1896-1960]訳)
- ペードロ・デ・アラールコン「釘」(世界探偵小説全集第1巻 田内長太郎・田中早苗編『古典探偵小説集』[博文館、1930年4月]、pp.232-271、訳者名記載なし)
- 訳者は編者である田内長太郎(??-1947)または田中早苗(1884-1945)か? 付属の月報で編集部が「主として近代の部を受持たれた田中早苗先生」云々と書いているので(ゆーたさん[@latteteddy]から頂いた情報)、訳者は田中早苗かもしれない。
当ページではこのうち、『古典探偵小説集』の方から「釘」の全文を翻刻する。こちらの訳文の方がずいぶんと読みやすかったからである。
なお未読だが、アラルコンが1875年に発表した長編『醜聞』(El escándalo)も、岩波文庫版(高橋正武訳、上巻1952年12月、下巻1953年2月)の訳者あとがきによれば、幾分か探偵小説的な手法を使った作品だそうだ。
釘 ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン(訳者不明、『古典探偵小説集』[博文館、1930年4月]より)
一
乗合馬車で長旅をするときは、その合客が気のいい人達で、趣味も欠点もなるだけ自分と同じものをもっていて、相当に教育があって、無遠慮にならない程度に親しみがもてること――これが何よりも望ましいのだ。
ところが、その馬車の戸口を入ったとき、車内に喘息やみの見っともない婆さんだの、馬車に腰を据えるときまって眩暈がはじまるという御婦人が乗り合わせていて、煙草が吸えなかったり、合客のつれた子供が、金切り声でやたらにおしゃべりをしたり、キイキイ喚いたりしていると、実にうんざりするものだ。
諸君はときどき、すばらしい美人と乗り合わせたい欲望に駆られるだろう。例えば、齢のころは二十歳から三十ぐらいまでの未亡人(三十六まではいい)で、談話が面白くて、時の経つのを忘れさせるといったような相手であれば、願ったり叶ったりだ。とはいえ、諸君は仮にそんな野心が起こったとしても、利口な人なら直ちにその考えを駆逐するがよい。なぜって、そうした幸運というものは、普通の人間にはまア滅多に恵まれないからである。
ところが、一八四四年の秋だったが、私は或る荒れ模様の晩に、乗合馬車の扉をあけたときは、実際そうした野心をたっぷりともっていたのであった。
そのとき私の買ったのは二番切符だったが、切符売り場で聞けば三番切符はまだ出ないというから、客は二人っきりにちがいなかった。それで一番切符を買った者はどんな客だろう――それが気がかりでたまらなかった。
「今晩は。」
馬車に入りながら挨拶をしたけれど、返事がない。車内はまっ暗で何も見えない。「チョッ、合客は聾か、啞か、それとも居睡りをやっているのか。」と私は思った。それから再び大きな声で、
「今晩は。」
と怒鳴ったが、やはり返事がない。
十頭立ての乗合馬車は、そのときもう轆々と駆けだしていた。
いったい合客は男か、女か。どっちにしろ、人の挨拶に対して何故返事をしないのだろう。マッチを擦って見とどけたくも、私はその時分は煙草を喫まぬので、マッチをもたなかった。で、相手は絹の女服か、それともオーヴァコオトかと怪しみながら、そっと向こうの席へ手をのべたが、何の手ごたえもない。
そのときだ、暴風雨の前触れとして、電光一閃闇をつんざいたのは。と、私はその光で、馬車の中には自分のほかに誰も乗っていないことを確かめた。私はあまりのことに、カラカラと独り笑いをした。が、次の瞬間には、かの一番切符を買った客はいったいどうしたのか、気がかりになって来た。
半時間も経って馬車が次の駅についたので、私は車掌にそういって、カンテラで車内をしらべて貰おうと思っているところへ、一人の女が入って来た。
黄色いカンテラの灯影に彼女を見たとき、私は夢ではないかと思った。その女は顔の少し蒼ざめた、しとやかな美人で、深々と喪服をつけていた。私がひそかに望んでいた若い未亡人なのである。
で、この見知らぬ女を扶けて車に乗せると、彼女は私の隣の座席に腰をかけながら、
「ありがとうございます。今晩は。」
そう挨拶をしたが、その声がいかにもやさしく、寂しそうであった。
「終点のマラガ【Málaga、スペイン南部の都市】までたった五十哩しかないのが残念だ。」とその瞬間に私はふと考えた。「これがカムチャッカまでも行くのなら、どんなによかっただろう。」
車掌が扉をしめきると、車内はまたまっ暗だ。こんなときに稲妻が二三度光れかしと思ったけれど、生憎あらしは止んでいた。空はいつの間にか霽れて、蒼白い星影がちらちらのぞきはじめた。けれど、星の光では何も見えない。
私は談話の端緒をつけようとして、一生懸命に口をきいたが、女はごく簡単に受け答えをするだけであった。
「御気分はいかがですか。」
「ありがとうございます。もうさっぱりしました。」
「あなたも、マラガへいらっしゃいますか。」
「はい。」
「アルハンブラはお気に召しましたか。」
「そうでもございません。」
「グラナダからお出でになりましたか。」
「はい。」
「外は湿っていたでしょうな。」
「ええ、ひどい降りでございました。」
彼女は何分にも談話を避けたい風であった。私は何か奇抜な話題をもちだそうとして頭をひねったけれど、格別面白い問題も思いつかないので、仕様事なしに、しばらく黙って考えこんでいた。
いったいこの女は、何故グラナダ【Granada、スペイン南部の都市、アルハンブラ宮殿が有名、マラガとの距離は約90km】から乗らずに、次の駅から乗ったのか。こんな若い美人が何故夜の独り旅をするのだろう。ほんとうに未亡人だろうか。何故かくも打ち萎れているのか。勿論そんなことを私の口から訊ねる権利はないが、この女に対して異常の興味を感じないわけに行かなかった。
彼女は一晩中まんじりともしなかった。呼吸づかいや、ときどき洩れる溜め息でそれがわかった。私も実は眠つかれないので、一度彼女に訊いてみた。
「御気分がわるいんじゃありませんか。」
「いいえ、ちっとも。けれど、貴方のお眠りをお妨げして済みません。」
「僕はちっとも眠かアないが、あなたが御病気じゃないかと思って。」
「わたくしは、何処も何ともございません。」
そのくせ苦しそうな声であった。
とうとう朝の太陽がのぼった。何というすばらしい美しさだったろう。いや太陽でなく、彼女のことをいっているのだ。その美しい顔にも眼の底にも、一脈の哀愁がただよっていて、何ともいえない魅惑があった。
そのすばらしい服装や、些細な仕草にも気品が備わっている点から察して、まさしく身分ある女にちがいなかった。平生は劇場の特等席で、高価な宝石類をあまた身につけて、崇拝者達に取り捲かれている貴婦人かと思われた。
われわれ二人は、コルメナー【Colmenar、コルメナル】でちょっと下車して一しょに朝餉をとったが、それからは、彼女も前よりはよほど打ちとけて来た。で、私は再び馬車に乗るとき、心の中で自分自身にいった。「フィリップよ、いよいよお前に運が向いて来たぞ。こんないい機会は今後二度とあるまい。」と。
二
私は馬車の中で、思いのたけを彼女に打ちあけてから、はっと後悔した。というのは、彼女は私の告白を聞くと急に、今までとは打って変わって、氷のような冷たさを見せたからである。私はすっかり当てが外れて、いうばかりなく失望した。けれど彼女はやさしく答えた。
「どうぞお気にかけないで下さい。わたくしは恋というものが恐ろしいのでございます。」
「どうしてですか、奥さん?」
「わたくしの心臓はもう死んでおりますの。生命までもと思いつめた男から欺された経験がございますので――」
そこで私は大いに哲理をにおわせるような仕方で説き立てたいと思った。それにはまた、それ相当な極まり文句がいくらもあるので、口先まで出かかっていたけれど、それは思い止まった。彼女は実際、正直なところをいったのである。そして馬車が終点のマラガへついたときに、彼女が私にいった言葉は、恐らく一生忘れようとしても忘れることの出来ないものであった。
「いろいろ御親切にしていただいて、ありがとうございました。それだのに、わたくしの名前も所番地も申しあげずにお別れするなんて、ほんとうに失礼でございますが、お許し下さいませ。」
彼女はそんなことをいったのである。
「では、これっきり会わないと仰るんですか。」
「ええ、ええ、貴方のためにもそれがいいのでございますわ。」
そして、まんざら不機嫌でもなさそうな微笑とともに、繊細な手を私の方へさしのべて、
「どうぞわたくしのために、神様へお祈りして下さい。」
私はその手を握りながら、無言で慇懃に腰をかがめた。
彼女は迎えに来ていた立派な四輪馬車に乗りこんだが、再び私の方へ会釈を与えると、馬車はそのまま行ってしまった。
それから二ヶ月経って、私は思いもかけず彼女に邂逅ったが、それについては後でゆっくり叙べることとして、その前にまず一人の友人を訪ねたことから話そう。
或る日の午後、私は古ぼけた二輪馬車に乗って、コルドバ街道をやたらに揺すぶられていた。その旅の目的は、コルドバ【Córdoba、スペイン南部の都市】附近にあった自分の所有地を検分かたがた、グラナダ大学時代の同窓でその時分判事をやっていた親友のところへ二三週間泊まり込もうと思ったのであった。
さてこの友人の家へ行くと、非常に喜んで私を迎えてくれた。清々しい気持ちのいい家だったが、すべての家具調度の類が、柄にもなく優雅な趣味でまことに申し分なく飾り立ててあるのが、第一に私の目を驚かした。
「おい、サルコ、」私はびっくりしていった。「君は僕に沙汰なしで結婚をしたな。親友を疎外するとはひどいじゃないか。」
「僕は結婚なんかしやしないよ。そればかりでなく、一生結婚しないつもりだ。」
と判事は悲しげにいった。
「そんなら結婚したんじゃなかったんだな。だが将来ともに結婚をしないと頑張るわけは、僕にはわからない。多分冗談だろう。」
「冗談なものか。ほんとうにそう決心したのだ。」
「何という変わり方だろう。君は結婚主義の急先鋒で、この二年間というものは、僕に女房を持て持てと手紙ですすめて来たではないか。その君がいつの間に宗旨がえをしたんだい。ははア、何かあったんだな、不幸な出来事が――」
「僕に?」
「そうさ。何か事件があっただろう。結婚主義の君が、こんなだだっ広い家に独りぽっちで暮らしているっていうことが、そもそも変だからな。わけを聞かしてくれないか。」
すると判事は私の手をかたく握って、
「そんなら何もかも白状しよう。おそらく世の中に僕ほど不幸な男は又とあるまい。ところで今日は埋葬式が一つあって、この辺の人達がみんな墓地へ行くので、僕も形式にしろ、出かけなければならないんだ。君も一しょに行かないか。墓地へゆく途中が散歩にいい場所だから、きっと気に入るだろう。そして途々僕の一生を破滅させた事件を話そうではないか。君はそれを聞いた上で、女というものに対する僕の憎しみが正しいかどうかを判断してくれたまえ。」
やがで草花を植えこんだ歩道をあるきながら、判事は次のような話をした。
『今から二年前に、僕は……で次席検事をやっていた時分、上官から休暇をもらって、セヴィラ【Sevilla、セビーリャ、スペイン南部の都市】へ出かけて一ヶ月間休養したことがあった。
そのとき僕の泊まったホテルに、一人の若い女客がいて、何でも寡婦だということだったが、彼女がその町へやって来た理由がはっきりしないと同様に、誰もその身元を知らなかった。何しろすばらしい美人なので、その落ちついた長逗留や、非常に金持ちらしいことや、友達も知人も絶対にないことや、いつも悲しそうに萎れている様子などが、いろいろな噂の種になっていた。
彼女の室と僕の室が丁度向き合っていた関係から、玄関や階段ですれちがうごとに、言葉は交わさないけれど、お辞儀をするだけでも、僕は嬉しくってたまらなかった。しかしもともと知らない女だし、紹介してくれ手もないので、容易に近づきがたいのには弱った。
ところが二週間目になって、運命はいい機会を与えてくれたのである。その晩僕は芝居見物に行っていたが、遅く帰って来ると、まったく一種の錯覚から、自分の室へ入るつもりで、ふと彼女の室の扉をあけてしまった。美人はランプのそばで静かに読書をしていたが、僕を見るとびっくりした。僕の方ではそれ以上に当惑して、挨拶も出来ずに、わけのわからない言葉を口の中でもぐもぐいっているだけであった。僕のその慌て方があまりひどかったので、室を取りちがえたことを彼女は疑わなかった。
僕はもう逃げるより仕方がないと覚悟をして、いきなり戸口の方へ駆けだそうとすると、彼女はいとも慇懃に声をかけた。
「いいえ、貴方、お疑りするのではありません。今度は間違いでなく、お近いうちにぜひお遊びにいらして下さい。」
それから三日目になって、僕はこの招待に応じようと決心した。勿論、僕は狂おしきまでに彼女に惚れこんでいたのだ。何だかえらい幸福が待っているようでもあるし、またひょっとすると、ひどい目に遭いそうな予感もあった。けれど僕は三日目の晩に敢然として彼女の室をおとずれた。そしてその晩はしばらくそこで談しこんだ。
そのときの話によれば、彼女は名をブランカ【Blanca、「白」の意】といって、生まれは都のマドリッドだが、今は不幸にして、寡婦ぐらしだということであった。
彼女は僕のためにピアノを弾いたり、歌をうたったりして、それから僕の職業だの、家族のことなどを詳しく訊ねたが、その一語一語にもこまやかな愛情があらわれていた。で、僕の魂はその晩から彼女の奴隷になってしまった。今もそう思いこんでいるから、おそらく永久の奴隷だろう。
その翌くる日も早速彼女を訪問したが、それからというものは、毎日、午後となく、晩となく、彼女の室で話しこんだ。僕達はお互いに惚れ合ったのだ。だがそのくせ、お互いに「恋」という言葉は、ただの一度も口に出したことはなかった。
ところが、或る晩、彼女はしみじみとこんなことをいった。
「わたくしは愛情のない結婚を強いられましたの。そして結婚をしますと、間もなく良人を憎みはじめました。今は良人は死んでしまいましたけれど、わたくしがどんなに苦しんだかは、神さまがよく知っていて下さいます。わたくしは今となって、恋というものがよくわかりました。恋は天国か地獄かでございますわねえ。わたくしのこれまでは、地獄でございました。」
その晩は、僕は眠れなかった。まじまじと眼をあいたまま、ブランカのこの最後の言葉を考えたが、とにかくこの女は僕の魂を揺すぶったのだ。果たして僕は彼女の天国だろうか。それとも、彼女が僕の地獄なのであろうか。
そのうちに一ヶ月経って、僕の休暇はおしまいになった。病気を口実にすると休暇をひきのばして貰えるのだが、それをやっていいのかわるいのか思案にくれた揚げ句に、それとなくブランカの考えを訊いてみると、
「何故わたくしにそんなことを御相談なさいますの?」
彼女は僕の手を執って、熱心に問いかえした。
「何故って、僕はあなたを恋しているから――驚いてはいけませんよ――」
「いいえ、些とも――」
といいながら、彼女は心もち顔が蒼ざめたが、両手で僕の頭をだきしめるようにして、その美しい唇へおしつけた。
僕は更に一ヶ月間の休暇を申請して、君にもいろいろ御面倒をかけたが、おかげで許可になった。まったく君があのとき斡旋してくれたおかげなんだ。
僕のブランカに対する関係は、恋愛どころの騒ぎではなかった。まさに有頂天、熱狂、狂信!――その他何とでも呼んでくれたまえ。僕の情熱は日毎日毎に募って行った。そしてその翌くる日は、又もや新しい幸福の予想が展開するのであった。けれど僕はときどき、或る神秘的な、取り止めのない恐怖に襲われた。彼女も同様の思いがしていたことは、僕にはよくわかった。つまり僕たちはお互いに別れることが怖かったのだ。
「僕たちは出来るだけ結婚を急がなければならないね。」
或る日僕がブランカにこういうと、彼女は妙な顔をした。
「えっ、貴方はわたしと結婚をなさるおつもり?」
「そうだよ、ブランカ。あなたは僕の誇りなんだ。世間の奴等にあなたを見せびらかしてやりたい。僕は恋人であるあなたをすっかり自分のものにしなければならない。あなたは純潔で、気高くて、天使のような女なんだからね。」
「けれど、わたしは貴方とは結婚が出来ません。」
何という不可解な女だろう。しかも彼女は決してその理由をいわなかった。
そのうちに僕の休暇はとうとう終わったので、明日はいよいよ別れねばならぬということを彼女に告げると、
「別れるんですって? そんなことは出来ません。」彼女は叫んだ。「これほどお慕いしているのに、どうして別れられるものですか。」
「僕だってあなたを恋っていることは同じだよ。ねえ、ブランカ。」
「そんなら勤めをお止めなさい。わたしはお金持ちです。二人で遊んでいても楽に生活してゆけますわ。」
と、彼女はその柔らかい手で僕の口をふさいで、物を云わせまいとした。が、僕はその手に接吻をしてから、そっと押しのけて、答えた。
「生活費を提供してくれるというその志は嬉しいがね、僕は妻になる女がそういってくれるなら、自分の前途を棒にふって、勤めを止めてもかまわないんだが、僕と結婚の出来ない女から貢がれることは困る。」
すると、ブランカは数分間考えこんでいたが、やがて顔をあげると、ごく静かに、しかし固い決心を色に現していった。
「そんなら、貴方の妻になりましょう。その代わり貴方は職業を棄てて下さい。今からお役所へ帰って、事務の方を整理して、また休暇をとってこのセヴィラへ引っ返していらっしゃるまで、どれだけおかかりになりますの。」
「一ヶ月。」
「では、ここでお待ちしましょう。きっと一ヶ月以内に帰って来て下さいね。そうするとわたしは貴方の妻になります。今日は四月の十五日ですから、五月十五日には間違いなくね。」
「大丈夫ですよ。」
「誓いますか。」
「誓います。」
「貴方はほんとうにわたしを愛して下さいますか。」
「生命よりも。」
「きっとお約束の日に戻って来てね? そんなら行っていらっしゃい。」
僕はその日に出発した。そしてうちへ帰るといきなり、花嫁を迎えるべく家の中を準備しはじめた。それから君も知ってのとおり、僕はもう一度休暇を請願しておいて、非常な敏速さで役所の方の事務の整理をやったので、二週間目の終わりには、セヴィラへ行けるまでにそれが片づいた。
ここで特にいっておくが、その二週間の間に、僕は六本も手紙を書いたけれど、ブランカは只の一度も返事をくれなかった。
僕は大急ぎで出発して、セヴィラへ着くとまっすぐに我々のホテルへ行ったが、待っている筈のブランカがいない。訊いてみると、彼女は僕が前に発った三日目に、行く先もいわずに立ち去ったということだ。
それを聞いた僕の憤りと、失望は如何ばかりであったかを察してくれたまえ。彼女は行く先について僕に只の一行も書き残したものがなかった。そうなると僕の方でも、最初に約束した五月の十五日までセヴィラに滞在して、彼女がホテルに帰って来るかどうかを確かめようというような考えは毛頭起こらぬのだ。
それから三日目に僕は断然役所に帰った。そしてブランカのことはさっぱりと忘れてしまおうと努めた』。
わが友サルコ【Zarco、「明るい青色」の意】が右の話を語り終わってから間もなく、我々は墓地に行きついた。
そこは低い石垣をめぐらした、あまり広くもない地域で、墓石が林のように突っ立っていた。
西班牙では墓地が狭くなって来ると、新しい棺を埋めるために、古い棺は無残にも掘りかえされる。随分乱暴な話だが、この国では決して珍しくないことで、その掘りかえされた骨や髑髏は、墓地の片隅に乾草のように積み重ねられているのだ。ところで我々はそのとき墓地の隅を通ると、そこに例の人骨が堆く積まれているのを見て、サルコ判事と私は、これらの髑髏は金持ちのか貧乏人のか、貴族か平民か、いずれにしてもこうなっては果敢ないものだなどと談して、悵然としたのであった。
と、判事は突然びっくりしたように立ち止まって、一つの髑髏を拾いあげたが、
「見たまえ、これは確かに釘だね。」
そうだ、彼の手にもった髑髏は、一本の長い釘が脳天から打ちこまれて、その尖端が口腔のところへ抜けだしていたのである。いったいこれは何の意味だろうか。判事は推理をはじめた。
我々は直きにぞっとした。
「天罰というものは恐ろしいもんだな。」と判事はいった。「この死者に対して兇猛な罪悪が行われたにちがいないが、僕がこれを拾わなければ、永久に露見しなかっただろう。僕は職務上、どうしてもこの犯人を絞首台へ引き出さずにはおかない。」
三
サルコは犯罪事件については、西班牙中でも頗る俊敏な判事として聞こえた男であった。
彼は髑髏を拾った日から直ちに捜査をはじめたが、二三日経って、判明したところによれば、その髑髏のついていた屍体は粗製な木造の棺に収めて葬られたもので、後でその棺を掘りかえした墓掘り人夫は、棺材を薪にするつもりで自分の家へ持ち帰ったが、幸いにもまだ焚かずにあったので、判事がそれをしらべると、蓋に埋葬の日附けと共に、A・G・Rという死者の姓名の頭字が記されていた。
そこで判事は早速、附近のあらゆる教会の教区簿をしらべると、一週間目に、左の記入あるものを発見した。
……村のサン・セバスチアン協会に於いて、一八四三年五月四日、定規の儀式により、故ドン・アルフォンソ・グチエレス・ロメラール【D. Alfonso Gutiérrez del Romeral】の葬儀を執行し、遺骸は墓地に埋葬せり。死者はこの村の住民なれども、急死を遂げたるがゆえに、聖礼もうけず、懺悔もなさざりき。行年三十一歳。彼はマドリッドの住民ドンナ・ガブリエーラ・サハラ・デル・バリエと結婚せるも、夫婦の間に子なし。
判事はこの教区の坊さんの書いた埋葬書きを私に示しながら、いった。
「この通り、すべてが明白になったよ。僕は一週間以内に犯人を捕まえてみせる。医師の診断は脳溢血ということになっているが、実際は脳天に釘を打ちこまれて即死したのだ。証拠の釘は見つかったから、あとはそれを打ちこむのに使った鉄鎚を発見すればいいんだ。」
附近の人々の証言によれば、このロメラールという人は、マドリッドからこの土地へ移って来た、若い、裕福な地主だったが、マドリッドに於いて美しい婦人と結婚をした。ところが死ぬる四ヶ月前に、この細君は自分の生家の方でしばらく遊んで来るといって、マドリッドへ出かけて行った。それから三ヶ月半経って、四月の末に村へ帰って来たが、彼女が帰ってから約一週間後に、ロメラール氏は死んだのである。
こうして突然良人に死なれたので、細君は悲歎のあまり、病気になった。それからというものは、あまりに寂しくて、何につけても亡夫の思い出の多いこの土地には、とても長く住まっていられないというので、五月の半ば少し前にそこを引きはらって、マドリッドの方へ移った。それは良人が死んでから十日か十二日目のことであった。
死んだロメラール氏の召使い達の証言によれば、この夫婦はとかく円満を欠いて、ときどき醜い喧嘩をやったそうだ。氏の死ぬる八日前まで三ヶ月半も夫婦が別居したのは、結婚当時からこの両人の間にわだかまっていた不可解な不和のために、お互いに諒解した上で永久に離別をしたのだと思われていた。
不幸のあった晩は、夫婦ともロメラール氏の寝室にいたが、夜半にベルがけたたましく鳴って、細君の只ならぬ声がしたので、皆が驚いて寝室の方へ駆けつけると、細君は真っ蒼な顔をして戸口のところに立っていたが、ひどく狼狽した風で叫んだ。
「旦那様が卒中です。お医者を呼んでおくれ、早く早く。」
召使い達が室に入ったときは、主人は臥床に横たわったまま、もう死んでいた。間もなく駆けつけた医師は、ロメラール氏は脳溢血で死亡したという診断書を書いたのであった。このドクトルの外に立ち会った三人の医師も、このような死は恐らく脳溢血に相違ないので、少なくとも脳溢血から区別することが出来ないと証言した。
以上のごとき召使い達の申し立てによって、サルコ判事が考えると、最初に呼ばれた医師は、死者の頭髪の中にかくれていた釘の頭に気づかなかったし、その見落としによって非難もうけなかったものと判断する外はなかった。そこで判事は直ちに、ロメラール氏の未亡人であるドンナ・ガブリエーラ・サハラ・デル・バリエに対する逮捕状を発した。
「君はその女が捕まると思うかね。」
或る日私が判事に訊ねると、
「捕まるとも。」彼は確信をもって答えた。
「何故。」
「なぜって、大抵の犯罪事件には、免れがたい宿命がつきまとっていて、何時かしら発覚する端緒が出て来るものなんだ。今度の場合でいうと、髑髏が墓場から掘りだされたために、犯人がひとりでに突き止められるようになるのさ。」
ところがサルコ判事が意気ごんだようには行かないで、ガブリエーラという女の行方はついに発見されなかった。しかしそれから三ヶ月経って、この事件は西班牙の法律にしたがって裁判にかけられた結果、彼女は欠席判決で死刑を云いわたされた。
私はそれから間もなく、来年またサルコを訪問するという約束をして、自分の市へ帰った。
四
私はその冬をグラナダで送ったが、或る晩、左る貴婦人から大舞踏会に招待をうけた。勿論私は出かけて行ったが、そのすばらしい邸宅の階段を登ってゆくと、ちらと一人の女を見かけて、びっくりした。それは雲のごとき南方美人の群れの中でさえ、たやすく見分けられるほど際立って美しい容貌の持ち主であった。しかも私がこの話の冒頭にのべた乗合馬車の合客で、ついに名前も名乗らずに別れて行った、あの不思議な女であったのだ。
私はつかつかと彼女の前へ行って、手をのべて挨拶をすると、彼女もすぐに私を認めた。
「セニョーラ、」私はいった。「僕はお約束をまもって、あなたの居所を探さずにいましたが、意外なところでお目にかかりましたな。今晩はここへいらっしゃるとわかったら、僕は御遠慮する筈でしたのに。だが折角お会いしたのですから、知人としてお談をしてもいいでしょう。」
「貴方は執念ぶかい方ね。」彼女は握手をしながら鷹揚にいった。「けれども許してあげますわ。御機嫌はいかが?」
「さア、わかりませんな。僕の健康――といっても、心の健康をお訊きになるのでしょうが、それはあなたの御健康によってきまるのです。あなたが幸福でありさえすれば、僕も幸福なんです。ときに、あの乗合馬車の中で伺ったハートの痛手というのは、もうお癒りですか?」
「貴方も御承知でしょうが、いろいろな痛手のなかには、永久に癒らないのがございますわ。」
そういって叮嚀に腰をかがめたと思うと、彼女は他の知人に挨拶すべく、すたすた向こうへ行ってしまった。
私は丁度そこへ通りかかった友人に向かって、
「おい、君はあの婦人を知らないか?」
彼女のことを訊ねると、
「彼女は南米の方からやって来た女で、メルケデス・デ・メリダヌエヴァっていうんだそうだ。」
と友人が教えてくれた。
その翌日、私はこの美しいメルケデスを訪問した。彼女はそのとき「七星ホテル」に泊まっていたが、私が訪ねてゆくと、案外にも親友同様の待遇を与えてくれて、一しょにあの驚歎すべきアルハンブラを散歩して、それから晩餐を使った。われわれは六時間も一しょだったが、その間にいろいろなことを語り合った。そして話題が失恋というようなことに触れると、私はサルコ判事の不思議な経験を話さぬわけにゆかなかった。
すると彼女は熱心に傾聴していたが、私が語り終わるのを待って、笑いながらいった。
「そのお話は貴方にもいい教訓ですわ。気心の知れない女などに恋してはいけないっていう教訓ね。」
「茶化してはいけません。これは造り噺じゃないんですから。」
「それはもう、真実のお話でしょう。多分この七星ホテルにも、そうした不思議な女がいますわ。けれど、貴方のお友達がセヴィラで恋した女とは、別人でしょうよ。わたくしは誰とも恋に陥ちる気づかいはありませんから、御安心なすって下さい。何故って、同じ男の方には三度と物をいわないように要心していますの。」
「それは、僕にもこれっきり会わないっていう宣言なんですか。」
「そんなわけではありませんが、わたくしは明日このグラナダを発ちたいと思いますの。そうしますと、もう、二度とお目にかかれないでしょう。」
「二度と会えないんですって? あなたはあの乗合馬車の中でも、そんなことをいわれたけれど、このとおり邂逅ったではありませんか。してみると、あなたの予言もあてにはなりませんな。」
彼女はそれを聞くと、急に顔が蒼ざめた。
「それは運命にまかせましょう。でも、わたくしとしては、永久にお別れするつもりなんですがね。」
と、遽ただしく卓子から起ちあがって、一礼したと思うと、ホテルの階段をさっさと階上の方へ登って行った。
私は正直にいうが、相手がこんな馬鹿にした仕方でわれわれの交際にケリをつけたということが、少し癪にさわった。けれど彼女の顔には、いかにも心苦しいというような表情が見えたので、私のそうした憤慨も、やがて「気の毒な」という感じに変わったのである。
こうしてわれわれは別れた。しかし、これが果たして最後の別れになるかどうかは、神様だけが知し召すのだ。人間という奴はとかく種々なことを企てるが、それらを整理して下さるのは、神様に外ならぬのである。
五
それから四五日経って、私は偶然にもサルコ判事の近所に用事があって出かけて行った序でに、判事の許を訪ねたが、彼は私が前に訪問した時と同じように、寂しそうであった。
彼は恋人だったブランカの消息は、依然として知れなかったけれど、一時だってその女を忘れるひまがないというので、たしかにその女は、彼の運命を左右する者であった。そして失恋した男が誰しもいうように、それが彼の天国であろうと、地獄であろうと、恋しい女にはちがいなかった。
私は到着したその日、彼を役所に訪ねると、彼は例のロメラール事件に関して警官から提出された最後の報告書を読んでいたが、そのとき一人の役人がそこへやって来て、判事に一通の手紙をわたした。それには簡単にこんなことが書いてあった。
是非是非お目もじの上お話申しあげたく、御待ちいたし居り候
サルコ判事様
「誰だい、この手紙を持って来たのは?」
「下男らしい男です。」
「誰に頼まれて?」
「先方の姓名は申しませんでした。」
判事は自分の喫かしていた葉巻の煙をじっと見つめていたが、
「女が判事に会いたいなんて、変だな。君はどう思う、フィリップ?」
と私の意見を訊くので、
「君は裁判官として、この要求に応ずる義務があるね。その女は多分、良人殺しのガブリエーラについて、何か情報をもっているだろう。」
そういうと、
「有理だ。」
サルコは起ちあがると、外套をひっかけ、ポケットに護身用の短銃をしのばせて、早速出かけて行った。
それから約二時間経って、彼は帰って来たが、その顔付きで判断すると、何か大きな喜びがあったらしく、夢中になって私を抱擁しながら叫んだ。
「おい、素敵素敵。」
「どうしたんだい。」
「僕は世界一の仕合わせ者なんだ。」
「どうして?」
「呼び出しの手紙は、あの女からさ。」
「あの女って、ガブリエーラ・サハラかい?」
「馬鹿をいえ。そんな奴じゃない。そら、もう一人の女さ。」
「落ちついて、話してくれないか。もう一人の女って、誰だい?」
「きまってるじゃないか、ブランカさ――僕の恋人、僕の生命――」
「ブランカ?」私はびっくりした。「君を欺した女だね。」
「いや、欺されたと思ったのは、僕の誤解だったんだよ。」
「わけを聞かしてくれたまえ。」
「ねえ、ブランカは死ぬほど僕を愛しているんだ。」
「えっ、君はほんとうにそう思うのか?」
「僕はブランカとセヴィラのホテルで別れたのは、君にも話したように、四月の十五日だが、一ヶ月後の五月十五日に再会するという約束だった。ところが僕が発つと間もなく、ブランカは家庭上の要件で至急の手紙が来たので、すぐマドリッドへ帰ったが、どうせ五月十五日までは僕に会えないと思って、そのままマドリッドにいたんだそうだ。しかし僕の方では一日も待ち遠いので、約束より半月も早くセヴィラに引きかえして、ホテルへ行ってみると彼女がいないものだから、早計にも欺かれたときめてしまって、彼女を待たずに引きあげたのだ。僕はそれから二年間というものは、煩悶のうちに過ごして来たんだが、思えば馬鹿な話さ。」
「けれど、彼女は手紙一本くれなかったっていうじゃないか。」
「僕の自宅の所番地を忘れたそうだから、仕方がない。」
「可憫そうに、君は一所懸命そう信じようとしているなら、それもよかろう。ところで結婚は何時だい? こんなに長く暗黒な夜が君につづいた後なんだから、結婚の太陽がさぞ晴々しく昇るだろうな。」
「笑ってはいけない。」サルコは真面目にいった。「そのときは君に介添えをお願いしたいんだが。」
「それは喜んでお引き受けするよ。」
人間はいろいろなことを目論んだとしても、結局それを取捨するものは神様の外にないのだ。
私達二人はサルコの自宅に差し向かいでおしゃべりをやっていると、コツコツと戸口を叩する者がある。何しろ夜半の二時頃なので、私達はわけもなく愕然とした。
そのとき戸を開けたのは召使いだったが、それと同時に、一人の男が呼吸せききって飛びこんで来た。その人はよほど慌てて駆けて来たと見えて、暫くは物もいえなかった。
「判事、いい知らせをもって来たぞ。」と彼は呼吸を整えながらいった。「素敵な知らせだ。大勝利大勝利。」
その人はサルコ判事の友人で、同じ裁判所の検事だった。
「話してくれたまえ。」判事は椅子をすすめながらいった。「こんな時刻に、どうしてそんなに泡をくってやって来たんだい。」
「喜んでくれ。ガブリエーラ・サハラを逮捕したんだ。」
「ええ、彼奴が捕まったか?」
判事は有頂天になって叫んだ。
「うむ、とうとう捕まったよ。一ヶ月前から刑事に後を蹤けさせていたが、ついに捕まえて、今は監房に叩きこんである。」
「ではすぐに監獄へ行って、訊問しよう。」と判事は勇み立った。「僕の書記を向こうへ呼んでおいてくれ。典獄にも聞かしてもらいたいね。そして重大事件だから、君も立ち会ってくれたまえ。僕が初めから考えたように、彼女はやはり証拠をつきつけられると、犯罪事実を拒みはしなかったんだな。ところで君は、」と私に向かっていった。「仮に書記補という資格で、我々と一しょに行ってみないか。そうすると、規則にふれないで監獄の中が見られる。」
けれど私はそれに答える余裕はなかった。或る恐ろしい疑いが私の頭の中に芽をふき出して来て、何だか獰猛な獣の爪で心臓を掻きまわされるような気がしたのである。ガブリエーラという女と、ブランカという女は、ことによると同一人物ではなかろうか。この疑いだ。それで、私はそれとなく検事に訊いてみた。
「そのガブリエーラは何処で捕まりましたか。」
「ライオン・ホテルで――」
私はぎょっとした。が、その場合沈黙をまもるより外はなかった。何かいえば判事に迷惑がかかりそうだし、私もそれについて確信がもてなかったのだ。
その際に私がガブリエーラとブランカとが同一人物だと主張したならば、気の毒なサルコ判事はどうなるか。彼は恐らく仮病をかまえるか、でなければこの国に居たたまらないで、出奔しただろう。そこで私の取るべき唯一の道は、沈黙をまもって、神様の為すがままにまかせる外はなかったのである。
やがて判事の命令が警務部長や典獄に伝えられた。そしてそんなに遅い時刻だったにも拘らず、良人殺しのガブリエーラが捕まったという報道がいつの間にひろがったのか、野次馬連は、その大罪を犯した美しい女を一ト目見ようとして、犇めき合っていた。
私はそれでもなお、良人殺しのガブリエーラと、判事の恋人であるブランカとは別人であれかしという一縷の望みに取りすがった。
六
わわわれが監獄についたのは、朝の四時だったが、そこの広間には灯火が煌々と点され、典獄はロメラール氏の髑髏を入れた黒い箱を前にして、われわれを待っていた。
判事は長い卓子の中央の席についた。検事はその右に坐り、警務部長は腕ぐみをして突っ立っていたが、私と書記は判事の左に坐った。数名の警官や刑事が出入り口を警戒めた。
やがて判事はベルを鳴らして、
「ドンナ・ガブリエーラ・サハラを呼べ。」
と看守に命じた。
私は死にそうな気がした。そして戸口に注意する代わりに、わが友判事がこの恐ろしい疑念について解決がついているだろうかと危ぶみながら、その顔を見た。と、彼は真っ蒼になって、苦痛の呻きを制めようとするかのごとく、両手で咽喉を引っ掻きながら、救いを求めるように私の方を見るのだった、
「冷静に冷静に。」
私は指で唇をおさえながら囁いた。「僕はわかっているよ。」
そのとき、不幸な友はふらふらと椅子から起ちあがった。
「判事!」
私は厳かに叫んだ。たった一声だったが、この一語が、裁判官たる義務と、今起こらんとする危険とを十分に警戒したので、彼はぐっと自制して席にかえった。けれどもその眼が光っていなければ、まったく死人と思われるくらいだった。そうだ、人間としての彼は死んでしまって、判事としての彼が生きているばかりであった。
私はこれだけ確かめたとき、初めて罪人の方へ眼をやったが、おお神様、ガブリエーラは、啻にわが友が深くも恋したブランカであったばかりでなく、私が曾て夜の乗合馬車で合客となり、後にグラナダに於いて邂逅した女――他人には南米から来たと吹聴していた、美しいメルケデスだったではないか。
しかし何といっても、われわれの前に立ったその女は、良人殺しの罪によって死刑を宣告された大罪人にちがいないのだ。尤も、彼女が潔白なら、自分で証明する機会がまだ残されている。彼女は果たしてそれが出来るだろうか。そのことがサルコと私にとって、たった一つの望みの綱であった。
ガブリエーラ(今はほんとうの名で呼ぼう)は、死んだ者のように血の気が失せて、しかし表面は冷静だった。それは自分の潔白を信ずるためか、それとも判事の弱点を握っているせいだろうか。
彼女は側目もふらずに一心に判事の方ばかり見つめていたが、それは判事を勇気づけるためか、威嚇するためか、それとも、彼の熱愛したブランカは決して殺人者でないということを彼に信じさせるためなのか、私にはわからなかった。
けれどガブリエーラは、判事がいつまでも無感覚で、死人のような表情をつづけているのを見ると、初めて他の人々の方を見わたして、愬えるような眼付きをしたが、その視線が私の上に落ちると、少し顔を赤らめた。
そのとき、サルコ判事は漸く呆然自失の状態から目ざめたようであった。で、声をはげまして審問をはじめた。
「お前の姓名は?」
「ロメラールの寡婦で、ガブリエーラ・サハラと申します。」
被告は静かに答えた。
判事は身ぶるいした。さてはブランカというのは、全然仮名であったのだ。しかも彼女は、たった三時間前にサルコをライオン・ホテルへ呼び出して、正式に結婚することを承諾した女ではないか。
幸いにも人々の視線は一斉に被告の方へ向けられていたので、誰も判事の悲痛な表情に気づいたものはなかった。それに被告の並びなき美貌とその落ちついた態度を見ると、これが良人殺しの大罪を犯した女とは、どうしても思えなかった。
判事はやがて、例の髑髏を入れた黒箱を開けるように命じたが、そのときの彼はまるで骸子一つに生命を賭けた男のように緊張していた。
「マダム!」判事は火の出そうな眼付きをして鋭く云った。「ずっと前に進んで、この髑髏に見覚えがないか、見て御覧。」
典獄が箱の中から取り出した髑髏を一目見ると、被告はアッと声をあげて後ろへととび退がったが、
「おお、アルフォンソ! アルフォンソ!」
と叫びながら、今にも気を失いそうだった。
「此女の仕業にちがいありません。」
とすべての役人が判事の方へ向きなおって囁いた。
「あなたは、良人の生命を奪ったこの釘に、見覚えがあるだろう。」
判事はすっくと椅子から起ちあがって問い詰めたが、彼はまるで墓場から抜け出した死人のような面色だった。
「はい。」
女は機械的に答えた。
「つまりあなたが良人を殺したというのだな。」
「判事さま、わたくしはこの上生きのびようとは思いませんが、死ぬる前にたった一言申しあげたいことがございます。」
判事は椅子に居直ったが、眼付きで私に訊いた。「彼女は何をいうつもりだろう?」と。けれど、私はあまりの浅ましさに呆然として、それに答えるどころではなかった。
そのうちにガブリエーラは、その大きな黒眸がちの眼で天の一方を見つめながら、両手を握りしめて起ちあがった。
「わたくしは告白します。良人が亡くなりました時は、召使い達もドクトルも知ってのとおり、わたくしとたった二人で寝室に居りましたが、そのとき、わたくしが良人を殺したに相違ありません。はい、わたくしは大罪を犯しました。けれどそれは皆んな、或る男がわたくしにそうさせたのでございます。」
判事は思わず身ぶるいした。が、強いて感情を制しながら勇敢に問いかけた。
「それは何という男か。その悪漢の名をいいなさい。」
ガブリエーラは、母親が可愛い子供の顔を眺めるように、限りなき愛情をこめた眼付きで、しげしげと判事の顔に見入って、答えた。
「わたくしの一言で、その人を同じ深みへ引き込むことが出来ます。けれど、そんなことはしたくないばかりでなく、その姓名も申し上げるわけに行きません。何故なら、わたくし達はお互いに愛し合った仲でございます。はい、その人は、今となってはわたくしを救おうという考えもないでしょうが、それでもわたくしは真からその人を愛しています。」
判事はそれを聞くと、半ば起ちあがりそうにして、歎願するような手をさしのべたが、彼女は「いいえ、御用心なさい。人に感づかれると大変です。」と眼色で警告した。そして判事が椅子にかえったのを見ると、また静かに告白をつづけた。
「わたくしはある事情のために嫌いな男と結婚をさせられてしまいましたので、結婚後は一層良人が憎らしく、三年間というものは泣きの涙で暮らしましたが、丁度三年目になって、一人の恋しい人がわたくしの生涯に入って来ました。それは特別の気性をもった、気高い人で、たった一つの欠点は、わたくしをあまりに深く愛したことでございます。わたくしは初め寡婦だといって交際をはじめましたが、正直に実は寡婦ではなくて、良人があると申せば、その人はすぐに離れて行きそうな気がして、打ちあけかねておりますと、やがてその人は、ぜひ結婚をしてくれという熱心な申し込みで、いくら断ってもききません。それでわたくしは、いろいろ煩悶した末、その恋人と結婚がしたいばっかりに、わたくしの体を束縛する良人――性格も素行もわるくて、平常から厭だ厭だと思っていた良人を殺してしまいました。初めは正当なことでもしたように思ったけれど、天罰というものは恐ろしいもので、わたくしは間もなく恋人からは捨てられ、今は生きているのも辛いまでに疲れ果てました。この上は出来るだけ早く死刑に行っていただきとう存じます。」
判事は両手に顔をうずめて、何か考えこんでいる恰好だったが、私がふと見ると、彼は癲癇病者のようにふるえているのであった。
「判事さま。」ガブリエーラはくりかえした。「どうぞ一刻も早く、わたくしを死なせて下さいませ。」
判事はこの囚人を連れ去るように、看守等に合図をした。
ガブリエーラは引いて行かれる前に、凄い顔をして私の方をじろりと見たが、後悔の影は少しもなくて、むしろ誇らしい色があった。
その翌くる日のサルコ判事の苦しみというものは、筆も言葉も及ばぬくらいだった。そしてひどく煩悶した末に、裁判官としての彼は人間としての彼を征服して、とうとう死刑を決定した。
その宣告文は直ちに控訴院へ廻されたが、その日彼は私にいった。
「僕はこれから或るところへ出かけるんだが、君は僕が帰って来るまで待っていて、あの不幸な女を見守ってくれ。だが慰問はしない方がいいよ。君が会いに行くと、彼女は慰められるよりは、侮辱されたように思うといけないからね。それに、僕の行く先は聞かないでくれ。僕はまさか自殺をするような、そんな浅墓な男ではないつもりだ。じゃ左様なら。君に御心配をかけたことは許してくれたまえ。」
それから二十日の後、控訴院はガブリエーラ・サハラの死刑を決定した。と同時に、彼女は死刑囚の監房へ移された。
いよいよ死刑執行の日となったが、サルコ判事はまだ帰って来ない。
その朝、絞首台は広場の中央に立てられ、はや無数の群衆がその周囲に集まっていた。
私は早くから監獄へ出かけて行って、戸口のそばに立った。私はサルコから頼まれたとおり、彼になり代わって、最後まで彼女を見護ってやる義務があると思ったからだ。
やがて看守等に護られながら、獄舎の戸口を出て来たガブリエーラの姿を見ると、まったく見違えるほど痩せ衰えてしまって、手にした小さな十字架像を唇へもって行くさえ堪えがたい風情だった。
「僕ですよ、セニョーラ。何かお役に立つことでもありますなら――」
私は彼女が傍へ通りかかるのを待って、そっと囁いた。彼女は落ちくぼんだ眼をあげて、私を認めると、
「ああ、難有うございます。この最期に貴方がついていて下さると、どんなに心強いでしょう。」
そういってから、附添えの坊さんに向かって、
「教父さま、この親切なお友達と、一言お談してもよろしいでしょうか。」
「いいとも。」
敬虔な坊さんから許しが出ると、ガブリエーラは私に話しかけた。
「あの人は何処にいますの?」
「今日は来ていません。」
「神様があの人を祝福し、幸福にして下さいますように! 貴方は、あの人に会ったら仰って下さい――神様はもう許して下さったでしょうけれど、わたくしはあの人にも許して戴かなければなりません――そして、わたくしはこの恋ゆえに生命を棄てるのですが、この期に及んでも、真からあの人を愛しているっていうことを、貴方から仰って下さい。」
丁度絞首台の階段の下まで来たので私はそこで別れなければならなかった。涙が一ト雫、その悩める胸に残っていた涙が、彼女の頬を伝わった。
「どうぞあの人に仰って下さい、わたくしはあの人を祝福しながら死んで行きます。」
そういったとき、突然、雷鳴のような喊声がどっとばかりに起こった。群衆は動揺し、叫び、狂人のように踊ったり、笑ったりしたが、その中から癇高い声がはっきりと響きわたった。
「特赦だ! 特赦だ!」
広場の入り口のところに、一人の馬上の男が現れた。と思うと、絞首台を目がけて狂気のごとく馬を乗り入れた。その男は手にハンケチを振りながら、群衆の喊声を圧して高々と「特赦だ! 特赦だ!」
それはサルコ判事だった。
彼は口から泡を吹いている馬の手綱を絞首台の脚につないでから、一枚の紙片を警務部長にわたした。
ガブリエーラはそのとき階段を二三段登りかけていたが、恋人の姿を見ると、無限の愛と感謝をこめた視線を投げながら、
「神様が貴方を祝福して下さるように!」
一声叫んだと思うと、そのまま失神してそこへ仆れてしまった。
立ち会いの官憲が特赦状の署名と印璽をしらべて承諾すると、判事と坊さんはすぐに囚人の傍へ駆け寄って、彼女の腕や手首を縛った縄を解いて、呼吸を吹きかえさせようとした。
けれど何の効もなかった。ガブリエーラはあわれ絶息していたのであった。
校訂
すべて新字体、新仮名遣いに直した。【】で書いた注は当サイトで付けたものである。
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送り仮名の変更 |
送り仮名の変更
『古典探偵小説集』での表記→このページでの表記
※登場順
乗り合せて→乗り合わせて
仮りに→仮に
起ったとしても→起こったとしても
売場→売り場
向ふの→向こうの
光り→光
隣り→隣
溜息→溜め息
取捲かれて→取り捲かれて
打って変って→打って変わって
極り文句→極まり文句
仰しゃる→仰る
揺ぶられて→揺すぶられて
泊り込もう→泊まり込もう
気持→気持ち
驚ろかした→驚かした
変り方→変わり方
暮して→暮らして
生れ→生まれ
魂ひ→魂
果して→果たして
揚句→揚げ句
終った→終わった
柔かい→柔らかい
現はして→現して
代り→代わり
引返して(ひっかえして)→引っ返して
突立ってゐた(つったってゐた)→突っ立っていた
珍らしく→珍しく
聞えた→聞こえた
日附→日附け
於て→於いて
埋葬書(まいそうがき)→埋葬書き
召使(めしつかひ)→召使い
真蒼な(まっさおな)→真っ蒼な
少くとも→少なくとも
申し立→申し立て
見落し→見落とし
免かれがたい→免れがたい
群(むれ)→群れ
美くしい→美しい
持主(もちぬし)→持ち主
向って→向かって
序に→序でに
顔付→顔付き
仕合せ→仕合わせ
呼出し→呼び出し
欺むかれた→欺かれた
介添→介添え
お引受けする→お引き受けする
差向ひで→差し向かいで
暫らく→暫く
立合って→立ち会って ※「立合う」類1か所、「立会う」類2か所 →「会」に統一
出入口→出入り口
引掻きながら→引っ掻きながら
厳そか→厳か
眼付→眼付き
とび退ったが→とび退がったが
申し込→申し込み
行先(ゆくさき)→行く先
附添(つきそえ)→附添え
現はれた→現れた
立会→立ち会い
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誤植と思われるものの修正 |
誤植と思われるものの修正
生活してゆけます → 生活してゆけます
僕にもこれっさり → 僕にもこれっきり
登っ行った → 登って行った
立合って → 立ち会って (「立合う」類1か所、「立会う」類2か所 → 「会」に統一)
泣きの涙で暮らしまたし → した
特別の気象をもった、気高い人 → 気性
筆も言葉も及ばぬくらぬ → い
「難有うございます」はそのまま残した
「呆然自失」もそのまま残した(通常は「茫然自失」)
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人名のカタカナ表記の統一 |
人名のカタカナ表記の統一
サルコ(Zarco)
- 何か所か「ザルコ」になっていたが、スペイン語の発音として正しい「サルコ」に統一
ドンナ・ガブリエーラ・サハラ・デル・バリエ(doña Gabriela Zahara del Valle)
- 「ヴァリエ」と「バリエ」が1回ずつ出て来たが、「バリエ」に統一。また、1度だけ「ガブリエラ」が出て来たが、「ガブリエーラ」に統一。
アルフォンソ(Alfonso)
- 「アルフォンソ」と「アルフォンゾ」の表記があったが、スペイン語の発音として正しい「アルフォンソ」に統一
なお、フィリップはスペイン語原文では「Felipe」(フェリペ)である。
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その他 |
その他の変更箇所
- えゝ〱、貴方のためにも → 「ええええ」では不自然なので、読点を挿入して「ええ、ええ」とした
- 有頂天、熱狂、狂信!― → 「―」を「――」とした
- 御待ちいたしをり候 → 全文新仮名遣いに直すという方針だったが、候文で「おり」という表記にするのも違和感があり、かといってこの箇所だけ「をり」を残しておくのもそれはそれで違和感を覚える人がいるだろうと思われるので、少々強引だが、漢字表記にして「御待ちいたし居り候」とした
- 「冷静に々々。」 → 「冷静に冷静。」とすべきかとも思われるが、「冷静に冷静に。」とした
- 視線を投げながら → 発話のカギ括弧の前には必ず「、」か「。」が付されているが、この箇所のみどちらもない。単なる脱落だろうと考え、末尾に「、」を付加した
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入力・校訂:Dokuta
使用テキスト:博文館《世界探偵小説全集》第1巻 田内長太郎・田中早苗編『古典探偵小説集』(1930年4月10日発行)、pp.232-271
※表題ページでは「田内長太郎・田中早苗編」となっているが、奥付けでは編者は「新青年編輯部」となっている。訳者は不明。心当たりのある方はご連絡ください。
2013年6月30日公開
解説
スペイン語の原文は、スペイン語圏最大級の電子図書館「ミゲル・デ・セルバンテス・バーチャル図書館」で公開されている。
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誤訳かと思われる箇所 |
誤訳かと思われる箇所
何か所か、日本語で読んでいて意味が通じない箇所がある。同一作品の谷口武による訳文(ペドロ・ド・アラルコン「釘」『世界短篇小説体系 探偵家庭小説篇』近代社、1926年3月)と比較する。
(1)
自分と結婚できない人から貢がれることは困るというサルコ判事に対して、考え込んだ末のブランカの返答
『古典探偵小説集』
「そんなら、貴方の妻になりましょう。その代わり貴方は職業を棄てて下さい。今からお役所へ帰って、事務の方を整理して、また休暇をとってこのセヴィラへ引っ返していらっしゃるまで、どれだけおかかりになりますの。」
谷口武訳
「わたくしはあなたの妻になりましょう。それからまた、お勤めをやめてくださいとお願いすることも、よしますわ。どうぞ、いったんお役所へ、お帰りなすってくださいまし。で、あの、お仕事をきちんとお片づけになって、もう一度、休暇をとってこのセヰ゛ルラへもどってくださるのに、どのくらい日数がかかりますの?」
結論から書くと、この箇所はスペイン語原文では「no quiero que abandones tu carrera」(貴方が貴方の仕事を辞めることをわたしは望まない)なので、『古典探偵小説集』の訳は誤訳で、谷口訳が正しい(※スペイン語学習経験のある友人に聞きました)。
『古典探偵小説集』の訳だと、ブランカは「職業を棄てて下さい」といったあとに「休暇をとって」戻ってくるようにいっており、矛盾がある。実際、ブランカにこういわれたサルコ判事は、職場に休暇を申請したうえで急いで仕事を片付け、約束のホテルへと戻っている。これはサルコ判事が「職業を棄てる」という約束を破ったわけではない。そもそも、ブランカはサルコ判事が「職業を棄てる」ことは望んでいないのである。
(2)
ロメラール氏にの死ついて
『古典探偵小説集』
間もなく駆けつけた医師は、ロメラール氏は脳溢血で死亡したという診断書を書いたのであった。このドクトルの外に立ち会った三人の医師も、このような死は恐らく脳溢血に相違ないので、少なくとも脳溢血から区別することが出来ないと証言した。
以上のごとき召使い達の申し立てによって、サルコ判事が考えると、最初に呼ばれた医師は、死者の頭髪の中にかくれていた釘の頭に気づかなかったし、その見落としによって非難もうけなかったものと判断する外はなかった。
谷口武訳
そして、そのとき呼び迎えられた医師は、セニョオル・ロメラルは脳充血で死んだのだという証明をしたのであった。
三名の鑑定医は、ロメラルの場合のようにしてもたらされた死は、到底卒中と見分けることの出来ないものであるという供述をした。で、ロメラルが亡くなった際にその枕頭へ呼ばれた医師は、牲となった男の髪の毛のなかにすっかり隠されてしまっていた釘の頭を、探そうなどとは思ってみもしなかったのであるし、それかと言ってその見落しを、如何なる意味から言っても、責められるところは無いのであった。
この箇所の原文は確認していない。
『古典探偵小説集』の「その見落としによって非難もうけなかったものと判断する外はなかった」の意味が通じない。谷口訳の「それかと言ってその見落しを、如何なる意味から言っても、責められるところは無いのであった」なら意味が通る。
『古典探偵小説集』ではロメラール氏の死に4人の医師が立ち会ったことになっている。谷口訳の方では、サルコ判事が三名の医師に対して「脳卒中と、釘を頭に打ち込まれたことによる死は区別できるか」と質問し、「見分けることは出来ない」という回答を得ている。そしてサルコ判事は、脳溢血だとする診断書を書いた医師を非難することはできないと判断したのである。
(3)
ガブリエーラ・サハラを逮捕したとの知らせを聞いたサルコ判事のセリフ
『古典探偵小説集』
僕が初めから考えたように、彼女はやはり証拠をつきつけられると、犯罪事実を拒みはしなかったんだな。
谷口武訳
それからまた、セニョオル・ロメラルの頸を管理する護衛も布告しなくちゃならないね。なにしろ、その犯人の女は、犯罪の証拠物件を目の前につきつけさえすれば、かならず、あの怖るべき殺人を否認するようなことは無いだろう、というのが、最初からの僕の持論だったのだからね。
『古典探偵小説集』の訳文だと、すでにガブリエーラ・サハラに証拠となる頭蓋骨を見せたように読める。谷口訳の方では、サルコ判事が「証拠の頭蓋骨を目の前につきつければ、彼女が殺人を否認するようなことはないだろう」と考えている(つまりまだ証拠をつきつけてはいない)。これも谷口訳の方が正しいだろう。(原文は確認していない)
以上の3か所は、意味が通じない箇所についての注釈。下の(4)はそういうわけではないが、『古典探偵小説集』の訳と谷口武訳がだいぶ違っているので、比較できるようにしておく。
(4)
語り手のフィリップから、なぜ犯人が捕まると確信しているのかと尋ねられたサルコ判事の返答
『古典探偵小説集』
「なぜって、大抵の犯罪事件には、免れがたい宿命がつきまとっていて、何時かしら発覚する端緒が出て来るものなんだ。今度の場合でいうと、髑髏が墓場から掘りだされたために、犯人がひとりでに突き止められるようになるのさ。」
谷口武訳
「なぜかといえばだ、どれを見てもみんな、判で捺したような、きまりきった犯罪沙汰ばかりころげている中に、ときおり、いわば劇的な宿命とでも言えるような、決して外れっこのない事件が、起こってくるものなのだ。ということを、ほかの言い方で言って見ればだねえ、骨が、証拠となるためにお墓からころげ出すというような場合には、もう判事にとっては、為すべき事は実に少いのだ。」
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「釘」のもっとも探偵小説らしい部分が邦訳版では縮約されていることについて |
「釘」のもっとも探偵小説らしい部分が邦訳版では縮約されていることについて
「釘」は一読して傑作だと思ったが、探偵小説としては物足りなく感じる人が多いのではないだろうか。探偵役たるサルコ判事の探偵行動や「推理」がほとんど描かれていないからである。ただ、訳文だけでそう考えるのは少しまずいようだ。というのも、私はスペイン語は読めないが、ネット上で公開されている「釘」のスペイン語本文と訳文を機械翻訳を使いつつざっと比較してみたところ、どうやらサルコ判事の探偵行動が描かれた部分に大幅な縮約があるらしいことが分かったからである。
このページで翻刻した『古典探偵小説集』の訳文と、1926年の谷口武による訳文は読み比べてみると大きな違いはないので、おそらく両者はともに原典の英訳版(または仏訳版?)かなにかから忠実に翻訳したものだと思われる。ただ、その翻訳版が縮約されたものだったのだろう。「釘」では第2節の最後でサルコ判事が釘の打ち込まれた髑髏を発見し、第3節でその髑髏が誰の物なのか、そして犯人が誰なのかを捜査する。第3節の冒頭は『古典探偵小説集』の訳文ではこうなっている。
サルコは犯罪事件については、西班牙中でも頗る俊敏な判事として聞こえた男であった。
彼は髑髏を拾った日から直ちに捜査をはじめたが、二三日経って、判明したところによれば、その髑髏のついていた屍体は粗製な木造の棺に収めて葬られたもので、後でその棺を掘りかえした墓掘り人夫は、棺材を薪にするつもりで自分の家へ持ち帰ったが、幸いにもまだ焚かずにあったので、判事がそれをしらべると、蓋に埋葬の日附けと共に、A・G・Rという死者の姓名の頭字が記されていた。
そこで判事は早速、附近のあらゆる教会の教区簿をしらべると、一週間目に、左の記入あるものを発見した。
この箇所に対応するスペイン語の原文は以下の通り(とにかく、分量が全然違うことに注意)。
Mi amigo Zarco era un modelo de jueces.
Recto, infatigable, aficionado, tanto como obligado, a la administración de justicia, vio en aquel asunto un campo vastísimo en que emplear toda su inteligencia, todo su celo, todo su fanatismo (perdonad la palabra) por el cumplimiento de la ley.
Inmediatamente hizo buscar a un escribano, y dio principio al proceso.
Después de extendido testimonio de aquel hallazgo, llamó al enterrador.
El lúgubre personaje se presentó ante la ley pálido y tembloroso. ¡A la verdad, entre aquellos dos hombres, cualquier escena tenía que ser horrible! Recuerdo literalmente su diálogo:
El juez.- ¿De quién puede ser esta calavera?
El sepulturero.- ¿Dónde la ha encontrado vuestra señoría?
El juez.- En este mismo sitio.
El sepulturero.- Pues entonces pertenece a un cadáver que, por estar ya algo pasado, desenterré ayer para sepultar a una vieja que murió anteanoche.
El juez.- ¿Y por qué exhumó usted ese cadáver y no otro más antiguo?
El sepulturero.- Ya lo he dicho a vuestra señoría: para poner a la vieja en su lugar. ¡El Ayuntamiento no quiere convencerse de que este cementerio es muy chico para tanta gente como se muere ahora! ¡Así es que no se deja a los muertos secarse en la tierra, y tengo que trasladarlos medio vivos al osario común!
El juez.- ¿Y podrá saberse de quién es el cadáver a que corresponde esta cabeza?
El sepulturero.- No es muy fácil, señor.
El juez.- Sin embargo, ¡ello ha de ser! Conque piénselo usted despacio.
El sepulturero.- Encuentro un medio de saberlo...
El juez.- Dígalo usted.
El sepulturero.- La caja de aquel muerto se hallaba en regular estado cuando la saqué de la tierra, y me la llevé a mi habitación para aprovechar las tablas de la tapa. Acaso conserven alguna señal, como iniciales, galones o cualquiera otra de esas cosas que se estilan ahora para adornar los ataúdes...
El juez.- Veamos esas tablas.
En tanto que el sepulturero traía los fragmentos del ataúd, Zarco mandó a un alguacil que envolviese el misterioso cráneo en un pañuelo, a fin de llevárselo a su casa.
El enterrador llegó con las tablas.
Como esperábamos, encontráronse en una de ellas algunos jirones de galón dorado, que, sujetos a la madera con tachuelas de metal, habrían formado letras y números...
Pero el galón estaba roto, y era imposible restablecer aquellos caracteres.
No desmayó, con todo, mi amigo, sino que hizo arrancar completamente el galón, y por las tachuelas, o por las punturas de otras que había habido en la tabla, recompuso las siguientes cifras:
Zarco radió en entusiasmo al hacer este descubrimiento.
-¡Es bastante! ¡Es demasiado! exclamó gozosamente-. ¡Asido de esta hebra, recorreré el laberinto y lo descubriré todo!
Cargó el alguacil con la tabla, como había cargado con la calavera, y regresamos a la población.
Sin descansar un momento, nos dirigimos a la parroquia más próxima.
Zarco pidió al cura el libro de sepelios de 1843.
Recorriólo el escribano hoja por hoja, partida por partida...
Aquellas iniciales A. G. R. no correspondían a ningún difunto.
Pasamos a otra parroquia.
Cinco tiene la villa: a la cuarta que visitamos, halló el escribano esta partida de sepelio:
以下の解釈はスペイン語から日本語および英語への機械翻訳を使用したものなので間違っているかもしれないが、どうやら原文では、語り手のフィリップ(フェリペ)はサルコ判事の捜査に同行しているようだ。そして、サルコ判事と墓掘り人との一問一答を記録している。2人のやり取りは大雑把にまとめると、「この髑髏が誰のものか分かるか?」「分からない」「落ちついて考えてみろ」「そういえば掘り返したときに棺を持ち帰ってきました。もしかしたらそこにイニシャルだとか、なにかのヒントがあるかも……」「よし、持ってこい」そして墓掘り人が木棺やプレートを持ってくるが、それは粉々になっていてとても元には戻せそうもない。ところがサルコ判事はそれを苦心して復元し、「A. G. R. 1843」という文字列を見出す。すなわち、死者のイニシャルと死去した年である(訳文では「日附け」まで分かったことになっていたが、実際には年しか分かっていなかったようだ)。この手掛かりを見つけたサルコ判事は、「やったぞ! これを導きの糸として迷宮をくぐり抜け、真相に到達してやる!」というようなことをいっている(※あくまでも機械翻訳)。そしてサルコ判事とフィリップ(フェリペ)は休む間もなく近くの教会に向かい、1843年の死者をチェックするが、「A. G. R.」のイニシャルを持つ人物は見つからない。しかし教会を何か所かまわった末(?)、ついに「A. G. R.」のイニシャルにあてはまる人物を発見する。
探偵役とワトソン役が手掛かりを求めて走り回り、その結果苦心して、被害者が誰なのかを突き止める。なるほどこうして見てみると、これはまぎれもなく探偵小説のようだ。おそらくこれを英訳(仏訳?)した人は、探偵小説に興味がない人だったのだろう。こういう探偵活動の部分はむしろ物語を邪魔しているとさえ思ったかもしれない。
そしてこのあとサルコ判事は、死者「A. G. R.」すなわちロメラール氏の元召使いや近所の人から話を聞き、複数の医師からも意見を聞いたうえで、ロメラール氏の妻が犯人だと断定する。ただここでも原文のサルコ判事はもう少し理知的で、妻が犯人だと断定する前に、ロメラール氏の死が自殺だった可能性も考えたりしたうえでそれを否定するというちょっとした論理的推測、推理を行っている(ようである)。
この短編を探偵小説史上で正しく評価するためにも、ぜひとも原典に忠実な新訳がなされることを期待したい。
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ある日本の短編探偵小説(1950年)との類似 |
横溝正史の短編「女怪」(1950年)との類似
当ページ公開3日前の6月27日の夜にTwitterで、スペイン最初の探偵小説とされるアラルコンの「釘」(1853年)を近いうちにサイトで全文公開するとツイートしたところ、それから1時間もしないうちに、ゆーたさん( @latteteddy)から次のようなリプライをいただいた。
「釘」読んでみました。これはもしや横溝正史「女怪」の元ネタじゃないでしょうか。かなり類似点の多い作品です。この作品の載った博文館の全集が出たころは横溝はまだ博文館におりましたから、この作品を読んでいたと考えるのは自然です。( 元ツイートリンク)
「釘」を収録した博文館世界探偵小説全集第1巻『古典探偵小説集』が出たのは1930年。そして横溝正史は1926年から1932年まで博文館に勤務していた。
横溝正史の短編「女怪」は金田一耕助物で、初出は『オール讀物』1950年9月号(木魚庵さんの「 金田一耕助事件簿編さん室―発表順 - 金田一耕助博物館」参照)。早速読んでみると、「女怪」は完全に横溝正史的な作品になっているが、確かに「釘」を下敷きにし、それを換骨奪胎した作品のように思われる。
「女怪」は、横溝正史『悪魔の降誕祭』(角川文庫)に収録されている。この本は現在も新刊で入手可能。気になる方はぜひ読み比べてみてください。
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『古典探偵小説集』について |
『古典探偵小説集』について
『古典探偵小説集』は古今東西の書籍・物語から古典的な犯罪・探偵物語を収録したアンソロジー。聖書外典およびヘロドトス『歴史』のエピソードを収録した 「古代篇」、『ローマ人物語 ゲスタ・ローマノールム』やイソップ物語、セルバンテス『ドン・キホーテ』のエピソードを収録した 「中世篇」、シラーの「太陽の亭主」やアラルコンの「釘」などを収録した 「近世篇」、さらには、「××篇」とは銘打たれていないが、日本の今昔物語集、中国の裁判エピソード集『 棠陰比事』(とういんひじ)、『棠陰比事』の影響下に書かれた井原西鶴の『本朝桜陰比事』(ほんちょうおういんひじ)(1689年)などのエピソードを収録したいわば 「東洋篇」からなる。また、巻末に田内長太郎「古典犯罪探偵小説史」(pp.361-394)、田中早苗「ポオ以降現代まで」(pp.395-441)を収録。
一般的な説ではないと思うが、植田敏郎「ドイツの推理小説とその作家」(東京創元社《世界推理小説全集》第9回配本第9巻 クロフツ『樽』[1956年]、月報『推理』9)では、フリードリヒ・フォン・シラーの1786年の作品「失われた名誉のための犯罪者」がドイツ最初の推理小説だとされている(「モルグ街の殺人」より55年早い!)。これは原題は「Der Verbrecher aus verlorener Ehre」で、『古典探偵小説集』に収録された「太陽の亭主」と同一作品である。
この作品は現在、「誇りを汚された犯罪者」というタイトルでポプラ社百年文庫70『野』(2011年3月)に収録されている。
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1986年に芸林出版から、Pedro Antonio de Alarcón著、岩根圀和編注『El clavo』という本が出ている。「釘」のスペイン語本文に日本語で注釈を施した本のようだ。現物未見。
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最終更新:2013年07月01日 13:38