シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち(2) 北欧編

2012年11月16日

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北欧編(1)欧州でホームズに匹敵する知名度を誇った探偵アスビョルン・クラーグ(ノルウェー)

邦訳:長編1編、短編1編

◆「スカンヂナヴィア探偵文学の三大家」

 スヴェン・エルヴェスタ(Sven Elvestad、1884-1934)というノルウェーの探偵作家の名前を私が初めて目にしたのは江戸川乱歩のエッセイだった。いや、正確には、フランスの探偵作家から江戸川乱歩に届いた手紙の邦訳部分なので、乱歩が書いた文章ではないのだけど。

 江戸川乱歩は1951年、フランスの探偵作家のイゴール・B・マスロフスキー(Igor B. Maslowski、1914-1999)と文通を始めている。当時の日本ではよく知られた存在だったスウェーデンの探偵作家のS・A・ドゥーゼに乱歩が手紙で言及したらしく、その返答としてマスロフスキーは手紙の中でドゥーゼの経歴を紹介している。そしてそれに続けて、スカンジナヴィア探偵文学の三大家を名を挙げている。

江戸川乱歩「パリからの第三信」内、小見出し「スカンヂナヴィアの三大作家」より(『宝石』1952年5月号/江戸川乱歩『子不語随筆』[講談社、1988年]に収録)
 欧洲諸国の探偵小説は日本にはおそらく知られていないでしょう。英米にも全く知られておりません。お手紙にあった日本に知られているというドゥーゼ Samuel August Duse(乱歩註、私は小酒井さんの訳されたドゥーゼの原本を二冊持っているが、それにもただS・A・ドゥーゼとあるだけで、フルネームが分らなかった。マ氏のこの手紙で、はじめてそれを知ったわけである)は二十年以前に歿していますが、彼は非常に才能のある作家です。彼はなかなかの旅行家で、陸軍士官でした。彼の主人公レオ・カリングはスカンヂナヴィアでは非常にポピュラーですが、フランス訳は一冊しか出ていません。
 しかし、スカンヂナヴィア探偵文学の三大家はなんといってもエルヴェスタットSven Elvestad とヘルラアFrank Heller とフリッヒOevre Richter Frich でしょう。この三人はヴァンダインの例の長序*注にも記されています。但し、ヴァンダインは Asbjorn Krag をフリッヒの主人公と記していますが、それは間違いで、あれはエルヴェスタットの主人公です。この人を主人公として長篇が五十冊以上出ています。彼は東はライン河から西はロシア国境に至る地域で、シャーロック・ホームズと同じくらい有名です。《中略》右の三大作家は皆故人となりましたが、これにつづくスカンヂナヴィア派作家はまだ現われていません。右の三人の作品のフランス訳が見つかったら、お送りするつもりです。
  • :ヴァン・ダイン『ウインター殺人事件』の創元推理文庫版(1962年)に「推理小説論」のタイトルで収録。ヴァン・ダインが1927年に編んだ探偵小説アンソロジーの序文。

 「東」と「西」が逆になっているようだが、原文ママである。マスロフスキーによると、スカンジナヴィア探偵文学の三大家といえばノルウェーのスヴェン・エルヴェスタ(引用文中での表記は「エルヴェスタット」)、同じくノルウェーのフリッヒ、そしてスウェーデンのフランク・ヘラーのことなのだという。そして、スヴェン・エルヴェスタが生み出した探偵アスビョルン・クラーグ(Asbjørn Krag)は当時のヨーロッパ(北欧およびドイツ周辺?)でホームズと同じくらい有名だったのだという。

 探偵アスビョルン・クラーグが国境を越える人気キャラクターだったことは、「シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち(1) ドイツ語圏編」で触れたジークフリート・クラカウアーの探偵小説論『探偵小説の哲学』(1925年完成)でも確認できる。この序文では、ポーの指し示した方向を引き継いだ作家としてコナン・ドイル(1859-1930)、エミール・ガボリオ(1832-1873)、モーリス・ルブラン(1864-1941)、パウル・ローゼンハイン(1877-1929)とともにアスビョルン・クラーグの生みの親であるスヴェン・エルヴェスタ(1884-1934)が挙げられている。また論考中では、「合理(ラチオ)を体現しているシャーロック・ホームズ、あるいはアスベルン・クラッグが」(邦訳書p.36)のように、アスビョルン・クラーグの名がホームズとともに並べられている。つまり当時のドイツでは、ホームズと並べてもそれほど違和感がない程度にはアスビョルン・クラーグの知名度があったのだろう(なお同書の訳注では、「主人公アスベルン・クラッグは、ノルウェイのシャーロック・ホームズと呼ばれる」[邦訳書p.3]と紹介されている)。
 また、隣国のスウェーデンで1946年に発表された児童文学作品では、主人公の少年があこがれる探偵としてホームズらの探偵とともにアスビョルン・クラーグの名も挙がっている。詳細は後述するが、このことからも、当時のアスビョルン・クラーグの人気がうかがえる。

 スヴェン・エルヴェスタ、フリッヒ、フランク・ヘラーの三人をスカンジナヴィア探偵小説の三大作家とするのがマスロフスキー自身の発想なのかは分からない。というのは、マスロフスキーも書いている通り、ヴァン・ダインが1927年に探偵小説アンソロジーを編んだ際、その序文でスカンジナヴィア諸国の探偵作家としてこの三人を(この三人だけを)挙げているからである。マスロフスキーはスウェーデンのS・A・ドゥーゼを含めほかにもスカンジナヴィア諸国の探偵作家を複数知っていたと思うが、その中でもこの三人を「スカンヂナヴィア探偵文学の三大家」として取り上げたのは、やはりヴァン・ダインがこの三人を挙げていたというのが影響しているのではないだろうか。

◆スヴェン・エルヴェスタのアスビョルン・クラーグ・シリーズ

 北欧の探偵小説の草創期について簡潔にまとめたものとしては、戸川安宣氏のエッセイ「れっど・へりんぐ 第10回 ミステリ各国史(1) 北欧編(上)」(『推理文学』第15号、1973年12月)がある。戸川氏はこのころスウェーデンのミステリ雑誌『DAST』の編集長のイヴァン・ヘドマン氏と文通しており、このエッセイではその協力を得て北欧の推理小説史を紹介している。スヴェン・エルヴェスタ(1884-1934)はこのエッセイでは、「ジャーナリストとして活躍する一方、創作に励み、地元のオスロはもとより、コペンハーゲンからベルリン、ミュンヘンにいたるまでその名を轟かせていた。取材の為にヨーロッパを旅して回ったが、彼自身の作品も数か国語に訳され、《中略》などの作品は英訳版も刊行されている。彼の作品には、ホームズ型の名探偵Asbjørn Krag が登場する」と紹介されている。

 アスビョルン・クラーグ・シリーズは1900年代(※1900年~1909年)に発表が始まったようだ。シャーロック・ホームズが初めて世に出たのが1887年の『緋色の研究』なので、アスビョルン・クラーグはそれから20年ほど遅れて、思考機械やソーンダイク博士、探偵ダゴベルトらと同時期に登場したということになる。マスロフスキーの手紙(の邦訳)によれば、アスビョルン・クラーグを主人公にした長編が50冊以上出ているとのことだが、これは正しいのだろうか? ホームズの長編は4冊しかないわけで、もし本当にアスビョルン・クラーグ・シリーズが長編だけで50冊以上あるとしたら驚くべきことである。

 スヴェン・エルヴェスタというのはこの作家の本名だが、この作家は探偵小説を発表する際には主にステイン・リヴァートン(Stein Riverton)というペンネームを使っていたようだ。ノルウェーの推理作家団体の名称は「リヴァートン・クラブ」(Rivertonklubben)というのだが、これはこの筆名に由来している。リヴァートン・クラブは1972年に創設され、同年より国内の年間最優秀ミステリに対してリヴァートン賞(Rivertonprisen)の授与を開始。邦訳のあるノルウェーのミステリ作家はほとんどがこの賞の受賞者で、ユン・ミシェレットは1981年と2001年、アンネ・ホルトは1994年(『土曜日の殺人者』)、カリン・フォッスムは1996年(『湖のほとりで』)、ジョー・ネスボは1997年、トム・エーゲランは2009年にこの賞を受賞している。こうして団体および賞の名称としてその名が使われており、まさにスヴェン・エルヴェスタはノルウェーの探偵小説の父といっていい存在なのである。

◆アスビョルン・クラーグ・シリーズの邦訳

 さて、気になるのは、アスビョルン・クラーグ・シリーズの邦訳があるかどうかだ。例によって『新青年』の目録を見てみると、スヴェン・エルヴェスタの作品は1編だけ翻訳されていた。ということで、早速図書館で読んできたのだが――。

  • 「グランド・ホテル怪事件」『新青年』1936年夏季増刊号(17巻10号)、p.446-467、雨石矢兵訳 (著者名表記は「スヴェン・エルヴェシュタット」)

 読んでみると、これは確かにアスビョルン・クラーグが登場する作品だった。ただ、この作品ではなぜかアスビョルン・クラーグは刑事として登場している(作品内での表記は「クラーグ警部」、「クラーグ刑事」、ファーストネームは示されていない)。そしてまた、もしこの作品が翻訳時に改変されたのではなくもともとこういうストーリーの作品であったのだとしたら、最初に翻訳紹介する作品としては決定的に間違っていたというしかない。まずはネタばれなしであらすじを紹介しよう。

 ストーリーは、ノルウェー西海岸の「グランド・ホテル」を謎の老紳士が訪れるところから始まる。どうやら自然科学者であるらしいのだが、なぜこのホテルにやってきたのか皆目わからず、ホテルの泊まり客や使用人の間でも噂になる。そんな折、老紳士の部屋の前でぼんやりとした黒い影を見たという人が現われる。もしかしたら、ホテルの先代支配人の幽霊なのだろうか? 先代支配人の死に関してなにか後ろ暗いところがあるらしい現支配人は慌てる。そしてその後、支配人は死体となって発見されたのだった。支配人は先代支配人の幽霊に殺されたのか? 事件の知らせを受けて、クラーグ警部が駆けつける――。

 さて、結末を反転文字で書いておく。クラーグ警部の調査で、先代支配人は海難事故に見せかけられて現支配人に殺害されたらしいということが分かる。しかし、その死体は見つかっていない。そこでクラーグ警部は、この事件は先代支配人による復讐事件であり、ホテルに宿泊している謎の老紳士こそ先代支配人の変装した姿であると宣言する。しかし――、実は、謎の老紳士の正体はロンドン警視庁のR・ベネディクソンだった。ベネディクソンは、かろうじて生き延びた先代支配人から依頼を受け、先代支配人に対する殺害未遂事件の証拠を集めるためグランド・ホテルにやってきていたのである。ベネディクソンによれば、今回の殺害事件は幽霊騒動をでっちあげたある男が実行したものなのだという。その男は、先代支配人の妻でありその後現支配人の妻になっていた女性に横恋慕し、現支配人を殺害したのである。その犯人の名は――。ベネディクソンが犯人を名指ししようとしたとき、一人の使用人が短剣で自分の心臓を貫いた。ベネディクソンは言った。「これですべてがお解りになったろうと思います」。
 というわけで、この短編ではなんとクラーグは推理を外しており、真相を見破るのはロンドン警視庁のR・ベネディクソンなのである。欧州でその名を轟かせたというアスビョルン・クラーグの日本デビューが一体なぜこんなことになってしまったのだろうか。この作品はもともとこういうストーリーなのだろうか。真相を知るためにも、改めてこの作品をどこかで邦訳してもらいたいものである。

 スヴェン・エルヴェスタの代表作の1編に、中編小説(?)の"Døden tar ind paa hotellet"(死神がホテルに泊まる)(1921年)という作品がある。「グランド・ホテル怪事件」の原典はもしかするとこれじゃないかとも思うが、確認はとれない。

 スヴェン・エルヴェスタの邦訳にはこの短編以外にも、小山正氏のエッセイ「北欧ミステリ徒然草」(『ミステリマガジン』2010年11月号)によれば、『怪盗』という長編作品が戦後すぐに仙花紙本で出ているそうだ。これがアスビョルン・クラーグ・シリーズの作品なのかは分からない(その後入手、次節参照)。

◆S・エルヴェスタード『怪盗』(この節は2012年12月8日追加)

 その後、古書店で『怪盗』を入手することができた。探偵役を務めるのは私立探偵のアスビョルン・クラーグである(この本での表記は「アスビョルン・クラーハ」)。原題やその出版年などは分からない。

  • S・エルヴェスタード『怪盗』(荒井詩夢訳、新東京社、1946年12月20日発行、197ページ) ※訳者名の読みは不明
+ 『怪盗』目次(クリックで展開)
『怪盗』目次
  • 一、ローゼンハイン荘の怪盗
  • 二、カルタ会
  • 三、警視総監の盗難
  • 四、赤毛の男
  • 五、黄色いタキシイ
  • 六、イタリア人フエロ
  • 七、低能児トーロン
  • 八、ダルベイル教授
  • 九、彼の指はインキがついた
  • 十、ダイヤの十字架消ゆ
  • 十一、百万長者と盗賊
(新字新仮名遣いに直した)
+ 『怪盗』冒頭(クリックで展開)
『怪盗』冒頭
 一九〇九年――第一次世界大戦の五年前、北欧ノルウェイの首都クリスチャニア、現在のオスロー市、その警視庁の総監室、時は盛夏の八月二十三日午後のことである。長身細面の警視総監はいかめしい中老の顔に(ママ)悴の影をありありと漂わせて、机上の書類をまさぐりながら
『とにかく我々としては、なし得る限りのあらゆる手段と労力を惜しまなかった。しかし遺憾ながら我々が全能力をあげて日夜活動した結果は、四週間前の捜査開始の線から一歩も前進していない点を認めねばならん。世論は次第に警察陣に対して攻撃的になって来ている。悪いことには、この怪盗のやり口の神秘的な超人的な点が、大衆の興味を著しく惹きつけていること、そのために再びこの連中の活躍を許したならば、激しい攻撃と嘲笑が我々に集まってくるということだ』
 総監と机を隔て相対しているのは、有名な私立探偵アスビョルン・クラーハだ。年齢(とし)は四十をちょっと出たか出ないか、精力的な容貌(かおつき)だが、何故か気の無いそぶり、独り黙然と不味そうに葉巻を口にくわえ、静かに総監の話に耳を傾けている。
『もちろん新聞や市民の攻撃を恐れては居らん。しかし一般の関心がこの様に異常に(たかぶ)るということは、今までの経験からいって、警察の捜索を阻害するばかり、決して有利なことではない。我々としては、この怪盗の人も無げなやり口に一矢(むく)い、世論の昂奮(こうふん)を冷却させる必要がある。私があなたの出馬を懇請したのはこのためです』
 総監はクラーハ探偵のブルドッグのように強靱な頑張りと、鋭い探偵眼とを深く買っている。そのため警視庁の不面目をも顧みず、探偵の出馬を決意したわけでもあり、またこの怪盗の恐るべきやり口に、ほとほと手を焼き困惑し切っていることをも告白したわけでもある。総監は書類の上に再び眼を落した。

(新字新仮名遣いに直し、「廿」は「二十」、「輿論」は「世論」に直した)

 舞台は1909年のノルウェーの首都クリスチャニア(現・オスロ)。ここでは1か月ほど前から、神出鬼没の怪盗による盗難事件が相次いでいた。被害者は上流階級の資産家たちであり、晩餐会の開催中を狙って犯行がおこなわれることが多かった。それでは、犯人もやはり晩餐会に参加している上流階級の人々の中にいるのだろうか? 捜査は一向に進展を見せず、警視総監はついに、私立探偵のアスビョルン・クラーハに捜査への参加を要請する。クラーハは話を聞いただけで、この一連の盗難事件の中でも一番不可解とされていた宝石の盗難事件の謎をすぐに解いてみせる。そして、怪盗を直接捕らえるため、その夜に早速、知人の領事が主催する晩餐会に変名で出席する。しかしなんと、彼がいたにもかかわらず、彼以外の出席者七人の財布がすべてすられてしまうのだった。果たして怪盗の正体は――?

 読んでみると、アスビョルン・クラーグ(クラーハ)は怪盗団に出し抜かれてばかりであまり見せ場がない。ほかの長編でもクラーグはいつもこんな調子なのだろうか……? そして、怪盗団の首領の動機がなかなかの問題である。これは当時の欧州では一般的だっただろうある差別的な認識が動機を成り立たせているので(「差別」自体が動機ではない)、復刊や新訳の刊行などは難しいだろう。

◆アスビョルン・クラーグに憧れる「名探偵カッレくん」(この節は2012年12月8日追加)

 ノルウェーの隣国スウェーデンに、13歳の少年カッレ・ブルムクヴィストを主人公とする児童文学シリーズがある。カッレは平和で特に事件も起こらないスウェーデンの町で暮らしながらも、将来は名探偵になることを夢見ている。作者はアストリッド・リンドグレーン(1907-2002)。カッレくんシリーズは1946年の『名探偵カッレくん』、1951年の『カッレくんの冒険』、1953年の『名探偵カッレとスパイ団』の3作があり、邦訳はすべて尾崎義の訳で岩波書店より刊行されている。

 カッレの父親は食料雑貨店を営んでおり息子にも商売を継いでほしいと思っているようだが、カッレの気持ちは以下のとおりである。

第1作『名探偵カッレくん』(1946年)より引用(尾崎義訳、岩波少年文庫、2005年新版、p.11)
大きくなったら、機会があり次第、ロンドンの貧民窟へでかけるんだ。それとも、やはり、シカゴにするかな? おとうさんは、商売の見習いをやれというんだ。商売をさ! おとうさんはね! いいよ、そんなことしたら、やつらは大喜びさ! ロンドンやシカゴの殺人鬼や盗賊のやつらは。《中略》探偵になるか、さもなくば、何もしないことだ。おとうさんにきめてもらおう。シャーロック・ホームズ、アスビョーン・クラーグ、エルキュール・ポワロ、ピーター・ウィムジイ卿、カッレ・ブルムクヴィスト! 彼は舌打ちした。そして彼――カッレ・ブルムクヴィストは、そのなかで、いちばんえらい探偵になろうと思った。

 カッレが列挙する探偵の2番目に、なんとアスビョルン・クラーグが出てきている。この作品が書かれた1946年当時、ノルウェーの探偵アスビョルン・クラーグは、隣国の少年が憧れの探偵の一人として挙げても不自然ではないぐらいの知名度があったようである。もっとも、カッレがこの中でも特に好きなのは、断定はできないが、ドロシー・L・セイヤーズが生んだピーター・ウィムジイ卿のようだ。『名探偵カッレくん』ではカッレが具体的な探偵の名前を挙げる箇所がこの引用箇所を含め5か所あり(2005年新版 p.11、89、170、171、256-257)、その5か所すべてでピーター・ウィムジイ卿の名前が出てくる。次に多いのがエルキュール・ポワロで、シャーロック・ホームズとアスビョルン・クラーグの名前はこの1か所にしか出てこない。

  • 第2作と第3作は未読。カッレくんシリーズにアスビョルン・クラーグへの言及がある(らしい)というのは、東照氏のブログ「たむ読書&映画&音楽日記」の2008年5月10日の記事で知りました。なお、リンク先で紹介されている『ROM叢書4 失われたミステリ史』(加瀬義雄著)でアスビョルン・クラーグ・シリーズが紹介されているらしいのですが、私がこの本の存在を知ったときには残念ながらすでに品切れで、入手できませんでした。

◆最近の欧米での出版状況

 本国ノルウェーでは、代表作の数編については今まで折に触れ再刊されてきたようだ。ノルウェーのオンライン書店で筆名のステイン・リヴァートン(Stein Riverton)で検索してみると、21世紀に入ってからでは"Jernvognen"(鉄の車)と"Morderen fra mørket"が出ている。『鉄の車』は1909年発表のアスビョルン・クラーグ物の長編で、スヴェン・エルヴェスタの代表作。ノルウェー国立図書館のサイトで無料公開されているので、ノルウェー語が読める方はどうぞ(リンク)。

 『鉄の車』は2005年には"The Iron Chariot"というタイトルで初めて英訳が出ているが、序文にネタばれがあるそうで、amazonの内容紹介にもネタばれがある。ネタばれは気にしないという人だけリンク先を見てみてください(米国amazon ※リンク先ネタばれあり)。
 ロシアのオンライン書店でステイン・リヴァートン(Стейн Ривертон)で検索してみると、やはり何冊かひっかかる。最近では、2011年に『鉄の車』のロシア語訳が出ている(これが初訳ではない)。

 『鉄の車』は2003年にノルウェーの漫画家のJansonが同タイトルで漫画化しており(Jernvognen)、同年のうちに英語版とフランス語版が出ている。この本のamazonの内容紹介文も明確にネタを割ってるのでご注意ください(英語版フランス語版 ※リンク先ネタばれあり)。

 それから、2007年にはノルウェーでスヴェン・エルヴェスタの評伝"Riverton: Sven Elvestad og hans samtid"が出ている。
 代表作の『鉄の車』(1909年)だけでも、ぜひ日本語に翻訳されてほしいものである。

【補足情報】
  • スカンジナヴィア探偵文学の三大家の一人として、ノルウェーからはスヴェン・エルヴェスタのほかにもう一人、フリッヒ(Øvre Richter Frich、1872-1945)という作家が挙げられていた。フリッヒは戸川安宣氏の前掲のエッセイ「れっど・へりんぐ 第10回 ミステリ各国史(1) 北欧編(上)」(『推理文学』第15号、1973年12月)によると、「スリラー、冒険小説のジャンルで活躍した作家で、オスロの Jonas Fjeld 博士という、ニック・カーターやジェイムズ・ボンド型の主人公を創造し、人気を博した」とのことである。なお、『推理文学』のその後の号を確認したが、残念ながら戸川安宣氏のこのエッセイの続き(「北欧編」の下や、ミステリ各国史の2以降)は掲載されていない。

【注:「アスビョルン・クラーグ」というカタカナ表記に関して】
  • 「Asbjørn Krag」のカタカナ表記は、ラストネームに関しては唯一読むことの出来た邦訳「グランド・ホテル怪事件」での表記に従った。またファーストネームに関しては、Webページ上を検索してみたところ「Asbjørn」という名前は現在「アスビョルン」とカタカナ表記するのが一般的であるようなので、それを採用しておいた(ノルウェー語が分かる人からするとちぐはぐな表記に見えるかもしれませんが、ご容赦ください)。ヴァン・ダインの「例の長序」の邦訳では、この探偵の名は「アスブヨルン・クラグ」と表記されている。また、先にも引用したが、『探偵小説の哲学』の邦訳では「アスベルン・クラッグ」とされている。

北欧編(2)北欧の怪盗紳士、フィリップ・コリン(スウェーデン)

邦訳:短編2編

 フランク・ヘラー(Frank Heller、1886-1947)は先ほどのマスロフスキーの手紙でスカンジナヴィア探偵文学の三大家の一人として挙げられていたスウェーデンの作家である。私がこの名前を初めて見たのは、ソ連の推理小説の歴史についての日本語文献を探しまわっているときだった。乱歩は1956年にソ連のスパイ小説作家のロマン・キム(Роман Ким、1899-1967)と文通を始めているが、そのロマン・キムから乱歩宛に届いた手紙で、ソ連で人気の国外ミステリ作家としてイギリスのチェスタートンとともにスウェーデンのフランク・ヘラーの名が挙げられていたのである。

江戸川乱歩「ソ連と中共の近況 ――ロマン・キム氏から第二信――」(『宝石』1957年1月号)(ロシア語の翻訳は原卓也)
 ソ同盟ではもう二十年も前から、チェスタートンと並んで、スイス(原文ママ)の探偵作家フランク・ヘレール〔乱歩註、私達はヘルラー又はヘルレルと読んでいる。戦前柳香書院の飜訳叢書にこの作家の「皇帝の古着」を予告したまま未刊に終り、その後飜訳は一つも出ていない〕の作品が熱心に紹介されています。彼の作品の中ではドクトル・ツィムメルチュール(ドクトル・ツェー)が探偵として活躍し、心理的方法によって犯罪を解明して行きます。

 続く部分では、チェコのカレル・チャペックのユーモラスな探偵物がソ連で人気だということも書かれている。また同じ手紙では、ソ連の推理作家と中国の推理作家の交流のようすなども分かって興味深い。

 フランスのマスロフスキーもフランク・ヘラーの生んだ探偵について言及している。先ほどの引用で《中略》とした部分である。フランク・ヘラーはシリーズ探偵を少なくとも二名生み出していたようで、ロマン・キムはツィンメルチュール博士(Doktor Zimmertür)を紹介していたが、マスロフスキーはそれとは別のフィリップ・コリン(Filip Collin)を紹介している。

江戸川乱歩「パリからの第三信」内、小見出し「スカンヂナヴィアの三大作家」より(『宝石』1952年5月号/江戸川乱歩『子不語随筆』[講談社、1988年]に収録)
またフランク・ヘルラアの主人公 Dhilip(原文ママ) Collin は中部及北部ヨーロッパでは、アルセーヌ・ルパンといった存在です。

 どうやらフィリップ・コリンはアルセーヌ・ルパンタイプのキャラクターであるらしい。

 さて、ここでまたクラカウアーの『探偵小説の哲学』(1925年完成)にご登場いただこう。クラカウアーは序文でポーの後継者としてコナン・ドイル、エミール・ガボリオ、スヴェン・エルヴェスタ(ノルウェー)、モーリス・ルブラン、パウル・ローゼンハイン(ドイツ)の名を(この順で)列挙しているが、それに続けて、やや逸脱しつつも同じ方向を向いている作家として、オーストリアのオットー・ゾイカ、スウェーデンのフランク・ヘラー、フランスのガストン・ルルーを(この順で)挙げている。ここで「逸脱」というのがなんのことを言っているのかはよく分からないのだが、いずれにしろ、1920年代のドイツでスウェーデンのフランク・ヘラーの名が知られていたのは確かなようである。論考中では、「探偵=詐欺師」のタイプのキャラクターの典型として、アルセーヌ・ルパンに続けてフィリップ・コリンについて論じられている。「フィリップ・コリン氏《中略》は、腐敗した社会を些細な違法行為によって攪乱するという道徳的な仕事をやってのける。彼は合法性に対して反乱を起こすサロン異端者である」(邦訳書p.109)とのことである。

 つまり当時のヨーロッパでは、国境を越えて知名度を獲得していた北欧出身の人気キャラクターとして、ノルウェーの名探偵アスビョルン・クラーグと、スウェーデンの怪盗紳士フィリップ・コリンがいたということになる。こうなってくると、ルブランが『ルパン対ホームズ』を書いたように、フランク・ヘラーが『フィリップ・コリン対アスビョルン・クラーグ』を書いていれば面白いのだが――と妄想が広がってしまうが、そういう情報は見当たらない。

 フィリップ・コリンの初登場は1914年だったようだ。1914年の"Herr Collins affärer i London"と1916年の"Herr Collins sällsamma äventyr"(2冊とも短編集?)は、どちらも1920年代に英訳出版されている。前者が『The London adventures of Mr. Collin』(1924年)で、後者が『The strange adventures of Mr. Collin』(1926年)である。1921年発表のフィリップ・コリン物の長編"Herr Collin är ruinerad"も、1925年に『Mr. Collin is ruined』のタイトルで英訳出版されている。
 フィリップ・コリンと同タイプの探偵役としては、モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン(1905年初登場)や、E・W・ホーナング(イギリス、1866-1921)の泥棒紳士ラッフルズ(最初の短編集が1899年)らがいるが、フランク・ヘラーがそれらを読んでいたのかは分からない。

◆フィリップ・コリン・シリーズの邦訳

 乱歩が書いていたように、フランク・ヘラーは『皇帝の古着』(Kejsarens gamla kläder、1918年)という作品が柳香書院の《世界探偵名作全集》(1930年~)で翻訳刊行の予定だった。ところが、全30巻と予告されていたこの全集は5冊で中絶し、『皇帝の古着』は未刊に終わった。この作品は前掲の戸川安宣氏のエッセイによるとフィリップ・コリン物ではなくツィンメルチュール博士物。フランク・ヘラーの代表作で、「デンマーク、スウェーデン、チャイナ三国の陰謀がコペンハーゲンで渦を巻く」話だという。

 さて、例によって『新青年』にはフランク・ヘラーの翻訳が載っている。2編あって、どちらもフィリップ・コリン物だった。

  • 「コリン探偵」『新青年』1924年7月号(5巻8号)、p.198-221、浅野玄府訳 (著者名表記は「フランク・ヘラー」)
  • 「エムプレス・オブ・オセアニア号」『新青年』1931年9月号(12巻12号)、p.264-277、浅野玄府訳 (著者名表記は「フランク・ヘルラア」)

 どちらの作品も、今読んでもなかなか面白い。もし図書館等に赴いて読むという人がいたら、「コリン探偵」の方を先に読むことをお勧めする。

 「コリン探偵」はイギリスの新聞に奇妙な広告が出るところから始まる。広告主はパリのプロタール教授なる人物で、収集家の偏執的な収集癖とそれに伴う精神疲労や記憶力減退などについての調査およびその治療のため、収集癖のある人物からの情報提供を求めるというものだった。その2年後、ロンドンで偽造貨幣・偽造紙幣が大量に出回り始める。無名の青年探偵ジェームス・ケニョンは犯人への挑戦状を新聞掲載し、1週間以内に犯人グループを捕まえることを宣言する。

 「エムプレス・オブ・オセアニア号」では、ロンドン‐アレクサンドリア間を航行するエムプレス・オブ・オセアニア号で金貨が大量に輸送されるとの計画をフィリップ・コリンの一味が聞きつけ、その強奪をたくらむ。重さにして数百キロの金貨を、航行中の船上で厳重な警戒をくぐり抜けてどのように盗むか、フィリップ・コリンの知恵が冴える。

 邦訳のある2作品はどちらもロンドンが主要な舞台となっている。

◆未邦訳のフィリップ・コリン物の長編『千二夜目』(この節は2012年12月8日追加)

 『新青年』1928年新春増刊号(9巻3号)に斎藤俊「フランク・ヘルレル『千二夜目』を奨む」という記事がある。「近頃面白く読んだもの」というコーナーに掲載された書評の1つである。この『千二夜目』というのは、フランク・ヘラーの"Den tusen och andra natten"(英題 The thousand and second night)のことだろう。スウェーデンのあるオンライン書店でフランク・ヘラーの名を検索してみたところ、現在購入可能なのはこの『千二夜目』だけだった。おそらくは、フランク・ヘラーの代表作の1つなのだろう。
 さて、斎藤俊「フランク・ヘルレル『千二夜目』を奨む」によると、『千二夜目』はフィリップ・コリンが登場する作品で、「北アフリカ、チュニスの辺を舞台とした妙な探偵小説」だそうだ。この探偵小説は、以下の3つの点で、「(これ)までの探偵小説に対して、新しい領地への一歩を印するものではないか」と考えられるという。
  • 1.通常の探偵小説では自然描写は主眼とされないが、「『千二夜目』ではこの自然描写が生きている。それ自身幽玄な息を吐いている。と一方、それの醸し出すアラビア風の太陽と熱砂との情景は、完全に筋を生かしている。自然描写を除けば、『千二夜目』は半分以上けし飛んでしまう」。
  • 2.奇怪な現象に対しては説明が加えられるのが普通だが、『千二夜目』では魔法の絨毯や奇怪な呪文などが違和感なく登場している。「奇怪が生の(まま)で放り出されてある。そして(しか)も人に怪訝の念を挿しはさませない」。
  • 3.探偵小説というものはスリリングな展開、ある種の緊張感を前提とするが、『千二夜目』は悠然としており、安心して読める。
 アフリカを舞台にしているというのがまず意外だが、なるほど、この3つの特色を見ると、確かに『千二夜目』はかなり「妙な探偵小説」であるようだ。(引用は新字新仮名遣いに直した)

◆最近の欧米での出版状況

 2008年にフィリップ・コリン物の長編の英訳"Mr. Collin Is Ruined"が出ており、日本のamazonでも購入できる(ハードカバー版ペーパーバック版)。原典は1921年の"Herr Collin är ruinerad"で、新訳ではなく1925年に英訳出版されたものの復刊である。

 ロシアでは21世紀以降では、2004年から2005年にかけてフランク・ヘラーの本が4冊出ている(リンク)が、うち2冊はツィンメルチュール博士物で、ほかの2冊もフィリップ・コリン物ではなさそうである。

 スウェーデン本国では、代表作だけが時々復刊されるという状況のようである。オンライン書店を見てみると、購入可能になっているのは2001年に出た"Den tusen och andra natten"(千二夜目)だけだった。この作品は1925年に『The thousand and second night』のタイトルで英訳出版されている。1990年代には『皇帝の古着』が出たようだが、現在は品切れになっている。

【補足情報】
  • 前掲のワルター・ゲルタイス『名探偵は死なず その誕生と歴史』(原著1953年)でも、特に詳しく論じられているわけではないが、ノルウェーのスヴェン・エルヴェスタとスウェーデンのフランク・ヘラーの名前が出てくる。「英米両国に遙かおくれて、ガボリオ、シムノン、モーリス・ルブラン、ガストン・ルルウなどを擁するフランスとマールテンス、フランク・ヘラー、スヴェン・エルヴェシュタット、デューゼなどが有名なスカンジナビアがつづく。」(邦訳書p.151)。デューゼというのはS・A・ドゥーゼのことだと思うが、「マールテンス」(Martens?)という作家だけは何者なのか分からない。
  • クラカウアーの『探偵小説の哲学』でフランク・ヘラーとともに名前が出てきたオットー・ゾイカ(Otto Soyka、1881-1955)はオーストリアの作家。福本義憲氏によれば、幻想文学で知られるほか、実験的なミステリ小説も執筆したという。1926年の『フィリップ・ゾンロウの事件簿』(Die Erfolge Philipp Sonlos)はホームズ物のパロディだそうだ。(福本義憲「ドイツミステリの忘却装置」および福本義憲「だれが結び目を編んだのか」[ベルンハルト・シュリンク『ゴルディオスの結び目』巻末解説]参照)
  • スウェーデンの探偵小説草創期にはほかに、「ホームズ型主人公 Maurice Wallin の生みの親」であるJulius Regis(1889-1925)という探偵作家もいたそうである(戸川安宣氏の前掲のエッセイ参照)。

北欧編(3)コペンハーゲン警察のアイジル・ホルスト警部補(デンマーク)

邦訳:短編1編

 北欧ミステリ特集を組んだ『ハヤカワミステリマガジン』2010年11月号に、コペンハーゲン警察のアイジル・ホルスト警部補を主人公とする短編ミステリが訳載されている。北欧の最新のミステリが訳されたのかと思いきや、なんとこれ、デンマークで100年も前に書かれた作品だった。作品に付された紹介文によると、作者のパレ・ローゼンクランツ(Palle Rosenkrantz、1867-1941)はデンマーク最初のミステリ作家とされる人物で、弁護士を経て作家となり、小説以外にも戯曲やサイレント映画の脚本などを手がけたとのことである。その名前は「パレ・ローゼンクランツ賞」(Palle Rosenkrantz Prisen)として、デンマーク推理作家アカデミー(Det Danske Kriminalakademi)が年間最優秀ミステリに対して授与する賞の名前にもなっている。このようにパレ・ローゼンクランツはデンマークのミステリ史上で重要な位置を占める作家なわけだが、この号で作品が紹介されるまで、日本のミステリファンの間でその名はほとんど知られていなかったのではないだろうか。

 さて、調べてみると、パレ・ローゼンクランツも例によって『新青年』に邦訳が載っている。1932年新春増刊号(13巻3号)に載った「嫉妬」(p.347-355、訳者名記載なし)という作品がそれだが、これはある男性が妻と自分の友人の仲を怪しみ、嫉妬してある行動に出る……というクライム・ストーリーで、探偵役は特に登場しない。アイジル・ホルスト警部補シリーズの作品が訳されたのは、やはり『ミステリマガジン』2010年11月号が最初ということになるだろう。なお、同号では小山正氏が北欧のミステリ史を簡潔にまとめたエッセイ「北欧ミステリ徒然草」を書いているのだが、このなかで小山正氏はアイジル・ホルストのことを「いわばホームズの異郷のライバル」と書いている。実はこのフレーズが気に入ったので、当ページのタイトルはそこから拝借して「シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち」とさせていただいたのである。

  • アイジル・ホルスト警部補シリーズの邦訳
    • 「理にかなった行動」『ハヤカワミステリマガジン』2010年11月号、p.24-33、服部理佳訳(英訳版からの翻訳)

 アイジル・ホルスト(Eigil Holst)はパレ・ローゼンクランツが1903年に発表した『Hvad Skovsøen gemte』という作品に初登場するようだ。1903年ということは、隅の老人(1901年~)より遅く、思考機械(1905年~)やソーンダイク博士(1907年~)より早いというタイミングである。今まで「シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち」で紹介してきた探偵のなかでは一番早い。ホルスト警部補シリーズが何編ほど書かれたのかは分からない。『ハヤカワミステリマガジン』に掲載された「理にかなった行動」(英題 A sensible course of action、デンマーク語原題不明)は1909年発表の作品だとのことである。

 「理にかなった行動」の舞台は1905年のデンマーク(これは作中で明示されている)。ロシアからやってきた伯爵夫人が、亡き夫の弟が自分を殺そうとしているとして警察に保護を求めるシーンからストーリーは始まる。アイジル・ホルストはいたって常識人であって、妻帯者であり子供もいる。その外見はこの作品では、「人を信頼させずにはおかない風貌」、「甘いマスク」と描写されている。フランス語にも堪能である。なお、これまでに紹介してきた探偵すべてに共通することだが、ワトソン役(相棒・語り手)となる人物は登場しない(「ヨーロッパ諸国編」で紹介するオランダとイタリアの探偵小説シリーズはワトソン役・語り手が登場するようである)。

 ノルウェーの探偵アスビョルン・クラーグやスウェーデンの怪盗紳士フィリップ・コリンは20世紀前半、国境を越えて知られるキャラクターになっていたようだが、デンマークのアイジル・ホルスト警部補に当時どれほどの知名度があったのかは分からない。デンマークといえばドイツの隣国だが、そのドイツのクラカウアーは『探偵小説の哲学』(1925年完成)のなかでデンマークの探偵小説には一切言及していない。また前述のとおり、フランスの探偵作家マスロフスキーは乱歩に当てた手紙の中でノルウェーやスウェーデンの探偵作家について書いているが、やはりデンマークの作家には言及していない。ただ、小山正氏の「北欧ミステリ徒然草」によると、エラリー・クイーンが1943年に、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にホルスト警部補シリーズの短編を採っているそうである。

◆最近の欧米での出版状況

 パレ・ローゼンクランツの"Amtsdommer Sterner"(1906年)という作品は、1908年に『The magistrate's own case』のタイトルで英訳出版されている。米国amazonでこのタイトルを検索してみると、近年複数の出版社から復刊されているようである。探偵小説ではあるようだが、アイジル・ホルスト物なのかは分からない。

 探し方が悪いのかもしれないが、スヴェン・エルヴェスタとフランク・ヘラーとは異なり、パレ・ローゼンクランツの作品はロシアのオンライン書店では見当たらない。デンマークのオンライン書店ではパレ・ローゼンクランツの著作は何件かひっかかる。アイジル・ホルスト初登場作品である『Hvad Skovsøen gemte』は今年(2012年)電子書籍化されているようである。

【補足情報】
  • 戸川安宣氏の前掲のエッセイによると、20世紀初頭、第一次世界大戦前の時期のデンマークで最も知られていた探偵作家としては、パレ・ローゼンクランツとJens Ankerの二人がいた。Jens Anker(1883-1957)は、Robert Hansenという別名でも知られ、「Arne Falkという素人探偵が活躍する二十七編の作品があり、彼はまた“Kriminalromaner”という推理小説史の著書を発表している」とのことだ。「Arne Falkという素人探偵」については気になるが、これ以上のことは分からない。
  • デンマーク推理作家アカデミーのパレ・ローゼンクランツ賞は、邦訳のあるデンマークの作家ではペーター・ホゥが1992年に受賞している(受賞作は『スミラの雪の感覚』)。翻訳作品を国内作品と同様に審査対象としており、ざっと受賞作リストを見てみたところ、翻訳作品が受賞することの方が多いようである。


2012年12月17日追記

 『ミステリマガジン』1972年11月号~1973年12月号に、デンマーク人のターゲ・ラ・コーア(Tage la Cour、ミステリ作家?)とハラルド・モーゲンセン(Harald Mogensen、1912-2002、ミステリ編集者)の共著『殺人読本 : 絵で見るミステリ史』が連載されている。訳者は隅田たけ子。おそらく、英訳版『The Murder Book: An Illustrated History of the Detective Story』(1971年)を翻訳したものだろう。原典は1969年にデンマークで出版された『Mordbogen: kriminal- og detektivhistorien i billeder og tekst』である。
 1973年11月号の「連載12 その他の外国勢」(「12」と表示されているが実際は連載13回目)では、当ページで扱った三人の探偵作家も紹介されている。

 また、先月の時点では知らなかったのだが、新保博久氏の『ミステリマガジン』連載「ミステリ再入門」の「第42回 白夜の国の探偵たち」、「第43回 続・白夜の国の探偵たち」(2003年10月号、11月号)では北欧ミステリが扱われており、第42回の第1節は『名探偵カッレくん』に名前が出てくる探偵「アスビョーン・クラーグ」の正体を探るエッセイになっている。マスロフスキーの手紙を引用し、長編『怪盗』にも言及している。新保氏は『怪盗』について、私立探偵アスビョルン・クラーハと怪盗との変装・追跡合戦は「明智小五郎対二十面相の世界そのものである」と書いている。
(ターゲ・ラ・コーア、ハラルド・モーゲンセン『殺人読本』の存在は、この新保氏の連載の第43回で言及されていたので知りました)



最終更新:2012年12月17日 14:58