2011年5月9日-23日
※未完成
- 短編
- 「婦人探偵の推理眼 =うっとうしい事件=」
- 「ミスター・グローバーの恋」
- 「狩猟ナイフ」
- 「セメンチューク事件」
- 言及
- 渡辺1947、キム第三信1957、袋1957、飯田1965
日本での紹介
- 第13回土曜会(1947年6月21日)
- 東震太郎「中国の探偵小説界」
- 渡辺三樹男「ソ聯の探偵小説界」
次いで、木々氏の紹介を受けて、毎日新聞記者渡辺三樹男氏は、五ヶ年に亘った興味深いソ聯滞留の思い出話の後、「ソ聯の探偵小説界」について左の如く語られた。
「ソ聯にも探偵小説は少い。自分の見聞では、こゝ数年間にわずか二篇、それも一つは脚本である。これは原作が発表されて、上演の後、更に映画化された。「決闘」と題するものである。(改段落)作者は軽い読物で売れているトウール兄弟とシエーニン検事の合作である。ソ聯にはかゝる合作物が多い。上演したのは、二流所の「レーニン・コムソモール名称劇場」であった。スパイ防止の宣伝を内容とするもので、この作の筋はモスコー - 独ソ前線 - ルーマニアのブカレストを結ぶ国際舞台を背景に、飛行機設計者レオニチェフをめぐる、G.P.U.とスパイとの対戦を描いた活劇である。今一つはチェッコの秘密結社の活躍を内容とするものであった。かくの如く、ソ聯の探偵小説界は、取立てゝ云うほどのものを示していないが、昨年、共産党大会の後、プラウダ紙が、「探偵小説振興論(デテクティーブニュイ・ロマン)」と題する評論を掲げ、大いに斯界の奮起を促したことは注目される。」
「決闘」は、原題『Военная тайна(軍事機密)』、1944年に『Поединок(決闘)』(
ロシア語版Wikipedia)のタイトルで映画化。
渡辺三樹男氏の講演で名前が出てきた「シエーニン検事」とは、レフ・シェイニンのことである。
シェイニンの作品が初めて翻訳されたのはこの第13回土曜会の10年後の1957年で、『探偵倶楽部』1957年11月号に「婦人探偵の推理眼 =うっとうしい事件=」(訳:袋一平)が載っている。この直前に発行された『探偵作家クラブ会報120号』で袋一平氏がこの作品を含むレフ・シェイニンの短編集を紹介している。それを見た編集者から、早速翻訳の依頼が来たのだろうか。
「婦人探偵の推理眼」に付された著者紹介
これは「シエイニン選集」ソヴエト作家社、モスクワ、一九五五年版より紹介したもので、シエイニンはもと予審判事、一九二〇年代未期(ママ)から、その手記を新聞雑誌に発表、作家としての経験を積んで、後に探偵小説専門作家となった。長篇には「軍事秘密」「お礼参り」短篇には「カリルの経歴」「狼群」などが有名である。
「婦人探偵の推理眼」の作者名は目次では「レフ・シェイトフ」となっているが、「レフ・シェイニン」が正しい。『探偵倶楽部』は後述するように、ソ連ミステリ紹介の先鞭を付けた雑誌だったが、1959年に廃刊になってしまい、シェイニンの作品の掲載はこの1回だけだった。
その後、『ミステリマガジン』に短編が3度(重複があるので作品数でいうと2作品)訳載されている。
- レフ・シェイニン「狩猟ナイフ」(永井淳訳、『ミステリマガジン』1965年11月号)
- レフ・シェイニン「狩猟ナイフ」(稲垣晴美訳、『ミステリマガジン』1972年1月号)
- レフ・シェイニン「セメンチューク事件」(深見弾訳、『ミステリマガジン』1978年3月号)
ソ連のミステリと言うと、一番有名なのはハヤカワ・ポケット・ミステリで1965年に刊行されたユリアン・セミョーノフ『ペトロフカ、38』だろう。その宣伝の役割を果たすためか、『ミステリマガジン』1965年4月号には、飯田規和「ソ連の探偵小説」というコラムが掲載されている。このコラムでレフ・シェイニン「狩猟ナイフ」が取り上げられているので、同年11月号に「狩猟ナイフ」が訳載されたのは、コラムを読んだ読者の期待にこたえるためかと思う。ちなみに、このコラムでは、シェイニンは以下のように紹介されている。
飯田規和「ソ連の探偵小説」『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』1965年4月号
ソ連の推理小説界の第一人者で、ソ連の推理小説の歴史に新しい道標を築いたのは、何と言っても、レフ・シェイニンであろう。ソ連では彼ほど人気のある作家はほかにはいないと言われている。
約6年後の1972年1月号にもう一度「狩猟ナイフ」が、今度は別の翻訳者の訳で掲載されている。実際に該当号を確認してみたが、掲載に関して何の説明もなく(著者紹介すらない)、なぜ同じ作品が再び訳されることになったのかは分からない。1972年にはユリアン・セミョーノフ『ペトロフカ、38』が再録された『世界ミステリ全集12』が出ているので、それとの関連で、なにかソ連の短編ミステリを掲載しようということになったのかもしれないが、それにしてもなぜ同一作品をわざわざ新訳で掲載したのかは不明である。なお、掲載ページ冒頭で著者名が「エル・シェイニン」となっているが、これは誤りではなく、「レフ・シェイニン」の名前をイニシャル表記にして「Л・シェイニン」とし、「Л(エル)」をカタカナ表記にしたものである。このような表記は、ソ連/ロシアの作家名を挙げるときにはよく使われる。
1978年3月号には、レフ・シェイニン「セメンチューク事件」が掲載されている。訳者は、ソ連・東欧のSFの翻訳で名高い深見弾氏である。この短編は隔月でソ連・東欧ミステリの短編翻訳と長編の要約紹介を掲載する企画「ソ連・東欧ミステリ紹介」の第1回の翻訳短編として掲載された。もっとも、企画「ソ連・東欧ミステリ紹介」は、長編の要約紹介の方は第6回まで掲載されたが、短編の翻訳は残念ながらこの一度きりで終わっている。
(奇妙なことに、深見氏は1991年にベスーグロフ「予審判事の捜査記録」を『ミステリマガジン』1991年12月号に訳載したときに、「ここに紹介する短篇「予審判事の捜査記録」は、おそらく本誌に登場する最初のソ連ミステリではなかろうか。」と述べている。その13年前にご自身ですでにソ連ミステリを翻訳していたことは失念してしまっていたのだろうか)
1947年には数少ないソ連の探偵劇の原作者として早くも日本にその名前が伝えられ、後述する江戸川乱歩とロマン・キムの文通でもその名前が出てきている、「ソ連の推理小説界の第一人者」(飯田規和)のレフ・シェイニンだったが、結局彼の作品が日本では単行本として刊行されることがなかったためか、現在の日本では忘れられた作家となってしまっている。
最終更新:2011年05月19日 14:24