巻二百二十五上 列伝第一百五十上

唐書巻二百二十五上

列伝第一百五十上

逆臣上

安禄山 慶緒 高尚 孫孝哲 史思明 朝義



  安禄山は、営州柳城(熱河省朝陽県)出身のトルコ人とソグド人のあいのこである。本姓を康といった。母は突厥の阿史徳族の出で、巫(みこ)となり、突厥の中にいた。子種にめぐまれず、軋犖山に祈った。これは、突厥の軍神といわれているものである。やがてみごもり、出産するに至ったとき、光がさし込み、テントを照らし、獣が一斉にほえた。占(うらない)をする者が、これを瑞祥といった。范陽節度使の張仁愿は、これを異変の兆候と感じ、テントの中をさがさせ、一人残らず殺そうとしたが、かくまわれて、のがれることができた。母は、神のお告げに従って、姫山と名付けた。幼いとき孤児となり、母が突厥の将軍安延偃に再婚するのについて行った。開元年間(713-741)初頭、安延偃が彼をつれて国に帰った。安延偃の一族の安道買のわすれがたみらも、みな彼の家に頼ってきた。だから安道買の子の季節、貞節は、安延偃を徳とし、約束して両家の子を義兄弟とした。そこで姓を安とし、名を禄山と改めた。成長するにつれ、忍耐強く、賢く、よく人の心を読みとるようになった。六か国語に通じ、貿易ブローカーとなった。

  張守珪が節度使となって幽州(河北省大興県)に来たとき、安禄山は羊を盗んで捕えられた。張守珪がこれを殺そうとすると、彼は、「公は、奚・契丹の両蕃を滅ぼしたいと思われないのか。それなのに、なぜ私のような役に立つ者を殺そうとなされるのか」と叫んだ。張守珪は、その言葉を壮とし、また体堂々として明哲なのをみ、これを釈(ゆる)した。同郷の史思明とともに、捕虜を率いる捉生将となった。彼は、山川の状況や水のある所を熟知しており、あるとき、たった五騎で契丹数十人を捕えてきた。張守珪は、不思議な男だと思い、少しその部下を増した。討伐があると必ず勝ち、そこで一万の大将に抜擢した。彼は大変ふとっていたが、張守珪がそれを醜いと嫌がっていたので、減食し、その気に入るようにつとめた。それによって張守珪は、彼を養子とした。

  開元二十八 (740)年、平盧兵馬使となり、翌二十九年、特進幽州節度副使に抜擢された。このとき御史中丞の張利貞が、河北採訪使となって平盧にやって来た。安禄山は、さまざまな手を使ってへつらい、左右の者に銭を遣って私恩を売った。張利貞は朝廷に帰ると、さかんに安禄山をほめ、それによって安禄山は、営州都督・平盧軍使を授った。使者が往来するたびに、ひそかに賄賂を遣って機嫌をとり、それぞれに自分のことを朝廷に推称するようにしむけた。かくして玄宗は、彼を材能のある者と思うようになった。

  天宝元年(742)、范陽節度使を分け、平盧節度を新設した。安禄山はその節度使となり、柳城太守・押両蕃・渤海・黒水四府経略使を兼ねた。翌二年に入朝し、奏対が天子の御心にかない、驃騎大将軍に進み、また翌年、裴寛に代って范陽節度・河北採訪使となり、平盧節度使を兼任した。安禄山が鎮に帰るにあたり、帝は中書・門下・尚書三省の正員の長官と御史中丞に命じ、鴻臚亭で送別の会を開かせた。

  天宝四載(745)、奚と契丹が唐から降嫁した公主を殺し、離反した。安禄山は、手柄をたてる絶好の機会と考え、彼らの侵掠をのばなしにし、対中国関係を悪化させ、そのうえで兵を出し、契丹を討って帰った。そのとき彼は上奏し、「臣が契丹を討つため北平郡にさしかかったとき、突厥遠征で知られた国初の名将李靖李勣が臣に食を求めたのを夢みたので、廟を建てて祭ったところ、神座の梁に芝が生え、一本が十茎に分かれ、珊瑚盤が重なったようになりました。これは臣の忠誠心が、神霊に通じたからに違いありません」と言った。帝は史館に付して、その功績を顕彰させたが、帝がこのようなデタラメを信じて疑わなかったことは、かくの如くであった。席豫が河北黜陟使になって来ると、またこれに贈賄し、席豫は都に帰ると安禄山をほめそやした。当時、宰相李林甫は、儒臣が軍功で出世し、帝の寵愛が薄れるのを恐れ、専ら蕃人の将軍を採用するよう、帝にすすめた。だから帝は、ますます安禄山を寵愛された。しかし群臣たちは、李林甫の権力を恐れ、反対することができなかった。それから間もなく安禄山が反乱を起こしたが、それは李林甫が原因を作ったようなものである。

  安禄山は表面愚鈍をよそおい、よこしまな心をかくしていた。帝の下問があると、「臣は蕃戎の生れにもかかわらず、恩寵を受けて栄進すること、身に余るものがあります。臣には特別陛下のお役に立つような才能があるわけではありませんから、身をもって陛下のために死にたいと存じます」と奏上した。帝はそれをまことと信じ、憐れまれた。あるとき、皇太子に謁見させたところ、拝礼しなかった。左右の者がつついて注意すると、彼は、「臣は朝廷の儀礼を知りません。皇太子とは一体どのような官でしょうか」と言った。 そこで帝が、「朕が百歳ののち、天子の位を譲るべき者だ」と言うと、「臣は愚なため、陛下を知るだけで、皇太子を知りませんでした。この罪は万死にあたりましょう」と謝り、再拝した。

  当時、帝は楊貴妃を盲愛されていた。そこで安禄山は、貴妃の養子になりたいと願いで、帝はそれを許可された。いつも入認するとき、貴妃を先に拝し、帝を後にした。帝が不可解に思われ、尋ねると、「蕃人は母を先にし、父を後にします」と答えた。帝は大変愉快がられ、楊貴妃の兄の楊銛と姉の韓国夫人虢国夫人秦国夫人の三夫人と、兄弟とされた。帝の彼に対する盲信がそのような状態であったため、やがて彼は天下を奪う野心を持ちはじめた。そして部下の劉駱谷に命じ、都に居て朝廷の隙をうかがわせた。


  天宝六載(747)、御史大夫に進み、妻の段氏は国夫人に封じられた。当時、李林甫が宰相の位にあり、権勢並ぶ者なく、群臣中敢えて対等の礼をする者がなかった。ただ安禄山は、帝の恩寵をたのんで、謁見の仕方が傲慢であった。李林甫は、これをそれとなく悟らせようとし、王鉷にいいつけ、いつも安禄山と一緒に居させた。王鉷も彼と同じ大夫の位にあったが、李林甫が王鉷をみると、王鉷は身をちぢめて拝した。それをみて安禄山も、その権勢にうたれ、思わず襟を正した。李林甫は、一緒に話をすると、いつも安禄山の心の内をみぬいてしまった。そのため安禄山は大層おどろき、神わざだと思い、謁見するときは真冬でも冷汗を流した。李林甫は、このようにしておいて、次第に安禄山に彼を厚遇し、中書に引きたて、自分の支配下においた。そのため安禄山は李林甫を徳とし、彼を「十郎さま」と呼んだ。劉駱谷が上奏して都から帰ってくると、彼はまず、「十郎さまの御機嫌はどうだったか」と問い、李林甫がほめていたと聞くと喜び、「安大夫はよい検校だ」と言っていたとでも言おうものなら、手をかえし、椅子にそりかえり、「ああ、俺は死にそうだ」と言って大喜びした。宮廷役者の李亀年がその仕草をまねると、帝はころがって笑われた。

  年をとるに従い、ますます肥り、腹が緩んで膝まで垂れてきた。そのため両肩を振るい、車を引くような格好をして、ようやく歩くことができる有様となった。しかしそれにもかかわらず、サマルカンドの胡旋舞が得意で、疾風のようにくるくると舞った。帝はその腹をみて、「胡の腹中には何が入っていて、そんなに大きいのか」とからかうと、彼は「ただ誠心だけです」と答えた。いつも駅馬に乗って入するときには、半道ごとに必ず馬を取り換え、人々はこれを「大夫の換馬台」と言った。そのようにしないと、馬が仆れてしまうからである。彼の馬は、五石のものを載せて走るものでなければ、役に立たなかった。

  帝は安禄山のため、親仁坊に第宅を造らせた。宦官に命じて工事を監督させ、これにいましめて、「みんなよく部署をつくせ、安禄山の目玉は大きいから、へたなことをして朕を笑い者にさせないように注意してくれ」と言った。くさりの形をきざんだ宮門、いろいろに組み合わせたすかしぼり、台観や池沼を造り、華やかでおごったとばりをめぐらし、あかね色のぬいとりと金銀を使ってみのや籠やまがきをつくり、衣服や車馬も、天子のものより贅沢であった。

  ある日、勤政楼で祝宴を開き、安禄山の座席を玉座の左にしつらえ、金鶏をあしらった障子を設け、前に特製のこしかけを置き、詔して簾をまきあげさせ、その寵愛ぶりを群臣に示した。皇太子が、「昔から幡坐は、人臣の坐るべきところではありません。陛下が余りに安禄山を寵愛されると、必ずや驕りたかぶった気持ちを起こしましょう」と諌めると、「あの胡人には、異相がある。朕はこれを抑えつけておこうとしているのだ」と答えられた。

  その頃は太平が続き、人々は戦を忘れていた。帝は高齢のうえ、楊貴妃に首ったけで、李林甫楊国忠がかわるがわる政権を握り、政治の大綱は乱れに乱れていた。そのようなわけで、安禄山は、天下を奪おうとする野心をますますはげしくもやしていた。いつも朝堂に昇る竜尾道を通るときには、南北をにらみすえ、しばらくして立ち去った。范陽の北に城砦を築き、雄武城と号した。兵を集め、穀物を積み、同羅(トンラ)や降ってきた奚や契丹やアラブの奴隷八千人を養って仮子とし、家奴の中から弓矢の上手なものを選んで厚遇し、戦馬三万・牛羊五万匹をたくわえた。張通儒・李廷堅・平洌・李史魚・独孤問俗を引きたてて幕府に入れ、高尚に書記をつかさどらせ、厳荘に財物の出納を管理させ、阿史那承慶安太清安守忠李帰仁孫孝哲蔡希徳牛廷玠向潤客高邈李欽湊李立節崔乾祐尹子奇何千年武令珣能元晧田承嗣田乾真を兵卒から引き抜いて大将とした。たくみに胡人の商人を諸道につかわし、毎歳百万を輸納させた。大会のときには、大きな椅子に腰掛け、香をたき、珍奇な品を並べ、胡人数百を左右にはべらせ、商人たちを引見した。犠牲を並べ、坐前で女巫を舞わせ、自分を神になぞらえさせた。また多くの商人に 命じ、錦・綵・朱や紫の衣服数万を買い、謀反の資金とした。一方、毎月、牛やラクダや臓や犬や珍らしい鳥や変った物を進献し、帝の心を毒した。そのようなやり方をみて、人々は、安禄山が何かをしでかすのではないかと不安がった。

  彼は、さしたる功労がないのに出世したので、何か手柄を立てたいと思っていたが、帝がさかんに国外経略をしているのをみて、契丹の酋長たちを欺いて招待し、酒に毒を盛り、酔ったところで首をはね、前後数千人を殺し、それらの首を献上した。帝はその真相を知らず、武動を賞する鉄券を賜わり、柳城郡公に封じた。ときに天宝七載(748)のことである。また故安延偃に范陽大都督の位を追贈し、安禄山に爵を賜わり、東平郡王に封じた。唐の将帥で王になったのは、彼がはじめてである。

  この年、河北道採訪処置を兼ね、永寧園を賜わり、使院とした。その秋入朝したときには、楊国忠兄弟や虢国夫人の姉妹が新豊まで出迎え、御馳走を賜わった。途中温泉があると、将校たちはみな浴を許された。帝は望春宮に行幸して彼を待ち、彼は捕虜八千人を献じた。詔により、永穆公主の庭園を賜わり、燕遊地とした。新第に移ったとき、彼は墨勅を請い、宰相をよんで宴会したいと願い出た。丁度そのとき、帝は撃毬の会を催されていたが、会を止め、宰相に命じてみな行かせた。帝は苑中で狩をされ、新しい獲物をとられると、必ず馬を馳せて安禄山に下賜された。

  天宝十載(751)、彼は河東節度使を兼任したいと願い出、ついに雲中太守・河東節度使を拝した。かくして彼は三道(平盧・范陽・河東)節度使を兼ね、ますます矯慢になった。男子が全部で十一人いたが、帝は安慶宗に太僕卿、安慶緒に鴻臚卿、安慶長に秘書監を授けられた。

  この年八月、河東の兵を率いて契丹を討った。奚に告げ、「彼が盟約に背いたから、討とうとしているのである。汝らは我が軍に協力をしないか」と言った。奚は、歩兵二千を出して先導となった。土護真河(奚王の牙帳)に至ったとき、安禄山は、「道は遠いが、疾駆して敵陣に至り、その不備を襲えば、勝利は確実であろう」と計り、人々に網を持たせ、契丹をことごとく生りにしようとした。昼夜兼行して 行くこと三百里(百七十キロ)。天門嶺まで来たとき、大雨に遭い、弓が弛み、矢羽が脱け、使うことができなくなってしまった。それでも安禄山は、はげしく督戦した。大将何思徳が、「兵士は非常に疲れているから、少し休むべきだ。そして使者を遣わし、有利な降服条件を並べたて、敵を動じさせれば、敵は必ず降ってくるでしょう」と言うと、安禄山は非常に怒り、彼を斬って軍に命令しようとした。それで何思徳はやむなく先陣をかって出た。彼は顔立ちが安禄山に似ていたので、戦闘になると、敵は矛をそろえ、矢を集中してこれを迎え撃ち、擒にし、口々に「安禄山をつかまえたぞ」と言った。それを聞いた奚は、急に寝返り、安禄山を鋏み討ちにした。護衛兵はことごとく逃れ、安禄山は流れ矢にあたった。奚の少年兵数十をひきつれ、衆兵を棄てて山に逃げ、馬から落ちた。安慶緒孫孝哲がかかえおこし、夜陰に乗じて平盧に走った。部将の史定方が兵を指揮して大奮闘したので、敵はようやく囲みを解いて去った。

  安禄山はうらみをはらすため、兵を総動員し、二十万と号し契丹を討とうとした。帝はこれを聞き、朔方節度使の阿布思に詔し、軍を率いて安禄山と会させようとした。この阿布思という者は、九姓鉄勒の首領で、 堂々たる容貌をもち、策略に富んでいた。開元年間初頭、東突厥の黙啜可汗のために苦しめられ、唐に内属した。帝は彼を寵愛されたが、安禄山は常に彼の才を忌み、敵意を抱いており、隙があればこれを襲奪しようとしていた。だからこのとき、わざわざ上奏し、阿布思に援助させるように求めたのである。阿布思はそれを懼れ、離反して漠北に入ってしまった。安禄山は進軍せず、兵を分けてとどまった。ところが阿布思は、回紇に侵寇され、彼は葛邏禄(カルルク)に奔った。そこで安禄山は、九姓鉄部に対し、厚遇する条件で部民を募ったので、彼らの多くは安禄山に降った。一方葛邏禄は、唐の意向を懼れ、逃げてきた阿布思を捕え、北庭都護府に送り、これを長安に献じた。かくして安禄山は、阿布思の軍を手に入れ、天下無双となりいよいよ専横となった。

  皇太子と宰相は、しばしば安禄山が謀反をしそうだと上言した。しかし帝はそれを信じなかった。 このとき楊国忠は、安禄山との溝が深くなっていたのを心配し、「安禄山を朝廷に呼び帰し、 彼の様子をしらべよう」と建言した。安禄山はその謀を察知し、先手を採って急遽入謁したので、帝はついに安心された。それから以後、帝は楊国忠の言うことを、全くとりあげられなくなってしまった。

  天宝十三載(754)、入朝し、驪山山麓の華清宮で帝に拝謁し、「臣は蕃人で文字も解せぬのに、陛下は破格のおひき立てをしてくださいました。ですから楊国忠は、臣を殺し、自分の思いのままにしようとするに違いありません」と言って泣いた。帝は慰め安心させ、尚書左僕射にし、実封千戸を賜わり、それに相応した奴婢・第宅等を下された。また帝に請うて閑厩隴右群等使となり、吉温を推薦して副使とし、更に部下のために恩賞を求め、功によって将軍となったもの五百人、中郎将となったもの二千人に及んだ。三月、詔により范陽に帰ったが、そのとき帝は、望春亭に御して送別され、御衣を脱いで賜わった。彼は驚懼感激したが、また引きとめられるのではないかと不安になり、疾駆して去った。淇門に至り、軽舟に乗り、流れに従って黄河を下った。大勢の水夫が、綱を持ち、舟につないでこれを引き、一日三百里(百七十キロ)下った。彼はすでに閑牧を総監していたので、良馬を選んで范陽に入れ、また張文儼の馬を奪い、軍馬を蓄えた。反状はすでに明白となったが、帝だけは信じられず、告げる者があると、これを縛って安禄山に与えた。

  翌年、楊国忠が計略を立て、安禄山に宰相職たる同中書門下平章事を授けると言って、彼を長安に召し帰らせようとした。その任官の詔書がまだ下りないうち、帝は宦官輔璆琳に賜わりものの大柑(みかん)を持たせ、彼の様子を探らせにやった。安禄山は、これに多額の賄賂を贈った。それで輔璆琳が「安禄山には二心がありません」と報告したため、帝は遂に安禄山を召されるのをやめられた。輔璆琳の収賄は、しばらくして発覚し、帝は別な罪状に託してこれを殺した。ここに至り、帝ははじめて安禄山を疑われた。

  しかし安禄山の方でも、朝廷が自分を暗殺しようとしているのではないかと疑い懼れ、使者が来るたびに、病気と称して出なかった。そして、護衛を厳重にしたのち、はじめてこれに謁見した。黜陟使の裴士淹が郡県を視察して范陽に行ったとき、二十日間も会おうとせず、武士が左右からはさむ様にして面会し、臣下の礼をとらなかった。裴士淹は、詔を伝えて帰ったが、後難を懼れ、敢えてそのことを言わなかった。

  帝は、安禄山の息子の安慶宗に宗室の娘を妻わせ、御自分で詔を書き、安禄山に婚礼に参加するようさそわれたが、病気が重いからと言って上京しなかった。彼は、馬三千匹を献上すると称し、手綱をひく者六千人、車三百両、各車ごとに兵三人を配し、それによって京師を襲おうとした。 河南尹の達奚珣が、「馬をつれて来る兵士たちを、入れてはいけません」と、はげしく反対したので、帝は詔してそれに従った。帝は、安禄山に書を賜い、「卿のために一湯を造ったから、十月に上京して来るように。朕は卿を華清宮に待とう」と伝えた。使者が至っても、安禄山は椅子によりかかったまま、「天子様は安穏でいらせられますか」と言っただけで、使者を別館に送り、閉じ込めてしまった。数日後、そこから脱出して帰った使者は、「すんでのことで殺されるところでした」と報告した。

  冬十一月、范陽で起兵した。「密詔を奉じて奸臣楊国忠を討つ」と語り、高札を県にかかげた。高尚厳荘を主とし、孫孝哲高邈張通儒張通晤を腹心とし、総勢十五万で、二十万と号し、一日六十里(約三十四キロ)進軍した。それより三日前、安禄山は大将たちを集め、酒を出し、絵図を見させた。それには范陽から洛陽に至る間の山川の険易や攻守のやり方が細かく書いてあった。人々に金帛とともにその絵図を与え、会合の期日を打ち合わせ、「違背する者は斬る」と命じた。かくしてここに至り、はじめの打ち合わせの如くなったわけである。

  安禄山は、旗本百余騎を従え、城北に行き、祖先の墓を祭って出発した。賈循に留守をまかせ、呂知誨に平盧を守らせ、 高秀巌に大同を守らせた。燕(北京地方)の老人が、馬を叩いて諌めたが、安禄山は厳荘に命じてなだめさせ、「私は国家の危機を憂いて起兵したのであり、私心のためではない」と言い、礼を厚くして帰らせた。そこで命令を下し、「軍を阻げる者は、父母兄弟妻子を死罪にする」とふれた。

  七日目に、安禄山謀反の報せが玄宗の耳に達した。帝は丁度そのとき華清宮におられたが、内外の者たちは、その報せに接し、色を失った。帝の御車が長安に帰り、安慶宗を斬り、妻の康氏と慶宗の妻の栄義郡主に死を賜った。詔を下し、安禄山をきびしく非難するとともに、帰順するようよびかけた。しかし彼の答書は傲慢で、とても我慢できるものではなかった。彼は高邈と臧均を遣わし、騎射の兵二十人を率い、馬を馳せて太原に入らせ、太原尹の楊光翽を捕えて、これを殺し、張献誠に定州を守らせた。

  安禄山は、反逆を計画してから十余年間、降服してきた蕃夷にはすべて恩義をもって接し、服従しない者があれば兵を用いて脅し従わせた。捕虜の縛を解き、湯浴みや衣服を支給し、何人もの通訳を使って自分の意のあるところを知らせた。だから蕃夷の心のうちをことごとく知ることができた。彼自身蕃夷の言葉に通じていたから、みずから親しく彼らを慰撫した。このようにして釈放した捕虜を、みな戦士にしたてた。それ故、部下の者は彼のためなら死をいとわず、戦うところ、敵する者がなかった。彼の部下のうち、高邈が一番戦略にとんでいた。彼は、安禄山に薦め、李光弼を味方にいれ、左司馬にしようとしたが、聞き入れられなかった。彼はこのときすでに謀反に加担したことを後悔し、暗い顔をしていたが、しばらくして、「史思明を左司馬にしたらよろしかろう」と進言した。反乱に先立ち、高邈は、「捕虜を進献すると言って、直ちに洛陽を取るべきだ。楊光翽は殺すべきでない。天下広しといえども、彼ほどの知者はいないからだ」と計略を薦めたが、彼は従わなかった。また何千年が賊にすすめ、「高秀巌に命じ、兵三万をもって振武に出、朔方軍を降し、諸蕃をさそい、塩州・夏州・鄜州・坊州をとらせ、李帰仁張通儒をして兵二万をもって雲中に通って太原を取り、弩兵一万五千を集めて蒲関に入り、関中を動揺させ、安禄山みずからは、兵五万を率いて河陽から黄河を渡り、洛陽を取り、蔡希徳賈循に命じ、兵二万をもって山東海岸に出、淄州・青州を収め、江淮地方を揺りうごかさせば、天下の形勢は、再びくつがえすことができなくなるであろう」と献策した。しかし、安禄山はその策を用いなかった。

  反乱が暴発的に起こったため、州県では、官の甲冑や剣仗が、みなぼろぼろに腐り、錆びたり折れたりしていて用をなさず、やむなく棒をもって戦ったが、とうていかなうものではなかった。役人は、みな城を棄てて隠れ、あるいは自殺し、そうでない者は捕虜となり、そんなことが毎日となく続いた。禁衛の兵は、みな市井の徒で、甲冑をうけても、弓の腰衣、剣の紐を解くことすらできなかった。そこで左蔵庫の絹布を出して兵士を大募集した。また封常清を范場・平盧節度使に、郭子儀を朔方節度使・関内支度副大使に、右羽林大将軍王承業を太原尹に、衛尉の張介然を汴州刺史に、金吾将軍の程千里を潞州長史にし、栄王を元帥とし、高仙芝を副使とし、駅を馳せて賊を討たせた。

  安禄山は鉅鹿に至ったとき、急に止まり、「鹿は私の名だ」と驚いて言い、そこ去って沙河に行った。ある者が、「これは漢の高祖が、柏人は人に迫るに通じると言って、柏人に宿らなかったのと同じです」と、賊に諂った。賊は黄河に草を投げ、木を倒し、長縄で舟や筏をつなぎ、流氷を結ばせた。一夜にして河が凍り、河を渡った。霊昌をおとし、また三日で陳留・滎陽をくだし、甖子谷に達した。将軍の荔非守瑜がこれを迎え討ち、数百人を殺した。流れ矢が安禄山の輿にあたり、そのため賊は敢えて進まず、改めて谷の南に出た。荔非守瑜は、矢尽き、河で死んだ。安禄山はまた封常清を破り、東都洛陽を占領した。封常清は陝州に逃げ、留守の李憕・御史中丞盧奕は殺され、河南尹の達奚珣は賊に臣従した。

  このとき、高仙芝は陝州に駐屯していたが、封常清が破れたのを聞き、甲冑を棄てて潼関にたてこもった。太守の竇廷芝は河東に逃げた。しかし常山太守の顔杲卿は、賊将の李欽湊を殺し、高邈何千年を捕虜にした。ここに至り、趙郡・鉅鹿・広平・清河・河間・景城の六郡は、みな国家のために守備した。だから、安禄山が支配したところは、わずかに盧竜(范陽)・盧龍・密雲・漁陽・汲・鄴・陳留・滎陽・陝郡・臨汝だけであった。

  賊は東都に入ると、その宮殿の尊厳雄大なのを見て、帝位を僭称しようとする野心を、ますます強くした。だから久しく西進しなかった。そのため政府軍は、やや諸道の兵を集めることができた。賊将の尹子奇は、陳留に屯し、東方を経略しようとした。しかし丁度そのころ、済南太守の李随、単父尉の賈賁・濮陽の人の尚衡・東平太守の嗣呉王李祗・真源令の張巡が相ついで起兵し、十日にして衆数万を集めたので、尹子奇は襄邑まで来て引きあげた。

  翌年(756)正月、雄武皇帝と僭称し、国号を燕とし、聖武と建元した。子の安慶緒を晋王とし、安慶和を鄭王とし、達奚珣を左相とし、張通儒を右相とし、厳荘を御史大夫とし、百官を拝署した。

  また常山を取り、顔杲卿を殺し、安思義を真定に駐屯させた。しかし李光弼が土門に出て常山を救援したので、安思義は降服した。李光弼は博陵も降した。そのため賊は、藁城と九門二県を守るだけとなった。史思明李立節蔡希徳は、饒陽を攻めたが勝てず、軍を引いて石邑を攻めた。しかし張奉璋が固守し、朔方節度使郭子儀が雲中から兵を引いて李光弼と合し、史思明を九門で破った。李立節はここで戦死し、蔡希徳は鉅鹿に奔り、史思明は趙郡に行き、鼓城から博陵を襲い、またこれに拠った。そこで李光弼は趙郡を抜き、引き返して博陵を囲み、恒陽に布陣した。蔡希徳は援軍を求め、それに応じて賊は二万騎をもって河を渡り、博陵に入り、牛廷玠が媯州・檀州等の兵一万人を動して来援した。それによって史思明軍は強化されたが、李光弼と戦い、嘉山で破れた。李光弼は十三郡を奪回し、河南の諸郡もみな兵を厳にして守り、潼関は固く閉ざされた。

  安禄山は懼れをなし、范陽に帰ろうと言いだした。そして厳荘高尚を呼び出し、「私が挙兵しようとしたとき、君達は絶対に大丈夫だと言ったではないか。しかるに今や我を囲む四方の敵は、日々ますます盛んになり、潼関以西は牛の歩みのように遅々として軍を進めることができないでいる。君達はどんな作戦があって、私に会わす顔があるのか」と責め、高尚らを追い出してしまった。それから数日後、田乾真が潼関攻撃から帰ってきて、安禄山をはげまし、「昔からいやしくも王朝を興す戦いは、勝ったり負けたりしたのち、ようやくにして大業を成すもので、一挙に天下を取った者はおりません。いま四方の敵が多いと言っても、烏合の衆で、我が軍の敵ではありません。不幸にして事が成就しないようなことがあっても、我々は数万の兵を擁し、天下横行して十年の計をなすことができます。しかも、高尚と厳荘は、陛下が帝位につかれたのを援けた元勲です。それなのに陛下は、何で急に二人を遠ざけ、みずから禍いの種をまこうとされるのですか」といさめた。それを聞いた安禄山は、大層喜び、田乾真を幼名で呼んで、「阿浩よ。君でなければ誰が私を悟してくれたであろうか。それなら一体どうしたらよいのか」と言った。田乾真は「彼らを召され、慰安なさればよいでしょう」と答えた。安禄山は、高尚らを呼び、一緒に酒を飲んだ。安禄山はみずから歌い、君臣は初めのように睦まじくなった。

  そこで直ちに孫孝哲安神威を遣わし、西進して長安を攻めさせた。たまたま副元帥の高仙芝らが死に、哥舒翰が潼関を守っていたが、崔乾祐がこれを破り、捕虜にした。しかし賊は、天子がよもや急遽都を去るとは思わず、兵を潼関にとどめ、十日ののち、はじめて西に向った。そのとき、天子は既に扶風に至っていた。かくして汧水、隴山以東は、みな賊の手に没した。安禄山は、張通儒に長安を守らせ、田乾真を京兆尹とし、安守忠を宮城内に駐屯させた。

  安禄山が長安につくまえ、士大夫たちはみな山谷に逃げ、東西二百里(約十一キロ)の間、避難者の往来がたえず、女官たちはちりぢりに匿れ、奔りながら泣いた。将軍大臣の第宅では、宝物を道に棄て、その数たるや、計りきれない程であった。不逞の輩が争ってこれを取り、数日たってもなお尽きなかった。彼らは、政府の倉や天子の倉や役所の倉を略奪し、残ったものに火をつけて焼いた。長安についた安禄山は、大いに怒り、三日に渡って探しまわり、民間の財物をことごとく奪った。

  府県は根こそぎに税物を徴発し、そのため人々はいよいよ騒いだ。安禄山は、息子の安慶宗が殺されたのを怨み、帝の親族の霍国長公主以下諸王妃妾の子孫、姻戚ら百余人を殺し、安慶宗の霊を祭った。また群臣で天子に従って西行した者は、その宗族を誅滅した。およそ夷というものは、生来、欲するものを得ると、残虐をほしいままにするもので、そのため人々はますます離反した。安禄山は、部下を統禦するのに、恩情がなく、腹心、故知も、仇敵の如くあつかった。配下の将軍が作戦の決定を求めてきても、直接には会わず、みな厳荘を通して裁定を下した。そのようなやり方であったので、彼の支配下の郡県では、こぞって守将を殺し、官軍を迎えた。かくして、十数度も取ったり取られたりしたため、城邑は廃墟と化してしまった。

  粛宗が霊武で即位して軍を治められると、天下の人々は、首を長くして長安が奪回されるのを待ち望んだ。しかし都の人々は、「太子が西方から来られた」と聞くと、再び戦闘になるのを懼れ、一斉に東走した。そのため、長安市内は空になってしまった。一方、畿内の豪傑で賊の官吏を殺し、官軍に附帰してくる者が毎日続いた。賊は、これらを斬ってこらしめたが、止めることができなかった。また賊将たちは、慓敢勇猛であるが、遠謀がなく、日々酒に酔い、女性や財物に浮かれていた。だから、その隙に帝は四川に入ることができ、ついに追跡されることがなかった。

  側近の李猪児なる者は、もとは捕虜として捕えられてきた小姓であった。幼いときから安禄山に仕え、甚だ謹ましかった。安禄山はこれを宦官とし、ますます信用した。安禄山は腹が大きく、膝まで垂れさがっており、衣裳をかえるときは、いつも左右の者がこれを持ちあげ、猪児が帯をむすんだ。安禄山が華清宮に浴を賜わったときも、お伴を許された。

  安禄山は年をとるとますます肥え太り、腋の下や内股に、いつもおできができていた。反乱を起こしてから、心の不安をおさえきれず、わけもなく怒ったり、懼れたりした。しかも盲目になってしまい、また急に悪性のはれものができて、非常にイライラしていた。左右給侍の者は、罪もないのに殺され、あるいは鞭うたれ、しかりはずかしめられた。李猪児が最も多かった。厳荘のような腹心でも、時々鞭うたれ、はずかしめられた。だから二人は、非常に安禄山を怨んでいた。安慶緒は、幼少から射が巧みで、成年に達する以前に鴻臚卿を拝し、周囲から嘱望されていた。ところが、安禄山が帝位を僭称すると、段夫人を寵愛し、その生んだ安慶恩を愛して皇太子にしようとした。安慶緒は、自分がなれなくなるのではないかと疑い、厳荘もまた難問題が起これば、自分が不利になるのを懼れていた。そこで厳荘は、ひそかに安慶緒にささやき、「あなたは「大義、親(しん)を滅す」という言葉をお聞きになったことがありませんか。昔から、まことに止むを得ずしてなすことがあります」と言った。安慶は、暗にこれを承知し、「はい、はい」と答えた。また李猪児に語り、「おまえは、お上に仕えて以来、受けた罰を数えることができるか。大事を決行しなければ、殺される日も間近いであろう」と言った。かくして三人は、陰謀を定めた。

  至徳二載(757)正月元日、安禄山は群臣を朝見しようとしたが、できものが悪化したのでとりやめた。その夜、厳荘安慶緒が、兵を率いて門に待ち、李猪児が帳下に入り、大刀をもって安禄山の腹に切りつけた。安禄山は盲目になっていたので、佩刀を探したがわからず、帷幄の柱を振るい、「家中の者の裏切りだな」と呼んだ。しかし急に腸がつぶれ、床の上にて即死した。ときに年五十余。死体を毛布で包み、床の下に埋めた。そして病状が非常に悪化したといいふらし、偽の詔物を作り、安慶緒を立てて皇太子とした。ついで、安禄山が慶緒に位を譲ったといつわり、安禄山に太上皇の尊号をたてまつった。


  すでに安慶緒が偽帝位を継ぐと、載初元年と改元し、そこでほしいままに飲酒を楽しみ、政務を厳荘に委ねてこれ兄として敬い、張通儒安守忠らを長安に駐屯させ、史思明に范陽を領有させ、恒陽軍を鎮めて、牛廷玠を安陽に駐屯させ、張忠志に井陘を守らせ、それぞれ兵士を募集させた。

  ここに広平王(後の代宗)は軍を率いて東に討伐し、李嗣業を前軍の将とし、郭子儀を中軍の将とし、王思礼を後軍の将とし、回紇の葉護も兵を率いて従った。張通儒らは兵十万を集め長安中に陣どったが、賊はすべて奚であったから、もとより回紇を恐れており、回紇が合流すると、驚きかつ騒いだ。広平王は精兵を分けて李嗣業とともに合せてこれを攻撃し、安守忠らは大敗し、東に撤退し、張通儒は妻子を棄てて陝郡に逃げた。王師は長安に入り、王思礼は宮殿を清めた。僕固懐恩は回紇・南蛮・大食の兵を先鋒とし、広平王は全軍で賊を追撃したが、厳荘は自ら兵十万を率いて張通儒と合流し、鉦鼓は百里あまりも響かせた。尹子奇はすでに張巡を殺し、全軍十万でやってきて、厳荘と合流して陝西に駐屯し、曲沃に至った。これより以前、回紇は南山の傍らに伏兵し、軍を嶺北に駐屯させて待機した。厳荘は大いに新店で戦い、騎兵で戦いを挑んできて、六たび戦ったがたちまち敗北した。王師は追撃して賊の堡塁に入ったが、賊は両翼よりこれを攻撃し、追撃してきた兵は壊滅し、王師は混乱し、しばらく指揮が困難であった。李嗣業は馳せ参じ、ことさらに死闘し、回紇が南山より回り込んでその背後を攻撃し、賊は驚き、遂に混乱し、王師は再び勢いを取り戻し、合流して攻撃し、殺害すること数え切れず、賊は大敗し、五十里あまりを追撃し、死体は累々と穴や溝に満ち溢れ、鎧や剣は散乱し、陝より洛陽に至るまでその有様であった。厳荘は飛んで逃げ帰り、慶緒・安守忠張通儒らは残軍をかすめて鄴郡に敗走した。

  広平王が洛陽に入ると、大いに兵を天津橋に列べ、偽侍中の陳希烈ら三百人は素服で叩頭して罪を待ったが、広平王は労って、「公らは汚らわしい奴らに脅やかされただけで、叛いたわけではない。天子は詔があって罪を赦されるだろうから、皆はまた官に戻られよ」と言い、衆は大いに喜んだ。ここに陳留は賊将尹子奇を殺して降伏した。厳荘の妻の薛氏は獲嘉に家があり、 永王の娘を騙して、軍営にいたり、広平王に謁見すると、「厳荘は降伏したいと思っています。願わくば信じるに値する証をください」と述べたから、広平王と郭子儀は謀って、厳荘がもし来たならば余党を諭させて降伏させようと、そこで厳荘に約束して鉄券を賜った。厳荘はそこで降伏し、駱駝に乗って京師に到り、粛宗に引見し、死を赦され、司農卿を授けられた。阿史那承慶はその軍三万を率いて恒州・趙州に逃げ、または范陽に逃げた。慶緒に従う者は、傷病兵がわずかに千人あまりであった。

  その時、蔡希徳が上党より、田承嗣が潁川より、武令珣が南陽より、それぞれ軍を引き連れて来て、邢州・衛州・洺州・魏州より兵を募ると少しづつ集まり、軍勢六万となり、賊はまた復活した。相州を成安府とし、太守を尹とし、天和と改元し、高尚平洌を宰相とし、崔乾祐孫孝哲牛廷玠を将とし、阿史那承慶を献城郡王とし、安守忠を左威衛大将軍、阿史那従礼を左羽林大将軍とした。しかし部党はますます離反していき、そこで能元晧を偽淄青節度使とし、高秀巌を河東節度使として従わせた。徳州刺史の王暕・貝州刺史の宇文寛は皆賊に叛いて唐に帰順し、河北の諸軍はそれぞれ城を取り巻いて守らせたが、賊は蔡希徳安雄俊安太清らに兵で攻撃させて陥落させ、市で殺戮してその肉を膾にした。

  慶緒は人が己に二心あるのを恐れて、壇を設けて誓約文を加え、群臣と血盟した。しかし阿史那承慶ら十人あまりに密書を送り、詔して阿史那承慶を太保・定襄郡王とし、安守忠を左羽林軍大将軍・帰徳郡王とし、阿史那従礼を太傅・順義郡王とし、蔡希徳を徳州刺史とし、李廷訓を邢州刺史とし、苻敬超を洺州刺史とし、楊宗を太子左諭徳とし、任瑗を明州刺史とし、独孤允を陳州刺史とし、楊日休を洋州刺史とし、薛栄光を岐陽令とした。将兵らはしばしば国のために賊の間諜となった。しかし慶緒は宮室・庭園・池沼を治めるだけで、楼船を浮かべて水上で遊び、長夜痛飲した。張通儒らは権力を争って一つにまとまっていなかったから、だいたい建白があっても、衆は共に欺いてこれを阻んだ。蔡希徳は最も謀があり、剛直かつ狷介で、慶緒を謀殺して内応しようとしたが、張通儒は他の理由によってこれを惨殺したから、麾下数千人は皆逃れ去った。蔡希徳はもとより兵士の心をつかんでいたから、全軍が恨み歎いた。慶緒は崔乾祐を天下兵馬使とし、権力は内外に震い、傲慢で恩を与えることが少なく、兵士は靡かなかった。

  乾元元年(758)秋九月、帝は郭子儀に詔して九節度使の兵およそ二十万を率いて慶緒を討伐させ、衛州を攻め、遂に黄河を渡り、軍を背水の陣をしいて待ち受けた。慶緒は安太清を派遣して防戦させ、衛州がすでに包囲されたことを聞くと、そこで鼓を打って南に向け、三軍を編成して、崔乾祐を上軍の将とし、安雄俊王福徳に補佐させた。田承嗣を下軍の将とし、栄敬を補佐とした。慶緒は自ら中軍を率い、孫孝哲薛嵩を補佐とした。戦いが始まると、唐軍は偽って退却し、慶緒はこれを追撃したが、伏兵に遭遇して壊滅し、慶緒は逃走し、その弟の安慶和を捕虜とし、京師で斬刑に処した。郭子儀は軍を率いて賊を蹂躙し、愁思崗で戦い、賊はまた敗北し、これより精兵は消耗してしまった。鄴が包囲されると自ら守りを固め、薛嵩を派遣して財物によって史思明に救援を求めた。史思明は李帰仁と将兵一万三千を派遣して滏陽を守らせようとしたが、出発する前に、王師にすでに包囲網を固められ、城を築いて三重の堀を掘削し、安陽の水を決壊させて城に流し込んだ。城中は筏が居場所となってしまい、兵糧はつき、口にできる物は食べ、米は一斗あたり銭七万あまり、鼠一匹で銭数千にもなり、松を砕いて馬に飼料として与え、垣根を破壊して藁を取り、糞を洗って藁を取り出した。城中は降伏しようにも出来なかった。賊はさらに安太清崔乾祐の代将とした。

  ここに史思明が軍十三万を有しており、その軍を三分して鄴に急行した。翌年三月、安陽に駐屯した。慶緒は急行し、そこで太清を派遣して皇帝の璽綬を奉って史思明に譲り、史思明は書で軍中に示したから、皆万歳を叫び、そこで史思明は慶緒と盟約して兄弟となり、その書を返却したから、慶緒は大いに喜んだ。王師は不利となり、九節度使は逃げ帰り、郭子儀は河陽の橋を断って、穀水を守った。史思明は進撃して鄴の南に駐屯した。慶緒は官軍の遺棄した兵糧を収容すると十万石あまりにもなった。孫孝哲らを呼び寄せて史思明を排除する謀略を行ったが、諸将は皆、「今日どうしてまた史王(史思明)に背くことができましょうか?」と言い、張通儒高尚平洌は皆、自ら行って史思明に謝罪することを願い、慶緒は許諾した。史思明は謁見すると、涙を流し、厚礼して帰された。三日、慶緒が出かける前に、史思明は慶緒が血をすすって盟約を結ぶことを願ったので、やむをえず五百騎で史思明の軍に詣でた。それより以前、史思明は軍中に甲冑を着させて待機させていた。慶緒は到着すると、再拝して地に伏して謝して、「臣は重荷を担うのにたえられず、両都(長安・洛陽)を棄て、重囲に陥り、不意に大王は太上皇(安禄山)との縁故のために、にわかに軍を遠くから遣わされてお助けくださいました。臣の罪はただ王がおはかりください」と言ったが、史思明は怒って、「兵の有利不利はどうもいったことではない。だが人の子でありながら、父を殺して即位するのは、大逆ではないのか?私はだから太上皇のために賊を討とう」と言い、左右を顧みて引き出させて慶緒を斬った。慶緒は何度か周万志を見たが、周万志は進み出て、「安慶緒を君主とした者には死を賜うべきです」と言い、そこで四人の弟を絞殺した。また高尚孫孝哲崔乾祐を誅殺し、とくに死体を晒した。史思明は安禄山を改葬して王の礼を以て葬り、慶緒に燕剌王と偽謚した。安禄山父子が帝位を僭称してから三年で滅亡した。

  それより以前、安禄山は東京(洛陽)を陥落させると、張万頃を河南尹としたが、士人や宗室は頼んで、生き残った者が多く、粛宗はその仁を嘉しとし、濮陽太守を拝命した。帝は賊が国難を招いたことから、その姓を聞くことを嫌がり、京師の坊里で「安」字があるものは、すべて変えてしまった。


  高尚は、雍奴の人である。母は老い、乞食となって生計を立て、尚は河朔の客となって帰るのをよしとしなかった。令狐潮と親しく、その婢と通じて一女を産ませ、ついに定住した。しかし学にあつく文辞をよくし、かつて嘆息して汝南の周銑に、「私は賊となって死んだとしても、草の根を食べてまで生きることはできない」と言った。李斉物が新平郡の太守となると、朝廷に仕えることを勧められ、銭三万を餞に贈られ、これを仲立ちに高力士にまみえると、高力士は才能があるとして門下に加え、家の事をすべて相談し、近臣にその才能があるのをほのめかして、左領軍倉曹参軍に抜擢された。

  高力士が尚のことを安禄山に語り、上表して平盧節度使の書記となり、そのため安禄山の寝室に出入りした。安禄山は寝てばかりいて、尚はかつて筆を持って侍り、夜通し眠らなかったから、これに従って親愛の情を得た。ついに厳荘と図讖を語って安禄山を謀反に導いた。東都(洛陽)が陥落すると、偽の中書侍郎に任命された。大抵、安禄山が赦令を下したものは、すべて尚が行ったものである。厳荘が降伏してからは、尚は一人で政事を司り、偽の侍中に任じられた。


  孫孝哲は、契丹部の人である。母は色香があり、安禄山と密通し、そのため孝哲も慣れ親しかった。身長は七尺(約207センチ)、強健で知謀があった。安禄山は側門で帝のお召しを待ったが、衣や帯が破れてしまうと、どうすることもできなかったが、孝哲は針や糸を用いて次第にほつれを結び直したから、安禄山は大いに喜んだ。最も安禄山に行動に先んじてその気持ちを読み取ることができた。安禄山の身体は大きかったから、孝哲でなければ衣を縫うことができなかった。天宝年間(742-756)末、官職は大将軍となった。

  賊(安禄山)が帝位を僭称すると、偽の殿中監・閑厩使に任命され、爵位は王となり、厳荘と寵を争って不和となった。革の衣服や馬は派手で奢侈となり、食は珍味ばかりを好んだ。賊は張通儒らを監として長安を守らせ、人々は皆注目した。妃・主・宗室の子百人あまりを殺し、楊国忠高力士の郎党および賊(安禄山)に逆らう者を殺すこと数え切れないほどで、首をえぐり四肢を裂き、街道に散乱した。安禄山が死ぬと、厳荘は閑厩使の職を剥奪して鄧季陽に与えた。安慶緒が逃走すると、厳荘は恐れて計略し、そこで投降した。

  胡の商人の康謙なる者がいて、天宝年間(742-756)に安南都護となり、楊国忠に付属して将軍となった。上元年間(760-761)、家財を出して山南の駅の米庫の助けとしたから、粛宗はその助けを喜び、これを許し、鴻臚卿に累進した。しかし婿が賊中にいたから、その謀反を告げる者があり、連座して誅殺された。事件は厳荘に連座し、獄に繋がれ、難江尉に左遷された。京兆尹の劉晏が官吏を動かして厳荘の家を捜索したから、厳荘は恨んだ。にわかに詔があって罪が許されると、厳荘は入朝して代宗に謁見し、劉晏が常に功績を誇ってお上を恨み、禁中の事を外部に漏らしていると誣告したから、劉晏は遂に左遷されたという。


  史思明は、寧夷州の突厥の種族で、初名を窣于といい、玄宗にその名を賜った。姿は極度に痩せ、いかり肩でせむし、目はつりあがり横鼻、髭や髪は少なく、気が強くて狡猾であった。安禄山と郷里が一緒で、安禄山より一日前に生まれ、そのため成長してからも互いに仲良かった。若くして特進の烏知義に仕え、軽騎兵で敵を探り、多く捕虜や首級をあげた。六蕃もの言葉に通じ、また互市郎となった。しばらくして官銭を借財し、返済することができず、まさに奚に逃走しようとし、まだ奚に到着する前に巡邏の騎兵に捕らえられ、殺されようとしている時に欺いて、「私は使人である。もし天子の使者を殺せば、その国に不幸があるだろう。私を王に見えさせるにこしたことはない。王が私を生かせば、功績は自然とお前のものになるだろう」といい、巡邏はそうだと思い、護送して王の所に至った。王に拝礼せずに、「天子の使者が小国の君主にまみえるのには拝礼しない。これは礼である」と言う、王は怒り、しかし本当の使者であるかと疑い、ついに館を授け、接待するのに礼をもってした。まさに帰還しようとすると、百人をして入朝に従わせた。奚に部将の瑣高なる者があり、名は国中に知られていた。思明は捕らえて罪を贖いたいと思い、王に「私に従う者は多いが、ともに天子に謁見するのに足る者はいない。思うに瑣高は優れた人材であるから、ともに中国に来るべきであろう」とを誘うと、王は喜び、瑣高に命じて帳下三百倶を率いさせた。平盧に来ると、衛戍隊長に、「奚の兵が数百、表向きは入朝と言っているが、本当の実態は盗賊だ。備えられよ」と言い、衛戍隊長は軍を潜ませて迎えて宴会し、その衆を殺し、瑣高を捕らえて献じた。幽州節度使の張守珪はその功績を特に優れたものとし、上表して折衝に任じ、安禄山とともに捉生となった。

  天宝年間(742-756)初頭、功績を重ねて将軍・知平盧軍事となった。入朝して上奏すると、帝は席とお言葉を賜ったが、思明を特に優れた者と思い、年を聞くと、「四十です」と答えたから、その背中を撫でて、「お前が貴くなるのは晩年であろう。よく勉めなさい」と言い、大将軍・北平太守に任じた。安禄山に従い契丹を攻撃したが、安禄山は敗れ、単騎で師州に逃げ、その配下の左賢の哥解と魚承仙を殺して自ら釈明した。思明は山中に逃げ、十日ほどして散り散りとなった兵を褒めて七百人となり、追って安禄山と平盧で見え、安禄山は喜んで、手を握って、「計略では死んでいた。今ここにいるのだから、私はなんの心配することがあろうか!」と言ったが、思明は親密に語って、「私は進退の状況を聞いてましたが、早めに来ていたら、哥解と一緒にあの世行きでしたね」と言った。契丹は師州を奪取し、守捉使の劉客奴は逃亡したが、安禄山は思明に攻撃させて敗走させ、上表して平盧兵馬使に任じた。

  思明は若い時は卑賎で、郷里から移り住んだ。大豪族の辛氏に娘があり、婿を求めていて思明を狙い、その親に、「必ず私は思明に嫁ぎます」と告げ、宗属は許可しなかったが、娘の決意は固く思明のもとに行った。思明はまた自負して、「私に嫁が来れば、官は休まず、男子を多く産み、皆貴くなるんだ!」と言った。

  安禄山が叛乱すると、思明をして河北を攻略・平定させ、たまたま賈循が死ぬと、思明を留めて范陽を守らせた。常山の顔杲卿らが檄文を伝えて賊を拒んだから、安禄山は向潤客らに交代し、思明を遣わして常山を攻撃させ、九日で顔杲卿を捕らえた。進撃して饒陽にせまったが、盧全誠は守って防ぎ、河間・景城・平原・楽安・清河・博平の六郡をしばらく募兵して自ら守った。河間の李奐が兵七千で饒陽に救援し、景城の李暐が兵八千で河間を助け、平原の顔真卿が兵六千で清河を助けたが、すべて思明のために敗北し、李暐の子の李杞は戦死し、饒陽はますます固く守った。その時李光弼が常山を回収したから、思明はにわかに饒陽の包囲を解き、迎撃すべく昼夜兼行で二百里を急行したが、持久戦となり勝敗は決しなかった。郭子儀が趙郡を奪取すると、兵を合流させて賊を攻撃した。数戦したがすべて大敗し、敗走して博陵に入った。李光弼は追撃して城に布陣し、何城かを陥落させた。たまたま潼関が壊滅したから、粛宗は朔方・河東の兵を召喚し、李光弼は引き還し、王俌に常山を守らせた。賊は李光弼を井陘に追撃したが、敗れて帰還した。平盧を攻撃したが、劉正臣は軽視して備えを怠っており、敗れて北平を保ったが、兵の財貨二千乗はすべて奪われてしまった。思明はその精兵を得て、非常に勢いが盛んとなり、謀って常山を攻撃した。王俌は降伏しようとしたから、諸将は王俌を殺し、使者を派遣して信都に到り、刺史の烏承恩を迎えて守将としようとしたが、許されなかった。思明は土門を攻め、城中では甲兵を伏兵して降伏を偽り、賊が城にやってくると、伏兵が攻撃し、賊は殲滅され、思明も戟で刺され、扶けられて免れた。再度攻撃して陥落させ、家屋を焼き払い、戟で刺した人とその種族を誅殺した。藁城を奪取すると、守将の白嘉祐は趙郡に逃げ、思明は趙郡を包囲すること五日で入城し、白嘉祐はさらに太原に逃げ、思明は再度常山を陥落させた。賊の別帥尹子奇は河間を包囲し、顔真卿は和琳に将兵一万人あまりを遣わして救援させた。この時北風が強く吹き、鼓が聞こえないほどで、兵士は進まなかった。賊はほしいままに攻撃し、大いに破り、和琳を捕らえ、軍を率いて城を攻め、李奐を捕虜とした。また景城を陥落させ、李暐は黄河に飛び込んで死んだ。楽安に降伏を勧め、楽安は降伏した。遂に平原を攻撃し、まだ到着する前に顔真卿は郡を放棄して逃れた。進んで清河を破り、太守の王懐忠を捕らえ、博平に入って、遂に信都を包囲した。それより以前、賊は烏承恩の母・妻および子を捕らえたから、そのため烏承恩は降伏して、兵は五万、騎兵三千になんなんとした。饒陽を攻撃し、李系は焼身自殺した。

  思明の兵が向かう所は、その配下はほしいままに人を撃ち殺して略奪し、人の妻女を奪って姦淫し、そのため兵士は最も奮った。この当時、河北をあげてことごとく賊が侵入し、生きる人や財産は地を掃くように消え失せ、勇壮な者はかえって敗北をもたらし、老人や嬰児は殺し、戯れに人を殺した。安禄山は偽の范陽節度使に任じた。当初、麾下の騎兵はわずか二千で、同羅(トンラ)の歩兵の曳落河(同羅の徴発兵)三千を留め、すでに数勝をあげ、兵は最強で、狂心で江や漢に食らいつく心があった。精兵五万を尹子奇に与え、黄河を渡って北海を略奪して淮州・徐州を震撼させた。たまたま回紇が范陽を襲い、范陽は閉ざして出ず、尹子奇がそこで救援のため帰還するも、遂に勝てなかった。至徳二載(757)、蔡希徳高秀巌とともに兵を合わせて十万で太原を攻撃した。この時、李光弼は部将の張奉璋に兵で故関を守らせたが、思明は攻めて陥落させ、張奉璋は楽平に逃走した。思明は攻め取って山東を掌握し、張奉璋は兵士を広陽に匿い、服を改め欺いて賊の使者となり、その後機会を捉えて攻め、数人を斬り、軍を率いて太原に帰還させた。李光弼は固守すること十ヶ月になり、陥落させることができなかった。安慶緒は位を継ぎ、史思明に安姓、名を栄国を賜い、媯川郡王に封じた。

  賊が両京(長安・洛陽)を陥落させると、常に駱駝で禁府の珍宝を移送して范陽に積み、小山のようになっていた。思明が富強となり、怒りっぽく傲慢となり、これを自分の物にしたいと思った。そのうちに安慶緒は相州に敗走し、敗残兵三万は北に帰還したが、所属するところがなく、思明は数千人を撃ち殺して降伏させた。安慶緒は思明の二心があるのを知って、阿史那承慶安守忠李立節に思明のところに赴かせてこの事を議させ、かつ共にこれを謀った。判官の耿仁智は大義で賊を動かそうと思い、手隙のうちに、「公は高貴かつ賢者で、御麾下にはこの謀を行う者はいません。ですから一言いわせてください」と願い出ると、思明は、「私のためなら言ってみよ」と言い、答えて、「安禄山は強かったので、誰も敢えて心服してはいませんでした。大夫(史思明)はこれに仕えてましたが、もとより罪はありません。今の天子は聡明かつ勇気と知恵があり、古の帝王の少康・宣王の風格があります。公は誠心から使を遣わして誠心をつくせば、受け入れられないなんてことはありません。この災い転じて福となす好機です」と言い、思明は「よし」と言った。阿史那承慶らはそのことを知らず、五千騎でやって来た。思明は付き添って労ったが、その前に、「公らが来たから、兵士は喜びにあふれている。だが辺兵はもとより使者の威を憚って、不安な気持ちになっている。弓を弛めてから入ってくれ」と言ったから従った。思明が阿史那承慶らと飲むと、ただちに拘束し、その兵を収容し、財貨を給付して派遣し、安守忠李立節を斬って全軍に布告した。

  李光弼は思明が安慶緒との関係を絶ったと聞いて、人をして思明を招かせた。その前に烏承恩はすでに帰国していたから、帝は告誡のため派遣して説諭させ、思明は牙門の金如意に十三郡、兵八万を奉って朝廷に帰順し、ここに高秀巌も河東で自ら帰順した。詔して思明を帰義郡王・范陽長史・河北節度使とし、諸子を列卿とし、高秀巌を雲中太守とし、またその子らに官位を授けた。烏承恩と中人の李思敬を遣わして慰撫し、賊の残党の討伐を促した。思明はそこで張忠志を遣わして幽州を守らせ、薛㟧を任じて恒州刺史とし、趙州刺史の陸済を招いて降伏させ、史朝義に兵五千を授けて冀州を守らせ、令狐彰を博州刺史に任じ、滑州を守らせた。

  しかし思明は、表向きは朝廷の命に従い、心内では本当は賊と通じており、さらに兵を募っていた。帝はこれを知って、思明が烏承恩の父烏知義に仕えていたから、嫌がることはないと願い、そこで烏承恩を抜擢して河北節度副大使に任じ、思明の意図をはからせた。烏承恩は范陽に到り、粗末な服で夜に諸将を過ぎ、密かに謀を告げた。諸将はかえって思明に報告したが、疑ったものの未だに証拠はなかった。たまたま烏承恩李思敬が奏事のため帰還することになると、思明はこれを館に留め、帷幄を寝床とし、二人をその下に伏せさせた。烏承恩の子が入見し、そのため留って眠った。夜半にその子に語って、「私はこの逆胡を除く命を受けている」と言ったから、二人は思明に報告し、そこで烏承恩を捉え、衣袋を探ると阿史那承慶に賜う鉄券と李光弼の牒を得て、また書かれた数枚の薄紙があり、すべて誅殺すべき将兵の姓名が書かれていた。賊は大いに怒り、「私がお前に何をしてこのようなことになったのか!」と言い、そこで答えて、「これは太尉李光弼の謀で、お上はご存知ではありません」と言った。思明は官吏を官衙に召して、西に向かって、「私の真心は国に認められず、どうして私を殺そうとするのですか?」と哭泣して、そこで烏承恩父子および支党二百人あまりを杖殺し、李思敬を捕らえて上奏した。帝は使者を派遣して、「この事は烏承恩から出たことであって、朕と李光弼の意から出たものではない」と説諭した。また三司議の陳希烈ら死刑になったことを聞き、思明は恐れて、「陳希烈らは皆大臣で、上皇(玄宗)は彼らを棄てて西行してしまった。すでに復位したから、本来なら彼らを労われるべきなのに、かえって殺した。ましてや私はもとから安禄山に従って叛いていたのだからなおさらだ」と言い、諸将は皆、思明に対して天子に上表して李光弼を誅殺するよう勧め、思明は耿仁智・張不矜に上疏して李光弼を斬るよう願い、そうでなければ太原を攻撃するとした。上疏は箱に入れられたが、耿仁智はただちに撤去して別のに換えたから、左右の者が思明に密告し、二人を捕らえて、「お前は私を裏切ったのか!」と言い、斬るよう命じた。死罪を免れようと願っていると思い、また召して、「耿仁智は私に仕えること三十年、今日で私はお前を忘れたとでもいうのか?」と責めると、耿仁智は怒って、「人にはもともと死ぬものだ。大夫は邪説を受け入れて、再び叛こうとしている。私は生きていたとしても死ぬにこしたことはない!」と言ったから、思明は怒り、撲殺した。九節度使が相州を激しく包囲し、安慶緒は間道より救援を求めたが、思明は王師を恐れて、出発することができなかった。にわかに蕭華が魏州を挙げて天子に帰順し、崔光遠を代わりの守将としたが、思明はそこで兵を率いて魏州を攻撃し、陥落させて数万人を殺した。

  乾元二年(758)正月朔日、壇を築いて大聖周王と僭称し、応天と建元し、周贄を司馬とした。相州を救援し、王師を迎え撃ち、安慶緒を殺し、その軍を併呑し、西へ攻略しようとしたが、根本が未だに固まっていないことを恐れ、そこで史朝義を留めて相州を守らせ、自らは引き還した。夏四月、さらに国号を大燕とし、順天と建元し、応天皇帝と自称した。妻の辛氏を皇后とし、史朝義を懐王とし、周贄を宰相とし、李帰仁を将とした。范陽を燕京と号し、洛陽を周京、長安を秦京とした。さらに州を郡とし、「順天得一」の銭を鋳造した。郊祀や藉田の祭祀をしたいと思い、儒生を招いて制度を講義させたが、ある者が上書して、「北に両蕃があり、西には二都があり、勝負はまだわかりません。太平の事がなるのは難しいのです」と言ったから、思明は喜ばず、ついに上帝を祀った。この日大風が吹き、郊祀することができなかった。

  子の史朝清を留めて幽州を守らせ、阿史那玉向貢張通儒高如震高久仁・王東武らにこれを補佐させた。兵は四たび出撃して河南に侵入し、自らは濮陽に出撃して、令狐彰に黎陽を遮断させ、史朝義は白高に出撃し、周万志は胡良より黄河を渡って汴州を包囲した。ここに節度使の許叔冀、濮州刺史の董秦梁浦田神功は皆賊につき、そこで許叔冀と李祥に命じて汴州を守らせ、董秦らの家を平盧に移して、梁浦・田神功を江州・淮州に下し、「地を得たら、一人あたり財宝を舟二艘分取らせる」と約束し、思明は勝ちに乗じて軍鼓を打ち鳴らして行軍し、西は洛陽を陥落させ、汝州・鄭州・滑州の三州を破り、李光弼を河陽で包囲したが陥落させることはできなかった。安太清に懐州を奪取・防備させたが、李光弼が攻撃したため、安太清は降伏した。思明はまた田承嗣を派遣して申州・光州などの州を攻撃させ、王同芝に陳州を攻撃させ、敬釭に兗州・鄆州を攻撃させ、薛㟧に曹州を攻撃させた。上元二年(761)二月、思明は李光弼の兵を北邙に破ろうと図り、王師は河陽・懐州を放棄し、京師は震撼し、ますなす兵は陝州に駐屯した。思明は遂に西行し、史朝義を先鋒とし、自らは宜陽より続いて進発した。

  史朝義は陝州を攻撃し、姜子坂で敗れ、退却して永寧に立て籠もった。思明は大いに怒り、史朝義および駱悦・蔡文景・許季常を召喚し、まさに誅殺して釈明しようとし、詫びて、「史朝義は臆病で、私の事業を行うことはできない!」と言い、史朝清を自らの副官にしようとした。また史朝義に勅して三角城を築城して兵糧を運ばせ、一日を終わらせてしまったが、まだ壁に土を塗る前に思明がやって来て、約束のようにしなかったことを怒ったから、「兵士が疲れているから少し休息させているだけです」と弁解したが、思明は、「お前は兵士を惜しんで私の命令に背くのか?」と言い、馬上から指図して壁に土を塗り終わって去り、振り返って、「朝に陝州を下さなかったら、夕に此奴を斬ってやる」と言ったから、史朝義は恐れた。思明は客舎にいたが、寵愛する曹将軍に鍋や銅鑼を打たせて守らせた。駱悦らも打たれていたから、そこで共に史朝義に説いて、「行って兵が敗れば、駱悦と王が死ぬのも遠くありません。曹将軍を招いてともに大事を謀るのにこしたことはありません」と説いたが、史朝義は表立って答えなかったから、駱悦は、「王が本当に忍びないというのでしたら、私らは唐に帰順しましょう。王に仕えることはできません」と言ったから、史朝義は許し、許季常に曹将軍を説得させた。曹将軍は諸将を恐れてあえて拒まなかった。思明は道化を愛し、寝食は常に側にあったが、道化の方は耐え忍んでいて恨んでいた。この夜、思明は驚き、寝床で叱りつけ、道化はその理由を聞くと、「私は夢で群鹿が水を渡り、鹿が死んで水が乾いていた。どういうことか?」と答え、にわかにうわ言のように、人相見が、「どうして命が尽きましょうか!」と言い、しばらくして駱悦が兵を率いて侵入し、思明の所在を聞き、未だ答えがないと、たちまち数人を殺したから、みなが溝を指さした。思明は乱がおこったのを知り、垣を超えて出て、厩下に到り、馬に乗って逃げようとしたが、駱悦の麾下の周子俊がその臂を射たからら落馬した。乱がおこったところを聞くと、「懐王(史朝義)である」と言われた。思明は、「明朝の失言の結果はここにあるのだろう。だが私を殺すのが早ければ、私に長安を取らせることはできなくなるぞ」と言い、大声で懐王(史朝義)を呼ぶこと三度、「私を捕らえてもいいが、父殺しの名を取ってはならん!」と言い、また曹将軍を罵って、「どうして私を誤らせたのか!」と言い、左右はかえって史思明を縛り、柳泉の客舎に送った。駱悦は戻って報告すると、史朝義は、「聖人を驚かせないか?聖人を傷つけないか?」と言ったが、駱悦は、「そんなことはないでしょう」と言った。その時周贄許叔冀は後軍で福昌に駐屯しており、許季常許叔冀の子であり、史朝義は許季常に報告させた。周贄は聞いて驚いて卒倒した。史朝義が兵を率いて帰還すると、周贄らは出迎えたが、駱悦はその二心を憎んで、そこで周贄を殺した。柳泉に行き、駱悦は軍衆が思明を嫌っていないのをみて恐れ、思明を扼殺し、毛布で死体を包んで、駱駝に乗せて東京に戻った。史朝義はそこで即位し、顕聖と建元した。

  それより以前、思明の諸子には嫡庶の区別はなく、年少の者を尊んでいた。朝義は、庶長子で、心は寛く情に厚く、部下の多くは付き従った。兵乱が起こると、密かに向貢阿史那玉らに史朝清のことを謀らせた。史朝清は狩猟を好み、人を傷つけたりすることは思明に似ていて、下品でみだらなことは度を過ぎており、帳下に三千人を養い、皆追い剥ぎをして命を軽んじた。向貢は謀って、「お上(史思明)は王(史朝清)を太子にしたいと思っていると聞いています。しかし車駕(史思明)は遠くにいますから、王が入侍なさるべきです」とあざむき、史朝清はそうだと思い、帳下に赴き旅支度をして出で、向貢は高久仁高如震をして壮士を率いて牙城に入った。史朝清はその理由を聞くと、ある者が、「軍の叛乱です」といったから、そこで甲冑を着用して楼に登り、向貢らを責めて、兵士は楼の下に陣取り、史朝清は自ら数人を射殺したが、阿史那玉の軍が敗北を偽り、史朝清が楼下に降りてきたから、捕らえて、母の辛氏とともに死んだ。張通儒はそのことを知らず、兵を率いて城中で戦ったが、数日したが勝てず、同じく死んだ。向貢は軍事を司ったが、しばらくもしないうちに、阿史那玉は襲撃して向貢を殺し、自らは長史となり、史朝清を殺した罪をおさめようとし、そこで高久仁を梟首し、全軍に布告した。高如震は恐れ、兵を擁して守った。五日して、阿史那玉は武清に敗走し、史朝義は人をして招いたが、東都に到ると、たいていの胡面の者は、老幼の区別なくすべて誅殺した。李懐仙を幽州節度使とし、高如震を斬り、幽州は平定された。

  朝義は軽んじられて配下にへりくだり、事はすべて大臣が決したが、しかし経略の才がなかった。この時になって、洛陽の諸郡の人は互いに人食する有様で、城邑は荒野となった。また諸将は皆安禄山の旧臣で、史思明と同僚であったから、朝義に屈するのを恥じ、兵を召喚されても簡単には来ず、幽州に戻りたいと願っていた。

  その雍王(後の徳宗)は河東・朔方・回紇の兵十万あまりで賊を討伐し、僕固懐恩と回紇は左殺を先鋒とし、魚朝恩郭英乂は殿(しんがり)となり、黽池より侵入して、李抱玉は河陽に迫り、李光弼は陳留を経て兵を合流させた。それより以前、代宗は南北軍の諸将を召喚してどうやって賊を討伐するか作戦を聞いた。開府儀同三司の管崇嗣は、「我らは回紇を得たのだから、勝てないということはありません」と言ったが、帝は、「まだそうなっていない」と言った。右金吾大将軍の薛景仙は、「我らがもし勝てなかったら、勇士二万を先鋒にして突撃して賊を殺しましょう」と言った。帝は、「壮絶だ!」と言った。右金吾大将軍の長孫全緒は、「賊はもし城を背にして戦ったのなら、必ず破ることができます。もし城を閉ざして死を賭して留まったのなら、奪取することができません。また回紇に短期間の攻城をさせれば、持久の勢いはまた阻まれるでしょう。我らがもし兵士を休ませて勢いを保って賊を膠着させ、李光弼に陳留を取らせ、李抱玉に河北を叩かせ、まずその手足を裁ち、その後に賊の軍中を蹂躙すれば、彼は従う者を脅して互いに疑心暗鬼となり、そこで滅ぶのを待つべきです」と言うと、帝は「よし」と言い、潼関・陝州に命じて警備を厳とした。軍は洛陽に行き、兵を馳せて懐州に下り、王師の部隊は粛然としたから、賊の顔色に恐れが浮かんだ。

  朝義は軍十万を横水に隔てたが、戦ったが大敗し、捕虜・斬首はおよそ六万、鹵獲された牛・馬・兵器・甲冑は数えられないほどであった。朝義は明堂を焼き、東は汴州に逃げたが、偽節度使の張献誠が受け入れなかったから、濮より逃げて幽州に行った。東都は再び混乱し、郭英乂魚朝恩らは軍をおさめることができず、回紇と略奪をほしいままにし、鄭州・汝州にまで拡大し、村里は炊事の煙がおこらない有様となった。まさに寒くなろうとし、人は皆紙を連ねて書を剥いで衣服とした。賊は逃げて下博に到ると、僕固瑒は追撃し、朝義はまた敗れた。河東の守将の李竭誠、成徳の李令崇は皆賊に叛いて前後呼応して戦った。漳水に到るも、舟がなく、諸将は降伏を勧めたが、朝義は喜ばなかった。田承嗣は車で円陣を組んで本営とすることを願い、女や子供を車中に入れ、輜重はその次とし、伏兵で待ち伏せた。戦っては退き、王師が追撃すると財貨に群がり、賊は奇兵を率いて囲みを出て、また伏兵を発して、王師は退いて数十里で停止した。朝義は遂に莫州に逃走し、僕固瑒は追撃して包囲した。四十日を過ぎ、賊は八戦するも八戦とも敗れた。翌年(763)正月、精兵を閲兵し、死を決しようと思った。田承嗣は朝義に、「ご自身で精鋭を率いて幽州に戻るにこしたことはなく、李懐仙に全兵力五万で戦いに戻らせ、勢力を伸長すれば、勝利は万全となるでしょう。臣には防備を固めさせてください。僕固瑒が強いといっても、にわかに下すことはできません」と言い、朝義はそうだと思い受け入れ、騎兵五千で夜に出て、出発する頃おいに、田承嗣の手を握って、存亡を託し、田承嗣は頓首して涙を流した。出発しようとして、また、「行く先々の関門は百もあって、母は老いて子は幼い。今公に委ねよう」と言い、田承嗣は拝命した。しばらくして諸将を集めて、「私と公らは燕に仕え、河北の百五十城あまりを降し、人の墳墓をあばき、人の家々を焼き払い、人の玉帛を奪い、壮年の者は刃で殺し、弱き者は溝に生き埋めにして殺した。公は名門につらなって私に従い、斉の姜氏・宋の子氏といった古代以来の名族は私のために一掃されてしまった。今天が降って鑑みたならば、我らはどうして命を帰するところなぞあろうか。古代より禍福はまた常ならざるものであるが、よく改めて今を修正するなら、危きを転じて即ち安全となる。夜明けに出て降伏しようと思うが、公らはどうするか?」と言い、諸将は皆、「よいことです」と言った。夜が明けると、人に城上の上で、「史朝義は夜半に逃走した。どうして賊を追跡しないのか?」と叫ばせた。僕固瑒はいまだに信じられなかったが、田承嗣が朝義の母および妻子を率いて僕固瑒の陣に行ったから、ここに諸軍は軽騎兵を率いて追跡した。

  朝義が范陽に到ると、李懐仙の部将の李抱忠は壁を閉ざして受け入れず、「この頃すでに天子の命を受け、一年のうち、降伏したり叛いたりしたが、二度も三度もどちらが深刻だというのか!」と言った。朝義は飢えを訴えたから、李抱忠は野に糧食を贈った。朝義は食事し、軍もまた食事したが、食事が終わると、軍の子弟は少しづつ去っていった。朝義は涙を流して田承嗣を罵って、「老いぼれが私を誤ったのだ!」と言い、去って梁郷に到り、史思明の墓を拝し、東は広陽に逃走したが、受け入れられなかった。謀って両蕃に走り、李懐仙はこれを招いたが、漁陽より回って幽州で止まり、医巫の里祠の下で縊死した。李懐仙はその首を斬って長安に伝え、もと将軍を召してその死体を収容した。李懐仙は服を改めて哭礼し、士は皆慟哭した。葬られたが、その場所は不明となっている。偽恒州刺史の張忠志・趙州刺史の盧俶・定州刺史の程元勝・徐州刺史の劉如伶・相州節度使の薛嵩および李懐仙田承嗣らは皆その地を挙げて帰順した。史思明父子が帝号を僭称することおよそ四年にして滅んだ。史朝義が死ぬと、部送将士の妻百人あまりを分けて官に送り、役人は司農に隷属させることを願った。帝は、「これは皆良家の子であって、脅されて掠われてここに至ったのだ」と言い、食を給付することを命じてその親元に帰し、帰るところがない者は、官が費用を出して遣した。


  賛にいわく、安禄山史思明は夷奴餓俘でありながら、天子から恩幸をかりて遂に天下を乱した。彼は臣でありながら君に叛いたから、その子もまた賊となってその父を殺したのだ。事はよく巡るもので、天道はもとよりこの通りだったのである。しかし民は災いにあい、必ず手を人に仮りる者は、そのため二賊はにわかに興ってしばらくして滅んだのである。張謂は劉裕を批判して、「近くは曹氏(曹魏)・司馬氏(晋)になろうとして、遠くは斉の桓公・晋の文公を棄てたから、禍は両朝に及び、福はいまだ三年にも満たなかった。血族は世嗣を伝え、六君は天寿を全うしなかったが、天の報施することは、それは明らかなことだ!」と述べた。杜牧は、「人相見は隋の文帝を称して帝となるべき者としたが、後に帝位を簒奪したから果たしてその予言を得たのである。北周の末期、楊氏は八柱国となり、公侯は相続して久しかった。一旦男子が帝位を奪おうと窺うと、二・三十年もしないうちに、壮年・老人・嬰児は皆死に方がよくなかった。彼が人相見を知っていれば、まさにこれを必ず楊氏の禍というべきなのであり、そこで優れた人相見であるとした」と述べた。張謂・杜牧が論を確定すると、今に到るまで多くがこれを自説とした。安禄山・史思明のように、劉裕・楊堅となることを願って至らなかった者は、これをもってその論を著すのである。

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最終更新:2024年03月23日 23:57
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