声をかけるタイミングというものは意外と難しい。
知り合いに声をかけるならばそう悩むことではない。名前を呼びながら近づいてもいいし、もっと親しければいきなり後ろから話しかけて驚かすのだって構わないだろう。後ろから小突いても許容される程度の関係ならば、更にインパクトのある方法を取ってもいい。
まぁ、久賀はそんな軽やかで愉快な若者のノリについていけるほど若くはないが。
さて、それにしてもどう話しかけようか。少々思考に没入していた久賀は当初の問題に立ち戻り、ベンチの上で足を組み換えた。
久賀はいつも通り八千代さんとの散歩に出かけ、近くの大学のキャンパスを歩いていた。顔見知りや知り合いと呼べる相手とは何人かすれ違ったが、皆講義やその他の用事があるらしく、軽い挨拶を交わすくらいだった。少々残念である。
誰かと益体もなく会話に花を咲かせたい気分だったのだが、わざわざその相手を探して回るのもどうかと思ったので、手近なベンチに腰をかけて八千代さんの頭を撫でていた。このままゆったりと過ごすのも悪くないし、傍から見れば大変暇そうな久賀に声をかけてくれる奇特な人間もいるかもしれない。そんな風に思っていた。
しばらくの間そうしていると、視界の左から右へ、一人の女子学生が駆けていった。
久賀がその女子学生に興味を持ったのは、数度見かけた覚えがあったという以上に、小走りに通り過ぎていった時に少女の背中で揺れた長い三つ編みが少々物珍しかったからだ。そういったジャンルに疎い久賀でもそれが今の流行に乗ったものではないとわかったし、なかなか見事な三つ編みだと思った(一応は褒めている。久賀はどうも美的感覚とそれに関わる語彙選択が少々ずれているらしいので、表現を誤ったかもしれないが)。
ともかく、その少女に興味を持った久賀はその行く先を目で追った。とことこというような効果音が付きそうな感じで走っていた少女は不意に立ち止まり、キャンパス内の道路の脇に造られた花壇の前でしゃがみ込んだ。背中を丸めて何やら真剣に見つめている。何か面白いものでもあるのだろうか。ますます少女に対して興味が湧いた。
そして、考える。どう話しかけようか。
見知らぬ、というか少なくとも知り合いとは言えない若い女性に声をかけるというのはなかなか難しいものである。気恥ずかしさや照れなどはまったくないのだが、傍から見ると若干微妙であると知り合いから注意されたことがある。ナンパっぽいっていうか、あ、でも、久賀さんだと違うかなぁ、や、でも、やっぱりいきなりってのは微妙っすよ、と大層言いにくそうに言ってくれた。
そして、それ以上にあまりに真剣そうな少女の背中に、その集中を遮ってまで声をかけるというのが躊躇われた。どう声をかけても久賀は邪魔でしかないだろう。
さて、どうしたものか。
八千代さんの頭を撫でつつ考えていると、視界の端に先程から動かない人影が立っているのに気づいた。
男子大学生としては少々小柄で、箪笥の中から適当に見繕ったような格好をしている。はっきりと顔の造作は見てとれないが、目が大きく唇が厚ぼったい感じのなかなか個性的な印象である。けなしてはいないが褒めてもいない。
そんな男子学生はいまだにしゃがみ込む少女を明らかに凝視している。目がぎょろりとしているせいか、何か異様な雰囲気を醸し出していて、確かにこれは微妙だと知り合いの忠告に納得した。今度から気をつけよう。
軽く決意をして、久賀は興味の対象をその男子学生へとシフトした。こちらでも十分面白そうだし、何より少女の邪魔をしないのは良いことだ。もしかしたら、男子学生は少女のことを知っているかもしれない。知らなくても、それはそれで別に構わない。
これ以上声のかけ方に悩むのも不毛だと思い、久賀はすぐにベンチから立ち上がろうとした。
しかし、その行為は不要だった。久賀が立ち上がりかけた瞬間、それまで少女一点に注がれていた男子学生の視線が久賀に移動したのだ。
視線が合う。それはすぐには外されず、それどころか相手のほうは睨みつけるようなものに変わっていった。意味はわからなかったが、久賀はなんとなく肩を竦めてみる。
その仕草をどう受け取ったのか、男子学生は大股でこちらに近づいてきた。ベンチに腰かけたままの久賀の前に仁王立ちする。足元の八千代さんがそれを避けるように動いて座りなおした。
しばしの沈黙、そして、
「何かな?」
「あんた、なんだよ」
見事に同時だった。久賀は思わず笑いを漏らす。一方、男子学生のほうは不愉快そうに顔を歪めて、「あんた倉沢先輩のこと見てただろ。なんのつもりか知らないけど、あの人には近づかないほうかいいぜ。この俺が言うんだからな、間違いないんだ」まくし立てるように言い連ねた。会話の主導権を握ろうとしているのか、それにしても本当に個性的な顔立ちだな、と久賀は思う。
「君は彼女の知り合いか? 倉沢というのはあそこに座っている彼女のことだろう?」
「そうだよ。あんた、あの人の名前も知らねえのに見てたのかよ。気持ちワリィ」
いや、君には言われたくないが。と、口に出さない分別はある。
「それは申し訳ない。そんな風に言うということは君は彼女の友人かな?」
先程少女に送っていた視線が恋人という選択肢を除外させた。粘性の強い視線は執着に満ちていたが、同時に確実な恐怖を湛えていた。背反する強い感情を宿した視線が興味深い。初対面でのいささか無礼すぎる口にきき方は気にしないことにした。
「……違う。でも、あの人のことを一番わかってんのは俺だ。他の奴らはあの人のことを何もわかってない。あの人は、違うんだ」
ぼかした言い様は明確な言葉を出したくないというより、ほのめかすことで久賀の興味を引きたいように思えた。落ち着きのない目の動きとズボンのポケットの中と外を行ったり来たりする手が目につく。今にも喋り出したそうだ。
久賀は素直にそれに乗った。
「ほう、それはどういうことかな? 君はさっき彼女に近づかないほうがいいと言ったが、見る限り普通の女性のようだが」
「はっ、見る目がないんだよ、あんたは」鼻で笑う。「確かに普段のあの人はちょっと不思議な感じがするくらいの可愛い人さ。でもな、あの時のあの人は違ったんだ。別人だ。あれは倉沢先輩じゃない」
「あの時、とは?」
久賀が更に問いを重ねると、男子学生は水を得た魚のように(何故だろうか、なんとなくこの表現は間違っている気がする。日本語的にはおかしくないはずだが)調子を上げてまくし立て出した。
今から一年ほど前の話。
曰く、倉沢というサークルの先輩に出会い、恋心を抱いたということ。
曰く、彼女が普通とは違った人間で、周りはそれに気づかない愚鈍な奴ばかりだったが、自分だけが気づいたということ。
曰く、そんな彼女に相応しいのは彼女のその違いに気づけた自分だけだということ。
曰く、しかし、意を決した告白は豹変した彼女によって拒絶されたということ。
曰く、あの時の彼女は間違いなく倉沢加奈子という人間とは別物の『何か』だったということ。
長々と続く話を聞き終えて久賀が抱いたのは、よくもまぁここまで初対面の相手に自分の心情と過去を暴露できるものだという感心半分呆れ半分の驚きだった。
恋愛というジャンルは人によっては絶対に他人に話したくないものであったり、話す相手をごく親しい相手に限ったりするのが一般的だと久賀は思っている。それを自ら初対面の名前も知らない男に話すというのは、久賀からすれば驚きだ。面白い人間もいたものである。
しかし、そんな感心と同時に、何故が妙な不快感をかすかに抱いていた。
久賀が内心で首を捻る間も男子学生の話は続いている。
「だから、俺はサークルの連中にも言ってやったのにっ。あいつら、俺のことをフラれた逆恨みにおかしなこと言いふらしてるんだとか言いやがって! 俺は親切で言ってやったんだぜ! なのになんで俺がそんなこと言われなきゃいけねえんだよ、なあ!」
口角に泡を飛ばす勢いで言い連ねるのは会話というより、一方な愚痴になっていた。白熱するのは構わないが、もう少し上品に話してもらえないかと思う。
「しかし、そんな彼女を見たのは君だけなんだろう? 普段の彼女しか知らない周囲には信憑性のない話となるのは仕方ない」
「そんなの俺とは関係ねえだろう! あいつらが俺の話を理解しないってのが今の話で、一番の問題だろうよっ。わかってんのか、あんたっ」
「君が何を言いたいのかは概ねわかっているつもりだが?」
「だったらくだらねえこと言ってんじゃねえよっ。いいか? あの人の違いに気づいたのも、それを知ってるのも俺だけなんだ。その俺がわざわざ忠告してやってんだぜ。この俺がっ」
必死に言葉を連ねる。それは熱弁というには余りに鬼気迫るような調子で、久賀はほとんど不要となった相槌を適当に打つ。
この男子学生は何が言いたいのか。何もかも見下して高みにいるような素振りで尊大に言葉を吐きながら、地べたに這いつくばり誰彼構わず縋りついて懇願するように言葉を吐くこの男子学生は久賀に何を言いたいのか。
「どいつもこいつも俺の忠告に聞く耳持たねえ。挙句俺を邪魔者扱いだっ。集団において上位に従うなんてサルにだってできることだってのに。上位者を排除することが集団にとってどれだけ不利益になるか理解できてねえんだよ」
激高したような口振りから、途端誰かの論理を笠に着たような論理を展開するその行動はどんな思考に起因しているのか。
「突出した人間に対する恐怖や劣等感から脅威として排除しようとするってんならわからなくもねえけどな、あいつらにそんな思考はねえんだよ。ヤになっちまうよ、バカばっかりだ」
見開いた目で睨みつけ、震える唇で高々と語ろうとするその憐れな有様はどんな感情に起因しているのか。
「ったく、これだからヤなんだよ。俺の話を理解できる奴がいやしねえ!」
久賀は男子学生の話を聞きながらずっと考えていた。
何故だ。
どうしてだ。
ずっと考えていた。
そんな久賀の思考にも、ただただ観ているだけの視線にすらも気づかず、男子学生は久賀を見下ろして鼻で笑った。
「まあ、あんたみたいな奴にはわかんないだろ? なあ!」
あぁ。そういうことか。
その瞬間、唐突に久賀は納得した。興味深いと思いながら、何故この男子学生との会話に不快感が伴ったのか。わかればなんてことはない。むしろ、当たり前すぎて気づかなかったというのが正しいだろう。
実に簡単な話だった。
「そうだな、まったく理解できない」
久賀はこの手の人間が嫌いだったのだ。
不快なのだ、不愉快なのだ、この手の人間が、この手の人間と会話を交わすことが。
「君はわからないだろうと俺を突き放して、そんなことはないと否定する共感が欲しかったのかな? それとも、肯定と同意を得ることで自分が上位であると俺の口から言わせたかったのかな? どちらにしろ、あるいはどちらでもないにしろ、生憎と先程の俺の答えは君の希望を叶えるものではない。共感も肯定も同意も、理解の上に成り立つものだからな」
そうとわかれば話は早い。さっさとこの不快で不愉快な会話を終わらせよう。久賀にとって他人との会話とは楽しむものであり、精神的に疲弊する会話を無為に続けるほど被虐的ではない。
「俺は君の言ったことがまったく理解できない。あぁ、別に君の言葉が日本語として誤っていて解読できないという話ではない。過剰な自尊心と虚栄心で無様に脚色されていたが、そういう意味で理解できなんじゃない」
男子学生の顔色が見る間に変わっていったが、久賀は頓着しなかった。
「君の発言の論理、というより君の思考の論理か。いや、論理と呼ぶほどのものじゃないな。願望、期待、前提と言ってもいいかな。それが理解できないんだよ。信念だとか思想だとかという話じゃない。君は誰かの言葉を借りるのが好きそうだが、控えたほうがいい。無様だからな」
少し話が逸れた。言葉を選ぶ気が薄れているのに気づいたが、
「非常に困るんだよ、君との会話は。困惑するし、迷惑なんだ。……正直に言おうか」
修正する気も訂正する気も起きず、久賀は思うままに言葉を吐き出す。
「鬱陶しいんだよ」
怒りにか羞恥にか、紅潮していた男子学生の顔から色が失せた。
「言い方が悪くてすまないが、俺は君みたいな人間が駄目なんだ。はっきり言うなら、嫌いなんだよ」
久賀は一つの間も置かず言葉を繋いだ。男子学生に一言も、一単語も、一音すらも発することを許さず、問いを投げつけた。
「君は他人の同意が得られなければ耐えられないのか? すべての発言が他人に肯定されなければ生きていけないのか? 振りかざせてもいない権威を振りかざさなければ発言できないのか? 何をそんなに恐れているんだ?」
周囲の人間が自分の発言を蔑ろにすると嘆く。自分の存在が取るに足らないものとして扱われることに憤る。自分の意味を、価値を声高に主張する。
それは別に構わない。自己中心的な定規で自身と周囲を測り、自意識過剰と自己陶酔を叫ぶのも好きにしてくれていい。その行為の結果が更に自身の存在を貶めていることに気づかず、どこまでも転落していくのも一興だろう。傍から見ている分にはまったく問題ない。
「君はあの少女との顛末を初対面の俺にあっさりと語った。それは何故だ? どう聞いても君にとってそれは失敗であり、疎ましい記憶でしかないだろう? わざわざ人に語って聞かせるなんて露悪趣味でもあるのか? しかし、君はそういうタイプには到底見えない。ならば、君がああして語ったのは何故だ?」
しかし、目の前にいるこの男はそこで止まらなかった。
「君は俺に共感してほしかったのか? ならば、君が俺に共感してほしかったのはなんだ? 彼女への恋情か? それを無残かつ暴力的に袖にされた怒りか? 周囲から自己評価に不釣り合いな扱いを受けることへの屈辱か? 誰も君を理解しないことへの絶望か?」
自分の意見を主張することを咎めるつもりはない。ただ主張するという行為に留まり、自己の中で完結しているならば構わない。だが、それに共感を、同意を、肯定を求めた瞬間、それは久賀にとって正直不愉快なものでしかなくなる。
「それとも、彼女に感じた恐怖か?」
それらを求める志向は誰にもある。誰にもあった。しかし、この男はそれが過ぎた。
久賀はひたすらに問いを重ねた。
「どうしてそんなに共感してほしいんだ? 逐一自分の言葉に同意と肯定を要求するのはいったいどういう心境なんだ? 俺にはまったく理解できない。どう望もうとも足掻こうとも、本当の同意も肯定も共感も得られるわけながないのに、何故なんだ? そもそも何をもってして君の発言が、ひいては君自身が肯定されたと、同意されたと、理解されたと判断するんだ? その判断基準はどこにある? 不確定かつ曖昧極まりないそれに何を恐怖しているんだ? 他人から理解されるなんて、どうしてそんな幻想を抱けるんだ? 申し訳ないが、頭がおかしいんじゃないか?」
君は、ほとんど思考することもなく言葉を続けようとした。
その瞬間、八千代さんの鳴き声が響いた。
瞬間、口を噤み息を止めた。反射的に視線を下ろし合わせた八千代さんの目に思わず怯む。清らかな光を湛えた瞳はじっと久賀を見上げ、静かに訴えかけてくる。どうやらやりすぎたらしい。
八千代さんに目線で謝罪してから、顔を上げて男子学生を見た。目を見開いたまま硬直した蒼白の顔にさすがに申し訳ことをしたかもしれないと思った。そもそも、一歩的にまくし立てるなど、目の前の男子学生と同じではないか。こちらが年上である以上、わきまえなければならないのは久賀のほうだ。
久賀は一度深く息を吐いて、反省した。単調すぎるとよく指摘される声の調子を変えて、極力すまなそうに言った。
「いや、俺のほうこそ質問責めにして申し訳ないな。すまない、最後の質問はいつも俺が他人に対して抱いているものなんだが、つい君に訊いてしまった。君に代表して答えさせるのも悪い」
舌鋒を収めて謝罪した久賀に、ようやく男子学生の視線の焦点が合う。軽く小突いただけでそのまま地面に倒れそうなほど弱々しく見る影もない様子だったが、一応は久賀の言葉を聞いている。
「若干頭に血が上ったようだ。本当にすまない」
「…………い、や……」
か細く漏れてきた声は言葉の形をなしていなかったが、久賀はそのまま続けた。
「この以上君の前にいても君を不快にさせるだけだろう。俺はここで失礼するよ。本当にすまなかった」
男子学生のもう一度謝罪し、ベンチから立ち上がった久賀は八千代さんのリードを引いて、歩き出した。男子学生を振り返ることなく、少しだけ足早に大学の門へと向かう。
「……これでは言い逃げだな。いや、訊き逃げか」
きまりの悪さをひしひしと感じながらこっそりと呟くと、八千代さんが小さく吠えた。仕方ないですねとも、もうやらないでくださいよとも、聞こえた。
まったく、駄目ですね、ではないことを祈る。
八千代さんに嫌われたらかなわない。
知り合いに声をかけるならばそう悩むことではない。名前を呼びながら近づいてもいいし、もっと親しければいきなり後ろから話しかけて驚かすのだって構わないだろう。後ろから小突いても許容される程度の関係ならば、更にインパクトのある方法を取ってもいい。
まぁ、久賀はそんな軽やかで愉快な若者のノリについていけるほど若くはないが。
さて、それにしてもどう話しかけようか。少々思考に没入していた久賀は当初の問題に立ち戻り、ベンチの上で足を組み換えた。
久賀はいつも通り八千代さんとの散歩に出かけ、近くの大学のキャンパスを歩いていた。顔見知りや知り合いと呼べる相手とは何人かすれ違ったが、皆講義やその他の用事があるらしく、軽い挨拶を交わすくらいだった。少々残念である。
誰かと益体もなく会話に花を咲かせたい気分だったのだが、わざわざその相手を探して回るのもどうかと思ったので、手近なベンチに腰をかけて八千代さんの頭を撫でていた。このままゆったりと過ごすのも悪くないし、傍から見れば大変暇そうな久賀に声をかけてくれる奇特な人間もいるかもしれない。そんな風に思っていた。
しばらくの間そうしていると、視界の左から右へ、一人の女子学生が駆けていった。
久賀がその女子学生に興味を持ったのは、数度見かけた覚えがあったという以上に、小走りに通り過ぎていった時に少女の背中で揺れた長い三つ編みが少々物珍しかったからだ。そういったジャンルに疎い久賀でもそれが今の流行に乗ったものではないとわかったし、なかなか見事な三つ編みだと思った(一応は褒めている。久賀はどうも美的感覚とそれに関わる語彙選択が少々ずれているらしいので、表現を誤ったかもしれないが)。
ともかく、その少女に興味を持った久賀はその行く先を目で追った。とことこというような効果音が付きそうな感じで走っていた少女は不意に立ち止まり、キャンパス内の道路の脇に造られた花壇の前でしゃがみ込んだ。背中を丸めて何やら真剣に見つめている。何か面白いものでもあるのだろうか。ますます少女に対して興味が湧いた。
そして、考える。どう話しかけようか。
見知らぬ、というか少なくとも知り合いとは言えない若い女性に声をかけるというのはなかなか難しいものである。気恥ずかしさや照れなどはまったくないのだが、傍から見ると若干微妙であると知り合いから注意されたことがある。ナンパっぽいっていうか、あ、でも、久賀さんだと違うかなぁ、や、でも、やっぱりいきなりってのは微妙っすよ、と大層言いにくそうに言ってくれた。
そして、それ以上にあまりに真剣そうな少女の背中に、その集中を遮ってまで声をかけるというのが躊躇われた。どう声をかけても久賀は邪魔でしかないだろう。
さて、どうしたものか。
八千代さんの頭を撫でつつ考えていると、視界の端に先程から動かない人影が立っているのに気づいた。
男子大学生としては少々小柄で、箪笥の中から適当に見繕ったような格好をしている。はっきりと顔の造作は見てとれないが、目が大きく唇が厚ぼったい感じのなかなか個性的な印象である。けなしてはいないが褒めてもいない。
そんな男子学生はいまだにしゃがみ込む少女を明らかに凝視している。目がぎょろりとしているせいか、何か異様な雰囲気を醸し出していて、確かにこれは微妙だと知り合いの忠告に納得した。今度から気をつけよう。
軽く決意をして、久賀は興味の対象をその男子学生へとシフトした。こちらでも十分面白そうだし、何より少女の邪魔をしないのは良いことだ。もしかしたら、男子学生は少女のことを知っているかもしれない。知らなくても、それはそれで別に構わない。
これ以上声のかけ方に悩むのも不毛だと思い、久賀はすぐにベンチから立ち上がろうとした。
しかし、その行為は不要だった。久賀が立ち上がりかけた瞬間、それまで少女一点に注がれていた男子学生の視線が久賀に移動したのだ。
視線が合う。それはすぐには外されず、それどころか相手のほうは睨みつけるようなものに変わっていった。意味はわからなかったが、久賀はなんとなく肩を竦めてみる。
その仕草をどう受け取ったのか、男子学生は大股でこちらに近づいてきた。ベンチに腰かけたままの久賀の前に仁王立ちする。足元の八千代さんがそれを避けるように動いて座りなおした。
しばしの沈黙、そして、
「何かな?」
「あんた、なんだよ」
見事に同時だった。久賀は思わず笑いを漏らす。一方、男子学生のほうは不愉快そうに顔を歪めて、「あんた倉沢先輩のこと見てただろ。なんのつもりか知らないけど、あの人には近づかないほうかいいぜ。この俺が言うんだからな、間違いないんだ」まくし立てるように言い連ねた。会話の主導権を握ろうとしているのか、それにしても本当に個性的な顔立ちだな、と久賀は思う。
「君は彼女の知り合いか? 倉沢というのはあそこに座っている彼女のことだろう?」
「そうだよ。あんた、あの人の名前も知らねえのに見てたのかよ。気持ちワリィ」
いや、君には言われたくないが。と、口に出さない分別はある。
「それは申し訳ない。そんな風に言うということは君は彼女の友人かな?」
先程少女に送っていた視線が恋人という選択肢を除外させた。粘性の強い視線は執着に満ちていたが、同時に確実な恐怖を湛えていた。背反する強い感情を宿した視線が興味深い。初対面でのいささか無礼すぎる口にきき方は気にしないことにした。
「……違う。でも、あの人のことを一番わかってんのは俺だ。他の奴らはあの人のことを何もわかってない。あの人は、違うんだ」
ぼかした言い様は明確な言葉を出したくないというより、ほのめかすことで久賀の興味を引きたいように思えた。落ち着きのない目の動きとズボンのポケットの中と外を行ったり来たりする手が目につく。今にも喋り出したそうだ。
久賀は素直にそれに乗った。
「ほう、それはどういうことかな? 君はさっき彼女に近づかないほうがいいと言ったが、見る限り普通の女性のようだが」
「はっ、見る目がないんだよ、あんたは」鼻で笑う。「確かに普段のあの人はちょっと不思議な感じがするくらいの可愛い人さ。でもな、あの時のあの人は違ったんだ。別人だ。あれは倉沢先輩じゃない」
「あの時、とは?」
久賀が更に問いを重ねると、男子学生は水を得た魚のように(何故だろうか、なんとなくこの表現は間違っている気がする。日本語的にはおかしくないはずだが)調子を上げてまくし立て出した。
今から一年ほど前の話。
曰く、倉沢というサークルの先輩に出会い、恋心を抱いたということ。
曰く、彼女が普通とは違った人間で、周りはそれに気づかない愚鈍な奴ばかりだったが、自分だけが気づいたということ。
曰く、そんな彼女に相応しいのは彼女のその違いに気づけた自分だけだということ。
曰く、しかし、意を決した告白は豹変した彼女によって拒絶されたということ。
曰く、あの時の彼女は間違いなく倉沢加奈子という人間とは別物の『何か』だったということ。
長々と続く話を聞き終えて久賀が抱いたのは、よくもまぁここまで初対面の相手に自分の心情と過去を暴露できるものだという感心半分呆れ半分の驚きだった。
恋愛というジャンルは人によっては絶対に他人に話したくないものであったり、話す相手をごく親しい相手に限ったりするのが一般的だと久賀は思っている。それを自ら初対面の名前も知らない男に話すというのは、久賀からすれば驚きだ。面白い人間もいたものである。
しかし、そんな感心と同時に、何故が妙な不快感をかすかに抱いていた。
久賀が内心で首を捻る間も男子学生の話は続いている。
「だから、俺はサークルの連中にも言ってやったのにっ。あいつら、俺のことをフラれた逆恨みにおかしなこと言いふらしてるんだとか言いやがって! 俺は親切で言ってやったんだぜ! なのになんで俺がそんなこと言われなきゃいけねえんだよ、なあ!」
口角に泡を飛ばす勢いで言い連ねるのは会話というより、一方な愚痴になっていた。白熱するのは構わないが、もう少し上品に話してもらえないかと思う。
「しかし、そんな彼女を見たのは君だけなんだろう? 普段の彼女しか知らない周囲には信憑性のない話となるのは仕方ない」
「そんなの俺とは関係ねえだろう! あいつらが俺の話を理解しないってのが今の話で、一番の問題だろうよっ。わかってんのか、あんたっ」
「君が何を言いたいのかは概ねわかっているつもりだが?」
「だったらくだらねえこと言ってんじゃねえよっ。いいか? あの人の違いに気づいたのも、それを知ってるのも俺だけなんだ。その俺がわざわざ忠告してやってんだぜ。この俺がっ」
必死に言葉を連ねる。それは熱弁というには余りに鬼気迫るような調子で、久賀はほとんど不要となった相槌を適当に打つ。
この男子学生は何が言いたいのか。何もかも見下して高みにいるような素振りで尊大に言葉を吐きながら、地べたに這いつくばり誰彼構わず縋りついて懇願するように言葉を吐くこの男子学生は久賀に何を言いたいのか。
「どいつもこいつも俺の忠告に聞く耳持たねえ。挙句俺を邪魔者扱いだっ。集団において上位に従うなんてサルにだってできることだってのに。上位者を排除することが集団にとってどれだけ不利益になるか理解できてねえんだよ」
激高したような口振りから、途端誰かの論理を笠に着たような論理を展開するその行動はどんな思考に起因しているのか。
「突出した人間に対する恐怖や劣等感から脅威として排除しようとするってんならわからなくもねえけどな、あいつらにそんな思考はねえんだよ。ヤになっちまうよ、バカばっかりだ」
見開いた目で睨みつけ、震える唇で高々と語ろうとするその憐れな有様はどんな感情に起因しているのか。
「ったく、これだからヤなんだよ。俺の話を理解できる奴がいやしねえ!」
久賀は男子学生の話を聞きながらずっと考えていた。
何故だ。
どうしてだ。
ずっと考えていた。
そんな久賀の思考にも、ただただ観ているだけの視線にすらも気づかず、男子学生は久賀を見下ろして鼻で笑った。
「まあ、あんたみたいな奴にはわかんないだろ? なあ!」
あぁ。そういうことか。
その瞬間、唐突に久賀は納得した。興味深いと思いながら、何故この男子学生との会話に不快感が伴ったのか。わかればなんてことはない。むしろ、当たり前すぎて気づかなかったというのが正しいだろう。
実に簡単な話だった。
「そうだな、まったく理解できない」
久賀はこの手の人間が嫌いだったのだ。
不快なのだ、不愉快なのだ、この手の人間が、この手の人間と会話を交わすことが。
「君はわからないだろうと俺を突き放して、そんなことはないと否定する共感が欲しかったのかな? それとも、肯定と同意を得ることで自分が上位であると俺の口から言わせたかったのかな? どちらにしろ、あるいはどちらでもないにしろ、生憎と先程の俺の答えは君の希望を叶えるものではない。共感も肯定も同意も、理解の上に成り立つものだからな」
そうとわかれば話は早い。さっさとこの不快で不愉快な会話を終わらせよう。久賀にとって他人との会話とは楽しむものであり、精神的に疲弊する会話を無為に続けるほど被虐的ではない。
「俺は君の言ったことがまったく理解できない。あぁ、別に君の言葉が日本語として誤っていて解読できないという話ではない。過剰な自尊心と虚栄心で無様に脚色されていたが、そういう意味で理解できなんじゃない」
男子学生の顔色が見る間に変わっていったが、久賀は頓着しなかった。
「君の発言の論理、というより君の思考の論理か。いや、論理と呼ぶほどのものじゃないな。願望、期待、前提と言ってもいいかな。それが理解できないんだよ。信念だとか思想だとかという話じゃない。君は誰かの言葉を借りるのが好きそうだが、控えたほうがいい。無様だからな」
少し話が逸れた。言葉を選ぶ気が薄れているのに気づいたが、
「非常に困るんだよ、君との会話は。困惑するし、迷惑なんだ。……正直に言おうか」
修正する気も訂正する気も起きず、久賀は思うままに言葉を吐き出す。
「鬱陶しいんだよ」
怒りにか羞恥にか、紅潮していた男子学生の顔から色が失せた。
「言い方が悪くてすまないが、俺は君みたいな人間が駄目なんだ。はっきり言うなら、嫌いなんだよ」
久賀は一つの間も置かず言葉を繋いだ。男子学生に一言も、一単語も、一音すらも発することを許さず、問いを投げつけた。
「君は他人の同意が得られなければ耐えられないのか? すべての発言が他人に肯定されなければ生きていけないのか? 振りかざせてもいない権威を振りかざさなければ発言できないのか? 何をそんなに恐れているんだ?」
周囲の人間が自分の発言を蔑ろにすると嘆く。自分の存在が取るに足らないものとして扱われることに憤る。自分の意味を、価値を声高に主張する。
それは別に構わない。自己中心的な定規で自身と周囲を測り、自意識過剰と自己陶酔を叫ぶのも好きにしてくれていい。その行為の結果が更に自身の存在を貶めていることに気づかず、どこまでも転落していくのも一興だろう。傍から見ている分にはまったく問題ない。
「君はあの少女との顛末を初対面の俺にあっさりと語った。それは何故だ? どう聞いても君にとってそれは失敗であり、疎ましい記憶でしかないだろう? わざわざ人に語って聞かせるなんて露悪趣味でもあるのか? しかし、君はそういうタイプには到底見えない。ならば、君がああして語ったのは何故だ?」
しかし、目の前にいるこの男はそこで止まらなかった。
「君は俺に共感してほしかったのか? ならば、君が俺に共感してほしかったのはなんだ? 彼女への恋情か? それを無残かつ暴力的に袖にされた怒りか? 周囲から自己評価に不釣り合いな扱いを受けることへの屈辱か? 誰も君を理解しないことへの絶望か?」
自分の意見を主張することを咎めるつもりはない。ただ主張するという行為に留まり、自己の中で完結しているならば構わない。だが、それに共感を、同意を、肯定を求めた瞬間、それは久賀にとって正直不愉快なものでしかなくなる。
「それとも、彼女に感じた恐怖か?」
それらを求める志向は誰にもある。誰にもあった。しかし、この男はそれが過ぎた。
久賀はひたすらに問いを重ねた。
「どうしてそんなに共感してほしいんだ? 逐一自分の言葉に同意と肯定を要求するのはいったいどういう心境なんだ? 俺にはまったく理解できない。どう望もうとも足掻こうとも、本当の同意も肯定も共感も得られるわけながないのに、何故なんだ? そもそも何をもってして君の発言が、ひいては君自身が肯定されたと、同意されたと、理解されたと判断するんだ? その判断基準はどこにある? 不確定かつ曖昧極まりないそれに何を恐怖しているんだ? 他人から理解されるなんて、どうしてそんな幻想を抱けるんだ? 申し訳ないが、頭がおかしいんじゃないか?」
君は、ほとんど思考することもなく言葉を続けようとした。
その瞬間、八千代さんの鳴き声が響いた。
瞬間、口を噤み息を止めた。反射的に視線を下ろし合わせた八千代さんの目に思わず怯む。清らかな光を湛えた瞳はじっと久賀を見上げ、静かに訴えかけてくる。どうやらやりすぎたらしい。
八千代さんに目線で謝罪してから、顔を上げて男子学生を見た。目を見開いたまま硬直した蒼白の顔にさすがに申し訳ことをしたかもしれないと思った。そもそも、一歩的にまくし立てるなど、目の前の男子学生と同じではないか。こちらが年上である以上、わきまえなければならないのは久賀のほうだ。
久賀は一度深く息を吐いて、反省した。単調すぎるとよく指摘される声の調子を変えて、極力すまなそうに言った。
「いや、俺のほうこそ質問責めにして申し訳ないな。すまない、最後の質問はいつも俺が他人に対して抱いているものなんだが、つい君に訊いてしまった。君に代表して答えさせるのも悪い」
舌鋒を収めて謝罪した久賀に、ようやく男子学生の視線の焦点が合う。軽く小突いただけでそのまま地面に倒れそうなほど弱々しく見る影もない様子だったが、一応は久賀の言葉を聞いている。
「若干頭に血が上ったようだ。本当にすまない」
「…………い、や……」
か細く漏れてきた声は言葉の形をなしていなかったが、久賀はそのまま続けた。
「この以上君の前にいても君を不快にさせるだけだろう。俺はここで失礼するよ。本当にすまなかった」
男子学生のもう一度謝罪し、ベンチから立ち上がった久賀は八千代さんのリードを引いて、歩き出した。男子学生を振り返ることなく、少しだけ足早に大学の門へと向かう。
「……これでは言い逃げだな。いや、訊き逃げか」
きまりの悪さをひしひしと感じながらこっそりと呟くと、八千代さんが小さく吠えた。仕方ないですねとも、もうやらないでくださいよとも、聞こえた。
まったく、駄目ですね、ではないことを祈る。
八千代さんに嫌われたらかなわない。
家へと帰り、一息ついた久賀はもう一つ納得した。
久賀が期待通り問いを重ね、あの少女との過去を語り出した男子学生を『水を得た魚のように』と表現した時に感じた齟齬の理由だ。表現も、表現を使うタイミングを間違ってはいなかったのに感じた妙な違和感。
その理由はあの男子学生の顔だった。
個性的かつ印象的なあの大きなぎょろ目。
「彼は魚というより蛙だったからな」
リビングのソファーで一人納得する久賀に、八千代さんは吠えることなくただただ撫でられていた。
久賀が期待通り問いを重ね、あの少女との過去を語り出した男子学生を『水を得た魚のように』と表現した時に感じた齟齬の理由だ。表現も、表現を使うタイミングを間違ってはいなかったのに感じた妙な違和感。
その理由はあの男子学生の顔だった。
個性的かつ印象的なあの大きなぎょろ目。
「彼は魚というより蛙だったからな」
リビングのソファーで一人納得する久賀に、八千代さんは吠えることなくただただ撫でられていた。
あとがき
あんまりフルボッコという感じではなくなってしまいました。もっと虐めたかった。
久賀は今後小川とすれ違っても完全にスルー。
あんまりフルボッコという感じではなくなってしまいました。もっと虐めたかった。
久賀は今後小川とすれ違っても完全にスルー。