韓国ミステリ史 第三章 - 韓国推理小説100年の歴史

2011年11月15日

 『韓国ミステリ史 第三章』では、1970年代を扱っている。

目次

第三章 1970年代: 後継者不在の時代に現れたキム・ソンジョン

 韓国の最初の創作探偵小説は1908年から1909年にかけて新聞連載されたイ・ヘジョ(李海朝)双玉笛(そうぎょくてき)だった。その後、欧米や日本の探偵小説の流入が続き、創作探偵小説もいくつか書かれるが、しばらくは探偵小説専門の作家は現れなかった。1930年代半ばになると、金来成(キム・ネソン)が初の探偵小説専門作家として登場し、「韓国の江戸川乱歩」【注1】とでもいうべき活躍で人気を博したが、しかし戦後は金来成は大衆文学作家に転向してしまう。その後の三十年ほどは、後世まで読み継がれるような推理作家はなかなか登場しなかったが、そんな後継者不在の時代に現れて一躍人気推理作家となったのがキム・ソンジョン(金聖鍾)である。キム・ソンジョンは1970年代半ばに発表した最初の長編推理小説『最後の証人』がベストセラーとなり、2011年現在まで韓国ミステリ界を代表する作家として推理小説を発表し続けている。最新作は、日本の福岡を舞台にしたサスペンス小説、『福岡殺人』(2011年10月刊)。

  • 注1:『日本推理作家協会会報』1984年6月号の黄鐘灝(ファン・ジョンホ)「韓国推理小説の現状」に以下のようにある。「わが国の推理小説は金来成から始まったと言っても過言ではないでしょう。勿論古典小説や特に李朝時代のいわゆる「公案類」小説にも推理的要素の濃い作品がありますが、近代的意味において氏はいわば韓国の江戸川乱歩でした。」

第一節 キム・ソンジョン(金聖鍾)登場



◆生い立ち~純文学作家としてのデビュー
 キム・ソンジョン(金聖鍾/김성종)は1941年、中国の山東(さんとう)済南(さいなん)市に生まれた。父親は韓国の求礼(クレ)出身だったが、一時期中国に渡っており、キム・ソンジョンはそこで生まれたのである。終戦後はソウルで暮らし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると韓国南部の求礼(クレ)に避難し、そこで少年時代を過ごした。
 延世(ヨンセ)大学の政治外交学科に進学。大学時代はフランス文学を耽読したという。卒業後、新聞記者などを経て小説家デビュー。デビュー作は、1969年に『朝鮮日報』の新春文芸公募に入選した短編小説「警察官」である。キム・ソンジョンは当初は純文学作家として活動しており、この作品も警察官を主人公にしてはいるが推理小説ではなかった。その後、文芸誌に「我らが少年だったとき」(1970)、「十七年」(1971)、「悲しみ」(1972)、「ある娼婦の死」(1973)、「鎌」(1973)などの短編小説を発表。このうち、「ある娼婦の死」には『最後の証人』の探偵役である刑事のオ・ビョンホが登場している。

◆推理作家としてのデビュー作『最後の証人』
 1974年、『韓国日報』創刊20周年の長編小説公募に『最後の証人』(최후의 증인)(邦訳2009年)を投稿し、受賞。1974年6月から翌年6月まで同紙に連載。1977年には単行本が刊行され、ベストセラーになった。刑事のオ・ビョンホが捜査本部の方針に反抗し、単独行動で殺人事件の捜査をしていくうちに、その原因となった数十年前の悲劇が明らかになっていくというハードボイルド作品である。1980年には映画化されたが、検閲によって大幅にカットされた上、上映は10日間で打ち切られてしまった。映画の完全版は2009年になってやっとDVDとして一般に販売され日の目を見た。また2001年には『最後の証人』を原案とする映画『黒水仙』も公開されている。

 キム・ソンジョンはその後もハードボイルドや国際謀略小説を中心とする長編推理小説を次々と発表。1974年の『最後の証人』以降、推理作家デビューから10年になる1984年までに発表した長編には、『七本の薔薇』、『Zの秘密』、『白色人間』、『霧の中に消える』、『私は生きたい』(邦訳2005年、邦題『ソウル 逃亡の果てに』)、『死を呼ぶ少女』、『第五の男』、『反撃の壁』、『迷路の彼岸』、『第三の情死』、『凍りついた時間』、『浮浪の河』などがある。2011年現在までで、発表した長編は約50編にのぼる。

◆創作以外でのミステリ界への貢献
 次々と長編推理小説を発表する一方、1988年には『季刊推理文学』(계간 추리문학)を創刊。さらに同誌上で長編推理小説を公募する金来成(キム・ネソン)推理文学賞を立ち上げた。(『季刊推理文学』は10号?で休刊、金来成推理文学賞は全4回で終了している。この雑誌と賞については第四章で紹介する)

 1992年3月には、韓国有数のリゾート地である釜山(プサン)海雲台(ヘウンデ)に、キム・ソンジョンが私費を投じて建設した推理小説図書館の推理文学館が開館している。同年6月にはここで日韓の推理作家協会の交流会が行われ、日本推理作家協会からは生島治郎、山村正夫、豊田有恒、麗羅、大沢在昌、西木正明が参加した。1993年5月には日本推理作家協会が韓国推理作家協会の推理作家らを日本に招待したが、その際にはキム・ソンジョンも来日している。(1990年代初頭には日本推理作家協会と韓国推理作家協会の交流があったが、1993年以降、交流は途絶えているようである)


◆日本を舞台にした最新シリーズを執筆中
 2011年10月には、3年半ぶりの新作長編『福岡殺人』を上梓した。タイトルから分かる通り、日本の福岡を舞台にしたサスペンス小説である。プサン日報に掲載されたインタビュー記事(2011年10月22日、韓国語)によれば、『福岡殺人』は日本を舞台にした全5作のシリーズの最初の1作であり、2012年以降に『大阪殺人』、『東京殺人』、『札幌殺人』、『名古屋殺人』を予定しているという。2012年には福岡にも住居を用意し、プサンの自宅と往復しながら執筆する予定だという。キム・ソンジョンの『福岡殺人』の刊行については、日本の新聞でも記事になっている。


◆中国でも刊行されているキム・ソンジョンの作品
 キム・ソンジョンの作品は日本では『最後の証人』と『ソウル 逃亡の果てに』しか出版されていないが、中国では少なくとも7作品が出版されている。代表作の『最後の証人』の中国版は出ていないようだ。


第二節 1970年代の翻訳ミステリ

(1)1972年、韓国ミステリクラブの結成

【2012年6月11日、加筆】
 キム・ソンジョンが『最後の証人』によって推理作家デビューする少し前の1972年、韓国推理作家協会(1983年2月8日設立)の母体となった韓国ミステリクラブが結成されている。国外の推理小説に関心を持つ英文学の大学教授が中心となったもので、1972年1月5日に結成された【注2】。発起人はイ・ガヒョン(李佳炯)、イ・グンサム(李根三)、ファン・ジョンホ(黄鐘灝)ら。

黄鐘灝(ファン・ジョンホ)「韓国推理小説の現状」(『日本推理作家協会会報』1984年6月号、No.426、p.4)
【金来成が1957年に亡くなったのちには】追蹤者達のエログロ時代があり、良心的な一部の作家がありましたが、大体において一応低質視された推理小説の復興など絶望的な状態でした。一九七二年一月五日おもに大学英文学教授からなる「韓国ミステリクラブ」が鍾路(チョンノ)清進(チョンジン)洞にある飲食店「雲情」の5号室で結成されたのはこういう時期でした。外国推理の飜訳が主な目的でしたが、新人作家の発掘も事業の一部でした。メンバーは十名に、スポンサーである「雲情」の女主人(ハン)女史といわば「テン・プラス・ワン」、李佳炯(イ・ガヒョン)会長と、黄鐘灝(ファン・ジョンホ)総務で始まりました。

 会長のイ・ガヒョン(李佳炯)(이가형)(1921-2001)は英文学者。1942年、熊本の旧制第五高等学校卒業。その後東京帝大文学部に進学。1956年から1年間、アメリカのウィリアムズ大学に留学。その後、大学教授を務めながら多くのミステリの翻訳を手掛け、韓国におけるミステリの普及に尽力した。1983年、韓国ミステリクラブから発展して韓国推理作家協会が設立されるとその初代会長も務めた。1984年3月、東京で開催された国際ペン大会に韓国代表として参加し、日本推理作家協会の中島河太郎と面会した。この面会の様子は中島河太郎が『日本推理作家協会会報』1984年6月号(No.426)で伝えている。1990年と1992年の日韓両国の推理作家協会の交流会に参加(→詳細はこちらの記事)。1995年、自身の戦争体験を日本語で綴った『怒りの河 ビルマ戦線狼山砲第二大隊朝鮮人学徒志願兵の記録』(連合出版)を上梓した。

 総務のファン・ジョンホ(黄鐘灝)(황종호)(????- ? )も英文学者。大学教授を務めながら多くのミステリを翻訳した。中島河太郎はファン・ジョンホとは何度か書簡のやり取りをし、1982年ごろには面会もしている。

 なお、1966年2月28日付けの京郷(キョンヒャン)新聞に、イ・ガヒョンとイ・グンサムが中心となって仮称・ミステリ文学協会の設立を準備している――と報じる記事が載っている(情報提供:韓国推理作家協会クォン・イリョン氏)。ただ、韓国ミステリクラブの設立は前述の通り1972年なので、このときの計画はおそらく立ち消えになってしまったのだろう。

  • 注2:韓国ミステリクラブ(あるいは単に「ミステリクラブ」)の結成年は、引用したファン・ジョンホの記事によれば1972年となっているが、パク・クァンギュ(2008a)では1971年、鄭泰原(チョン・テウォン)(2000)では1970年、金容権(キム・ヨングォン)(2001)では1960年代末とされている。ここでは、唯一日付まで示されているファン・ジョンホの記事の記述に従っておく。

(2)1970年代末の翻訳ミステリブーム

 キム・ソンジョンが『最後の証人』を連載しはじめた1974年、河西(ハソ)出版社が《世界推理文学全集》(全10巻)(ラインナップ紹介)を出版している。ドイルやクリスティと並んで、日本の推理作家では江戸川乱歩と松本清張の作品が収録された。そして1970年代後半になると、複数の出版社から翻訳ミステリの叢書の創刊が相次ぐ。主なものは以下の通りである。

  • 《東西推理文庫》 1977年~1980年頃?、全128巻(一部、SF作品も含む。日本の作家の作品はなし) - 2003年以降、《東西ミステリブックス》で大部分が再刊された
  • 《河西推理選書》 1977年~1978年、全36巻(ラインナップ紹介) - 日本の作家では江戸川乱歩、横溝正史、松本清張、森村誠一の作品を収録
  • 《三中堂ミステリ名作》 1978年~1981年、全40巻(ラインナップ紹介) - 日本の作家では横溝正史、坂口安吾、高木彬光、森村誠一、水上勉、黒岩重吾、佐野洋の作品を収録

(これらの叢書でも上述のイ・ガヒョンとファン・ジョンホは多くの作品の翻訳を担当している)

 日本の作家の中で、当時の韓国で特に人気を集めたのは松本清張森村誠一だった【注3】【注4】。1970年代末には中国でも松本清張と森村誠一が人気を博していたし【注5】、また台湾でも1970年代末から松本清張作品が次々と翻訳刊行されていた【注6】。この時期、日本の社会派推理小説は日本国内だけでなく東アジアにまで広まり多くの読者を獲得していたのである。

  • 注3:松本清張の韓国での人気については、南富鎭(なん ぶじん)「松本清張の朝鮮と韓国における受容」(2011)に以下のようにある。「松本清張の作品は韓国において幅広く受容されてきた。膨大な量の翻訳が無造作に行われるかたちで韓国の読者に提供されてきたのである。また韓国推理小説にも多大な影響を及ぼしていると言える。韓国を代表する推理小説家である金聖鍾への影響関係も強くうかがわれる。」(p.69)。
  • 注4:森村誠一の韓国での人気については、李建志(り けんじ)「松本清張と金聖(ママ) ――日韓の戦後探偵小説比較研究」(2006)に以下のようにある。「韓国でもっとも人気のある日本の推理小説作家は森村誠一だといわれている。」(p.11)、「一九七〇年代、金聖(ママ)によって拡大されたミステリマーケットに、日本を代表する作家として森村誠一が参入し、高い評価を受けたのだ。」(p.12)。
  • 注5:1998年の第1回北京偵探推理文芸協会賞では、1979年に中国語版が刊行された松本清張『点と線』と森村誠一『人間の証明』が翻訳作品賞を受賞している(1950年以降の約50年間に中国で出版された翻訳ミステリが対象になっており、松本・森村作品を含む計16作品が受賞している)。
  • 注6:島崎博氏は台湾で松本清張『ゼロの焦点』が翻訳刊行された1977年を「実質的な台湾の推理小説元年」だとしている(『ファウスト』Vol.7(2008年8月)掲載の島崎博インタビュー、p.1110)。

第三節 邦訳された1970年代の韓国推理小説


金聖鍾(キム・ソンジョン)『最後の証人』(上下巻)(論創社、2009年2月)(原著 1974-1975年)
李文烈(イ・ムニョル)『ひとの子 ――神に挑む者――』(集英社、1996年4月)(原著刊行 1979年)

 また、キム・ソンジョンと同時代に日本では麗羅(れいら)(1924-2001)が推理作家として活躍していた。本名チョン・ジュンムン(鄭埈汶、정준문)。1924年12月20日、朝鮮に生まれる。1934年に来日。1973年、「ルバング島の幽霊」でサンデー毎日新人賞を受賞して日本で作家デビューした。ペンネームの「麗羅」は、下の東洋経済日報の記事によれば、高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)から一文字ずつとってつけたものである。1983年には『桜子は帰ってきたか』で第1回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞している。1990年代初頭には、日本推理作家協会と韓国推理作家協会の交流に貢献した(詳細は「日本推理作家協会と韓国推理作家協会の交流」)。2001年8月4日逝去。76歳。(『日本ミステリー事典』新潮社、2000年 参照)


参考文献



最終更新:2011年10月17日 15:29