ハルヒと親父 @ wiki

愛と運命についての対話

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haruhioyaji

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ハルヒ
ねえ、親父?
オヤジ
ああ?
ハルヒ
母さんと出会ってなかったら、今頃どうしてる?
オヤジ
さあな。ロンドンの運河沿いの骨董屋で、外人だまして浮世絵でも高値で売りつけてるんじゃないか?
ハルヒ
つっこみどころもなく最低ね。
オヤジ
何故そんなことを聞く?
ハルヒ
……いつか、自信たっぷりに「母さんと会ったのは運命だ」っていってたじゃない。
オヤジ
母さんにとっては災難だったかもな。だが、そういう「もしも質問」はあんまり意味がない。
ハルヒ
何でよ?
オヤジ
母さんに出会う前と後とじゃ、世界が違っているからだ。
ハルヒ
……あんたねえ。
オヤジ
ロマンチックな意味じゃない。いや、そういう意味が微塵もないわけじゃないぞ。
ハルヒ
じゃあ、どういう意味よ。
オヤジ
今から二千年以上前の話だが、エピクロスという哲学者は、ものを見ることができるのは、何かが目に飛び込んでくるからだ、と考えた。エピクロスにとっては、何か知ることとは、すねに石ころが当たれば痛いの同じ、単なる事実だった。

 ここで、ふつうの哲学者なら《人は何を知る事が可能か》と考える。
 エピクロスは《人が何か知ることは不回避だ(避けられない)」と考える。

 恋愛については、こうなる。
  恋愛のプラトニスト(プラトン主義者)は、運命の人に会うことができるだろうか、と考える。
  だが恋愛のエピキュリアン(エピクロス主義者)は、この人と出会うことは不回避だった、すなわち運命だったと考えるんだ。
  大げさに言えば、それがこの宇宙の有り様の一部だと、な。

  石ころが、あのガラスに当たれば、ガラスは割れて、世界はほんの少しだけ有り様を変える。
  それと同じに、俺の目にある女の姿が飛び込んでくれば、やはり世界は、ほんの少しだけその有り様を変えるだろう。

 だか世界にとってはほんの少しでも、俺にとっちゃ大違いだ。
 そして俺は、彼女と会う前とは、確実に違う世界を生きている。
 会わなかったら? そいつは、まるで別の世界の話だ。そっちは別の親父に任せておけばいい。……なんだ、まだ、納得がいかないのか?
ハルヒ
で、それは、ただの惚気と、どうちがうの?








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