ハルヒと親父 @ wiki

ラベンダー・バス(二人は暮らし始めました)

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haruhioyaji

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 夏の間、部屋に帰ればすぐシャワー、汗をかいたら即シャワー、というパターンを繰り返していたせいか、思えば「ゆっくり湯船につかってくつろいだ」という記憶があまりない。
 これは何もシャワーのせいとばかりは言えないだろう。
 心・技・体ともに、「ゆっくり湯船につかる」のにまったく不向きな人物と、おれは暮らしているのだから。
 まず心。風呂を肉体ばかりか精神をくつろがせ、リフレッシュする場所だとは、どうあっても思えないらしいあいつは、湯船にはられた液体が摂氏40度のお湯だろうが、15度の水だろうがおかまいなしに、真夏の動物園で氷柱をもらった北極クマのように、はしゃぎにはしゃいで、とにかく水をあたりにまき散らしてくれる。
 つぎに技。稚戯から一転、あいつがその気になれば、魔法の杖のように指を一振りするだけで、今度はおれの理性が3段式ロケットに乗って宇宙速度で飛び去り、種馬だとかオットセイだとかのごとく、狭い湯船を7回転半し、結果、これまた、ゆっくり浸かるはずだった湯のほとんどを排水溝に流し込むことになる。
 それから体……と、あいつが帰ってきたようだ。

「ちょっと、キョン! 一人でお風呂に入るなんてひどいじゃない! ゆっくり湯船に隠居しようなんて100年『早い』わよ。うりゃー!」
『速い』のは、おまえの脱衣のスピードだ。この2DKはお世辞にも広いとは言えないが、それでも夏の薄着とはいえ、外出着で部屋の入口をくぐり、そこから風呂のドアまで数歩進むうちに、生まれたままの姿になってるなんて、往年の脱出王ハリー・フーディーニもびっくりだ。
「少し目を離すとこれなんだから」
これってどれなんだよ?
「大体おまえ実家に帰ってたんじゃないのか? わざわざ夏風邪を引いた親父さんを笑いに」
「そりゃもう死ぬほど笑ってやったわよ。普段病気に縁がないもんだから、38度しか熱ないのに『死ぬ死ぬ』って、うるさいのなんの。あんたも来れば良かったのに」
 で、居心地悪くて、すぐに帰ってきたんだな。このツンデレ父娘め。まったく、どちらも素直じゃない。いや、親父さんの方は長生きしてる分、時には素直になる。ただ未熟者の娘は、そいつを素直に受けとめられないのだが。言わないけどな。
「ちょっと詰めなさい。お湯に入れないじゃないの」
「ちょっと待て」
「やだ」
「いいから待て。エウレーカ(みつけたぞ)!」
「あんたは、どこのアルキメデスよ」
「おれたちがゆっくり湯につかれない理由をだ」
「答え。あんたがスケベだから」
「そうじゃない。と言うか、直接の原因はそれじゃない。二人で湯舟に入るからだ。当然お湯はあふれる。一人が抜ければ、お湯は悲しいくらい少量しか残ってない」
「そんなこと考えるまでもなく分かるでしょうが」
「それでも入るんだな」
「入るわ。それが今、あんたにできるだけ近くにいるために、できることだから」
こ、このやろう。どうして俺には直球勝負なんだ? しかも裸で、この至近距離で、だぞ。
「こ、こら、キョン。あんた、さっきから言ってることと、やってることが真逆よ!」
 おまえの腰にまわした腕のことか? これなら気にするな。単なる条件反射だ。
「で、そっちは生理反応って訳?」
 年頃の娘が、そういうこというんじゃありません。
「それに、おれが体を張ってまで、おまえを湯に入れないのは訳がある」
「手短にね。あたしに風邪引かせようってなら話は別だけど」
「確かにおれは湯船でくつろいでた。で、よりリラックスするために、ラベンダーの香りがついた入浴剤を入れた」
「あんたに説明されるまでもなく、一目瞭然じゃないの。香りもするし」
「でだ、おまえ、蜂に刺されるのは好きか?」
「そんなの好きな人いるの?」
「ラベンダーの花は、進化の過程で、何よりも蜂を引きつける芳香を獲得した。だからラベンダーの香りの着いたシャンプーで髪を洗った人が、蜂に追っかけられたりするんだ」
「へえ、そう」
「だから蜂が嫌なら、この湯に入るな」
「ここまで阿呆とは思わなかったわ。万一、この湯に入らなくてもね、明日になれば、あたしだってラベンダーの息ぐらいを吐くようになってるわよ!」
「どうして? お湯を飲むのか?」
「飲むか! 口で言って分からない奴を処する方法は、昔から一つしかないわね」
と言うが早いか、ハルヒは自分の背中に回ったおれの手から指一本をつかんだ。
「痛っ!!」
「対痴漢用の技をあんたに使うのは本意じゃないけどね」
おれの両腕が痛さに離れた間に、ハルヒは自分の体を180度回転させ、後ろ飛びして背中ごと自分の体重をおれに預けてきた。
 ざぶん。ぶくぶく。

 「あー、やっぱりお風呂はくつろぐわね!」
おまえが言うな。あ、お湯ははり直したぞ。念のために言っとく。
「あら、キョン。元気ないわね」
最後の一滴まで、おまえが吸い取ったんだろうが。
「でないと、あんた、お風呂で『暴れん坊』になるから。こうでもしないとゆっくり入れないでしょ?」
 なにも言うまい。いや実のところ、なにも言えない。
「キョン」
 俺に背をあずけるように湯船の中に座るハルヒは言う。
「なんだよ?」
「腕、出して。両方」
「お、おう」
「だ、抱っこしなさい」
「……これで、いいか」
「よろしい」
「……ハルヒ」
「なによ?」
 文句あんの?と言いたげな声。もちろん、文句なんかないさ。ただな。
「腕、胸に触ってんだが」
「嫌なの?」
「い、嫌なもんか」
「ならいいじゃない」
 負け続けってのは、なんと言うか、思いが残っちまうもんだろ? 残念というがごとく。だからな。
「……腹、減らないか?」
「ムードのカケラもない奴ね」
「悪いが、使い果たした」
「ちゃんと用意してあるわ。って、母さんが持たしてくれたんだけどね」
「……そうか」
「あ、あと、親父が『同棲生活、楽しんでるか』と言っとけ、って」
「ぶくぶく」 くそ、あの親父め……。
「どういう答えよ、それ?」
「……ハルヒ、おまえ、ちょっと重くなってないか?」
「なっ、あんたねえ!」
「気にするな。おれは大丈夫だから」
「何が大丈夫なのよ!」
「目つぶっても、おまえだとわかる。……それだけで、大丈夫だ」
「だから、何が?」
ずり落ちるように湯の中に沈みながら、ラベンダーの香りを体いっぱいに吸い込みながら。












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