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ハルヒと親父2その後 一周年 その3

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haruhioyaji

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 朝が来たのは分かった。
 おれの精神(こころ)及び肉体(からだ)は、まだ完全には覚醒しておらず、周囲の状況を把握するには至ってなかった。おれの右手は、そこにいるはずの誰かを無意識に探していたが、成果ははかばかしくなかった。それで、人の気配を感じたとき、おれの肺は空気を喉と口蓋に送りこみ、この世のものとは思えぬ音を出すという失態をやらかした。だが音の方がしでかしたことは、よくよく考えればはるかにマシで、更なる大問題は音声信号の内容の方だった。
「ん……ハルヒ?」
「残念。はずれ」
 この似ているが確かに違う声について、脳髄が前頭前野と側頭野と海馬に鞭を入れ、最高速度の検索を要求する。結果:この声は確かに・・・
「って、ハルヒのお母さん!」
「おはよう、キョン君」
「お、おはようございます!」
「誰かお探し?」
 ハルヒの母さんは、心持ち首を傾け、おれの顔を覗きこむ。ああ、この人を前にしては誰だって(あの親父さんだって)隠し事などできっこない。
「あ、い、いえ、あの?」
「お湯と洗面とタオルとひげ剃りを持ってきたの。うちの朝の洗面所は戦場だから、ゆっくりできないと思って」
ああ、誰と誰が毎朝闘いを繰り広げているかは、言わなくても分かる。
「あ、すみません。助かります」
「済んだら朝食するから、ダイニングに来てね」
「は、はい」
ひげを剃り、旅行用のような歯ブラシセットで歯をみがき、ほどよい温度の湯で顔を洗って、ふっかふかのタオルを顔に押しつけていると、部屋のどこかに転がっている携帯が、振動し出す。いつ、マナー・モードにしたのか、思いだそうとしながら携帯を拾うとメールだ。差し出し人、ハルヒ。
「ご飯よ、エロキョン」
 何の術を込めたのか、それだけの言葉に、おれの顔から血の気が引いていく。
 生まれてからこの方、最も明るく憂鬱な朝だ。
「おはよう、キョン君」
「よお、キョン、よく眠れたか」
「はい、おはようございます……」
「……」
 ダイニング・テーブルには4つの椅子が並んでいて、すでに3つが埋まっている。いつもと違っているのは座っている位置だ。ハルヒは、おれが座るはずの空いた椅子の斜め向かいに陣取ってる。夕べは、いつもと同じ、おれの右となりに座っていた。そして、今朝の右となりは、おやじさんだった。
 ハルヒの沈黙が、何か不機嫌とか不愉快のせいであるのは分かるが、それが朝から繰り広げられたダイニング椅子取りゲームで親父さんに敗北を喫したことに起因するのか、いや因果関係はまったく逆で、不愉快だからその位置に座ることにしたのか、にわかに判断はつきかねた。いずれにしろ、今、おれにできることは、空いている席を埋めることだけだ。
 「キョン君は、朝はご飯?パンでもいける?」
空気を読んでか読まずにか、あるいはこの人ならわざと読み飛ばすことだってできそうだが、ハルヒの母さんは、天使のように無邪気にそう尋ねてきた。
「いや、どっちでも、大丈夫です」
「よかったわ。今朝めずらしく早く起きたので、パンを焼いてみたの」
 パンというのは早起きして焼くものなのか。少なくともうちでは、買ってきて5枚だとか6枚にあらかじめ切れてるぞ。
 涼宮家の朝の食卓に並んだのは、バットのように長いパンやフットボールよりもでかいパンやその他諸々だ。ここまで視覚情報のヒントを与えられて、ようやく辺りに満ちる香しい匂いの正体が、焼きたてのパンたちからのものだと気付いた。そうしてそれを切り分けるのが主たる親父さんの仕事だということも。
「そこにあるのがカモの内臓とアプリコットのパテ、隣が牡蛎(かき)とほうれん草の、そっちがサーモンのだ。パンに塗りつけて食ってみろ。バターが入り用なら、こっちに自家製のがある」
 牛でも飼ってるんですか?
「生クリームとフードプロセッサがあれば15分くらいでできる。成分無調整の牛乳も入れた方がうまいがな。力自慢なら、道具に頼らず、瓶に入れて振り続けてもいい」
親父さんがそうしている光景が浮かんだが、作ったのはやっぱりハルヒの母さんなんだよな。
「毎日、こんな朝食なんですか?」
「客がいるときは、どういう訳か、家族中早く眼が覚める。そして母さんが本気の朝食を出す」
「客がいないときは?」
「母さんの起床時間次第だが、だいたい各自で朝食を用意して出かけることが多いな。最近の炊飯器は優秀だから吸水時間なしで15分もあれば飯が炊ける。まあ一人分なら、土鍋で炊いた方が、多少時間はかかるがうまい」
「そうね。わたしが一番最後に起きることが多いから、みんな出掛けちゃってるわね。一人だとついついご近所に食べに出ちゃうわ。さっきのパテ・ペーストをつくってるおばあちゃんが、お庭で小さな喫茶をやっていてね。いろいろ教わりながら、食べたことのないようなものをたくさんいただいちゃうの。ちょっと雰囲気のある、魔女みたいなおばあちゃんよ」
そういいながら、いずれも焼きたてアツアツの、オムレツ、厚切り(1cm以上ある、おそらく自家製)ベーコン、(これも多分、自家製)ソーセージ2種類、マッシュルーム、焼きトマト、豆(ビーんズ)が皿に乗って出てくる。クラスメイトの家に泊まって、ここまで完璧なイングリッシュ・ブレックファーストが出てくるなんて誰が予想できよう。あとハギスがあれば、完璧。でも、あれは好みがある。
「もう一泊してもらえたら、アツアツご飯に、魚の干物、生卵、のり、お味噌汁なんてのも、できるけど」
どこまでいっても旅館仕様ですね。
「そうなの。いわゆる『おふくろの味』を知らずに育っちゃったから」
 以前聞いたハルヒの母さんの半生を思いだすとそれも当然な気がする。
 という間にも、一人黙々と食べ続け、バンと食卓を叩いてその反動で立ちあがった奴がいる。
「先、行くから」
誰であろう、ハルヒだ。
「うむ。なかなか素敵に不機嫌だ。キョン、何かしたのか?」
「んー、むしろ『何もしなかった』ってことじゃないかしら?」
お二人とも、胸をえぐるような推測はやめてください。が、二人に言い返すだけの何か、たとえば夕べ眠る前の記憶が今のおれにはどうにも思い出せない。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです。あいつを追いかけます。あっ、土曜、楽しみにしてます!」
 それだけを早口に言って、おれも涼宮家を飛びだす。
 ハルヒを送って帰るつもりだったから、おれは自転車で来ていた。2足同士の短距離なら正直勝てる自信はないが、ハルヒが本気でおれを撒こうとでも思わない限り、たぶんおれは追いつける。めんどくさい距離の取り方と縮め方だが、しかたがない。おれはどう逆立ちしたっておれだし、あいつは涼宮ハルヒだ。

 「遅い!」
 案の定、こいつは腰に手を当てて、ぷりぷり怒りオーラをまき散らしてる。それに遅いというのも肯首せねばなるまい。ハルヒに追いついたのは、学校前の坂の下だったからだ。
「遅いのは認める」
 だが、どれだけ速いんだ、お前は。
「タクシーを使ったわ」
それは思いつかなかった。思っても実行しないと思うが。
「悪いがおれは一時的に記憶喪失だ」
 息を切らして自転車を降りる。
「でしょうね」
と心当たりでもありそうなことを言うハルヒ。
「あんたが、そんな石頭とは思わなかったわ」
それは行動的にか、それとも物理的にか?
「両方よ」
ああ、ようやく途切れた記憶の糸が、推理でつながりそうだぞ。
「女の子の家に泊まって、キスもしないってどういうこと?」
「痛てて。それで頭突きか?」
「そうよ」
「言い訳にしかならんが……」
「聞きたくない!」
「聞けよ!キスだけで済ませる自信がなかったんだ!」
「どうして、そんなものが自信なのよ!」
おい、ここは学校のすぐ下だぞ。登校時間には早すぎるとはいえ、ご近所の目が……。ってそんなもの、こいつの顔に視界を占拠されたら何の意味もない。
「んんん。……どうよ、目が覚めた?」
「いや、火がついた」
放りだした自転車がアスファルトにぶつかる音がした。そんなもの、どうにでもなれ。
……
「……んんん、はあ、はあ、あ、アホキョン!酸欠させる気?」
「お、お互い様だ。こっちこそ、また気絶するかと思ったぞ」
「また記憶をおっことしたんじゃないでしょうね?」
「記憶も理性も少しならある」
多分、次のセリフを言う分だけな。
「サボるぞ、ハルヒ! それで好きなところへ行って、好きな時間だけ、好きなことをやる。どうだ!?」
「キョンが切れた」
「そうだ、責任取れ!」
「こういうのを待ってたのよ!!」

「あ、母さん? あたし。えー、何て言ったらいいのかしら? やむにやまれぬ、というか、止めるに止められない衝動みたいなのがあるでしょ? 二身上の都合で学校休みたいの。何とかならないかしら? うん、あたしは風邪引いてるとか、適当に言い繕ってもらって、問題はキョンとキョンのうちなんだけど。ああ、うん、わかった。じゃあ、まかせる。お願い。恩にきるわ」

「おはようございます、キョン君のお母さん。ええ、そんな。実はうちの愚娘がキョン君に手料理を食べさせたいと。ええ、作ったのはいいんですが、香辛料をあれこれ入れすぎまして、それでおなかの具合がちょっと。トイレにかわるがわる行くような状態で。ええ、お医者様に往診に着ていただいて、今日中にはおさまるということなんですけども。ええ、それで僭越ですが、学校の方には私の方からご連絡させていただきました。申し訳ありません。ええ、今はうちで休んでもらってます。はい、それはもう。いいえ、ご迷惑だなんて、こちらの方こそ。はい、はい。でも、ええ。わかりました。ありがとうございます。それでは失礼します。ふう……ハル、今回だけよ」

  ● ● ●

 そして土曜日。
 週末までの、あれやこれや、早朝学校の近くまで来ていたハルヒと俺が(なんと目撃者がいたらしい)その日そろって休んだことについてのクラスメイトの反応とか憶測とか噂話などは、あとで詳しく(多分お鰭をふんだんに着けて)教えててくれた奴がいたこととともに割愛したい(谷口よ、いつも小さなオチに使ってすまん、安らかに眠ってくれ)。

 そして土曜日。
 おれはハルヒと(正確のはハルヒが)選んだ「それなりの格好」をして、涼宮家を訪れた。少し早かったので、親父さんとWiiで対戦して大敗し(涼宮家の人間は手を抜くことを知らないらしい)、少し凹んだところで時間となった。
 「少し緊張している」というハルヒの母さんが助手席に、おれはハルヒと親父さんに挟まれて後部座席におさまり、一路、親父さんの知り合いの店へと向かった。
 車が俺たちの街を離れ、坂の街へとたどり着き、坂をジグザグに上っていく辺りで、おれとハルヒからは血の気が引いてきた。車は、去年、おれたちが最初に「おとまり」した洋館通りのあのホテルへどんどん接近していたからだ。
 案の定というか、悪い予想通りというか、その店は、あのホテルのほとんど隣というくらい、すぐ近くにあった。親父さんの知りあいの店もまた、洋館をつかったレストランであり、その日は、広めの庭にテーブルを持ちだしてのお祝い仕様となっていた。どのテーブルからも、あのホテルの建物が見える。これは何かの拷問か?
(ハルヒ、この店の場所、知ってたのか?)
(知らなかったわよ! 知ってたからって、どうしようもないけど)
目と目で会話するにも限界があり(辺りは次第に暗くなってきていたし)、おれたちは「知らんぷリ」することについてだけは、かろうじて合意に達し、パーティの本来の目的に専念することが、だれの幸せにとっても一番であることを確認しあった。
 いつもなら、妙にするどい親父さんが呆けているのが、物怪(もっけ)の幸いだった。
「母さん、きれいだ」
なんと、このバカ親父は、自分の妻に見とれて、見惚れているのであった。

 「何でも、ここって彼女のおじいさんの家だったらしいわ。外国から来られて、日本の女性と結婚して、ここに居を構えて。貿易の仕事だったらしいわ。彼女のお父さんも、小さい頃はここに住んでいたらしいけど、おじいさんが急死されてね。家も手放すことになって。時代が時代だし、お父さんも苦労されたらしいけど、一人前の料理人になって、この家のことを思いだしたんだって。親父がどう絡んでくるのか、よくわからないんだけど、とにかくこの家を借りて店を開くのを手伝ったらしいわ。店のオープンのとき、親父と母さんはここに来てるの。その後、あたしが生まれて、世話になったからって、彼女のお父さんからはものすごく高いお酒をいただいたみたい。ちょうど一年前、そう朝帰りしたあの日に、落ちこんでる親父抜きで、母さんと飲んじゃったんだけどね。運命は巡ると言うのかしら、彼女のお父さんも亡くなられて、店も手放すことになって、彼女が店を継ぐ決心をして、親父がまた力を貸したんだって。その再オープンが去年の今日。1周年のお祝いができるくらい順調みたいね」

 「ええ、涼宮さまには、ひとかたならぬお世話になりました」
親父さん、呼んでますよ。見たところ、彼女がこの店を継いだという、親父さんの友人の娘さんだろうか。
「あ、いえ、ハルヒ様に」
「え、あたし?」
「ええ、花束が届いてます。これを」
花束を覗きこんだハルヒが、こっちを睨む。
「あ、あんたねえ。う、嬉しいけど、今日は、この店の1周年なのよ」
正確には、この店も、な。
「お店の方にもいただいてます」
「へ、そうなの?」
あー、ごほん、つまり「バカ」は、バカ親父ばかりじゃないって訳だ。悪いか?
「お母様のピアノ、私も楽しみです。今日は楽しんでいってください」
颯爽と去っていく若いオーナー。
「留学してて、そのまま向こうで働いてたんだがな。父親が死んで帰ってきた。すぐにおれんとこに連絡が来てな。『店を取り戻したいんです。力を貸してください』とこうだ。父親の方はもっとごもごも言ってて、こっちが炊きつけないとダメな奴だったんだがな。料理は素人のはずだが、どうしてどうして。若くて腕がいいシェフを探してきたし、自分でもソムリエの資格を取った。親父より商売はうまいし、いい娘を育てたな。もう、ここを手ばなすことはないだろう」
親父さんが見送るようにそう言った。

 庭に設けられた特設ステージにはピアノが一台。招待客が座るテーブルにはメニューではなく、演奏プログラムが配られている。

ドビュッシー 組曲「子供の領分」から「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」と「ゴリヴォークのケークウォーク」、死後発見された「忘れられた映像」から「もう森には行かない」の諸相、「2つの前奏曲集」から「亜麻色の髪の乙女」「とだえたセレナード」「沈める寺」
サティ 「ヴェクサシオン(いやがらせ)」、冷たい小品集「逃げ出したくなるアリア」から、バレイ曲「本日休演(ルラーシュ)」、「あらゆる意味にでっちあげられた数章」、「ジュ・トゥ・ヴー(おまえがほしい)」

「タイトルは知らなくても、聞いたことがある曲もあるはずよ。たとえば『子供の領分』ってのはね、ドビュッシーの一人娘“シュシュ”のために作った奴で、簡単だけど面白い曲ばっかりでね。あたしも小学校の時、このふたつは弾いたけど、母さんが弾くとぜんっぜん違うのよ! あ、そろそろ、あたし行ってくるね」
と言ってハルヒは席を立つ。譜めくり(曲にあわせて譜面をめくる役)をするためだ。
「母さんが人前で弾くなんて、めったにないからね。『一番弟子』として、この役だけは譲れないわ」
「ああ、行ってこい。解説なら、あとでいいぞ」
「それより料理! ちゃんと残しときなさい。全部食べるんだからね!」
ハルヒがステージ・ライトのまぶしさの中に消えていくと、さっきの女性オーナーが、偶然とでもいった風に、俺の後ろを通りかかった。
「お3方のお料理は演奏が済んでから、別にお出しするつもりだったんですが、どうされますか?」
隣を見れば、親父さんはすでに目を閉じて、最初の音を待っている。
「ええ、俺の分も後で、お願いします」
「かしこまりました」
この心遣い、なるほど親父さんが誉めるわけだ。

 1曲目『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』は、有名なピアノ練習曲集『グラドゥス・アド・パルナッスム』(パルナッスム山への階梯)のパロディ曲らしく、退屈な練習に閉口する子供の心理を巧みに表現していると言われる珍曲だ。ハルヒはいつか、鍵盤を叩いてお母さんと「お話」し、それがピアノの練習になっていた、という話をしたことがあったが、ハルヒの母さんのピアノは確かに「物語」をしているようだった。「ピアノなんて大嫌い!」と女の子が言っている情景を思い浮かばせる演奏(しかもピアノの!)とでも言えばいいんだろうか。
 2曲目『ゴリウォーグのケークウォーク』は、ジャズのリズムを最初に取り入れたクラシックとも、黒人音楽と西洋音楽との最初の接触とも言われるリズム感あふれる曲で、ガンガンに激しいかと思うと小さく細やかに、音量も音の色合いも実に幅のあって……
 ……曲はドビュッシーからサティへと移り、やがて最後の曲になった。『ジュ・トゥ・ヴー』(Je te veux)は、エリック・サティが1900年に作曲したシャンソンで、“スロー・ワルツの女王”と呼ばれた人気シャンソン歌手、ポーレット・ダルディの為に書かれた。今夜演奏されたのは、これをサティ自身がピアノ曲にしたものだ。
 演奏を始める瞬間、ハルヒの母さんが演奏に入って初めてハルヒの方を見た(ようにおれには見えた)。その瞬間、ハルヒが真っ赤になってそっぽを向いた、とは親父さんの証言だが、ハルヒ本人はもちろん否定した(ハルヒの母さんは、ただ笑って二人のやり取りを見ていた)。甘いメロディがはじまり、PAからは誰かが口づさむ声が、かすかにピアノの音に重なった。グランド・ピアノのためのマイクが、声を拾っていた。聞き違いようがない、ハルヒの母さんの声だ。

 J'ai compris ta détresse, あんたの気持ち あたしにもわかる
 Cher amoureux,      大好きな人
  Et je cède à tes voeux,  恋をしましょう
  Fait de moi ta maîtresse.  この世のすべて
  Loin de nous la sagesse.  忘れ去り
  Plus de tristesse,     悲しいことのない
  J'aspire à l'instant précieux  すてきなひととき
  Où nous serons heureux: je te veux. 二人幸せなとき あんたが欲しい

  Je n'ai pas de regrets いいの それで
  Et je n'ai qu'une envie: のぞみはひとつ
  Près de toi, là, tout près, あんたのそばで すぐそばにいて
  Vivre toute ma vie.    ずっと生きてく
  Que mon cœur soit le tien, あたしの心があんたの心に
  Et ta lèvre la mienne: あんたの唇が私の唇に
  Que ton corps soit le mien, あんたの身体があたしの身体に
  Et que toute ma chair soit tienne!  あたしの全部があんたの全部になるように
………

 すべての曲が終わり、拍手が続いて、二人、母とその娘がテーブルに帰ってきた。
 それでも拍手は鳴り止まず、二人はテーブルの前で二度目のおじぎをした。それをタイミングに二人を追ってきたピン・ライトは消え、BGMが流れて、演奏は終わった。

 オーナー自らが、アペリティフ(食前酒)を運んできた。
 「素敵な演奏、ありがとうございました」
「こちらこそ素敵な場所で演奏できて、本当に幸せ」
「お食事をお持ちしますね」
「ごめんなさい。わたしたちだけ、遅くしてもらって」
「ええ、特別なんです。みなさんは、ゲスト・オブ・オーナーですから」
 嫌味のない笑顔を残して、オーナーは歩き去った。
 ハルヒは、アペリティフを指さして、お母さんに「飲んでいいの?」と聞いている。
「食前酒で酔うもんか。というか、酔うような酒を食前酒に出さんぞ」
親父さん、その仕草は「おまえも一杯行け」ですか?
 料理が進んで、まだ30歳代前半だと思われるシェフがやってきて、肉料理(鴨)を切り分けてくれる。
「この料理……失礼ですが、ラ・トゥール・ダルジャンにいらしたの?」
「え、あ、はい。半年だけですが」
「そのお歳で」
「はい。語学も料理の腕も、足りないものばかりでした。何も身に付けず帰ってきたようなもんです」
「とんでもない。鼻っ柱をへし折られたことを仰ってるなら、それこそ得たもの。あなたは多分、天才です。10年したら、ベルナール・パコーが赤絨毯とリムジン用意して迎えにくるわ。あ、ごめんなさい。出過ぎたことを」
「いいえ。先生は覚えておられないでしょうが、一度だけ、先生の料理を食べたことがあるんです。店をお止めになる、ほんの2週間ほど前に」
「まあ」
(ラ・トゥール・ダルジャンって何だ?)
と声に出さずハルヒに聞く。
(鴨料理が有名なパリにある元三ツ星レストラン。今は星二つだったと思うけど)
と声に出さずハルヒも答える。
(ベルナール・パコーのは?)
(ランブロワジーってパリの三ツ星レストランの料理長よ)

「母さんの料理、食べたって言ってたね、彼」
しっかり口に運ぶものは運びながら、喋り続けるハルヒ。
「ほんと、口は災いの元ね。顔から火が出るかと思ったわ」
いつかのハルヒのように、トマトみたいに真っ赤になった、ハルヒの母さん。
「それで料理人を志したって」
「いわないで、ハル。ああ、悪いことってできないわね」
「別に誰も悪いことしてないわよ」
珍しく黙って食べ続けていた親父さんが口を開いた。
「確かにあいつは天才か、それに近いものがあるな」
「ね、お父さんもそう思うでしょ?」
「ああ。しかも去年より腕を上げてる。将来、楽しみだな。……キョン、お前も何か喋れ」
 ああ、そろそろお鉢が回ってくることだとは思ってたんだ。それに言うことなら決めてあったしな。
「ピアノっていいですね。素直に感動しました。ハルヒ、お前弾かないのか? お母さんの一番弟子だろ?」
「げっ。あんたって奴は……時と場所を選びなさい!」
「どういう意味……」
「素敵! ハル、キョン君のリクエストだもの、頑張るわよね?」
「あ、あのね、母さん」(どうすんのよ! 母さんのスイッチが入っちゃったじゃないの!)
(って、いいじゃないか)
(良くないわよ! うちの母さんは、人間以外には完全主義者だって、前言ったでしょ!)
(おまえ、人間じゃないのか?)
(そういうボケかましてる場合じゃない! 音よ、音! ああ、キョン、次にあんたと会えるのは、親父の葬式かもね)
(どれだけ未来だよ、それ!)
「あの、目でお話中のお二人さん、おじゃましていい?」
 100パーセク以内のすべての恒星を搭載したような瞳を輝かせて、ハルヒの母さんは言った。
「次は二人の大学合格のお祝いをここでやりましょう! その時はハルと私で連弾をご披露するわ!」


〜おしまい〜




































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