鳥山石燕の『画図百鬼徒然袋』に描かれた妖怪で、「むくむかばき」と読みます。「むかばき」というのは、流鏑馬をする馬上の射手が腰のあたりに巻いていたりする皮の腰巻のこと。石燕さんは「『曽我物語』の曾我兄弟の親父の巻いてた腰巻がこの妖怪になったんじゃないかな」的なことを言っています。

 それにしても「無垢」というのはどういう意味なんでしょうか。ピュアな心の持ち主ということなんでしょうか。絵を見ると、確かにすんごく無垢そうな顔つきで、しかもアルカイックな微笑をたたえていらっしゃる。いかにもピュアげなモテ小顔だ。無垢の権化のようなたたずまいだ。いや、しかし、ちょっと待って欲しい。彼が頭から被っているのはおっさんの腰巻なのだ。その行為、果たしてピュアといえるのだろうか。

 もしも。もしもの話をしよう。もし彼が頭にひっかぶっているのが、女子高生のスク水だとか、ブルマだとか、あるいは看護師のナース服やチャイナドレスであったとしたらどうだろう。まあ、常識に照らし合わせてみれば変態的だ。変態だけれども、男子だったらその気持ちはわからないこともないレベルの変態だ。我々は量の多寡こそあれ、誰でもかような載服願望を内に秘めているものである。秘めてはいるが、たいていの人はそれを実行に移すまでに至らない。なぜなら、我々は社会性を供えた動物であるからだ。雌を征服したいという野生。雌の匂いに包み込まれたいという本能。そういった根源的欲求を抑圧することによって我々は社会性や常識・礼節といったものを獲得し、軋轢のない日常を日々過ごしている。しかし、本来は不自然であるはずのそれら後天的な枷から解き放たれた人間がいた場合、彼は一体何をするだろう? きっと彼は好きな女子のスク水を盗み、あまつさえそれを着て、更にブルマを頭からかぶり、社会性という名の檻の中で飼い慣らされた我々に天衣無縫な笑顔を投げかけることだろう。そして我々は彼を指さして「なんと純真無垢な男だ」と羨望の念を抱くことであろう。しかるにたとえば、曽我兄弟の母である満江御前が若い頃着ていたスク水を頭からかぶった妖怪がいて、そしてその妖怪の名前が「無垢スク水」であった場合、その名前に冠された「無垢」の二文字に疑問を差し挟む余地はない。

 しかしどうだ。こいつがかぶってんのは親父の腰巻だよ。むっさい親父のヌ濃い体臭の染みこんだくっさい皮製のやつ。んなもん被ってニコニコしてんだよ。雄の本能には、かような狂った欲求はプログラミングされていないため、大多数の人間は彼の恍惚たる表情の理由を解することは出来ない。あまりに歪みすぎているのだ。本能に根ざさない欲求の実行は、果たしてピュアと呼べるだろうか。いや、呼べない。呼べないと私は思うね。スク水をかぶるのはある種本能に即したピュアな行為だが、親父の臭い腰巻をかぶるのは常軌を逸した変態性欲の発露にすぎない。国会も児ポ法がどうしたとかくっだらないこと話し合ってるヒマがあるなら、まず先にこの変態をなんとかしろ。親父の腰巻き頭に巻いてんだぞ。頭おかしいだろ。





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