2018年11月26日
翻訳家の天野健太郎さんが、イベントで「あー、やっちまったな」という「気持ちいいぐらいの誤訳がある」(第2刷では直っている)と述べていた、陳浩基『13・67』(文藝春秋、2017年9月発行)の誤訳箇所について。
左から順に、初版第1刷の帯、第2刷の帯(2017年12月上旬~)、そして「本屋大賞 翻訳小説部門 第2位」(2018年4月結果発表)の帯 *注
2018年4月14日、東京の大田区産業プラザPiOで「第9回翻訳ミステリー大賞授賞式&コンベンション」が開催された。翻訳家の投票によって決まる
翻訳ミステリー大賞および、読者投票によって決まる
翻訳ミステリー読者賞の授賞式が行われる、毎年恒例のイベントである。イベントのだいたいの雰囲気は、筆者(=松川良宏)がイベント直後にまとめたこちらのTogetter「
第9回翻訳ミステリー大賞授賞式&コンベンションまとめ(非英語圏ミステリ情報メイン)」で分かっていただけるのではないかと思う。
翻訳ミステリー読者賞は、天野健太郎さんが訳された香港のミステリー小説、陳浩基(ちん こうき)『13・67』(いちさん ろくなな)が受賞。天野さんは壇上にあがって挨拶し、翻訳に際しての工夫などをお話しになった。
そのなかで天野さんは、邦訳版『13・67』の初刷には「あー、やっちまったな」という「気持ちいいぐらいの誤訳がある」と、いつもの語り口で陽気に告白なさっている(第2刷では直っている、とも)。この際には、未読の人の前で言っていいのか微妙な箇所ということで、具体的にどこなのかまでは天野さんは言及していない。
この天野さんの陽気な告白については、イベントの実況ツイートをしていた翻訳家の武藤陽生さん(訳書にエイドリアン・マッキンティ『コールド・コールド・グラウンド』など)や筆者がツイートしているので、一体どの箇所のことなのか、気になっている方もいるかと思う。
筆者は、そんなに何度もお会いする機会があったわけではないが、中国語圏のミステリに関連するイベントで天野さんとは複数回顔を合わせており、イベント後の打ち上げのような席で一緒に食事をしたことも何度かあった。上記の「誤訳」箇所についても、翻訳ミステリー大賞のイベントより以前に聞いていた。
この「誤訳」の件は、おそらく『13・67』の文庫化の際にでも、天野さんご本人が新規書き下ろしの「訳者あとがき」等で言及したのではないかと思う。しかし天野さんは2018年11月12日に逝去され、そのような機会は失われてしまった。
天野さんが逝去されたいま、このことにわざわざ言及するか、あるいは言及するにしてもタイミングや場所をどうするか迷ったが、天野さんはこの「誤訳」について、本当はツイートなどで読者に知らせたいが、物語のネタにも触れる部分なのでツイートできなくて残念だともおっしゃっていた。
そこで感傷や詳細は省き、簡潔にどの箇所かのみ、記しておくことにした。この「誤訳」箇所が第2刷で直されたことで、『13・67』という作品の完成度はより高まっている。
陳浩基『13・67』が翻訳ミステリー読者賞を受賞し、壇上で挨拶する天野健太郎さん(2018年4月14日/撮影=筆者)
天野健太郎さんが「あー、やっちまったな」と言及していた誤訳箇所
- 164ページ(「任侠のジレンマ」の最終ページ)、上段9行目および上段後ろから4行目
(すでに読んでからしばらく経っていて、この箇所の修正が何を意味するか、ピンと来ない方もいらっしゃるかと思います。その場合は、11ページ上段、後ろから8行目をご覧ください。)
その他、『13・67』第2刷で修正されている2箇所
- (1)434ページ上段、メモの最終行
- 第1刷「沙田駅(偽)」 → 第2刷「沙田駅(真)」
- 関連して、439ページ上段、9行目 … 第1刷「三つ」 → 第2刷「二つ」
邦訳書(第1刷)を読んで、「沙田駅」を巡る記述に違和感を覚えた方もいたかと思う。ここには単純なミスがあり、第2刷では直っている。なぜ知っているかというと、筆者が原書と照らし合わせて確認し、編集者のかたに連絡した箇所だからである。
- (2)「訳者あとがき」最終行
- 第1刷「石本勝」 → 第2刷「石本添」(どちらも作品の登場人物)
(1)については、先にも書いたとおり、邦訳版(第1刷)を読んで違和感を覚える方もいると思うので、書いておくことにした。(2)についてはわざわざ書いておくようなことでもないと思うが、ひとまず、第2刷における修正点で、筆者が知っているのはこれですべてである。
「黒と白のあいだの真実」の地の文について
こちらについては、書いておくべきなのかどうか相当迷ったが、『13・67』の完成度に関係することなので、簡潔に書いておくことにする。
具体的にどの箇所なのかは示さないが、「黒と白のあいだの真実」の訳文で、地の文に「嘘」があることについては、おそらく気付いた方もいらっしゃったかと思う(ただ、少なくともネット上では、そのことを指摘するブログ記事やツイート等は見たことがない。確かに、言及がなかなか難しい箇所だとは思う)。
邦訳書における地の文に「嘘」がある箇所は、原書ではすべてフェアに書かれている。このことは、『13・67』の本格ミステリとしての完成度に関わることなので、ここで述べておきたい。
筆者は邦訳版の発売の約3週間前に、実際の書籍がまだできる前のプルーフ版を受け取り、その日のうちにこの点について編集者のかたに電話したが、すでに直せるタイミングではなかった。そしてこの点については、文庫化のときに直したい、という話になっていた。
言及している方を見かけないということは、もしかしたら筆者が、「地の文に嘘を書かない」という本格ミステリにおけるルールについて、あまりにも厳格にすぎるのかもしれない……とも思わされる。このルールについては人によって考え方が異なり、どのような場合であれば許されるのか(あるいは絶対に許されないのか)、本格ミステリ小説の実作者のあいだでも意見が分かれるものである。
思った以上に長々と書いてしまった。本格ミステリファンは細かいことにこだわるんだなと、天野さんには文句を言われてしまいそうである。何のイベントのときだったかは正確に覚えていないが、帰りの方向が一緒で、電車に2人で揺られたこともあった。その際に筆者は、『13・67』がミステリファンのみならず、より広い読者に受け入れられたのは、天野さんが訳してくださったおかげだと心より感謝の言葉を述べた。それに対して、天野さんはふんぞり返ったようなそぶりを見せて、「だよねー」とおっしゃった。冗談交じりに見せつつ、訳文やご自身のプロモーション力についての自負心は本物であった。
謹んで哀悼の意を表します。
- 注:「本屋大賞 翻訳小説部門 第2位」の帯は、文藝春秋が書店向けにデータのみ作成したものであり、文藝春秋で実体としての帯は作成していない。つまりこの帯を使用するには、書店側でデータをダウンロードしてプリントアウトする必要があったが、実際にこの「本屋大賞帯」を使用した書店があったかは不明である。
『13・67』の年末ミステリーランキングでの評価
いずれも2017年12月初旬発表
3つのランキングのいずれも、中国語からの翻訳書がベスト10入りしたのは史上初であった。
それ以外での『13・67』の評価(時系列順)
- 2018年3月3日 第8回Twitter文学賞 海外部門 第3位
- 天野さんの訳書ではほかに、2016年(第6回)、呉明益『歩道橋の魔術師』が第2位になっている。
- 2018年4月10日 2018年本屋大賞 翻訳小説部門 第2位
- 本屋大賞は2004年に始まり、2018年は「第15回」であったが、翻訳小説部門は2012年に始まったので、2018年で7回目。
- 天野さんの訳書ではほかに、2016年の翻訳小説部門で呉明益『歩道橋の魔術師』が第3位に入っている。2018年現在、中国語からの翻訳書で本屋大賞ベスト3に入ったのは、天野さんの訳した『歩道橋の魔術師』と『13・67』のみである。
- 2018年4月14日 第6回翻訳ミステリー読者賞 受賞
- 中国語からの翻訳書がベスト10入りしたのはこれが初。
- 2018年11月12日 第6回ブクログ大賞 海外小説部門 大賞受賞(同日、天野健太郎さん、膵臓癌により逝去。享年47)
- 海外小説部門は第5回(2017年/対象作品:2016年5月1日~2017年4月30日発行書籍)のときに新設されたもので、2018年(対象作品:2017年5月1日~2018年7月31日発行書籍)は2回目。
- まず運営側が、「ブクログでの登録数・評価数をもとに、各部門のノミネート作品を選出」する。ほかの部門は10作品がノミネート作として選出されるが、海外小説部門は5作品。この中から読者投票により、大賞が決まる。中国語からの翻訳書がノミネートされたのはこれが初。
天野さんが翻訳企画を進めていた台湾のミステリー小説、『私家偵探』について
- 中国ミステリ愛好家・翻訳家の阿井幸作さん(訳書に台湾の青春小説 九把刀『あの頃、君を追いかけた』[泉京鹿氏との共訳]、中国ミステリ 紫金陳『知能犯の罠』[2019年5月、行舟文化より刊行予定])による『私家偵探』レビュー(2018年11月21日)
天野健太郎さんの逝去を受けての、追悼文等のリンク集
(作成・整理中)
最終更新:2018年11月30日 20:20