2012年11月16日
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現代欧米探偵小説傑作選集(オリエント書房、1947年1月)
1940年代初頭、イタリアの探偵作家のジョルジョ・シェルバネンコ(1911-1969)は、ボストン警察で犯罪記録の保管係をしている地味な職員のアーサー・ジェリング(Arthur Jelling)と、そのワトソン役・語り手である精神病理学者のトンマーゾ・ベッラ(Tommaso Berra)のコンビが活躍する「ホームズ型」の探偵小説を書いた(ローベール・ドゥルーズ『世界ミステリー百科』[JICC出版局、1992年]の「ジョルジョ・シェルバネンコ」の項目参照)。
このシリーズは1940年から1942年にかけて5編の長編が発表されている。どれも未訳なのだが、1947年1月に日本で
《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房)というミステリ叢書が創刊された際、その全30巻の予告ラインナップにはジョルジョ・シェルバネンコの『六日目の脅迫』(
Sei giorni di preavviso)と『ルシアナ失踪』(
L'antro dei filosofi)という作品が入っていた。これはそれぞれ、アーサー・ジェリング・シリーズの第1作と第4作にあたる(第4作はイタリア語原題から直訳すると『哲学者の洞窟』)。この叢書は残念ながら、カルロ・アンダーセン(デンマーク)の『遺書の誓ひ』(吉良運平訳)の1冊だけで中絶してしまっている。全30巻の予告ラインナップは、光文社文庫《江戸川乱歩全集》第29巻『探偵小説四十年(下)』の解題p.818で見ることができる(ということを実は今日[2012/12/05]知った)。
《現代欧米探偵小説傑作選集》で唯一刊行された『遺書の誓ひ』に付された文章を見ると、これは訳者の吉良運平が戦後のトルコでドイツ語の《現代欧米探偵小説集》全50巻を読破し、これをすべて持ち帰り、そのうち30巻を翻訳刊行するものだと書かれている。「吉良運平」という筆名はトルコ語の「キュランベー」(弱きをたすけ強きをくじく、町の侠客)に由来するそうだ。
江戸川乱歩の『探偵小説四十年』の昭和21年度(1946年度)の章に、「吉良運平の飜訳計画」という小見出しの節がある(光文社文庫《江戸川乱歩全集》版では第29巻[探偵小説四十年(下)]p.244)。それによると、吉良運平はヨーロッパ駐在の三井物産社員。『遺書の誓ひ』刊行の翌月には、探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)の発足の契機となった探偵作家の集まりである「土曜会」に出席し、「欧洲探偵小説界の近況」という講演をしている。
さて、このドイツ語の
《現代欧米探偵小説集》全50巻というのが気になったので、オリエント書房の《選集》の予告ラインナップにあった作家名を適当に並べて検索してみたらところそれらしきものがすぐに見つかった。おそらく、スイスの
アルバート・ミュラー出版(Albert Müller Verlag)が1940年から刊行した
《AMセレクション》(AM-Auswahl)というのがそれだろう。古典ミステリを紹介するドイツのサイトの「
こちらのページ」でこの《AMセレクション》のラインナップが示されている。リンク先によると、この叢書は全50巻で刊行を終えたわけではなく、1967年までに全255巻が刊行されたようである。「
こちらのページ」では著者別の一覧を見ることができる。《選集》全30巻のラインナップは、基本的にこの《AMセレクション》の最初の50冊(1940年~1944年)から選ばれたものである。例外が3冊あるが、それについては後述。
《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年)の予告ラインナップ(通し番号順)および、その原典の推定
# |
国 |
作者 |
予告邦題 |
《AMセレクション》版タイトルと通し番号 |
原題 |
1 |
デンマーク |
カルロ・アンダーセン |
遺書の誓い |
Das Kriegstestament (12) |
Krigstestamentet |
2 |
デンマーク |
ニールス・メイン |
海浜ホテルの殺人 |
Mord im Strandhotel (7) |
Mysteriet i Sandkroen |
3 |
フランス |
アンドレ・ウェルテ |
とんがり帽の男 |
Der Mann mit dem spitzen Hut (52) |
L'enigure du chapeau |
4 |
デンマーク |
オットー・シュライヒ |
死の放送 |
Ein Sender ruft um Mitternacht (6) |
Midnats samtalerne |
5 |
アメリカ |
カーター・ディクスン |
四人目の客 |
Der vierte Gast (4) |
Death in Five Boxes |
6 |
イタリア |
アウグスト・デ・アンジェリス |
宿命のC |
Das verhängnisvolle C (21) |
Il do tragico |
7 |
アメリカ |
ジョン・ディクスン・カー |
ネット際の殺人 |
Mord am Netz (14) |
The Problem of the Wire Cage |
8 |
デンマーク |
カルロ・アンダーセン |
三つのジョーカー |
Die drei Joker (48) |
De tre jokere |
9 |
イタリア |
エツィオ・デリコ |
動物園殺人事件 |
Vollmondnächte im Zoo (25) |
Plenilunio allo Zoo |
10 |
スイス |
レナート・ウエリング |
死の跳躍 |
Der Todessprung (33) |
※ドイツ語作品 |
11 |
アメリカ |
ジョン・ディクスン・カー |
呪われたる家 |
Das verhexte Haus (47) |
The Man Who Could Not Shudder |
12 |
イタリア |
アウグスト・デ・アンジェリス |
チネチッタ撮影所の怪事件 |
Das Geheimnis von Cinecitta (26) |
Il mistero di Cinecitta |
13 |
イタリア |
エツィオ・デリコ |
犯人なき殺人 |
Mord ohne Mörder (32) |
L'affare Jefferson |
14 |
イタリア |
エツィオ・デリコ |
モレル家の秘密 |
Familie Morel (27) |
La famiglia Morel |
15 |
デンマーク |
ニールス・メイン |
失われた急行列車 |
Der verschwundene Zug (16) |
Torget der vorsvandt |
16 |
オランダ |
ボアッセバン |
異なれる姉妹 |
Ungleiche Geschwister (外) |
Discrete Dood |
17 |
アメリカ |
カーター・ディクスン |
短剣とストリキニーネ |
Mit Dolch und Strychnin (45) |
Seeing Is Believing |
18 |
アメリカ |
ヒュー・ペンティコースト |
二十四番目の馬 |
Das 24. Pferd (46) |
The 24th Horse |
19 |
フィンランド |
ミカ・ワルタリ |
死の戯れ |
Gefährliches Spiel (42) |
Komisario Palmun erehdys |
20 |
アメリカ |
ジョン・ディクスン・カー |
シラ城の混乱 |
Verwirrung auf Schloß Shira (51) |
The Case of the Constant Suicides |
21 |
デンマーク |
カルロ・アンダーセン |
荘園の秘密 |
Das Geheimnis des Gutshofs (18) |
Politiet beder os efterlyse... |
22 |
スイス |
ルドルフ・ホーホグレンド |
郵便私書函八四号 |
Postfach 84 (19) |
※ドイツ語作品 |
23 |
イタリア |
アウグスト・デ・アンジェリス |
三つの蘭花 |
Drei Orchideen (34) |
Il mistero delle tre orchidee |
24 |
アメリカ |
カーター・ディクスン |
死神の隠したフィルム |
Der Tod dreht einen Film (11) |
And so to Murder |
25 |
デンマーク |
カルロ・アンダーセン |
決定的な証拠 |
Der entscheidende Beweis (31) |
Det afgorende bevis |
26 |
イタリア |
ジョルジョ・シェルバネンコ |
ルシアナ失踪 |
Luciana ist verschwunden (41) |
L'antro die Filosofi |
27 |
アメリカ |
ミニョン・エバハート |
五分後 |
Fünf Minuten später (29) |
The Hangman's Whip |
28 |
アメリカ |
レスリー・フォード |
致命的な愚かさ |
Tödliche Torheit (22) |
Road to Folly |
29 |
イタリア |
ジョルジョ・シェルバネンコ |
六日目の脅迫 |
Der sechste Tag (28) |
Sei giorni di preavviso |
30 |
アメリカ |
トリー・チャンスラー |
恐れを知らぬルシイ |
Lucie schreckt vor nichts zurück (24) |
Our First Murder |
《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年)の予告ラインナップ(国別・作者別)および、その原典の推定
国 |
作者 |
# |
予告邦題 |
《AMセレクション》版タイトルと通し番号 |
原題 |
アメリカ(10冊) |
ジョン・ディクスン・カー(3冊) |
7 |
ネット際の殺人 |
Mord am Netz (14) |
The Problem of the Wire Cage |
11 |
呪われたる家 |
Das verhexte Haus (47) |
The Man Who Could Not Shudder |
20 |
シラ城の混乱 |
Verwirrung auf Schloß Shira (51) |
The Case of the Constant Suicides |
カーター・ディクスン(3冊) |
5 |
四人目の客 |
Der vierte Gast (4) |
Death in Five Boxes |
17 |
短剣とストリキニーネ |
Mit Dolch und Strychnin (45) |
Seeing Is Believing |
24 |
死神の隠したフィルム |
Der Tod dreht einen Film (11) |
And so to Murder |
ミニョン・エバハート(1冊) |
27 |
五分後 |
Fünf Minuten später (29) |
The Hangman's Whip |
レスリー・フォード(1冊) |
28 |
致命的な愚かさ |
Tödliche Torheit (22) |
Road to Folly |
ヒュー・ペンティコースト(1冊) |
18 |
二十四番目の馬 |
Das 24. Pferd (46) |
The 24th Horse |
トリー・チャンスラー(Torrey Chanslor)(1冊) |
30 |
恐れを知らぬルシイ |
Lucie schreckt vor nichts zurück (24) |
Our First Murder |
フランス(1冊) |
アンドレ・ウェルテ(André Welte)(1冊) |
3 |
とんがり帽の男 |
Der Mann mit dem spitzen Hut (52) |
L'enigure du chapeau |
イタリア(8冊) |
アウグスト・デ・アンジェリス(Augusto De Angelis)(3冊) |
6 |
宿命のC |
Das verhängnisvolle C (21) |
Il do tragico |
12 |
チネチッタ撮影所の怪事件 |
Das Geheimnis von Cinecitta (26) |
Il mistero di Cinecitta |
23 |
三つの蘭花 |
Drei Orchideen (34) |
Il mistero delle tre orchidee |
エツィオ・デリコ(Ezio D'Errico)(3冊) |
9 |
動物園殺人事件 |
Vollmondnächte im Zoo (25) |
Plenilunio allo Zoo |
13 |
犯人なき殺人 |
Mord ohne Mörder (32) |
L'affare Jefferson |
14 |
モレル家の秘密 |
Familie Morel (27) |
La famiglia Morel |
ジョルジョ・シェルバネンコ(Giorgio Scerbanenco)(2冊) |
26 |
ルシアナ失踪 |
Luciana ist verschwunden (41) |
L'antro die Filosofi |
29 |
六日目の脅迫 |
Der sechste Tag (28) |
Sei giorni di preavviso |
スイス(2冊) |
レナート・ウエリング(Renate Welling)(1冊) |
10 |
死の跳躍 |
Der Todessprung (33) |
※ドイツ語作品 |
ルドルフ・ホーホグレンド(Rudolf Hochglend)(1冊) |
22 |
郵便私書函八四号 |
Postfach 84 (19) |
※ドイツ語作品 |
オランダ(1冊) |
ボアッセバン(1冊) |
16 |
異なれる姉妹 |
Ungleiche Geschwister (外) |
Discrete Dood |
デンマーク(7冊) |
カルロ・アンダーセン(Carlo Andersen)(4冊) |
1 |
遺書の誓い |
Das Kriegstestament (12) |
Krigstestamentet |
8 |
三つのジョーカー |
Die drei Joker (48) |
De tre jokere |
21 |
荘園の秘密 |
Das Geheimnis des Gutshofs (18) |
Politiet beder os efterlyse... |
25 |
決定的な証拠 |
Der entscheidende Beweis (31) |
Det afgørende bevis |
ニールス・メイン(Niels Meyn)(2冊) |
2 |
海浜ホテルの殺人 |
Mord im Strandhotel (7) |
Mysteriet i Sandkroen |
15 |
失われた急行列車 |
Der verschwundene Zug (16) |
Toget der forsvandt |
オットー・シュライヒ(Otto Schrayh)(1冊) |
4 |
死の放送 |
Ein Sender ruft um Mitternacht (6) |
Midnats samtalerne |
フィンランド(1冊) |
ミカ・ワルタリ(Mika Waltari)(1冊) |
19 |
死の戯れ |
Gefährliches Spiel (42) |
Komisario Palmun erehdys |
《選集》全30巻のラインナップは《AMセレクション》の最初の50冊から選ばれたものだと予想していたが、実際にはそれ以外のものが3冊含まれていた。
- 《AMセレクション》第51巻 ジョン・ディクスン・カー『シラ城の混乱』
- 《AMセレクション》第52巻 アンドレ・ウェルテ『とんがり帽の男』
- ボアッセバン『異なれる姉妹』
このうちオランダの作家のボアッセバンについては、「
シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち(3) ヨーロッパ諸国編」の一部として記事を公開した先月の段階では何者なのか分からなかったのだが(そもそもその段階では、乱歩の『幻影城』に基づいて、
ボアッセバンではなく
ポアッセバンという名前で探していた)、その後、ブログ「
浩寧の事件簿」のホーリン(Ho-Ling)さんから、これは1940年に1作だけミステリを発表したオランダの女性作家のディユーケ・ボアッセバン(Dieuke Boissevain)のことではないかと情報をいただいた。ホーリンさんからは、ボアッセバンのミステリ小説"Discrete Dood"(目立たない死)のドイツ語版"Ungleiche Geschwister"が、《AMセレクション》の出版社であるアルバート・ミュラー出版から出ているということも教えていただいた。このドイツ語タイトルは『異なれる姉妹』という予告タイトルと確かに一致している。「ボアッセバン」というのはこのディユーケ・ボアッセバンのことで間違いなさそうである。
《現代欧米探偵小説傑作選集》は全30巻のうち20巻分が非英語圏の探偵小説だった。もしこの叢書が中絶せずにすべて刊行されていたら、その後の日本での海外ミステリの受容の仕方は大きく変わっていたかもしれない。
【2013年6月15日追記】
翻訳者の吉良運平の正体は若狭邦男『探偵作家追跡』(日本古書通信社、2007年)によれば、渡辺芳夫(1910年生まれ)。本名で『黒いセックス : アフリカの生態』(講談社 ミリオン・ブックス、1964年)、『白いセックス : 病めるヨーロッパ』(講談社 ミリオン・ブックス、1965年)、『赤いセックス : 共産圏の生態』(東都書房、1967年)の著作がある。このうち『黒いセックス』の裏表紙に、「吉良運平の筆名で「悪魔を見た処女」などの小説の著作あり」との記述があるという。なお、エツィオ・デリコ『悪魔を見た処女』(未来社 世界傑作探偵小説集、1946年11月)の訳者は江杉寛だが、吉良運平「イタリーの三人の作家」(『ぷろふいる』戦後版2巻3号、1947年12月、p.32)で吉良運平が『悪魔を見た処女』を「拙訳」としていることから、長谷部史親『探偵小説談林』(六興出版、1988年)では「吉良運平=江杉寛」説が唱えられていた。若狭邦男氏により、「吉良運平=江杉寛=渡辺芳夫」が明らかになった。
【2013年8月12日追記】
《現代欧米探偵小説傑作選集》の未刊に終わった作品のうち、以下の作品のレビューをミステリ研究誌『ROM』135号(2010年10月31日)で読むことができる。
- エツィオ・デリコ
- 第9巻『動物園殺人事件』(Plenilunio allo Zoo)(1939) - ROM氏によるレビュー
- アウグスト・デ・アンジェリス(Augusto De Angelis、1888-1944)
- 第6巻『宿命のC』(Il do tragico)(1937) - つずみ綾氏によるレビュー
- 第12巻『チネチッタ撮影所の怪事件』(Il mistero di Cinecittà)(1941) - ROM氏によるレビュー
- 第23巻『三つの蘭花』(Il mistero delle tre orchidee)(1942) - つずみ綾氏によるレビュー
おまけ1:世界傑作探偵小説集(未来社、1946年11月)
近日加筆
- エツィオ・デリコ(イタリア)『悪魔を見た処女』(江杉寛訳)
- シュニツレル(オーストリア)『愛慾の輪舞』
- 乱歩は『探偵小説四十年』や『幻影城』巻末の「探偵小説叢書目録」でこの本を未刊行としているが、シュニッツレル『愛慾の輪舞』(末吉寛訳)として1946年に刊行されているようである。
- アルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler、1862-1931)の不倫を扱った戯曲『輪舞』(複数の出版社から邦訳多数)と同一作品か?
- W・シャイダー(不明)『ウィーンで再会した女』
- ヴィルヘルム・シャイダー(Wilhelm Scheider)の"Urlaub in Wien"(ウィーンの休日)か?
- ジョルジョ・シェルバネンコ(イタリア)『盲目の人形』
おまけ2:欧洲大陸探偵小説シリーズ(新東京社、1946年12月)
近日加筆
- S・エルヴェスタード『怪盗』(荒井詩夢訳)
- (オーストリア)ペルツ - レオ・ペルッツか?
- ワッサーマン - ドイツのヤーコプ・ヴァッサーマン(Jakob Wassermann)か?
- (フランス)ギラン - マルセル・ギラン(Marcel Guillain)か?
- (フランス)デコブラ - モーリス・デコブラか?
- (フランス)アブリィヌ - クロード・アヴリーヌか?
おまけ3:苦楽探偵叢書(苦楽社、1947年12月)
近日加筆
最終更新:2012年12月06日 04:53