シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち(3) ヨーロッパ諸国編

2012年11月16日

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ヨーロッパ諸国編(1)オランダ探偵小説の父が生んだ探偵ジェフリー・ギル

邦訳なし

 1910年代から20年代、オランダでは探偵作家のイファンスが生み出したイギリス人名探偵ジェフリー・ギルが人気を博していたようである。

 さて、ここではまた、乱歩のもとに届いた海外の探偵作家からの手紙を参考にすることになる。乱歩は1957年、オランダの探偵作家のW・G・キエルドルフ(Wilhelm Gustave Kierdorff、1912-1984)と手紙のやり取りをしている。このときキエルドルフは自身がフランス語で書いたオランダ探偵小説略史を乱歩に送っており、それが雑誌『探偵倶楽部』の1958年7月号に「オランダの探偵小説」として訳載されている。それによれば、オランダ探偵小説の創始者はイファンス(Ivans、1866-1935)という筆名の作家。ファーストネームを省略しているわけではなく、この「イファンス」というのが筆名なのである。この特異な筆名は、本名の Jakob van Schevichaven から一部分を拾って作られたものだそうだ(J + van + S → Ivans)。以下に、「オランダの探偵小説」からイファンスに関係する部分を引用する。(なお「オランダの探偵小説」では筆名の表記は「イヴァンス」となっているが、後述するオランダの探偵作家の Havank は日本では「ハファンク」とカタカナ書きするのが普通なので、このページではそれに合わせて Ivans の表記も「イファンス」としておく)

W・G・キエルドルフ「オランダの探偵小説」(『探偵倶楽部』1958年7月号、訳者名記載なし)
 特に英文学の影響が圧倒的だったことは、筆名をイヴァンスという、探偵小説のジャンルにおけるオランダ最初の作家が、コナンドイルの典型(探偵とその伝記者)に拠ったばかりでなく、そのオランダ探偵文学最初の名探偵が、イギリス人になっていることでも判るだろう。驚くべきジョフリ・ギルは、シャーロック・ホームズそっくりなのである。
 イヴァンスはI・ヴァン・シュヴィクハヴェン(IヴァンS)の変名で、ドイルよりやや遅れて一九一〇年にデビューし、一九三〇年までに、ジョフリ・ギルとその伝記者、オランダの法学博士ウィレム・ヘンドリクスは、オランダに十万の読者を獲得し、スカンジナヴィア諸国にも飜訳されて、読者を持った。イヴァンスはオランダ探偵小説の創始者であり、無鑑査級の作家である。

 引用した記述によれば、イファンスの生み出した探偵はイギリス人のジェフリー・ギル(Geoffrey Gill)(オランダ語発音だと「ジェフリー・ギル」にはならないと思うが、イギリス人探偵だとのことなので日本では英語風に「ジェフリー・ギル」としておいて構わないだろう)。そしてそのワトソン役はオランダの法学博士ウィレム・ヘンドリクス(Willem Hendriks)。ジェフリー・ギルは「シャーロック・ホームズそっくり」だと書かれているが、何を指してそっくりといっているのかは明確ではない。ジェフリー・ギルの探偵譚はオランダで多くの読者を獲得し、スカンジナヴィア諸国の言語にも翻訳されたと書かれている。
 私が目にすることの出来たイファンスおよびジェフリー・ギルについての日本語文献はこれだけである。ジェフリー・ギルの探偵譚の舞台がオランダだったのかイギリスだったのかということすら残念ながら分からない。ということで、うのみにしてしまうのも危険だが、オランダ語版ドイツ語版のイファンスのWikipedia記事やそこで示されているリンク先を見てみることにする(さらにそれを英語への機械翻訳で読んでいるので、二重の意味で不確かだということをご了解ください)。それによると、イファンスは1917年から1930年代のなかばにかけて40編ほどの探偵小説を書いたらしく、ジェフリー・ギルとは別のシリーズでオランダ人の素人探偵 Gerard van Panhuis や女性探偵の May O'Neill を登場させたりもしていたようである。ジェフリー・ギル・シリーズの舞台は主に外国だったようだ。

 W・G・キエルドルフは乱歩と手紙のやり取りをする前年の1956年にオランダの探偵作家クラブを創設しているが、その名称はジェフリー・ギル・クラブ(Geoffrey Gill Club)という。会員は約50名で、乱歩のもとにはこのクラブの機関誌『MYSTERIE-Detective』も送られてきている。このクラブがどれぐらい存続したのかは分からないが、とりあえず、現在のオランダの推理作家団体であるオランダ推理作家協会(Genootschap van Nederlandstalige Misdaadauteurs[略称 GNM]、1986年創設)とは無関係だろうと思う。

 ちなみに、オランダでイファンスの後継者とみなされていたのが探偵作家のハファンク(Havank、1904-1964)である。この筆名はイファンスにならって、本名の一部を拾ってつけたものだ(Hendrikus Frederikus van der Kallen → H + van + K → Havank)。イファンスもハファンクも日本のミステリ読者の間では知名度は皆無に等しいと思うが、実はハファンクの方は、日本のある界隈ではよく知られた存在のようである。それは実際に「ハファンク」というカタカナ5文字を検索窓に打ち込んで検索してみるとよく分かる。
 ハファンクの作品はオランダのブルーナ社という出版社が出していたのだが、実はこのブルーナ社、ミッフィーで有名なディック・ブルーナの父が経営していた出版社だった。そしてディック・ブルーナはブルーナ社が出版する推理小説のペーパーバックの表紙デザインを手掛けており、ハファンクのミステリの表紙にも愛らしいキャラクターを描いている。ということで、日本のディック・ブルーナファンの間では、オランダの探偵作家ハファンクと、ハファンクが生み出したシャドー(Schaduw、「影」という意味)というキャラクターは結構知られているようである。

 オランダのオンライン書店 bol.com で検索してみると、ハファンクの作品は今でも多く流通しているようだが、イファンスの作品は1件もヒットしない。ディック・ブルーナのイラストとともに今でも愛されているハファンクに対して、その先輩格の作家であるイファンスの方は現在のオランダではほぼ忘れ去られてしまっているようである。


ヨーロッパ諸国編(2)イタリア探偵小説の父が生んだ警察職員アーサー・ジェリング

邦訳予定はあったが実現せず

 今まで述べてきたのよりやや時代が下るが、1940年代初頭のイタリアではジョルジョ・シェルバネンコが「ホームズ型」の探偵物であるアーサー・ジェリング・シリーズを発表している。

 ジョルジョ・シェルバネンコ(Giorgio Scerbanenco、1911-1969)はイタリア探偵小説の父とされる人物で、その名は現在、「シェルバネンコ賞」(Premio Scerbanenco)としてイタリアのミステリ賞の名前にもなっている。邦訳のある作家では、カルロ・ルカレッリやマルチェロ・フォイスがこのシェルバネンコ賞を受賞している(日本では「シェルバネンコ・ミステリ大賞」と書く場合もある)。

 ジョルジョ・シェルバネンコの代表作はイタリア人の元医師ドゥーカ・ランベルティを探偵役とするハードボイルドシリーズで、日本ではその第2長編『裏切者』(1966年)が早川書房の『世界ミステリ全集』第12巻(1972年)に収録されている。これがシェルバネンコ作品の唯一の邦訳である。ルドヴィコ・デンティーチェ『夜の刑事』(早川書房、1970年 / 2012年現在、ポケミス唯一のイタリア作品 *注)の訳者あとがきを見ると、どうやらポケミスでシェルバネンコ作品を翻訳紹介していく計画があったらしく、『世界ミステリ全集』第12巻の巻末に収録された座談会では、ドゥーカ・ランベルティ・シリーズの第1長編『ひとりだけのヴィーナス』(1966年)の翻訳権はすでにとっていると早川書房編集部が発言している。だが、結局『裏切者』以外の邦訳はでなかった。まあなんというか、『裏切者』があまり佳作とも言えない作品なので、そうなってしまったのも仕方がないような気もするが……(とはいえ、『裏切者』は1968年にフランス推理小説大賞を受賞した作品なので、人によっては楽しく読めるかもしれない)。なお、シェルバネンコの作品で英訳されているのも長い間『裏切者』だけだったが、2012年9月に『ひとりだけのヴィーナス』が初めて英訳されている。今後、英語圏ではシェルバネンコの再評価が進むかもしれない。

  • :【追記】2013年1月10日にポケミスでドナート・カッリージ『六人目の少女』が刊行され、ルドヴィコ・デンティーチェ『夜の刑事』は「ポケミス唯一のイタリア作品」ではなくなった。その後2014年6月6日にはドナート・カッリージの『ローマで消えた女たち』もポケミスで刊行されている。

 さて、シェルバネンコが生み出した代表的なキャラクターといえばドゥーカ・ランベルティなのだが、これは外国のミステリからの借り物ではない本当のイタリア型の探偵役というものを書いてみたいという思いのもとで、シェルバネンコが晩年に誕生させたキャラクターである(晩年といっても、シェルバネンコは58歳で亡くなっているので年齢的には50代だが)。ではそれ以前はどんな作品を書いていたのかというと、その全貌は分からないが、1940年発表のデビュー作ではホームズ型の探偵役を登場させていたそうである。

 ローベール・ドゥルーズ『世界ミステリー百科』(JICC出版局、1992年10月)によると、シェルバネンコは1940年、長編探偵小説『解約のために予告された六日間』(Sei giorni di preavviso)(訳題も同書より)でデビューした。この作品では、ボストン警察で犯罪記録の保管係をしている地味な職員のアーサー・ジェリング(Arthur Jelling)と、そのワトソン役・語り手である精神病理学者のトンマーゾ・ベッラ(Tommaso Berra)を登場させているそうで、このアーサー・ジェリングというのが「ホームズ型」の探偵役であるらしい。ただ、「ホームズ型」というのが具体的に何を指しているのかは分からない。現在イタリアで流通しているアーサー・ジェリング・シリーズの書籍のあらすじを英語に機械翻訳して読んでみると(……また不確かな情報ですみません)、アーサー・ジェリングは穏やかな生活を送っている40歳のボストン警察職員。妻帯者であり、息子が一人いる。内気で臆病だが事件の調査については粘り強い。学生時代は薬学を学んでいた。ということで、そのキャラクター造型に関しては、ホームズとの共通点はあまりなさそうである。

 アーサー・ジェリング・シリーズは1940年から1942年にかけて5編の長編が発表された。どれも未訳なのだが、乱歩の『幻影城』の「探偵小説叢書目録」を見ると、1946年11月に創刊された《世界傑作探偵小説集》(未来社)でシリーズ第2作の『盲目の人形』(La bambola cieca)の翻訳出版が予告されていたことが分かる(『幻影城』では著者名は「スケルバネンコ」という表記)。残念ながらこの叢書は2冊*注出たきりで中絶してしまい、シェルバネンコの作品は刊行されなかった。また、1947年1月に《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房)という全30巻予定のミステリ叢書が創刊されており、こちらではシリーズ第1作『六日目の脅迫』(Sei giorni di preavviso)とシリーズ第4作『ルシアナ失踪』(L'antro dei filosofi)が予告ラインナップに入っていた(第4作はイタリア語原題から直訳すると『哲学者の洞窟』)。この叢書もカルロ・アンダーセン(デンマーク)の『遺書の誓ひ』(吉良運平訳)の1冊だけで中絶してしまっている。シェルバネンコはポケミスでの出版が立ち消えになっただけでなく、その20年前にもこうして出版計画が続けざまにぽしゃっていたのである。なんとも不遇な作家というしかない。【この段落、2012年12月8日に加筆修正。「現代欧米探偵小説傑作選集(オリエント書房、1947年)」の詳細は別ページに移しました】

  • :《世界傑作探偵小説集》は1946年11月のエツィオ・デリコ(イタリア)『悪魔を見た処女』(江杉寛訳)、シュニツレル(アルトゥル・シュニッツラー、オーストリア)『愛慾の輪舞』(末吉寛訳)の2冊しか刊行されなかった。江戸川乱歩は『幻影城』の「探偵小説叢書目録」や『探偵小説四十年』で『愛慾の輪舞』を未刊行としている。『愛慾の輪舞』は不倫を扱った戯曲で、1950年代には『輪舞』というタイトルで岩波文庫、新潮文庫、角川文庫などに収録されている。

 ところで、アーサー・ジェリング・シリーズは舞台がアメリカに設定されているが、なぜシェルバネンコは作品の舞台にアメリカを選んだのだろうか。その答えも『世界ミステリー百科』から伺うことができる。それによると、ファシスト政権下にあった当時のイタリアでは、ミステリ小説を書くにあたっては「殺人者はイタリア人ではなく外国人でなくてはならない」「イタリア人の登場人物に自殺は許されない」「殺人者が裁きから逃れることは許されない」など、さまざまな(かせ)があったそうである。このうち「殺人者はイタリア人ではなく外国人でなくてはならない」という条件をクリアするために、おそらくは舞台をアメリカにしたのだろう。イタリアを舞台にして、毎回犯人を外国人に設定するというのは非常に不自然だし、まともなフーダニットにならない。

 アーサー・ジェリング・シリーズは最近になって幻の第6長編『天文台のスキャンダル』(Lo scandalo dell'osservatorio astronomico)が発見され、2011年に出版されている。これがイタリア国内では、アルセーヌ・ルパン・シリーズの幻の最終作『ルパン、最後の恋』が出版されたのと同じぐらいの熱狂を生んだ――のかは寡聞にして知らない。

 アーサー・ジェリング・シリーズはイタリアでは2008年から2011年にかけて復刊されている。イタリアamazonの該当ページを最後に貼っておく。





最終更新:2012年11月16日 23:23