イタリア推理小説略史

2012年7月1日

 日本ではイタリアのミステリ小説がそれなりに翻訳されているが、「イタリア・ミステリ」(「イタリアン・ミステリ」と書くべきか?)というものへの注目度は必ずしも高くないように思う。たとえば、『ミステリが読みたい! 2009年版』(早川書房、2008年11月)に掲載の座談会「ミステリの新興勢力 世界のミステリを語る」(小山正、新保博久、平岡敦、穂井田直美)を見てみると、話題の中心はドイツ、スウェーデン、フランス、ロシアのミステリで、ほかにデンマーク、オランダ、フィンランドのミステリ作家にも言及があるが、イタリアへの言及はない。

 一方で、近年英語圏ではイタリア・ミステリへの注目度が高まってきているようである。ウォール・ストリート・ジャーナルの2010年7月1日付け記事「Fiction's Global Crime Wave」(英語)では、イタリアのミステリ作家ジャンリーコ・カロフィーリオの作品の英訳が好調な売れ行きを示しているということが書かれているし、2010年にイギリスで出版された翻訳ミステリで一番多かったのはフランスでもスウェーデンでもなくイタリアの作品だったそうである(『ハヤカワミステリマガジン』2011年9月号p.115に掲載されたリスト「Translated 'Crime' UK 2010」参照)。また、数日後に受賞作が発表される予定のインターナショナル・ダガー賞(英国推理作家協会賞の翻訳ミステリ部門)の今年(2012年)のノミネート作は、6作のうち3作がイタリアの作品である(過去の受賞作・候補作の一覧は「こちら」でまとめた)。今回ノミネートされているイタリアのアンドレア・カミッレーリは実に5回目のノミネートであり、これはフランスのフレッド・ヴァルガスと並んで同賞の最多記録である。もっとも、フレッド・ヴァルガスは5回ノミネートされて3回受賞するという偉業を成し遂げているのだが、アンドレア・カミッレーリはまだ一度も受賞していない。今年、悲願の(?)初受賞となるだろうか。【2012年7月6日追記:日本時間の7月6日早朝、アンドレア・カミッレーリが受賞者に決定! イタリアの作家がインターナショナル・ダガー賞を受賞するのはこれが初めて】

 イタリアではミステリは「ジャッロ」(黄色)と呼ばれている。これは、1929年に刊行を開始したイタリアのモンダドーリ社のミステリ叢書《リブリ・ジャッリ》(I libri gialli、=黄色い本)に由来する。この叢書はその名称の通り表紙が黄色に統一されており、これ以来、「ジャッロ」(黄色)という単語がミステリそのものを指すようになった。《リブリ・ジャッリ》は1946年に《ジャッロ・モンダドーリ》(Il Giallo Mondadori)という名称になり、1946年から現在までですでに3000冊以上を刊行している。基本的には翻訳ミステリの叢書だが、イタリアの国産ミステリもある程度出版されている。ちなみに日本の推理作家では、松本清張、横溝正史、戸川昌子、夏樹静子、西村京太郎、東野圭吾の作品がこの叢書から刊行されている(どの作品が翻訳されているかについては「こちら」でまとめた)。

 現在のイタリア国内でのミステリの人気はどうなのだろうか。朝日新聞グローブ(GLOBE)の「世界の書店から 第8回」(2009年4月20日)で示されているイタリアのベストセラーランキング(総合部門)では、上位にアンドレア・カミッレーリやフレッド・ヴァルガスの作品、スウェーデンのスティーグ・ラーソンの《ミレニアム》三部作が来ている。また、「世界の書店から 第28回」(2010年2月22日)のイタリアの小説・評論・随筆部門のベストセラーランキングでは、1位はジャンリーコ・カロフィーリオのミステリ小説である。国産・翻訳を問わず、イタリアではミステリがかなりの人気を集めていることが分かる。

 このページでは、そんなイタリアのミステリの歴史を紹介している。

  • このページの作成者はイタリア語は読めません。
  • このページは、イタリアの推理小説について書かれた日本語の文献を元に作成したものです。
  • 邦訳のある作品は『水色』で示しました。


Index

(1)19世紀末~1940年代:イタリア古典探偵小説の時代

 ローベール・ドゥルーズ「イタリアのミステリー小説」によれば、イタリアでは1887年にエミリオ・デ・マルキ(Emilio De Marchi、1851-1901、イタリア語版Wikipedia)が、不運な男爵が金持ちの司祭を相手に完全犯罪を行う『司祭の帽子』(Il cappello del prete)という作品を新聞連載している。また、レミージョ・ゼーナ(Remigio Zena、1850-1917)はガスパーレ・インヴレア(Gaspare Invrea、イタリア語版Wikipedia)という筆名で、1895年ごろに「最後の弾薬筒」(L'ultima cartuccia)という作品を書いている。この作品は、ある謎が軍事裁判の中で繰り広げられる作品で、ドゥルーズは「語りの構想の点ではシムノンの前任者といえる」と評価している。

 1929年にモンダドーリ社が前述のミステリ叢書《リブリ・ジャッリ》(I libri gialli、=黄色い本)の刊行を開始し、1941年までに全266巻を刊行する。翻訳ミステリを中心とする叢書だったが、1931年には初めてイタリアの国産の作品が刊行された。それがアレッサンドロ・ヴァラルド(Alessandro Varaldo、1876? 78?-1953)の"Il sette bello"である。ヴァラルドがこの作品で登場させたアスカニオ・ボニキ警部(Ascanio Bonichi)の活躍譚はシリーズ化され好評を博した。もっとも、フランスの古典的な推理小説の影響を受けすぎているとの指摘もあるようだ。作者のヴァラルドは作家協会や舞台芸術協会の会長も務めた小説家・詩人・劇作家・エッセイストだった。

エツィオ・デリコ(1892-1972)

【この節、2013年2月12日加筆修正】

 1946年に日本で、エツィオ・デリコ(Ezio D'Errico、1892-1972)の『悪魔を見た処女』(La donna che ha visto)という作品が翻訳出版されている。この作品は、《リブリ・ジャッリ》で1940年に出版された作品である。エツィオ・デリコはこの叢書では、1936年から《リブリ・ジャッリ》が終刊となった1941年にかけて13冊ほどの作品を発表している。エツィオ・デリコが創造した探偵役は、パリ警視庁の警部のエミリオ・リシャール(Emilio Richard)。その人物造形はベルギーのジョルジュ・シムノンが創造したメグレ警部に似通っているという。邦訳の『悪魔を見た処女』は1946年に江杉寛(=吉良運平?【注】)の翻訳で未来社より刊行され、1957年10月の『別冊宝石』71号(世界探偵小説全集27)に再録された。同号で江戸川乱歩はエツィオ・デリコについて、「雰囲気描写の巧みなところから、イタリーのシムノンと云われている。イタリーの数少い探偵作家の中では、外国語に翻訳される機会が最も多かった人で、その作品はフランスやスイスあたりでもさかんに読まれているという」(p.207)と解説している。また、『悪魔を見た処女』については以下のような評を書いている。

江戸川乱歩のエツィオ・デリコ『悪魔を見た処女』評(『別冊宝石』71号、1957年10月、p.207)
 本号に掲載した「悪魔を見た処女」La Donna Che Ha Visto は昭和二十一年の十一月に、未来社という出版社から小型叢書本の一冊として出版されたものだが、当時のことで本が悪かったためか、読みすてられてしまったらしく、現在ではすっかり姿を消してしまっているので、ここに再録することにした。シムノン風の味のある長篇で、当時探偵作家仲間に大いに好評を博したものである。わたしは、この作品を読んだ直後、「宝石」に感想文を書いているので、それを次ぎに抜萃しておく。
『……イタリーの探偵小説というものを少しも知らなかったので、甚だ珍らしく感じたが、この作は舞台もフランス、登場人物もフランス人、味はシムノンに酷似して写実的手法に優れたスッキリとした作風である。トリックは単純ではあるが極めて巧みであり、意外性もあり、探偵の推理もないではないが、英米風の論理的興味は稀薄である。その代りに雰囲気が非常によく出ていて、シムノンやハーリヒのスクールに属するかなり優れた探偵小説である』

 1946年末に『悪魔を見た処女』(未来社)が邦訳出版されたのち、翻訳探偵小説叢書《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年)ではさらにデリコの『動物園殺人事件』(Plenilunio allo Zoo)(1939)、『犯人なき殺人』(L'affare Jefferson)(1940)、『モレル家の秘密』(La famiglia Morel)(1938)が翻訳出版される予定だったが、実現しなかった。残念ながらこの叢書は、第1巻のカルロ・アンダーセン(デンマーク)『遺書の誓い』(遺書の誓ひ)(吉良運平訳、1947年1月)のみで中絶してしまったのである。


 この叢書の企画・翻訳担当者の吉良運平は探偵雑誌『ぷろふいる』戦後版2巻3号(1947年12月)で『悪魔を見た処女』以外のデリコ作品について以下のように書いている。

吉良運平のエツィオ・デリコ評(「イタリーの三人の作家」『ぷろふいる』戦後版2巻3号、1947年12月、p.32)
他の殆ど全部の作品にもこの事【先に引用した乱歩の『』内の評を指す】は云う事が出来ると思うのである。前掲の「犯人なき殺人」では、矢張「悪魔を見た処女」に於ける如く、舞台も登場人物もフランスで、リシャール警部が親友のミルトン博士と活躍する事には変りがない。時に又、舞台の遠景に仏印や、蘭領印度を出しているし、大抵巴里の裏街の物語りがからんで居り、スリルは少ないが転換の妙味には充分事欠かない。

 『悪魔を見た処女』の邦訳出版の17年後、旺文社の雑誌『中学時代二年生』1963年9月号に『悪魔を見た少女』(原作:デリコ、文:白木茂)というタイトルの小冊子が付録としてつけられている。おそらくは邦訳の『悪魔を見た処女』をリライトしたものだろう。この付録小冊子は「中二ライブラリー」という名称で、ネット上を検索してみると、ほかにもシムノンの『怪盗レトン』(1960年10月号)やルブランの『女探偵ドロテ』(1963年6月号)などが付録になっていたようである。『中学時代二年生』は1956年から1964年まで刊行された。

  • エツィオ・デリコのイタリア語版Wikipediaページ→ http://it.wikipedia.org/wiki/Ezio_D'Errico ※アドレスに「'」が含まれているため記事中でうまくリンクが貼れなかった
  • :吉良運平はエッセイ「新作家紹介 ―デンマークの作家カルロ・アンデーセンなど―」(『ぷろふいる』戦後版2巻2号、1947年8月、pp.24-25)でエツィオ・デリコ『悪魔を見た処女』(江杉寛訳、未来社、1946年11月)を「江戸川乱歩先生の御見出しにあずかった未来社版の拙訳「悪魔を見た処女」」と書いている。

ジョルジョ・シェルバネンコの警察職員アーサー・ジェリング・シリーズ

【この節、2013年2月12日加筆修正】

 ジョルジョ・シェルバネンコ(Giorgio Scerbanenco、1911-1969、イタリア語版Wikipedia)は1940年から1942年にかけて、ボストン警察で犯罪記録の保管係を務める地味な職員アーサー・ジェリング(Arthur Jelling)と、語り手である精神病理学者のトンマーゾ・ベッラ(Tommaso Berra)のコンビが活躍するシャーロック・ホームズ風の長編探偵小説を5編発表している。このうち第2作の『盲目の人形』(未訳、原題 La bambola cieca)は1941年に《リブリ・ジャッリ》で刊行。同叢書より刊行されたシェルバネンコ作品はこの一作のみである。なお、アーサー・ジェリング・シリーズは最近になって幻の第6長編"Lo scandalo dell'osservatorio astronomico"が発見され、2011年に出版されている。ジョルジョ・シェルバネンコは戦後のイタリア国産ミステリの再生に大きな役割を果たした。詳細は後述。

 エツィオ・デリコ『悪魔を見た処女』を翻訳出版した未来社からは、シェルバネンコのアーサー・ジェリング・シリーズ第2作『盲目の人形』(La bambola cieca)も出版される予定だった。また、《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年)ではシリーズ第1作『六日目の脅迫』(Sei giorni di preavviso)、シリーズ第4作『ルシアナ失踪』(L'antro dei filosofi)が出版される予定だった。その訳者を務める予定だった吉良運平は前掲のエッセイでシェルバネンコのアーサー・ジェリング・シリーズについて以下のように書いている。(文中では「シェルバネンコ」ではなく「スケルバネンコ」)

吉良運平のジョルジョ・シェルバネンコ評(「イタリーの三人の作家」『ぷろふいる』戦後版2巻3号、1947年12月、p.32)
この作家のものはエツィオ・デリッコのものよりは幾分モダーン味があり、論理的な興味も多い様に思える。スケルバネンコは好んで舞台をアメリカのボストンにとり、ボストン警視庁文書課勤務の、内気なアーサー・イェリング君が、心理学者のベラ博士の意見を参考にしては、事件の推理的解決をはかると云うのがおきまりで、舞台が米国が多いせいかエツィオ・デリッコの写実的な悠然さがなく、スリルにも富んでいるのである。

アウグスト・デ・アンジェリス(1888-1944)

【この節、2013年2月12日加筆修正】

 アウグスト・デ・アンジェリス(Augusto De Angelis、1888-1944、イタリア語版Wikipedia)は、『ホテル《三つのバラ》』(L'albergo delle tre rose)(1936)や『七本枝の燭台』(Il candeliere a sette fiamme)(1936)、『三つの蘭花』(Il mistero delle tre orchidee)(1942)などのデ・ヴィンチェンツィ警部(De Vincenzi)シリーズで知られている。この3作だと、少なくとも『ホテル《三つのバラ》』は《リブリ・ジャッリ》からの刊行のようだが、ほかの2作については分からない。当初は第一線のジャーナリストとして活躍していたが、ファシズムと妥協するのを嫌ってジャーナリストを退き、探偵小説に活路を見出した。しかし、ファシスト政権の迫害にあい、1944年に刑務所内で死去した。

 デ・ヴィンチェンツィ警部シリーズのうち『宿命のC』(Il do tragico)(1937)、『チネチッタ撮影所の怪事件』(Il mistero di Cinecittà)(1941)『三つの蘭花』(Il mistero delle tre orchidee)(1942)は翻訳探偵小説叢書《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年)で出版の予定だった。

 吉良運平は先ほどから引用しているエッセイでアウグスト・デ・アンジェリスについて以下のように評している。

吉良運平のアウグスト・デ・アンジェリス評(「イタリーの三人の作家」『ぷろふいる』戦後版2巻3号、1947年12月、p.32)
 この人のものは、舞台と登場人物は殆ど全部イタリーで、作風から云うと、前の二人【エツィオ・デリコとジョルジョ・シェルバネンコ】とは全く傾向を異にし、極めて現実的に事件の経過を記述し、解決して行き、極めて明快だと云う印象を持たせる。しかもその間に、時々シンボリカルな問題提示をして、読者の興味をつないで行く事に巧みで(、)ある意味ではこのアンヂェリスが一番巧者だと云えるかも知れない。
 アンヂェリスの作品の中では「死のゴンドラ」(La gondola della morte)【注:1938年の作品】は相当版を重ねたが、彼はこの作品の中で、ベニスの一流ホテル生活から、浮浪人の世界、賭博場風景、酒場、暗号解読、神秘的な占師の登場、ゴンドラ内の殺人(二重殺人)の様な、極めてバライティに富んだ題材をもりこみ、殆ど息をつかせずに終りまで持って行っている。
 成程英米流の論理的興味には不足しているかも知れないが、舞台と取材をぐんぐんひろげて、写実的に、且つ現実的に内容を扱って行く事は、伊太利作品ばかりでなく或はヨーロッパ作家のおしなべての特長ではないだろうか。
 伊太利作品をよんでいると、あまり突拍子もない詭弁的な推理もない代りに、写実が実に巧みで、探偵小説と云う感じのない作品さえあるのであって、地理的、時間的な広い題材の用い方にも見るべき点があるのではないかと思う。

 こうして1930年代から1940年代の初めにかけて、国外の作品に倣う形でイタリアの国産ミステリが書かれていったが、1943年ごろからはミステリの発表ができなくなる(政府によって禁止されたのか、それとも出版社の自主規制の結果なのかは不明)。一時的に停滞期に陥ったイタリアミステリ界だったが、それから約20年ほどして、1960年代になるとミステリのジャンルで二人の人気作家が生まれた。すでに戦前から探偵小説を発表していたジョルジョ・シェルバネンコと、戦後に執筆活動を開始したレオナルド・シャーシャである。この二人によって、イタリアの国産ミステリは復活を遂げることになる。

戦前イタリア探偵小説の邦訳

【2012年7月5日追記/2013年1月11日訂正】

 戦前のイタリアの探偵小説で邦訳があるのはエツィオ・デリコの『悪魔を見た処女』だけだと思われる。これを刊行した《世界傑作探偵小説集》(未来社、1946年)では、ジョルジョ・シェルバネンコの『盲目の人形』の刊行も予告されていた。また前述のとおり、1947年1月に創刊された日本の翻訳ミステリ叢書《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房)の全30巻の予告ラインナップには、エツィオ・デリコが3冊(『動物園殺人事件』、『犯人なき殺人』、『モレル家の秘密』)、ジョルジョ・シェルバネンコが2冊(『ルシアナ失踪』、『六日目の脅迫』)、アウグスト・デ・アンジェリスが3冊(『宿命のC』、『チネチッタ撮影所の怪事件』、『三つの蘭花』)、計8冊のイタリア・ミステリが入っていた。残念ながらこの叢書は第1巻のカルロ・アンダーセン(デンマーク)『遺書の誓い』(遺書の誓ひ)(吉良運平訳、1947年)のみで中絶している。これらが無事刊行されていたら、英米一辺倒というその後のミステリ翻訳状況は異なるものになっていたかもしれない。


『ROM』誌のイタリア古典探偵小説レビュー

【この節、2013年8月12日追加】

 ミステリ研究同人誌『ROM』で主宰者のROM氏(加瀬義雄氏)が2004年から不定期連載していた「失われたミステリ史」は、北欧やイタリア、ドイツ、フランスなどの非英語圏のミステリを主に原語で、一部英訳や独訳などで読んで紹介するという、他の誰にも真似できない偉大な仕事だった。ROM氏はこの「失われたミステリ史」で、イタリアのものではエツィオ・デリコ、アウグスト・デ・アンジェリス、アレッサンドロ・ヴァラルドの作品のレビューを書いている。イタリア古典探偵小説の概観やそれぞれの作家の詳しい経歴紹介などもあり、もし「失われたミステリ史」を先に読んでいたら、「イタリア推理小説略史」(当ページ)を作成する気にはならなかっただろうと思う(私が「失われたミステリ史」を読んだのは2013年6月である)。
 ROM氏がレビューを書いているイタリア古典探偵小説は以下の通り。

  • エツィオ・デリコ(3冊ともエミリオ・リシャール警部シリーズ)
    • La Casa inabitabile (1941) -『ROM』124号(2005年12月31日)
    • La Tipografia dei due orsi (1942) - 『ROM』135号(2010年10月31日)
    • Plenilunio allo Zoo (1939) - 『ROM』135号(2010年10月31日) - かつて『動物園殺人事件』として邦訳が予告された作品
  • アウグスト・デ・アンジェリス(3冊ともデ・ヴィンチェンツィ警部シリーズ)
    • L'Albergo delle Tre Rose (1936) - 『ROM』126号(2006年8月8日) …
    • Il Candeliere a sette fiamme (1936) - 『ROM』129号(2007年7月15日) …
    • Il mistero di Cinecittà (1941) - 『ROM』135号(2010年10月31日) - かつて『チネチッタ撮影所の怪事件』として邦訳が予告された作品
  • アレッサンドロ・ヴァラルド
    • Il Sette bello (1931) - 『ROM』135号(2010年10月31日) - 《リブリ・ジャッリ》の初の国産作品。アスカニオ・ボニキ警部シリーズ。

 また『ROM』135号ではほかに、つずみ綾氏がアウグスト・デ・アンジェリスの長編3作のレビューを書いている。すべてデ・ヴィンチェンツィ警部シリーズ。
  • Il Banchiere assassinato (1935)
  • Il Do tragico (1937) - かつて『宿命のC』として邦訳が予告された作品
  • Il Mistero delle Tre Orchidee (1942) - かつて『三つの蘭花』として邦訳が予告された作品 …

 いつかこれらの作品が翻訳紹介される日が来てほしいものである。(イタリアの著作権保護期間は作者の死去後70年なので、アウグスト・デ・アンジェリスの著作権保護期間は2014年末をもって満了する)

 1963年にイタリアで、アウグスト・デ・アンジェリスのデ・ヴィンチェンツィ警部シリーズの長編3作を収録した『Il commissario De Vincenzi』(デ・ヴィンチェンツィ警部)という本が出ている。収録作は「」で示した3作である。おそらくこの3作がイタリアでは代表作と見なされているのだろう。翻訳家の千種堅氏は1960年代半ば頃(?)にこの本を入手して3作とも翻訳したそうだ。1972年のエッセイでは「そのときの原稿はいまも、わが押し入れの隅に大切にしまわれている」(千種堅「イタリアの推理小説(ジャッロ)」、早川書房『世界ミステリ全集』第12巻付属「月報11」、1972年12月)と書いているが、これは残念ながらその後も世には出ていない。千種氏は同エッセイでタイトルをそれぞれ、『ホテル《三つのバラ》』『七本枝の燭台』『三つの蘭のミステリー』としている。千種氏はこの3作について、「どの作品もエンタテイメントのお手本のようなスリリングな筋立てと、そして何よりも文章のよさがきわ立っていて、推理小説の枠をこえ、一般的な娯楽読物としても水準をぬいた出来栄え」と評しており(ルドヴィコ・デンティーチェ『夜の刑事』[ハヤカワ・ミステリ、1970年5月]訳者あとがき)、出版されなかったのが不思議なぐらいである。
 千種氏が『Il commissario De Vincenzi』(デ・ヴィンチェンツィ警部)を入手・翻訳した経緯については「イタリアの推理小説(ジャッロ)」のほか、千種氏のサイト「千種堅のホームぺージ」の「第二部の8」、「第二部の9」でも書かれている。

(2)戦後、イタリア国産ミステリを新生させた2人の作家

ジョルジョ・シェルバネンコ(1911-1969)

  • 邦訳
    • 原著1966年:『裏切者』(千種堅訳、『世界ミステリ全集』第12巻[早川書房、1972年]に収録)

 ジョルジョ・シェルバネンコ(Giorgio Scerbanenco、イタリア語版Wikipedia)は1911年、ウクライナのキエフでウクライナ人の父とイタリア人の母の間に生まれた。生後6か月で母とともにイタリアに移る。大学でギリシャ語とラテン語を教えていた父はウクライナに残ったが、革命のさなかの1917年、ボルシェビキによって殺害されてしまう。16歳の時に母親も病気で亡くしたシェルバネンコはさまざまな職を転々としたのち、創作を志す。
 1940年から1942年にかけて、前述のアーサー・ジェリングものの長編探偵小説5編を発表。ファシスト政権下にあった当時のイタリアのミステリ小説には、「殺人者はイタリア人ではなく外国人でなくてはならない」「イタリア人の登場人物に自殺は許されない」「殺人者が裁きから逃れることは許されない」など、さまざまな(かせ)があったという。なおこの後、創作であれ翻訳であれ、イタリアではミステリの出版自体ができなくなる。

 シェルバネンコは1943年にスイスに逃れるが、戦後はイタリアに戻り、恋愛小説やスパイ小説、戦争物などさまざまな小説を次々と発表する。この時期にはディーノ・ブッツァーティ(1906-1972)やマリオ・ソルダーティ(1906-1999)とも親交を結んだ。戦後シェルバネンコは、アーサー・ジェリングのような外国からの借り物のキャラクターではなく、本当のイタリア型の探偵役というものを創造したいと考えていた。そして生み出されたのが、1966年発表の『ひとりだけのビーナス』(未訳、原題 Venere privata)で初登場する元医師のドゥーカ・ランベルティである。この作品は他国のミステリの模倣ではない真にイタリア型のミステリ小説で、空前のヒットとなり映画化もされた。
 シェルバネンコは同年にドゥーカ・ランベルティ・シリーズの第2作『裏切者』(Traditori di tutti)、1967年に第3作『殺しの若者たち』(未訳、原題 I ragazzi del massacro)、1968年に第4作『ミラノっ子は土曜日に殺す』(未訳、原題 I milanesi ammazzano al sabato)を発表。このうちシリーズ第2作の『裏切者』は1968年にフランス推理小説大賞の翻訳作品部門の受賞作となっている。シェルバネンコの人気はこのシリーズで不動のものとなったが、人気の絶頂のさなか、1969年10月27日、心臓発作で突然帰らぬ人となった。

 日本ではシェルバネンコの作品はドゥーカ・ランベルティ・シリーズの第2作『裏切者』しか翻訳出版されていない。英語圏でも1970年に同作が"Duca and the Milan murders"というタイトルで翻訳出版されたのが唯一だったが、2012年9月にはシリーズ第1作の『ひとりだけのビーナス』(Venere privata)が"A Private Venus"というタイトルで英訳出版される予定で、英語圏の翻訳ミステリファンの間で期待が高まっている。今後、英語圏ではシェルバネンコの再評価が進むかもしれない。


レオナルド・シャーシャ(1921-1989)

  • 邦訳
    • 原著1961年:『真昼のふくろう』(竹山博英訳、朝日新聞社、1987年4月)
    • 原著1966年:『人それぞれに』(武谷なおみ訳、レオナルド・シャーシャ『ちいさなマフィアの話』[白水社、1994年11月]に収録)
    • 原著1971年:『権力の朝』(千種堅訳、新潮社、1976年)
    • 原著1975年:『マヨラナの失踪 : 消えた若き天才物理学者の謎』(千種堅訳、出帆社、1976年)
    • 原著1989年:『ちいさなマフィアの話』(武谷なおみ訳、白水社、1994年11月) - 表題作のほか、『人それぞれに』を併録

 レオナルド・シャーシャ(Leonardo Sciascia、Wikipedia)は1921年、シチリア島のラカルムートに生まれた。祖父も父も鉱山関係の仕事をしていたが、シャーシャは師範学校に通い、地元の小学校の教師になっている。小説家としてのデビューは1950年(「1956年」とも)。1961年、マフィアを批判的に扱ったミステリ小説『真昼のふくろう』(Il giorno della civetta)を発表。これがベストセラーになり、シャーシャは一躍その名を知られるようになる。当時のイタリアでは新聞がマフィアに触れることはなく、政府もマフィアの存在をはっきりと否定していた。そんな時代にマフィアを真正面から取り上げた『真昼のふくろう』はマフィア告発の書として受容され、出版の3年後には議会でマフィアについての最初の調査委員会が発足するなど、その与えた影響は大きかった。続いて発表した『人それぞれに』(A ciascuno il suo)(1966年)、『権力の朝』(Il contesto)(1971年)も同じ題材を扱っている。
 シャーシャが1974年に発表した『トード・モード』(未訳、原題 Todo modo)は河島英昭「黄色本(ジャンル)の外にミステリの核心を読む」(『翻訳の世界』1991年7月号)によれば、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』とさまざまな類似を感じる作品で、『薔薇の名前』を読んだイタリア人はまず真っ先に『トード・モード』を思い出したのだという。この作品はイタリアの映画監督のエリオ・ペトリによって映画化されている(Todo modo、1976年)。

 1975年には、実在のイタリアの物理学者エットーレ・マヨラナ(1906-1938失踪、Wikipedia)の失踪を扱った小説『マヨラナの失踪』(La scomparsa di Majorana)を発表。また1978年には、イタリアの元首相アルド・モーロ(1916-1978、Wikipedia)の誘拐殺害事件の真相を追った著書『モロ事件 : テロと国家』(千種堅訳、新潮社、1979年4月)(原題 L'affaire Moro)を発表している。

 1976年にはシチリア島のパレルモ市の市議会議員になっており、1979年から1982年にかけては下院議員を務めた。1989年11月20日、病のため死去。同年に出版された小説『ちいさなマフィアの話』(原題『単純な話』 Una storia semplice)は病床で書きあげた作品だった。

 1989年、レオナルド・シャーシャはイタリアのレイモンド・チャンドラー賞を受賞。これはイタリア国内外のミステリ作家の生涯の業績に対して贈られる賞で、シャーシャの前年の第1回の受賞者はグレアム・グリーン、シャーシャの翌年の受賞者はドナルド・E・ウェストレイクとJ・G・バラードだった。シャーシャの受賞が没後だったのか存命中だったのかは分からない。

(3)1950年代~1980年代のイタリアの推理作家たち

1950年代のイタリア推理小説界

 1960年代にジョルジョ・シェルバネンコとレオナルド・シャーシャがイタリア国産ミステリを復活させたと上で紹介した。ジョルジョ・シェルバネンコが「イタリア国産ミステリの父」などと形容されることがあるというのは本当だが、戦後、1960年代になるまでイタリアでミステリが書かれなかった訳ではない。前述のとおり、モンダドーリ社の戦前のミステリ叢書《リブリ・ジャッリ》は1941年をもって刊行を終えていたが、戦後、1946年には《ジャッロ・モンダドーリ》という名称で復活。ごく少数だが、イタリアの国産ミステリも刊行されている。

 1955年、すでに作家としてデビューしていたフランコ・エンナ(Franco Enna、1921-1990、イタリア語版Wikipedia)が《ジャッロ・モンダドーリ》で自身初の推理小説『墓場のプレリュード』(未訳、原題 Preludio alla tomba)を発表。以来、ミステリ作家として活躍する。代表作はサルトーリ警部シリーズ。また、同年にはセルジョ・ドナーティ(Sergio Donati、1933- 、イタリア語版Wikipedia)(「セルジオ・ドナーティ」とも表記)が《ジャッロ・モンダドーリ》から『月の片側』(未訳、原題 L'altra faccia della luna)でデビューしている。

 またこの時期すでに、ミステリの形式を用いて文学を執筆する作家が登場している。1944年に雑誌連載が始まり、1957年に単行本が出版されたカルロ・エミーリオ・ガッダ(Carlo Emilio Gadda、1893-1973、イタリア語版Wikipedia)の『メルラーナ街の怖るべき混乱』(Quer pasticciaccio brutto de via Merulana)は20世紀を代表する偉大な文学作品であると同時に、イタリアでは「偉大なジャッロ」と呼ばれているという。邦訳は1970年に出ており、2011年には新訳が出ている。

  • 『メルラーナ街の怖るべき混乱』(千種堅訳、早川書房『現代イタリアの文学』第1巻に収録、1970年、著者名表記「カルロ・エミリオ・ガッダ」)
  • (新訳)『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』(千種堅訳、水声社、2011年12月、著者名表記「カルロ・エミーリオ・ガッダ」)

 ほかに、マリオ・ソルダーティ(Mario Soldati、1906-1999、イタリア語版Wikipedia)も推理小説風の文学作品を書いたという。東京創元社の《現代推理小説全集》第14巻『牝狼・窓』(1957年)にはボアロー&ナルスジャックの『牝狼』とともにマリオ・ソルダーティの「窓」(飯島正訳)が収録されている(著者名は「マリオ・ソルダアティ」表記)。ソルダーティの邦訳にはほかに、1954年のストレーガ賞を受賞した『偽られた抱擁』(清水三郎治訳、講談社、1959年)(原題 Le lettere da Capri)や短編「雪の上の足跡」(大久保昭男訳、『現代イタリア短編選集』白水社、1972年)がある。『偽られた抱擁』は、「奇異な環境と複雑な事件を巧みにおりまぜながら、主人公ハリー青年と妻ジェーンの心理を微妙に、しかもリアルに描いて罪の観念を鋭く追及」した作品である(訳者あとがきより)。「雪の上の足跡」はミステリではない。

ルドヴィコ・デンティーチェ(1925- ??)

 ジョルジョ・シェルバネンコやレオナルド・シャーシャの小説が人気を博していた1968年、リツォーリ社がミステリ叢書《リゴーゴロ》(Il rigogolo)の刊行を開始する。この叢書はイタリア国内の有名無名の小説家、詩人、評論家、ジャーナリストなど広い意味での文筆家に書き下ろしを依頼するというものだった。この叢書で、1968年にルドヴィコ・デンティーチェ(Ludovico Dentice、1925- ??)の『夜の刑事』(原題『ルージュのしみ』 Macchie Di Belletto)が刊行されている。日本では1970年5月、早川書房のハヤカワ・ミステリ、いわゆる"ポケミス"で翻訳刊行された(千種堅訳、ハヤカワ・ミステリ1110)。ポケミスで刊行された最初にして唯一(2012年現在*注)のイタリア・ミステリである。作者のルドヴィコ・デンティーチェは1925年、ローマ生まれ。大学で法律を学んだ後、銀行や広告代理店に勤め、その後スポーツ記者となる。イタリア語版Wikipediaにルドヴィコ・デンティーチェの記事はなく、WorldCatで検索すると作品は『夜の刑事』しか出てこない。『夜の刑事』は映画化もされているが、どうやら小説家としては1作発表したのみで、現在のイタリアでは忘れられた作家となっているようである。

  • :【2013年1月11日追記】2013年1月10日にポケミスでドナート・カッリージ『六人目の少女』が刊行され、ルドヴィコ・デンティーチェ『夜の刑事』は「ポケミス唯一のイタリア・ミステリ」ではなくなった。

フルッテロ(1926-2012)&ルチェンティーニ(1920-2002)

 1972年にはカルロ・フルッテロ(Carlo Fruttero、1926-2012、イタリア語版Wikipedia)とフランコ・ルチェンティーニ(Franco Lucentini、1920-2002、イタリア語版Wikipedia)が合作のミステリ小説『日曜日の女』(La donna della domenica)を発表している。二人は純文学の編集を手掛けてきたベテラン編集者で、この作品はイタリアでベストセラーとなった。日本では1973年に千種堅の翻訳で河出書房新社より刊行されている。二人は『日曜日の女』以降も次々と合作でミステリを発表した。中には、イギリスの小説家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の未完のミステリ小説『エドウィン・ドルードの謎』をベースとして、ポワロ、ブラウン神父、シャーロック・ホームズなどが登場するパスティーシュ作品"La verità sul caso D"(英訳版タイトル The D. Case: the Truth About the Mystery of Edwin Drood)などもあるそうである。
 1994年、二人はその生涯の業績を評価され、イタリアのレイモンド・チャンドラー賞を授与された。

レナート・オリヴィエリ(1925-2013)

 レナート・オリヴィエリ(Renato Olivieri、1925-2013、イタリア語版Wikipedia)は画家や新聞編集員などを経て、1978年、『コドラ事件』(Il caso Kodra)で小説家デビュー。この『コドラ事件』と1980年に発表した第二作『呪われた祝日』(Maledetto Ferragosto)は、日本ではどちらも1995年に伊知地小枝の翻訳で近代文芸社より出版されている。1990年代以降も作品を発表しており、1993年には"Madame Strauss"でジョルジョ・シェルバネンコの名前を冠したミステリ賞、シェルバネンコ賞(Premio Scerbanenco、イタリア語版Wikipedia)を受賞している(日本ではこの賞のことを「シェルバネンコ・ミステリ大賞」と呼ぶこともあるようである)。
 2013年2月8日死去。(死去を報じるイタリア語記事

ウンベルト・エーコ(1932- )

 1980年に発表した『薔薇の名前』(河島英昭訳、東京創元社、1990年1月)があまりにも有名なウンベルト・エーコ(Umberto Eco、1932- 、Wikipedia)については、わざわざここで詳しく紹介するまでもないだろう。1988年に第2作『フーコーの振り子』、1994年に第3作『前日島』、2000年に第4作『バウドリーノ』を発表。まだ邦訳はないが、2004年に"La misteriosa fiamma della regina Loana"、2010年に"Il cimitero di Praga"を発表している。なお、『薔薇の名前』は1984年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)が主催するエドガー賞の最優秀長編賞の候補になっている。このときの受賞作はエルモア・レナードの『ラブラバ』(邦訳1988年、ハヤカワ・ミステリ文庫)。エドガー賞最優秀長編賞にノミネートされたイタリアの作品は『薔薇の名前』が唯一である。

ロリアーノ・マッキアヴェッリ(1934- )

 1987年、イタリアで『薔薇の名前』の()()真相を明らかにするというパロディ作品"La rosa e il suo doppio"(薔薇とそのコピー)が発表された。作者のロリアーノ・マッキアヴェッリ(Loriano Macchiavelli、1934- 、イタリア語版Wikipedia)は1974年にデビューした推理作家。1980年には第1回アルベルト・テデスキ賞【注】を受賞。当時は《巡査長サルティ・アントニオ》(Sarti Antonio)シリーズなどで人気を博していた。マッキアヴェッリは、エーコが『薔薇の名前』で意図的に読者に偽の解決を提示していると考え、この作品の執筆を決意。『薔薇の名前』の版元のボンピアーニ社からは訴えられそうになったが、ウンベルト・エーコ本人のとりなしでことなきを得たという。邦訳は『『バラの名前』後日譚』(谷口勇、ジョヴァンニ・ピアッザ共訳、而立書房、1989年6月)というタイトルで、なんと『薔薇の名前』の邦訳よりも先に出版された(ただし、当時すでに日本で『薔薇の名前』映画版は公開されていた)。なお、『『バラの名前』後日譚』は小説『薔薇の名前』の真実を明らかにするというものだが、小説版の後日談ではない。映画版『薔薇の名前』の撮影の終了後、映画に主演したショーン・コネリーはその解決に疑問を持ち、『薔薇の名前』の事件の再捜査を開始する――という異色の後日談である。この『『バラの名前』後日譚』、日本ではあまり評判がよくないようだ。ほかの作品が一切邦訳されておらず、日本で読めるのがこのパロディ作品だけというのはマッキアヴェッリにとっても日本のミステリファンにとっても不幸というほかない。
 マッキアヴェッリはその後も推理小説を発表し続けている。1990年代末からはフランチェスコ・グッチーニ(Francesco Guccini、1940- 、イタリア語版Wikipedia)との合作も多く、2007年にはそのグッチーニとの合作でシェルバネンコ賞を受賞している。

  • 【注】 アルベルト・テデスキ賞(Premio Tedeschi、イタリア語版Wikipedia
    • 《ジャッロ・モンダドーリ》の編集人だったアルベルト・テデスキ(Alberto Tedeschi、1908-1979、Alberto Tedeschi)の名を冠したミステリ賞。テデスキの死の翌年の1980年に創設された。未発表のイタリア語で書かれたミステリを対象とする賞で、受賞作は《ジャッロ・モンダドーリ》より刊行される。後述のカルロ・ルカレッリも1993年に受賞しており、また『未完のモザイク』が邦訳されているジュリオ・レオーニは2000年にこの賞を受賞してデビューしている。なおテデスキは《ジャッロ・モンダドーリ》に関する功績により1978年に英国推理作家協会(CWA)賞の特別賞、1979年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の大鴉賞を受賞している。

フェラーリ(1943- )&ジャチーニ(1939- )

 1988年、ピヌッチャ・フェラーリ(Pinuccia Ferrari、1943- )とステファーノ・ジャチーニ(Stefano Jacini、1939- )が合作のミステリ小説、『ミラノ殺人事件』(武田秀一訳、扶桑社ミステリー、1990年)(原題 Tragico loden)を発表している。ピヌッチャ・フェラーリは大手出版社のリツォーリ社でミステリ・シリーズの編集を担当していた編集者。ステファーノ・ジャチーニは出版コンサルタント兼音楽研究家。この作品は二人のデビュー作で、その後も二人は何作か合作でミステリを発表している。

その他の邦訳書

 1983年にはマルコ・パルマ(Marco Parma、1940- )という覆面作家がミラノのファッション界を舞台にしたミステリ小説『ドレスの下はからっぽ』(千種堅訳、集英社文庫、1985年)(原題 Sotto il vestito niente)を発表している(作者のマルコ・パルマはイタリア語版Wikipediaでは本名Paolo Pietroniとされている)。

 また同年(1983年)にはルイージ・グィーディ・ブッファリーニ(L・G・ブッファリーニ、Luigi Guidi Buffarini)が『〈吸血鬼(ピオヴラ)〉の影』(大久保昭男訳、角川文庫、1985年)(原題 L'appuntamento americano)を発表した。邦訳書の帯の文句は、「甦る恐怖の組織、〈吸血鬼(ピオヴラ)〉とは? 注目のイタリア・ミステリー」。訳者によるあとがきによれば、「イタリアでは珍しい推理小説の傑作として好評を博し、アメリカその他でも翻訳されて評判にな」ったそうである。ただ、ちょっと検索してみたところ、この本の英訳書の存在は確認できなかった。作者は訳者あとがきによれば、長年外国で暮らしたあとミラノの出版社の文芸部門の責任者となってミラノ在住。ヨーロッパからネパールまでの旅行記『エデンへの旅』などの著書もあるそうだ。【この段落、2013年1月11日追加】

 1988年にはジェズアルド・ブファリーノ(Gesualdo Bufalino、1920-1996、イタリア語版Wikipedia)が『その夜の嘘』(千種堅訳、早川書房、1989年)(原題 Le menzogne della notte)を発表。死刑前夜の四人の男をめぐる推理小説仕立ての作品で、イタリア最高の文学賞であるストレーガ賞を受賞している。

未訳の作家たち

 以下に、ローベール・ドゥルーズ「イタリアのミステリー小説」で言及・紹介されている作家のうち、今までに名前が出なかった作家を列挙しておく。いずれの作家も邦訳はない。


 ドゥルーズ「イタリアのミステリー小説」では、パオロ・レーヴィの処女作『田舎風の赤い肖像画』(Ritratto di provincia, in rosso)がイタリアの映画監督のエットーレ・スコラにより『警視ペペ』(Il commissario Pepe)というタイトルで映画化されたとの記述があるが、インターネット上で調べてみるとこのような記述は見当たらず、『警視ペペ』の原作は別の作家の別の作品とされている。詳細不明。

(4-1)現代イタリアの推理作家たち

アンドレア・カミッレーリ(1925- )

  • 邦訳
    • 原著1996年:『おやつ泥棒 モンタルバーノ警部』(千種堅訳、ハルキ文庫、2000年)
    • 原著1997年:『モンタルバーノ警部 悲しきバイオリン』(千種堅訳、ハルキ文庫、1999年)
    • 原著1998年:30編収録の短編集『モンタルバーノとの一か月』より
      • 「匿名の手紙」(北代美和子訳、『ジャーロ』3号[2001年春号])
      • 「略号」(北代美和子訳、『ジャーロ』3号[2001年春号])
      • 「芸術家肌」(大條成昭訳、『ミステリマガジン』1999年10月号)
      • 「モンタルバーノ刑事の元日」(大條成昭訳、『ミステリマガジン』1999年3月号)
    • 原著1999年:20編収録の短編集『Gli arancini di Montalbano』より
      • 「ふたりのモンタルバーノ」(大條成昭訳、『ミステリマガジン』2001年2月号)

 現代のイタリアミステリ界を代表する作家はアンドレア・カミッレーリ(Andrea Camilleri、1925- 、Wikipedia)だといっていいだろう。カミッレーリは1925年(「1926年」とも)、シチリア島に生まれる。テレビドラマや演劇の脚本家・演出家として長年活躍。作家としてのデビューは1978年で、当初は歴史小説を書いていた。1994年に発表したミステリ小説『水の形』(未訳、原題 La forma dell'acqua)に始まるモンタルバーノ警部シリーズが爆発的なヒットを記録。日本では、長編では1996年発表のシリーズ第3作『おやつ泥棒』(Il ladro di merendine)と、1997年発表のシリーズ第4作『悲しきバイオリン』(La voce del violino)が翻訳出版されている。邦訳は『悲しきバイオリン』の方が先に出ているが、発表順&時系列順に従って先に『おやつ泥棒』を読むことをお勧めする。なお、『ミステリマガジン』では「アンドレア・カミレッリ」という表記になっている。
 2011年にはイタリアのレイモンド・チャンドラー賞を受賞。これはイタリア国内外のミステリ作家の生涯の業績に対して贈られる賞で、カミッレーリは1989年のレオナルド・シャーシャ、1994年のフルッテロ&ルチェンティーニに続くイタリアの4人目の受賞者となった。

 ページ冒頭で述べたとおり、アンドレア・カミッレーリは2006年に英国推理作家協会賞の翻訳ミステリ部門=インターナショナル・ダガー賞ができて以来、受賞者が未確定の今年(2012年)の分も含め7回中5回もノミネートされている(ノミネートされた5作はどれも邦訳されていない)。ところが、いまだに受賞が叶っていない。そもそも、インターナショナル・ダガー賞が創設されて以来、受賞した作家はフランスとスウェーデンの作家のみである。カミッレーリもノミネートされている最新の2012年の同賞の結果は2012年7月5日に発表される。果たして悲願の(?)初受賞、そして初のイタリア人作家の受賞という栄誉をカミッレーリは勝ち取ることができるだろうか。【2012年7月6日追記:日本時間の7月6日早朝、アンドレア・カミッレーリが受賞者に決定!】

カルロ・ルカレッリ(1960- )

 カルロ・ルカレッリ(Carlo Lucarelli、1960- 、イタリア語版Wikipedia) はイタリア北部のパルマ生まれのミステリ作家。デビュー作の『白紙委任状』(Carta bianca 1990年)に始まる《デルーカの事件簿》三部作は、第二次世界大戦末期から終戦直後にかけての混乱期のイタリアを舞台にした作品である。三部作の『白紙委任状』、『混濁の夏』(L'estate torbida 1991年)、『オーケ通り』(Via delle Oche 1996年)はどれも2005年に菅谷誠の翻訳で柏艪舎より刊行されている。このうち、『オーケ通り』は1996年のシェルバネンコ賞を受賞している。
 1993年には『権限なき捜査』(未訳、原題 Indagine non autorizzata)でアルベルト・テデスキ賞を受賞。また、現代を舞台にしたミステリ小説"Almost Blue"(1997年)は2003年に英国推理作家協会賞の最優秀長編部門=ゴールド・ダガー賞にノミネートされた。
 2010年には、アンドレア・カミッレーリとの合作で長編ミステリ『黙ってろ』(未訳、原題 Acqua in bocca)を発表した(『ハヤカワミステリマガジン』2010年11月号に荒瀬ゆみこ氏によるレビューあり)。

マルチェロ・フォイス(1960- )

 マルチェロ・フォイス(Marcello Fois、1960- 、イタリア語版Wikipedia)はサルデニア島のヌーオロ生まれの小説家。1992年デビュー。邦訳書『弁護士はぶらりと推理する』(ハヤカワ・ミステリ文庫、2004年)は、1998年発表の『いかなるときでも心地よきもの』(Sempre caro)と1999年発表の『空から降る血』(Sangue dal cielo)の2編を収録。このうち『いかなるときでも心地よきもの』は1998年のシェルバネンコ賞受賞作である。同作は英訳されて、英国推理作家協会賞のエリス・ピーターズ賞にもノミネートされた。

パオロ・マウレンシグ(1943- )

 パオロ・マウレンシグ(Paolo Maurensig、1943- 、イタリア語版Wikipedia)は旧ユーゴスラビア(現・スロベニア)に隣接するイタリアの都市ゴリツィア出身の小説家。1993年、チェスをテーマにしたミステリ小説『復讐のディフェンス』(鈴木昭裕訳、白水社、1995年)(原題『リューネンブルクのヴァリアント』 La variante di Lüneburg)でデビュー。イタリアでは脚本家やジャーナリストなどなんらかの文筆家としてのキャリアを持った人物が小説家としてデビューすることが多いが、マウレンシグは50歳でデビューするまで文筆家としての実績が一切なく、職を転々としながら破綻寸前の生活を送っていた。1996年には長編第2作『狂った旋律』(大久保昭男訳、草思社、1998年)(原題『反行カノン』 Canone inverso)を発表。その後も作品を発表し続けているようだが、以降の作品の邦訳はない。

アレッサンドロ・ペリッシノット(1964- )

 アレッサンドロ・ペリッシノット(Alessandro Perissinotto、1964- 、イタリア語版Wikipedia)はイタリア北西部のトリノ出身のミステリ作家。民話・寓話の研究が専門で、トリノ大学で講師も務める。1997年、『ロゼッタ殺人の年』(未訳、原題 L'anno che uccisero Rosetta)で小説家デビュー。2003年に発表した長編第3作の『8017列車』(菅谷誠訳、柏艪舎、2005年)(原題 Treno 8017)は、1944年3月に実際にイタリアで起こった悲劇的な列車事故を題材にしたミステリ小説である。2004年に発表した長編第4作の『僕の検事へ : 逃亡殺人犯と女性検事の40通のメール』(中村浩子訳、講談社、2007年)(原題 Al mio giudice)は、メールのやりとりだけでストーリーが展開する作品である。

ジャンリーコ・カロフィーリオ(1961- )

 ジャンリーコ・ カロフィーリオ(Gianrico Carofiglio、1961- 、イタリア語版Wikipedia)はイタリア南部のバーリ生まれ。凶悪組織犯罪を担当する検事を務めながら、2002年、法廷サスペンス『無意識の証人』(石橋典子訳、文春文庫、2005年)(原題 Testimone inconsapevole)でデビュー。2003年には、デビュー作と同じくグイード弁護士を主人公とする長編第2作『眼を閉じて』(石橋典子訳、文春文庫、2007年)(原題 Ad occhi chiusi)を発表。朝日新聞グローブ(GLOBE)の「世界の書店から 第28回」(2010年2月22日)で示されたベストセラーランキングでは、1位にジャンリーコ・カロフィーリオの"Le perfezioni provvisorie"が来ているが、これはグイード弁護士シリーズの第4作である。

その他の作家たち


参考文献

  • 吉良運平「イタリーの三人の作家」(『ぷろふいる』戦後版2巻3号、1947年12月、p.32)★2013年2月12日追加
  • 千種堅「ミステリ診察室『万人の裏切者』」(『ミステリマガジン』1970年5月号、pp.108-109)★2013年2月12日追加 - ジョルジョ・シェルバネンコ『裏切者』のレビュー
  • 『世界ミステリ全集12』(早川書房、1972年)
    • 千種堅「イタリアの推理小説(ジャッロ)」(月報 pp.1-3)
    • 〈座談会〉「F・デュレンマット、Ю・セミョーノフ、G・シェルバネンコについて」 (出席者:石川喬司、稲葉明雄、小鷹信光、(ゲスト)福田淳、および編集部)(pp.515-538)
  • 河島英昭「黄色本(ジャンル)の外にミステリの核心を読む」(『翻訳の世界』1991年7月号、p.54、[国別・地域別/未訳ミステリ紹介]イタリア)
  • ローベール・ドゥルーズ『世界ミステリー百科』(JICC(ジック)出版局、1992年10月)
    • 「レオナルド・シャッシャ」(pp.182-184)
    • 「ジョルジョ・シェルバネンコ」(pp.200-205)
    • 「イタリアのミステリー小説」(pp.205-208)
  • 長谷部史親「アルベルト・ベヴィラックァの『母への遺言』」(長谷部史親『ミステリの辺境を歩く』[アーツアンドクラフツ、2002年]pp.312-319)★2012年7月5日追加
    • イタリアのミステリ事情およびイタリアミステリの邦訳事情についての記述あり。
  • マリネッラ・ヴァーネ・デトレフス(山中なつみ訳)「現代のイタリア・ミステリー事情」(『ジャーロ』3号[2001年春号]、pp.312-314)
  • 荒瀬ゆみこ「世界のミステリ雑誌 各国ミステリ雑誌大紹介 イタリア」(『ハヤカワミステリマガジン』2009年1月号、pp.30-31)

  • ほかに、イタリア・ミステリの邦訳書の訳者あとがきを参考にした。

※Wikipediaの記事内容は情報源として使っていませんが、生没年のみ、Wikipediaの記述を参照している場合があります

更新履歴

  • 2012年7月2日:マリオ・ソルダーティ「窓」、フェラーリ&ジャチーニ『ミラノ殺人事件』、ダーチャ・マライーニ『声』追加。
  • 2012年7月3日:ロリアーノ・マッキアヴェッリ『『バラの名前』後日譚』、マルコ・パルマ『ドレスの下はからっぽ』 、ジェズアルド・ブファリーノ『その夜の嘘』、ディエゴ・マラーニ『通訳』、シルヴァーノ・アゴスティ『罪のスガタ』、アンドレア・ヴィターリ『オリーブも含めて』追加。
  • 2012年7月4日:ページ構成を整理して、「1950年代のイタリア推理小説界」の節を新設。ページの制限容量を超えてしまったため、一部を「イタリア推理小説略史 補遺」に移す。
  • 2012年7月5日:参考文献に長谷部史親『ミステリの辺境を歩く』(アーツアンドクラフツ、2002年)を追加し、「イタリア古典探偵小説の時代」の章に《現代欧米探偵小説傑作選集》についての記述を追加。
  • 2013年1月11日:ルイージ・グィーディ・ブッファリーニ『〈吸血鬼(ピオヴラ)〉の影』追加。
  • 2013年2月12日:「(1)19世紀末~1940年代:イタリア古典探偵小説の時代」に、新たに参考文献に追加した吉良運平「イタリーの三人の作家」の引用を追加。『中学時代二年生』付録の『悪魔を見た少女』についての記述を追加。
  • 2013年8月12日:「(1)19世紀末~1940年代:イタリア古典探偵小説の時代」に、「『ROM』誌のイタリア古典探偵小説レビュー」を新設。


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最終更新:2013年01月12日 00:14