日ソ推理作家交流史


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2012年6月22日

 このページでは日ソ推理作家交流史として6つの事例を紹介している。
 ただし、実際に「交流」といっていいのはおそらく(1)、(2)、(6)だけだろう。
 (3)と(4)は、日本の推理作家とソ連の推理作家が会議に同席したというに過ぎない。
 (5)は、日本の推理作家とソ連の推理作家が同じミステリ祭に招かれていたというだけであって、彼らが顔を合わせたかは不明である。

Index

(1)江戸川乱歩、ソ連のスパイ小説作家ロマン・キムと文通開始(1956年)

  江戸川乱歩 (1894-1965)は1956年、ロシア文学者の原久一郎(1890-1971)がソビエト連邦および中華人民共和国から招待を受けて両国を視察する際、数か月前に完成したばかりの自分の英訳短編集『Japanese Tales of Mystery & Imagination』を託した。これをきっかけにして、ソ連のスパイ小説作家の ロマン・キム (1899-1967)と乱歩の文通が始まっている。
 ロマン・キムは小・中学校時代を日本で過ごしていたため日本語を流暢に使いこなし、多数の日本の推理小説を収集し原文で読んでいた。乱歩からロマン・キムへの手紙は日本語で送ったようだが、ロマン・キムから乱歩への手紙はロシア語で書かれている。少なくとも3通の手紙が届いており、それらは翻訳されて推理雑誌『宝石』に掲載された(1956年10月号、1957年1月号、8月号)。当時のソ連の推理小説界を知ることができる貴重な資料である。

  • ロマン・キムからの手紙のうち第一信と第二信は乱歩のエッセイ集『子不語随筆』(講談社《江戸川乱歩推理文庫》第63巻、1988年)でも読むことができる。
  • ロマン・キムの小説の邦訳は 『切腹した参謀達は生きている』 (高木秀人訳、五月書房、1952年1月)および同書の完訳版 『切腹した参謀たちは生きている』 (長谷川蟻訳、晩聲社、1976年)がある。日本やアメリカの人物が実名で登場するスパイ小説である。
  • ロマン・キムの生涯については以前に「こちら」でまとめた。

(2)中薗英助、日ソ文学シンポジウムに出席(1965年)

 1965年9月30日からの3日間、モスクワで日ソ文学シンポジウムが開催された。このとき日本代表の約20名のうちの1人としてスパイ小説作家の 中薗英助 (1920-2002)が参加している。シンポジウムでは一般の小説や詩、戯曲などから推理小説やSF小説まで幅広く議論の対象となった。中薗英助のエッセイ「ソ連推理作家と語る」(日本推理作家協会会報1966年2月号)によれば、シンポジウムには前述の ロマン・キム (1899-1967)やSF作家の アルカジイ・ストルガツキー (1925-1991)も出席していて、中薗英助は彼らと推理小説やSF小説について語り合ったという。中薗英助はこのときロマン・キム邸にも招かれている。当時のソ連では松本清張『深層海流』や安部公房『第四間氷期』が10万、20万という大部数で翻訳出版されていたそうだ(『第四間氷期』の訳者はアルカジイ・ストルガツキー)。なお、中薗英助の作品は英語圏や西ヨーロッパでは刊行されていないが、旧ソ連やポーランドなどでは刊行されている(最初に翻訳出版されたのがいつごろなのかは未調査)。

 中薗英助は翌1966年9月にもモスクワを訪れ、このときはロマン・キムの紹介でソ連の3人の推理作家と食卓を囲んでいる(ロマン・キムが通訳を務めた)。

  • アルカージイ・アダモフ (1920-1991、ロシア語版Wikipedia) - 警察小説作家。ロマン・キムによれば「ソ連のエド・マクベイン」。
  • ワシーリイ・アルダマツキー (1911-1989、ロシア語版Wikipedia) - 軍事冒険小説、スパイ小説作家。
  • ニコライ・ミハイロフ (1905-1982、ロシア語版Wikipedia) - 英雄ドキュメンタリーものを得意とする作家。

 3人の作家のうち、アルダマツキーは邦訳 『報復 : サヴィンコフ その反逆と死』 (川崎浹訳、現代思潮社、1969年)がある。アルカージイ・アダモフは1950年代以降の中国ミステリ界に影響を与えたとされる作家。ロマン・キムから乱歩への手紙でも言及されており、代表作である『Дело пёстрых』(第一信では『複雑な事件』、第二信では『さまざまな人の事件』、第三信では『ぐれん隊事件』と訳されている)はロシア文学者の木村浩(1925-1992)が邦訳する予定もあったようだが、結局邦訳は出ていない。

(なお、1966年秋には木村浩が 安部公房 (1924-1993)を伴ってモスクワのロマン・キム邸を訪れている。その後、ロマン・キムは病気のため1967年5月に逝去。日本への再訪を望んでいたが、叶わなかった)

(3)夏樹静子、スウェーデンで開催された第3回世界推理作家会議に出席(1981年)

 1981年6月15日から19日までの5日間、スウェーデンの首都ストックホルムで第3回世界推理作家会議が開催された。日本からは、エラリー・クイーンから個人的に招待されていた 夏樹静子 (1938- )が日本推理作家協会の代表として参加。この第3回会議には英米以外に西欧・北欧諸国、ソ連、ポーランド、エジプト、イスラエル、ジンバブエ、ガーナ、ケニア、オーストラリア、インド、そして日本など25か国から約300名が参加した(うち約200名が作家)。日本の作家では夏樹静子以外に 藤本泉 (1923- ?)が個人で参加している。
 会議初日には「世界各地域のクライム・フィクション」と題するパネル・ディスカッションがあり、アメリカ、イギリス、スウェーデン、ノルウェー、ソ連(ユリアン・セミョーノフ)、ポーランド(イェジィ・エディゲイ)、日本(夏樹静子)、ジンバブエ(シャミツ・ノホ・マプフンデ)の8カ国の代表がパネラーとして参加。それぞれの国のミステリ事情を英語でスピーチした。二日目の夜には新聞社主催のディナー・パーティーがあり、その翌日の新聞には夏樹静子とソ連代表の ユリアン・セミョーノフ (1931-1993)が仲睦まじくする写真がでかでかと掲載されたという。

 なお、夏樹静子の長編が初めて英訳出版されるのは1984年であり、1981年6月の段階では短編「断崖からの声」(Ellery Queen's Japanese Golden Dozen、1978年)、「質屋の扉」(米国EQMM1980年5月号)が英訳されていたにすぎない(ほかにも数点訳されていたかもしれないが、未調査)。

 世界推理作家会議はイギリスのミステリ作家のジュリアン・シモンズ(1912-1994)の提唱で始まったもので、第1回は1975年にイギリス・ロンドンで、第2回は1978年にアメリカ・ニューヨークで開催された。なお第3回会議の最終日、スウェーデン主催者側スタッフおよびアメリカの代表から1984年の第4回会議はぜひ日本で開催してもらいたいとの申し入れがあり、日本推理作家協会の理事会で検討されたが、「討議の結果、次回日本での開催の件は、時期尚早のため見送ることに決定」(日本推理作家協会会報1981年10月号)。第4回は1988年に再度アメリカ・ニューヨークで開催された(夏樹静子が参加)。その後、第5回会議が開催されたという話は聞かない。

 なお、ユリアン・セミョーノフの作品の邦訳には警察小説 『ペトロフカ、38』 (飯田規和訳、早川書房 ハヤカワ・ミステリ883、1965年3月/のちに『世界ミステリ全集12』[早川書房、1972年12月]に収録)や、スパイ小説 『春の十七の瞬間(とき) (伏見威蕃訳、角川文庫、1991年6月)などがある。『ペトロフカ、38』はソ連の暗いイメージなど微塵も感じさせない、サスペンスとユーモアにあふれた傑作である。おすすめ。

(4)戸川昌子、ソ連・ヤルタで開催された国際推理作家協会の第1回理事会に出席(1987年6月)

 1986年、世界中のミステリ作家の親睦と翻訳出版の促進を目的とする国際推理作家協会(AIEP、アイープ)が創設された。中心になったのはソ連や中南米のミステリ作家たちで、初代会長はソ連の警察小説・スパイ小説作家の ユリアン・セミョーノフ (1931-1993)。副会長(3人)はメキシコのパコ・イグナシオ・タイボ二世(1949- )、アメリカのロジャー・L・サイモン(1943- )、スペインのマヌエル・バスケス・モンタルバン(1939-2003) 【注】 。日本のミステリ作家では、『大いなる幻影』と『猟人日記』がそれぞれ『The Master Key』、『Lady Killer』として英訳され好評を博していた 戸川昌子 (1931- )が協会側から打診を受け、日本代表理事となっている。

 1987年6月にソ連・ヤルタ(現在はウクライナ)で開催された第1回理事会の参加国は、北米のアメリカ、カナダ、欧州のイギリス、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、フィンランド、中南米のメキシコ、キューバ、アルゼンチン、グアテマラ、そして日本、開催国のソ連の計17か国。日本代表の戸川昌子は日本推理作家協会の中島河太郎理事長(当時)のメッセージのロシア語訳を読みあげ、たくさんの拍手をもらったという。会議のほか、聴衆の前での公開ディスカッションも行われた。戸川昌子はユリアン・セミョーノフについてインタビューで、「議長をつとめたセミョーノフさんは大変な人気で、子供達はどっと集まってきてサインをせがむし、スターという感じでした」と述べている(『ミステリマガジン』1987年9月号)。戸川昌子はインタビューに答えて、翌年にスペインで開催される理事会にも参加するつもりだといっているが、実際に参加したのかは分からない。

 国際推理作家協会の年1回の会議は今でも行われている。近年はミステリ研究家の松坂健氏が2008年から2012年までの任期で国際推理作家協会の副会長(アジア担当)となっており、毎年『ミステリマガジン』に会議のレポートを寄せている(2007年12月号、2008年11月号、2009年10月号、2010年9月号、2011年9月号)。ただ、近年は会議での公用語は英語とされており、ロシアからの参加者は見られないようだ。2011年の会議に関するエッセイは『日本推理作家協会会報』2011年8月号(リンク)にも掲載されている。2012年2月には東京での国際推理作家協会非公式ミーティングが予定されていたが、これは日本の震災の影響で延期となった。

  • 【注】 木村二郎「国際犯罪作家協会(IACW)発足?」(『ミステリマガジン』1987年6月号)ではこの3人が副会長とされているが、オットー・ペンズラー「Crime Column #67 国際犯罪作家協会、チェス……」(『ミステリマガジン』1987年11月号)では副会長とされているのはタイボ二世とロジャー・L・サイモンの2人で、モンタルバンの名は挙げられていない。モンタルバンは第1回理事会に出席はしている。

(5)松本清張、フランス・グルノーブルで開催された世界ミステリ祭に参加(1987年10月)

 1987年10月16日から3日間、フランスのグルノーブルで第9回世界ミステリ小説・映画祭(Festival International du Roman et du Film Noirs)が開催され、日本の推理作家では 松本清張 (1909-1992)が参加している。第8回まではフランスのランス(Reims)で国内規模で開催されていたが、第9回から場所をグルノーブルに移して国際的なイベントとなっており、清張はこの第9回にゲストとして招待されたのである。このイベントは当時の日本では「世界推理作家会議」、「国際推理作家会議」など「会議」の名称で呼ばれることが多かったようだが、実態としてはアメリカのバウチャーコン(Bouchercon)のようなミステリ読者と作家が集うミステリの祭典とでもいうべきイベントだった。第9回では約30名の国外作家、約50名の国内作家が招待されている。ソ連の ユリアン・セミョーノフ (1931-1993)も招待されていたが、松本清張とユリアン・セミョーノフが顔を合わせる機会があったかは分からない。

 松本清張は出席が決まったのち運営委員会側と交渉し、日本の推理小説の現状を紹介する40分間の講演の時間を確保した。その講演の内容は清張のエッセイ「グルノーブルの吹奏」(『小説現代』1988年1月号)で読むことができる。3日目の午後には複数の推理作家が参加する討論会も行われているが、通訳の都合がつかず、松本清張はこの討論会には参加していない。なおフランスでは1982年にマスク叢書(Le Masque)で『点と線』の仏訳が刊行されており、このミステリ祭の直前には『砂の器』の仏訳が刊行されていた。

 グルノーブルの世界ミステリ祭のその後についてはよく分からない。「Festival International du Roman et du Film Noirs」で検索してみると、どうやら1989年の第11回まではグルノーブルで開催されていたようだが、その後のことは不明である。

(6)日ソ推理作家会議開催(1988年・1989年)

※未執筆

参考文献

  • 江戸川乱歩とロマン・キム
    • 江戸川乱歩「探偵小説の世界的交歓 チェーホフの長篇探偵(?)小説」(『宝石』1956年10月号、pp.68-77) - ロマン・キムからの第一信の全文掲載(原卓也訳)
    • 江戸川乱歩「ソ連と中共の近況 ――ロマン・キム氏から第二信――」(『宝石』1957年1月号、pp.137-140) - ロマン・キムからの第二信の全文掲載(原卓也訳)
    • 江戸川乱歩「海外近事 ――アメリカ、ソ連、オランダ――」(『宝石』1957年8月号、pp.238-243) - ロマン・キムからの第三信の大部分を掲載(木村浩訳)

  • 中薗英助とロマン・キム
    • 中薗英助「ソ連推理作家と語る」(『日本推理作家協会会報』1966年2月号、第218号)
    • 中薗英助「ロマン・キムさんの想い出」(『日本推理作家協会会報』1967年10月号、第238号)

  • 夏樹静子とユリアン・セミョーノフ
    • 夏樹静子「世界推理作家会議に出席して」(『日本推理作家協会会報』1981年7月号、第391号)
    • 夏樹静子へのインタビュー「センチメンタル・ジャーニー」(『ミステリマガジン』1981年10月号、pp.6-11)
    • 麻田実「ザ・ストックホルム・コネクション」(『ミステリマガジン』1981年10月号、pp.92-98)

  • 戸川昌子とユリアン・セミョーノフ
    • 戸川昌子へのインタビュー「戸川昌子氏に聞く ヤルタの国際犯罪作家会議に招かれて」(聴き手=ミステリマガジン)(『ミステリマガジン』1987年9月号、pp.170-171)
    • 戸川昌子「I・A・C・W(国際犯罪小説作家協会)のこと」(『日本推理作家協会会報』1987年11月号、第467号)
    • 木村二郎「国際犯罪作家協会(IACW)発足?」(『ミステリマガジン』1987年6月号、p.108)
    • オットー・ペンズラー「Crime Column #67 国際犯罪作家協会、チェス……」(『ミステリマガジン』1987年11月号、pp.104-106)

  • 松本清張とユリアン・セミョーノフ
    • 松本清張「グルノーブルの吹奏」(『小説現代』1988年1月号、pp.34-43/『松本清張全集』第65巻に収録)
    • 松本清張「国際推理作家会議で考えたこと : ネオ「本格派」小説を提唱する」(『文藝春秋』1988年1月号、pp.346-360/『松本清張研究』第8号[2007年、北九州市立松本清張記念館]に収録)
    • 長谷川隆子「グルノーブルの世界ミステリ祭」(『ミステリマガジン』1988年2月号、pp.14-18)

  • 1965年の日ソ文学シンポジウムについての詳細は『新日本文学』1966年1月号および2月号に掲載されているとのことだが、未見。


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