日本推理小説年表【国際交流編】

2012年1月29日

 このページは少しずつ情報を増やしていく予定です。

※敬称略

1930年代

1931年

  • 江戸川乱歩『蜘蛛男』中国語版が中国で刊行される。

1950年代

1950年

  • 5月、第47回土曜会にオランダの外交官・東洋学者・推理作家のロバート・ファン・ヒューリックが参加。
  • 江戸川乱歩は以前から何度もエラリー・クイーンに手紙を出していたが、1950年春、初めてダネイより返事が来る。

1951年

  • 江戸川乱歩、フランスの探偵作家イゴール・B・マスロフスキーと文通を始める。

1952年

  • 江戸川乱歩、韓国の探偵作家・金来成と文通を始める。
  • 江戸川乱歩と高木彬光、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会員になる。
  • 11月28日、探偵作家クラブ五周年記念祭。アメリカ探偵作家クラブ(MWA)本部および各支部、フランスの「冒険小説クラブ」(フランス冒険小説大賞の受賞者を会員とするクラブ)、フランス版EQMM、および金来成個人から祝辞が届く。イギリス探偵作家クラブ(MWB, Mystery Writers of Britain)からも祝辞が届いているが、結局このMWBは企画はあったものの実現されなかった(その後、1953年に英国推理作家協会(CWA)が結成された)。

1954年

  • 江戸川乱歩「芋虫」のフランス語訳がフランスの雑誌 Noir Magazine 創刊号に掲載される(1956年に刊行される英訳短編集からの重訳・先行掲載)。

1956年

  • 江戸川乱歩の英訳短編集『Japanese Tales of Mystery & Imagination』(ジェームズ・B・ハリス訳)が刊行される。日本ミステリの英訳はこれが最初。
  • 江戸川乱歩、ソ連のスパイ小説作家ロマン・キムと文通を始める(7月)。
  • 江戸川乱歩、フランスの推理作家ジョルジュ・シムノンに手紙と英訳短編集を送る。同年、シムノンより返事が来る。

1957年

  • 江戸川乱歩、オランダのW・G・キエルドルフと文通を始める。キエルドルフはオランダ探偵作家クラブ(Geoffrey Gill Club)の創設者。

1958年

  • 勝呂忠(すぐろ ただし)による早川書房刊行物の表紙イラストがエドガー賞・美術賞特別賞を受賞(『日本探偵作家クラブ会報』1958年6・7月号[第131号]参照)。エドガー賞公式サイト(英語)を見ると、1955年から1975年までブックジャケット賞(Book Jacket Award)というのがあったようなので、おそらくそれのことだろう。ただし、エドガー賞公式サイトのデータベースには早川書房が美術賞特別賞を受賞したことについては書かれていないようだ。

1960年代

1960年

  • 江戸川乱歩が文通していたフランスのイゴール・B・マスロフスキーは世界探偵作家クラブ設立の構想を抱いており(江戸川乱歩「パリからの第三信」『宝石』1952年5月号)、おそらくそれを受けて、乱歩も同じように「世界探偵作家連盟の野望」を抱くようになる(江戸川乱歩「新陣容に期待」会報62号、1952年7月)。日本探偵作家クラブの3代目の会長、木々高太郎(任期1954-1960)のもとでこの野望は実現へ向けて動き始め、日本探偵作家クラブ会報ではアンケート「国際探偵作家協会 夢を実現させるために」(会報132号、1958年8月)も実施されている。「国際探偵作家協会」以外に、「世界探偵作家クラブ」、「国際探偵作家クラブ」と書かれることもあった。クラブ内では中島河太郎と高木彬光の反対があり、1960年には探偵作家クラブとは独立に木々高太郎を委員長として「I・M・W企画委員会」が設立されたが、資金面の問題などがあり結局この計画はうやむやになってしまったようだ。なおこの時の経緯は、かなり批判的な書き方をされているが、山村正夫「国際探偵作家クラブ始末記」(『続々・推理文壇戦後史』双葉社、1980年4月)にまとめられている。

1961年

  • 日本やオランダが国際探偵作家クラブの設立を提案している、との記事が英国推理作家協会(CWA)の会報に載る。(『日本探偵作家クラブ会報』1961年4月号、第163号)

1962年

  • 松本清張の作品が初めて英訳される。
  • 『Japan Quarterly』に中島河太郎「Detective Fiction in Japan」掲載(現物未見)。

1965年

  • 9月~10月、ソ連・モスクワで「日ソ文学シンポジウム」開催。中薗英助が参加。

1970年代

1970年

  • 松本清張『点と線』の英訳出版。

1976年

  • アメリカのミステリ同人誌『The Armchair Detective』に仁賀克雄「Mystery Stories in Japan」掲載。(現物未見)

1978年

  • 3月、アメリカ合衆国・ニューヨークで第2回世界推理作家会議。日本からは松本清張が参加してミステリの東西交流についてスピーチする予定だったが、都合で参加できず。木村二郎が参加し、その模様は木村二郎編『海外ミステリー作家の顔』(ヘラルド・エンタープライズ株式会社、1979年7月)として刊行されている。
  • 同年、『Ellery Queen's Japanese Golden Dozen: The Detective Story World in Japan』刊行。収録順に、石沢英太郎「噂を集め過ぎた男」、松本清張「奇妙な被告」、三好徹「死者の便り」、森村誠一「魔少年」、夏樹静子「断崖からの声」、西村京太郎「優しい脅迫者」、佐野洋「証拠なし」、笹沢左保「海からの招待状」、草野唯雄「復顔」、戸川昌子「黄色い吸血鬼」、土屋隆夫「加えて、消した」、筒井康隆「如菩薩団」。

1980年代

1980年

  • アメリカのミステリ同人誌『The Armchair Detective』にジョン・アポストロウ(John Apostolou)「Japanese Mystery Fiction in English Translation」掲載(現物未見)。このころまでに英訳されていたのは江戸川乱歩、松本清張、高木彬光と、前述の『Ellery Queen's Japanese Golden Dozen』ぐらいだった。

1981年

  • 6月、スウェーデン・ストックホルムで第3回世界推理作家会議。日本推理作家協会の代表として石川喬司と夏樹静子が参加する予定だったが、石川喬司は都合で行けなくなり、夏樹静子が参加。なお、夏樹静子はエラリー・クイーンからも個人的に招待を受けていた。ほかに、藤本泉が個人で参加している。
  • 1984年の第4回世界推理作家会議は日本で開きたいとの要望を大会事務局より受けるが、日本推理作家協会で話し合いの上、「時期尚早のため見送ることに決定」(『日本推理作家協会会報』1981年10月号、第394号)

1984年

  • 3月、東京で開催された国際ペン大会に韓国推理作家協会会長のイ・ガヒョン(李佳炯)が韓国代表として参加。この機会を利用し、日本推理作家協会の中島河太郎との面会の場がもたれた。

1987年

  • 6月、ソビエト連邦(現・ウクライナ)のヤルタで国際推理作家協会の第1回理事会が開かれる。アメリカのロジャー・L・サイモンから木村二郎に、英語圏で人気の高い戸川昌子を理事の一人として迎えたいとの電話があり、戸川昌子はこれを了承。第1回理事会に参加している。
  • ジョン・アポストロウ編『Murder in Japan: Japanese Stories of Crime and Detection』刊行。収録順に、江戸川乱歩「心理試験」「赤い部屋」、志賀直哉「剃刀」「范の犯罪」、谷崎潤一郎「私」、芥川龍之介「藪の中」、石川達三"The affair of the arabesque inlay"、耕治人"Black market blues"、松本清張"The secret alibi"、「地方紙を買う女」、安岡章太郎「雨」、安部公房「夢の兵士」、夏樹静子「質屋の扉」「足の裏」。
  • 10月、フランス・グルノーブルで開催されたミステリ大会に松本清張が招待される。

1988年

  • 5月、アメリカ合衆国・ニューヨークで第4回世界推理作家会議。日本からは夏樹静子が参加。
  • 6月~7月、第1回日ソ推理作家会議。ソ連側からの招待を受け、日本推理作家協会の代表団7名(三好徹(訪ソ団団長、当時の推理作家協会理事長)、小松左京、長井彬、高柳芳夫、山村正夫、中津文彦、松村喜雄)がモスクワ、リガ(ラトビア)、レニングラードをまわる。

1989年

  • 7月、第2回日ソ推理作家会議。日本推理作家協会の代表団8名(山村正夫(団長)、加納一郎、豊田有恒、田中光二、菊地秀行、井沢元彦、大沢在昌、新津きよみ、(竹河聖は直前で病欠))がキエフ(ウクライナ)、モスクワ、レニングラードをまわる。
  • 同年、夏樹静子『第三の女』のフランス語版がフランス冒険小説大賞を受賞。

1990年代

1990年

  • 8月、韓国推理作家協会代表団が来日。8月22日、日本推理作家協会は東京・日比谷の料亭「鴨川」で歓迎夕食会を開催。夕食会には日本側からは、生島治郎理事長、阿刀田高国際委員長のほか、韓国語が話せる麗羅、豊田有恒らが参加した(役職は当時)。

1991年

  • Twentieth-Century Crime and Mystery Writers第三版刊行(現物未見)。日本の推理作家は、松本清張、夏樹静子、戸川昌子の項目がある。うち、夏樹静子の項目は穂井田直美が執筆したもの。(『ミステリマガジン』1991年10月号でオットー・ペンズラー、同年11月号で池上冬樹が言及)

1992年

  • 6月、日本推理作家協会代表団が訪韓。生島治郎(団長)、山村正夫、豊田有恒、麗羅、大沢在昌、西木正明。

1993年

  • 5月、韓国推理作家協会代表団が来日。
  • 『Japan Quarterly』に権田萬治「Crime Fiction with Social Conscience」掲載。

1998年

  • 早川書房の早川浩、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)主催のエラリー・クイーン賞を受賞。ミステリに貢献のあった編集者等に贈られる賞。
  • 10月~11月、アメリカのミステリ大会・バウチャーコンで日本のミステリに関するパネルディスカッションが行われる。日本から井沢元彦と山前譲が参加。

1999年

  • 10月、アメリカのミステリ大会・バウチャーコンでアジアのミステリに関するパネルディスカッションが行われる。日本からは『ミステリマガジン』編集長(当時)の千田宏之が参加。
  • 12月、アメリカで出版されたミステリ辞典『The Oxford Companion to Crime and Mystery Writing』に「Crime and Mystery Writing in Japan」掲載。ほかに松本清張の項目もあり。

2000年代(2000年~2009年)

2004年

  • アメリカEQMM2004年1月号に法月綸太郎「都市伝説パズル」"An Urban Legend Puzzle"掲載。
  • 桐野夏生『OUT』がアメリカ探偵作家クラブ(MWA)主催のエドガー賞最優秀長編賞の候補に。
  • ドイツ・ダウンで開かれた国際推理作家協会第16回会議にミステリ研究家の松坂健が参加。
  • アメリカEQMM2004年12月号に光原百合「十八の夏」"Eighteenth Summer"掲載。

2005年

  • 2月、有栖川有栖が訪台。5月、芦辺拓が訪台。以降数年間、日台交流が盛んに。

2006年

  • アメリカEQMMに伊坂幸太郎「死神の精度」"The Precision of the Agent of Death"掲載。

2007年

  • ドイツ・ベルリンで開かれた国際推理作家協会第19回会議に松坂健が参加。以降、毎年参加。(2008年、2009年は小山正も参加)

2010年代

2012年

  • 1月、東野圭吾『容疑者Xの献身』がアメリカ探偵作家クラブ(MWA)主催のエドガー賞最優秀長編賞の候補に。受賞作の決定は4月26日。

参考文献

  • 世界推理作家会議(1975年~1988年?)について
    • 第1回(1975年)
      • 仁賀克雄「海外ミステリ情報 ミステリ捜査線 鷲は上陸しただろうか」(『ミステリマガジン』1976年1月号、pp.112-113)
      • 小鷹信光「MWA通信 第一回国際クライム・ライターズ会議」(『ミステリマガジン』1976年4月号、pp.177) … MWA機関誌に載った記事の紹介
    • 第2回(1978年)
      • 山口勉「ミステリ・アイ 海外ミステリ情報」内「ミステリ作家国際会議」(『ミステリマガジン』1977年11月号、p.157)
      • (筆者不詳)「第二回世界ミステリ作家会議報告 MWA賞発表!」(『ミステリマガジン』1978年6月号、pp.88-91)
      • 木村二郎「第2回国際犯罪作家会議」『EQ』1978年7月号(第4号)、pp.9-14, 152-157
        • 「第二回国際犯罪作家会議」のタイトルで下記の本(pp.46-48)に再録
      • 木村二郎編『海外ミステリー作家の顔 第二回国際犯罪作家会議写真集』(ヘラルド・エンタープライズ株式会社、1979年7月)
    • 第3回(1981年)
      • 『ミステリマガジン』1981年10月号、特別企画:第3回ミステリ作家国際会議
        • 夏樹静子へのインタビュー「センチメンタル・ジャーニー」、pp.6-11
        • エドワード・D・ホック「六月のストックホルム」、pp.12-15
        • 麻田実「ザ・ストックホルム・コネクション」、pp.92-98
      • 夏樹静子「世界推理作家会議に出席して」『日本推理作家協会会報』1981年7月号、第391号
      • 藤本泉「((ママ))の席から」『日本推理作家協会会報』1981年8月号、第392号
      • 『ミステリ・ウェイヴ 世界短篇コンテスト・ベスト18』(早川書房、1983年)
    • 第4回(1988年)
      • 菅野圀彦「第4回世界ミステリ作家会議と'88年エドガー賞晩餐会」『ミステリマガジン』1988年8月号、pp.6-12

 また、1977年4月29日から5月1日にかけて、デンマーク、コペンハーゲンにて「ヨーロッパ推理作家会議」が開催されている。(山口勉「ミステリ・アイ 海外ミステリ情報」内「ヨーロッパ推理作家会議報告」『ミステリマガジン』1977年19月号、p.69)

  • 国際推理作家協会(1986年発足)について
    • 初期
      • 木村二郎「国際犯罪作家協会(IACW)発足?」『ミステリマガジン』1987年6月号、p.108
      • インタビュー「戸川昌子氏に聞く ヤルタの国際犯罪作家会議に招かれて」(聴き手=ミステリマガジン)『ミステリマガジン』1987年9月号、pp.170-171
      • オットー・ペンズラー「Crime Column #67 国際犯罪作家協会、チェス……」『ミステリマガジン』1987年11月号、pp.104-106
      • 戸川昌子「I・A・C・W(国際犯罪小説作家協会)のこと」『日本推理作家協会会報』1987年11月号
      • オットー・ペンズラー「Crime Column #78 ミステリ祭「黒い週間」」『ミステリマガジン』1988年10月号、pp.104-105 - 「セマナ・ネグラ(黒い週間)」について
    • 21世紀
      • 2007年:松坂健「ドイツでもミステリは共通語!」(『ミステリマガジン』2007年12月号、pp.99-103, 155-157)
      • 2008年:松坂健「殺人よ、こんにちは:南仏海岸、国際推理作家会議2008レポート」(『ハヤカワミステリマガジン』2008年11月号、pp.62-66)
      • 2009年:小山正「〈国際推理作家会議2009〉リポート:会議前のおたのしみ」(『ハヤカワミステリマガジン』2009年10月号、pp.14-15, 92-95)
      • 2009年:松坂健「〈国際推理作家会議2009〉リポート:白夜のミステリ会議は、優雅に踊る」(『ハヤカワミステリマガジン』2009年10月号、pp.96-99)
      • 2010年:松坂健「オクラホマシティの13人:国際推理作家会議(AIEP)レポート2010」(『ハヤカワミステリマガジン』2010年9月号、pp.110-113)
      • 2011年:松坂健「国際推理作家協会(AIEP)2011年チューリヒ大会レポート : ミステリの世界にどんどん“国境”がなくなっていく!」(『ハヤカワミステリマガジン』2011年9月号、pp.114-117)

  • 松本清張が参加したフランス・グルノーブルの世界ミステリ祭(1987年)について
    • 『小説現代』1988年1月号
      • 松本清張「グルノーブルの吹奏」、pp.34-43(『松本清張全集』第65巻に収録)
      • 松本清張「付記」、pp.48-49 - ミステリ祭に参加した作家たちの邦訳作品を読んだ感想
      • 「第九回世界推理作家会議記念 グルノーブルを舞台にした世界推理小説コント競作」、pp.44-47
        • A・J・ヌゾー「女にはどうでも良いこと」(Les Femmes s'en balancent)
        • J・P・ドミュール「これはぼくのおごりだ」(C'est ma tournée)
        • 松本清張「骨折」(Charade pour écroulés)
    • 『文藝春秋』1988年1月号
      • 松本清張「国際推理作家会議で考えたこと : ネオ「本格派」小説を提唱する」、pp.346-360(『松本清張研究』第8号[2007年、北九州市立松本清張記念館]に収録)
      • フランソワ・リヴィエールへのインタビュー「松本清張氏の印象」(インタビュアー:長谷川たかこ)、p.361
    • 『ミステリマガジン』1988年2月号
      • 長谷川隆子「グルノーブルの世界ミステリ祭」、pp.14-18

 グルノーブルの世界ミステリ祭、翌年(1988年)についてはジャン=クリスチャン・ブーヴィエ(Jean-Christian Bouvier、訳:梁木靖弘)「グルノーブル便り 紅毛京太郎奮戦記」(『EQ』1989年1月号、pp.178-181)。



  • アメリカ合衆国・バウチャーコンの日本関連イベント(1997年・1998年)について
    • 井沢元彦「「バウチャーコン」報告記」(『日本推理作家協会会報』1997年12月号、第588号、pp.1-2)
    • 『ミステリマガジン』1998年2月号
      • 井沢元彦「バウチャーコン体験記」、pp.10-11
      • 穂井田直美「第28回バウチャーコン・リポート」、pp.12-15
      • 「日本ミステリ・パネル誌上再現」、pp.16-18, 142-146
    • 「アジア・ミステリ・パネル誌上再現」(『ミステリマガジン』1999年2月号、pp.140-143)

  • 日本ミステリの英語圏での受容について
    • 「松本清張の海外での評判」(『ミステリマガジン』1971年6月号、p.122)
    • 小鷹信光「TADに掲載された「日本のミステリ」」(『ミステリマガジン』1976年6月号、p.102)
    • 仁賀克雄「ミステリ・ジョッキー13 日本版「黄金の十二」について」(『ミステリマガジン』1977年9月号、pp.104-105)
    • (筆者不詳)「自動車輸出がだめなら日本製ミステリがある」(『ミステリマガジン』1981年4月号、p.157)
    • 仁賀克雄「海外が見た日本ミステリ」(『ミステリマガジン』2000年3月号、pp.76-77)

関連
  • みき・あきみ「UCSDミステリー作家会議 懸案は日米ミステリー界の交流」(『EQ』1979年1月号、pp.154-160)
  • ジェイムズ・メルヴィル(高見浩訳)「日英ミステリー比較研究」(『EQ』1983年1月号、pp.161-167)

  • 早川浩氏、エラリー・クイーン賞受賞関連
    • 「小社社長、早川浩、MWAエラリイ・クイーン賞受賞!」(『ミステリマガジン』1998年4月号、p.10)
    • 菅野圀彦「一九九八年エドガー賞授賞晩餐会リポート」(『ミステリマガジン』1998年8月号、pp.6-11)

  • エドガー賞、日本ミステリのノミネート関連(2004年・2012年)
    • 桐野夏生「『OUT』という名の運命」(『ミステリマガジン』2004年9月号、pp.16-18)
    • 早川浩「二〇〇四年エドガー賞授賞晩餐会リポート」(『ミステリマガジン』2004年9月号、pp.100-103)

  • 『ミステリマガジン』2007年6月号 【特集:面白さは国境を越える――ニッポン小説の実力】
    • マーク・シュライバー(高山真由美訳)「日本ミステリ英訳史――受容から創造へ」(pp.20-23)など
    • 日本ミステリの海外での出版(主に英訳)についての特集号

最終更新:2012年04月29日 00:53