中国の短編探偵小説
無名飛盗 (『新青年』1931年新春増刊号(12巻3号、1931年2月20日発行)、訳者不詳、原典不詳、挿絵画家不詳)
張慶霖 (ちょう けいりん、ジャン チンリン、Zhang Qinglin、张庆霖)(生没年不詳)
雑誌『新青年』には1930年から1935年にかけて中国の探偵小説が4編訳載されている。これはそのうちの1編で、上海の名探偵・
曙生と、そのワトソン役の「私」=
羅儀が活躍する探偵譚である。
曙生は作中では「東方のホームズ」と呼ばれている。中国では1896年にホームズ物の翻訳が始まり、1916年にはホームズ物の全集『
福爾摩斯偵探案全集』(44編収録)も出版されている。この全集はかなりの人気を博し、何度も版を重ねたという。この「
無名飛盗」はそれらのホームズ物の影響下に、おそらく1920年代ごろに書かれたものだろう。
作者の
張慶霖は、1923年に創刊された中国最初の探偵雑誌『
偵探世界』などで作品を発表していた作家だが、詳細は不明。中国の推理小説史にも通常は名前が出てこないマイナー作家である。中国で2002年に、1920年代から1940年代の中国の創作探偵小説を集めたアンソロジー『20世紀中国偵探小説精選(1920-1949) 少女的悪魔』が刊行されているが、これにも張慶霖の作品は収録されていない。中国でも現在は忘れられた作家になっているといっていいだろう。邦訳されているのもこの1編のみだと思われる。
原典は不明である。中国でも随一の推理小説マニアであり、中国最大手のミステリ情報サイト「
推理之門」の管理人かつ北京
偵探推理文芸協会の理事でもある
老蔡氏にメールで尋ねてみたが、原典らしきものは見つからなかったとのこと。当時の雑誌類は戦争や文化大革命の時代に多くが失われているようで、この「
無名飛盗」の原典もすでに失われてしまっている可能性もある。(
曙生が登場するほかの作品があるのかは未調査。ほかの作品が残っているのなら読んでみたいものである。)
「ウーミンフェイタオ」という振り仮名は『新青年』で使われているものである。曙生(シュシェン)、羅儀(ローイー)の名前も含め、以下の中国語音の振り仮名はすべて『新青年』で実際に振られているものを使っている。中国語が出来る人からするとかなり違和感のあるルビもあると思うが、1930年代当時の読者が読んだままを再現したということで御了承下さい。
――劇場を出た銭氏一家の者は、久し振りの観劇ですっかり酔ったようになっていた。
一二の者が疲れを訴えたので、帰りは自動車を呼ぶことになり、前の一台へは第一、第二の両夫人と、それに第二夫人の当年七歳になる女の子との三人が乗り、後の一台へは僕婢等三人、都合六人の者が冷たい風にあたり度いからと云うので、運転手に命じて、特に河岸の通りを帰るように、劇場を出発したのが恰度十一時半であった。
更け沈んだ河岸の通りは、表通りの繁華に引きかえて、さわさわと岸を洗う河音の他、真暗で、人っ子一人見ることの出来ぬ寂しさだった。
僕婢等三人は、今日の幸福や俳優の評さなどを語り合って騒いでいたが、前の車では、疲れて、第一夫人はうとうとしていたようだし、女の子は第二夫人の膝に首を埋めて、もうすっかり眠っていた。
第二夫人は、車が四碼路のあたりへ来たと思う時分、窓の外で誰かが自分を呼んだように思ってハッとなった。彼女も亦うとうとと桃源の夢を追っていたのに違いない。ハッとして窓外に眼をやったが、依然としてそこには闇があるばかりだった。気のせいだったか知ら――夫人がそう考えた時、今度は直ぐ窓の近くで誰かの咳するのがハッキリと聞こえた。車は相変わらず走っているが、夫人は、その咳を親しい誰かのものと感じたので、半ば開いてあった窓から僅かに顔を出して外の闇をうかがったのである。
その時、夫人は身体をのばす拍子に片手を思わず自分の胸にやったが、瞬間、そこに大切な物の失われているのを知って愕然とした。
頸飾りが無い。劇場を出る時は確かに胸にかけていたあのダイヤの頸飾りが無い!
「運転手さん、停めて、停めて、大変です……」
第二夫人は頓狂に叫んだ。その声で、第一夫人は驚いて眠りからそのまま飛び上がった。女の子は無闇に泣いた。直ちに後ろの車も停められて、何事かと僕婢等が駈けつけた。
「旦那様に頂いたダイヤの頸飾りが失くなったのです。」よろよろとクッションに倒れ込んだ第二夫人は、それでも気を引きたてて僕婢等に云った。「直ぐに警察の方を呼んで下さい。」
だが、人家も、人通りもない河岸の通りである。僕婢等は徒らにおろおろしたが、恰度よかった。折柄巡廻中の一名の巡邏が騒ぎを認めて駈けつけてくれたので、幾分は夫人の悲しみを慰めることが出来た。
時価九千元というそのダイヤの頸飾りは、劇場を出る時、確かに第二夫人の胸を飾っていた、と二名の婢は証言した。第一夫人は妾もそれを見たように思うと云った。
自動車に乗る時、それが第二夫人の首にあったものならば、出発以来、一歩として夫人は車外へ出ないのであるから、紛失したにしても、やはり頸飾りは車の中になければならない。
で、その巡邏は、今一応両夫人に身体の各部をあらためて貰うことを求めた後、自分は件の車の内部をシーツの下に至るまで隈なく調べて見たのであった。
が、無い! 頸飾りは無い! 調べて得られたものは一枚の名刺であった。シーツの下に置かれてあった一枚の名刺――「無名飛俠」とあるその名刺は、いったいどんな驚きを人々の上に与えたであろうか。
その名刺を発見した時、巡邏は云った。
「や、これは。奥さんこれは私達の力には及びません。この名刺をごらんなさい。昨日の朝から、これで恰度十三度目です。この無名飛俠の手にかかった人が十三人あります。警察でも必死になって犯人の検挙につとめていますが、今だに手掛かりさえ得ることが出来ません。私は早速本部の方へこれを通知しましょう。今夜はこのままお引き取りになって下さい。いずれ本部から係りの者が伺いましょうから。」
そして巡邏は、夫人達が銭若川氏の名を告げると、
「おおそれでは銀行総理の――奥さんでございましたか。これは失礼いたしました。」と丁寧に一礼して直ぐに本部に通知すべく去って行った。
「妾、どうしたらいいでしょう。旦那様に申し訳が無い。」
第二夫人は今更のように泣き崩れた。一同は、それを慰めたりはげましたりして、仕方なくそこを引き揚げたのだった。
「私が妻達から聞いたのがそんな事情で、その巡邏の人の持って行った名刺の他には手掛かりと云う物も何もないのです。」
総理銭若川氏はでっぷりと肥えた、いかにも金満家タイプの人であった。好酒家らしく鼻の頭が赤く、目尻に些か貪慾な相があったが、態度は甚だ鷹揚で、それには曙生も私も感心した。
銭氏はその夜所用があって、妻達の観劇には加わっていなかったのである。氏は幾分心の重い様子で言葉を続けた。
「無名飛俠のことは兼々聞いて知っていました。と云うのは二タ月ばかり前、それが一名の巡邏をピストルで撃ち殺したことがあるからなのです。新聞に出ましたから多分御存じとは思いますが、あの時は全く人間業とは思われなかったそうで、何でも、重い包みを肩にしたなり、地上から二十呎【約6メートル】もある家根の上にパッと飛び上がったと思うと、もう姿は見えなかったと申しますから。いや新聞はあの時「無名飛盗」と云う文字を使って報導していました。しかし飛盗と飛俠と一文字違いだし、これまでの十二の事件の、少しも手掛かりの発見されないやり口から見ると、やはり飛盗と飛俠は同一人に違いない――これは捜査本部の萬仭奇氏も仰有ったのですが、私も妻に与えたとは申すものの、何様九千元からの品ですから、全く弱っているのです。ええ翌日、その萬仭奇氏が私の宅に見え、尚一通り事件の様子を訊かれたのです。萬氏はもう十五年から此の土地に居られて、今度の飛俠事件では専任検挙につとめていられるとの話でした。いえ、別に新しい御発見のようなものも無い様子でした。そのせいか、今日、もう事件から半月の余もたっていますが何の通知にも接しません。恰度銀行の劉國雄君から名前を伺ったものですから――いやお名前はかねて承知しておりましたが、つい失念いたしておりまして。何卒ひとつ妻のために御尽力下さいますよう――」
私は第一にその夫人がおかしいと思った。仮令「無名飛俠」がどんな神通力を持っている人間としても、走っている自動車の中の、他に運転手も居り第一夫人もいる――胸にかかっている頸飾りの盗みとれる理窟がない。
私は銭氏の話が終わると早速訊いて見た。
「失礼ですが、第二夫人と御一緒になられてから幾年くらいにおなりですか? 第二夫人はお幾つですか?」
曙生が私の身体を肘でつついた。つまらぬことを訊ねてはいけない、と云う様子だ。果たして銭氏の顔色が急に変わった。私は失敗ったと思ったがもう後の祭りだった。
「そんなことまで事件に関係するのでしょうか。」銭氏は明らかに怒ったような云い方をした。「妻はまだ若い、だがあれはおとなしい女です。」
「いや、確かに頸飾りが第二夫人の胸にあったことと、それが盗まれたことと、その時運転手をのけて六人の方がいらしたことと、それから問題の名刺が発見されたことさえ解れば充分です。」曙生が銭氏の気持ちをとりなすように云った。「四五日のうちには必ずその品物を取り返して御覧に入れましょう。」
銭氏の顔色がガラッと変わってにこやかになった。私は上役と云う人々にこんな態度の人をこれまで二三見かけたことはあるが、その変化のこれ程に烈しい人は初めてだった。
「いやそれは有難い。」銭氏は厚ぼったい手を摺り合わして叫んだ。「それでこそお願いした甲斐があります。あの頸飾りが手に返れば、幾分かはお礼をいたします。他の十二人の方の品物もお捜しになるでしょうか。」
「あるいは、御一緒に取り返せるかも解りません。」曙生は、銭氏が幾分かはお礼をすると云った、それに少しも立腹してはいない様子だった。「とにかく早速調査にかかることに致しましょう。就いてはその萬、仭奇氏とか仰有いましたね、警察の方に先ずお目にかかってお話を承りたいと思います。御住所が解っておりましたら一寸。」
銭氏はいそいそとして有り合わせの紙に萬仭奇の住所と、それから簡単な紹介とを書いた。そして何分お願いすると云い残して帰って行った。
銭若川氏の姿が扉の外に消えると、私は直ぐに云った。
「つまらない。頸飾りが手に返れば幾分かのお礼をするとは何と云う云い草だ。」
「つまらないかも知れないさ。しかし事件は面白そうだぜ、羅儀。」曙生は何時も楽天家だ。いかに二人が名私立探偵でも相当の報酬を得なければ生活していけないことなど眼中にないのだ。彼は室の中を行ったり来たりしながら云った。「それに國雄の紹介だからな。友情の上からでも調べてやらねばならない。ね、羅儀。」
「それで何とか方針でも立ったのかい?」
私はブッキラ棒に問うてやった。事件はまるで雲の上の出来事のように、些かも捕捉するところのない、まるで童話のようなものだったのではないか。
「まだ何も解ってはいないが。」と曙生は云った。「とにかく萬仭奇先生を訪問して見よう。そうすればもっと悉しく事情が訊けるだろう。土地に就いてはやはり古くからいる人の方が知っているからな。」
私は、曙生が五六日のうちに、必ず犯人を挙げて見せると云った言葉を不思議に思った。これまで、曙生は一度として嘘言を吐いたことのない男である。しかも今度の事件の、解っていることと云っては、ほんの、あの二三の事実以外には何もないではないか。それとも、彼はもう私の考える以外に何か確実なものを摑んだのであろうか?
巡邏部長萬仭奇氏は、そんな地位には惜しい程の、立派な顔の持ち主だった。容貌怪異という字がそのまま当て嵌まるような、眼の鋭い、頤の広い、時折顔面を流れる険しい表情はたとえ物語にある山塞の男などと、四ツに組んでも負けを取らないくらい威厳があった。
萬氏の宅は問題の劇場からそう遠くはなかった。門があり部屋数も多数ある様子で、地位以上に立派だった。その立派さは、私達がその部屋に招じ入れられていよいよ確かになった。私は、それを萬氏の永年勤続の報いだと思った。曙生はさりげない風で与えられた椅子に凭ったが、その眼は、きっとそれらの家具調度の素晴らしさに驚いていたに違いない。
「もう長年こちらでお勤めとか伺いましたが。」と曙生は挨拶が済むとそんなことを訊ねていた。「いろんな事件に御関係になったのでしょうね。」
「いや、私も今度のような六ヶ敷い事件は初めてです。「無名飛盗」以来苦心しておりますが、影さえ摑むことが出来ませんので、全くお恥ずかしい次第です。」萬氏は笑った。「十二人の被害者が皆御婦人方――相当地位のある方々で、情況がまるで同じなんですからね。何かその十二の事件から秘密が引き出せはしないかと思うのですが、どうも。これが十二人の方の身許やその他なのですが――」
萬氏はそう云って、手を伸ばして、机上の書架から部厚な一冊のノートを取ろうとした。その姿勢に無理があったと見えて、萬氏の袖は同じく机上に置かれてあった老酒の瓶の頭を叩いた。
や、と見る間に瓶は横倒しになって、しっかり口がしてなかったと見え、とく、とくとうす琥珀色の液体が流れた。萬氏は急いで椅子から身を起こし、机の上の始末をしたが、そこに出してあった書簡箋などは、したたか不意のふるまいに酩酊した様子だった。
示されたノートには、被害者十二人の姓名、年齢、被害物、被害状況、そんなものが細々と認められてあった。被害者の多くは大商人の夫人達だった。被害物も、指環、時計、頸飾り、そんな小さな物が多かったが、その額は、一個で一万元近いものが殆どだった。
他には新しい事実と云って何も訊き出せなかった。
「無名飛俠」の名刺は署の方にあるとの事で、これは見ることが出来なかった。萬氏は取り寄せようかとも云ったが、曙生は後程でもいいとその好意を謝した。
もう夜も相当更けたと思われたので、私達は萬氏の宅を辞して外に出たが、曙生はひどく満足している様子だった。それは彼が、外に出るやいきなり附近の煙草店へ駈けつけて、何時もの雪茄煙を買ったのでも知れるのである。
「思ったよりも立派な家に住んでるじゃないか。奴さん地位を利用して多少はうまくやってるんじゃないのかな。」
「十五年も勤めてれば、多少は役得もあるだろうさ。」私に答えて曙生が云った。「仲々堂々とした男じゃないか。」
「別に助けになるような話も訊けなかったね。萬氏も無名飛俠には悩まされていると見える――」
「悩んでいるかも知れないね。」曙生は何か他の事をでも考えてるような調子で返事した。「とに角会って置いてよかったと僕は思うよ。明日からは被害者廻りでもやって見るかな。」
それから曙生は宿に帰るまで、この事件に関しては何事も語らなかった。
翌日、私が目覚めたのは午前八時過ぎであったが、変わり者の曙生はもう何処かへ出かけて見えなかった。
宿の茶房が曙生の置手紙を渡してくれたので、彼がもう活動を開始したことだけは知ることが出来たが、事件の探査に出るとのみ、他に、何も書いてないので、その探査がどんな風に進んでいるのかは知ることが出来なかった。
私にさえ事件解決までは打ち明けることをしない曙生のやり口は、何時ものことで異とするに足りなかったが、それでも置き去りにされたと思うと、私も何時になく面白くなかった。
午後になって劉國雄がどんな工合か訊きに来たが、私は國雄に対してすら満足な返事を与えなかった。それのみか、理由もなく、遠い上海からこの漢口【現在の武漢。上海から西に約500km】まで、これほど無聊に苦しみに来はしないなどと、私は國雄に食ってかかりさえしたのである。
「東方の福爾摩斯などと誰がいったい云い出したのだ。君はいい友人を持って結構だよ。」
私のこの言葉には、曙生が着々として事件の奥底に向かって進んで行くに反して、同じ機会、同じ問題を与えられながらそこに何等の着手点をも見出すことの出来ぬ、無能な私自身への嘲笑が多分に含まれていた。
國雄は何時にない私の毒舌に対して、呆れて、不審がって、それでもよろしく頼むなどと云って帰って行った。國雄は銭氏の銀行に勤めていて、今では銭氏の寵を相当に得ている筈であった。
夜が来た。が、曙生はまだ帰らない。私は部屋の中でじりじりした。曙生の置手紙に、どんなことがあろうとも知れないから、怠屈でも部屋を動かないように、とその言葉が書いてなかったなら、私は、あまりの無聊に、夙くに宿を飛び出して何処かへ行ったに違いない。
十一時を過ぎると、流石にあたりは静かになって、秒をきざむ時計の音が鋭く冴える。私は今夜は曙生が帰らないかと思った。とその時、部屋の外に跫音がして、茶房が一通の封書を捧げて来た。
表は、誰の名も書いてなかった。裏は――これも同様署名がなかった。茶房に諮すと、封書を持参したのは初めての車夫で、この部屋の方に差し上げて呉れと云ったまま、誰からと訊く間もなく帰って行ったとのことであった。
私は曙生からの手紙と思ったので、茶房を退がらして何の気なく封を切ったが、驚いたことには、中味には次のように認められてあったのである。
――曙生及び羅儀なる二名の乳児に告ぐ。銭若川第二夫人を第十三番の客とする我等が事業に対して、銭若川並びに他の十二名の豚漢より依頼されたる調査より身を退け、我等の言葉の如何に真実なるかは、既に汝等に於いて知る筈である。今日身を退かざれば、明日、汝等の上に来るものは永遠の眠りであることを記憶せよ。無名飛俠――
私は思わず叫んだに違いない。
「何をそんなに騒いでいるんだ?」
曙生が何時の間にか帰って私の背後に立っていたのである。
「これを見ろ、これを!」私は、昼間のうらみなど忘れて、興奮して、その手紙を曙生に突きつけた。「奴等はもう僕等のことを嗅ぎつけて来たんだ。」
曙生は一瞬厳粛な面持ちをした。それから私の手から件の封書を受け取って、一通り眼を通した末、電灯の真下に持って行って、書簡箋の端までを隅々まで調べる様子であったが、やがてのことには、その手紙を口に入れて、くちゃくちゃになるまで噛むのであった。
「おい、噛んで了っては証拠がなくなるじゃないか。大切な証拠物件だぜ、それは。」
だが曙生は、最後にその噛み固められた紙片を、ペッと灰皿の中に吐き出すと、カラカラと笑って云った。
「心配するな羅儀。もう事件は解決したんだよ。明日一日あれば沢山だ。明日の晩にはこの無名飛俠とか云う偉そうな名前の先生を引っとらえて見せるからな。」
「解決した?」私は飛び上がらんばかりだった。「おい、ほんとか。犯人は誰だ? 第二夫人か、銭氏か? そしてどうして解決した?」
だが曙生はそれには答えなかった。
「明日になればすべては解る。もう一日だ。そして明日、ひょっとすると君にも一働きして貰わねばなるまい。勝手だけれど、明日も一日君は宿にいてくれたまえ。そして僕から手紙が来たら、その文面に依って行動してくれたまえ。万事、明日明日。僕は今日は少し草疲れたんだ。寝まして貰う。君もよく寝て置いてくれたまえ、明日が大切だからね。」
訊ねたとて、それ以上語る男ではない。私は万事彼にまかして眠ることにした。寝つかれないのを無理矢理に眠ったのである。
その翌日、私は一日をどんなにながいものに思ったであろう。前夜仲々寝つかれなかった為、私が床をはなれたのはもう十一時に近かった。そして、例によって、東方の福爾摩斯曙生の奴は既に何処かへ出かけていたのである。
昼食をゆっくりゆっくりすませたが、まだ曙生からの手紙は来なかった。一時になり二時になり、やがて三時を打つ時計の音を聞いたが、私の部屋を訪れる何人もなかった。
私は茶房を呼び出しては、誰からか手紙が来はしないかと幾度も訊いた。そして失望して過ぎて行く一秒一秒をじっと堪えた。
三時半、五分ばかり過ぎて、待ちに待った曙生からの手紙が来た。
――君は何でもいいから、君を知る誰にも気附かれない程度に姿を変えて、華界の大同旅館へ行ってくれたまえ。旅館の三階、六十七号室を訪ねて行けばいい。すべては先方へ話して置いたから、何も心配するところはない。即刻行ってくれたまえ――
誰を訪ねて行くのか、そこにどんなことが待っているのか、最早や私には問うところでない。
私は曙生の手紙のままに手早く変装した。服を少し華美なのと取り換え、セルロイドの眼鏡をかけ、鼻下にちょっぴりと鬚をつけた。中年の、金持ちの用なし息子と云った風体である。私はステッキさえ手にして大同旅館へ自動車を飛ばした。
旅館の玄関に自動車から降りて、私は旅館が思ったよりももっとひどいのに驚いたのであった。汚いと云う意味よりは、私はそのあたりに底迷している一種の陰惨な空気に先ず警戒の気持ちを惹き起こされた。
此処は華美と耽溺と、悪と黄金と、そんなもののどす黒く渦巻く土地第一の盛り場の裏街である。いかさま何事かのありそうな、旅館の茶房の眼光にさえ、ぞっと背筋を走るような鋭いものが感じられた。
三階六十七号室は、旅館の中でも一等陰気に感じられる、西寄りの廊下の果てにあった。扉を押して這入ると、ガランとした方三間ばかりの部屋で、中央に粗末な一脚の卓、そして宅に凭って、私の這入った扉の方へ斜めに背を向けて、一人の老人が何事かをやっていた。卓の前方には――つまり部屋の最奥部には、隅の一角を区切って、黒い幕を下げた暗室のようなものが設けられてあった。
私の這入って行った跫音に、やおら腰を上げた老人は、私の思ったよりももっと人生の坂を越えているらしかった。うす暗い光線の中で、頭髪の真白なのが際だって見えた。
「あんたが羅儀さんかな。」
それは低い低い天津語だった。私がそうだと答えると、老人はチョッキのポケットから黒っぽい布で造った名刺入れのようなものを出して、その中から一枚、馬鹿に大型の名刺をぬいて私にくれた。
「いろいろお世話になりますでな、そう、それがわしの名前じゃ。御存じの筈じゃが、お忘れになったかな。」
云い捨てて老人は、コトコトと又椅子に帰って腰を下ろした。私は名刺の表を読んだ。
――余世野。天津。古玩斎珍飾店――【「古玩」は「骨董品」という意味。骨董屋】
私には全然新しい名前である。曙生も、ついぞ余世野なる名前を口にしたことがない。何処か打ちとけない老人である。
「僕はお訪ねした理由を持たないんですが、御老人は曙生を御存じなんですか?」
私はそう訊ねて、ふと、この老人が事件の主魁ではないのかと思った。前面の暗室の中から、今に屈強な奴等が四五人飛び出して来て、私を忽ち押さえつける――私はいやな気持ちを覚えた。
「曙生なんて名は聞かんな。わしは暮生と云う名は聞いたように思うが。それで、御用件は何であろうか。」
「用件?」私は何か癪にさわるものを感じた。「老人こそ僕に用事がある筈でしょう、僕からそれを伺いましょう。僕が羅儀であることは誰からお聞きになったのです?」
「それはな。」と老人がやはり低い低い天津語で、何かを語ろうとした時、扉が開いた。曙生ではない。一人の男が手に封書のようなものを持って這入って来たのである。
「余世野さんはこちらでございますね。」
その男は一見何処かの労働者に見えた。が、言葉だけは上品でハキハキしていた。「お手紙を頂いたので早速上がりましたがこの方は?」
男は私のことを老人に訊いたのである。私は男の声にどこか聞き覚えがあると思った。が、解らなかった。
「どうか後ろの扉をしめて下さい。」老人は相変わらず低い天津語でその男に云った。
「この方もお客さんですよ。御遠慮なくどうぞこちらへ。早速商売にかかりましょう。」
男は一寸躊躇する様子を見せた。それから扉をキチンとしめ、老人と向かい合うように卓まで進んで、椅子にはつかずに懐から小さな革袋を取り出すのだった。
私は全く狐に摘まれたような工合だった。だがこの老人もそれからやって来た労働者風の男もとにかく妙な興味があった。私は二人の側に立って彼等のすることを見守っていた。
「これですが、幾らくらいで願えましょう。」
云ったのは男の方である。そして卓の上には、あの革袋からおお、十、十一、十二個も、相当なダイヤが、キラ、キラと妖しくも美しい光りを発して取り出されたではないか。
「なるほど、なるほど、これは大したものじゃ。」老人は己れの孫をでも見るようにそれらの粒を指先に弄んだ。「よく見なければはっきりしたことは云えない。ちょっとお待ちなさいよ。」
そう云うと老人は、立って暗室の中に這入って行ったが、碁盤目に目の切ってある小さな試験箱のようなものを取り出して来た。
「ちょっとこれに入れて、わしが調べて見ましょうわい。」
ダイヤは小箱へキチンと並べられた。そして老人は再びそれを持って、コトコトと暗室の中へ這入って行って、ゴトゴトとその幕の中で物音をさせているようではあったが、五分六分のながい時間が経っても暗室から出る気配がない。
男は、急に何かを感じたに違いない。老人が暗室に這入ると同時から腰を下ろしている椅子をすっくと立って、立つと見るやつかつかと暗室に進んでその幕を引き開けたのであった。
「老人、馬鹿に待たせるではないか!」
男が叫ぶのと、暗室の中から老人が飛び出して、男にパッと組み付くのとが一緒だった。
「羅儀、手を貸せ、手を!」老人が大声で怒鳴った。
「畜生! やったな。」
男は猛然と老人にかかった。私はステッキを投げ捨てていた。それから件の男に向かってがっしりと組み付いた。組みついたと云う間はなく組み伏せた。少なくとも私は、曙生よりは武術に於いて自信がある。
用意の捕縄で身動きの出来ないまでに縛り上げた。
「いや御苦労だった。何時もながら君は強いね。これで「無名飛俠」もおしまいさ。扉を開けてくれたまえ。もう御一同がいらっしゃる筈だから。」
まぎれもない老人は曙生の変装であったのだ。それにしても、曙生なんて名は聞かないなどと、よく私をからかったものだ。私の愚かさが嗤い度くなる。
が、私もそれ以上に得意だった。曙生一人ではこの強力な曲者は押さえつけることが出来なかったに違いない。
扉をあけると、おお、どやどやと十四五名の人が這入って来た。銭若川氏の顔が真先に見えた。
「列位。」と鬘をかなぐり捨てた曙生が云った。「御覧の通り犯人を捕らえました。銭氏の頸飾りだけは確実に取り返しました。他の方の品物もいずれそれぞれお返し出来る筈です。「無名飛俠」などと、悪い事をやっていた此の男の顔を見てやって下さい。」曙生はそれから引きすえられた件の男に近づいて、「萬先生、もう兜をお脱ぎになったら如何でしょう?」
驚くべし、無名飛俠は巡邏部長萬仭奇の別名であったのだ。一同が騒ぎ立てたのも無理はない。そして、一同の中の心得たのが、洗面器に水を取り寄せて、無理矢理男の顔を洗うと、正真正銘の部長の顔が苦虫を噛みつぶして現われた。
身体を検めると、他に指環三個を所持していた。
「斯うなれば何もかも云って了ってやる。俺は指環一個たりとも盗んだ覚えは更にないのだ。」
萬仭奇は恐ろしい声で怒鳴りはじめた。が、それは、興奮した人々の言葉で押し潰されて了った。
「お静かに。」人々の中から官服の人が出て一同を静めた。「此の者は署へ連れて参ります。種々取り調べがありますので、いずれ二三日中には署の方から御通知をする筈でございます。」
そして萬仭奇が引かれて行った後も、一同は曙生を囲んで仲々去らなかった。曙生はそれらの人々にあまり悉しいことを話さなかった。と云うのは、此の事件には萬仭奇のみを悪人として扱うことの出来ぬ点が種々あったからである。
「萬仭奇が犯人とは全く思い及ばなかった。君はどうしてそれを突き止めたのかね?」
事件が終わって宿にくつろぎながら、そう私が訊ねたに対して、曙生は事もなげに次のように語った。
「何も始めから解ってはいなかったがね。最初銭氏の話で、夫人達に秘密のあることは察しがついた。で、夫人達を洗うつもりで、十三人の女達を直接調べて廻ったのだが、それを恐れて、萬仭奇先生、僕等にあの恐迫状を寄来したのが運の尽きさ。ほら、あの時僕が書簡箋を噛んだだろう、あれはあの紙の味をためしたのさ。萬仭奇の家を訪れた時、彼はノートを取ろうとして老酒をこぼしたね。あれが机上にあった書簡箋を濡らしたのは君も見ていた筈だ。あの時見た書簡箋と、恐迫状とが同じ書簡箋だったとは面白いじゃないか。噛んで見ると老酒だ。身分不相応な生活をしているのも変だったし、テッキリと思ったから以後は専念萬仭奇を調べたのさ。頸飾りも奴さんがまだ手にしていることなど直ぐ知れた。手段を用いねば相手も仲々の男だからうまく行くまいと思ってね、ちょっと芝居をやったまでさ。古玩斎なんてちょいと味がある商売じゃないか。」
萬仭奇は、己れ官職にありながら、金を得たい一心から、秘密に賭博場を開設し、つとめて大商人等の夫人を客として迎えていた。無聊な彼女等は毎日のように夫の目を忍んでは、萬仭奇の賭場に集まり、眼を血走らして勝負を争った。そして負ければ仭奇から千二千と多額の金を借り入れるのだった。つまり、事件を惹起した十三人の婦人は、すべて勝負の金に窮した揚句、身につけた高価なそれらの品を仭奇に質に置いたのである。そして二度とは返らぬそれらの品の、夫達への口実として、仭奇と話し合って、「無名飛俠」のお芝居を演じた訳であった。
十三人のうち五人までの夫人は、萬仭奇が検挙せられたと聞くや、何時の間にか所在をくらましたとかその後聞いた。新聞の報じた「無名飛盗」とこの「無名飛俠」には何の関係もなかった訳である。
校訂
すべて新字体、新仮名遣いに直した。
【】で書いた注は当サイトで付けたものである。
+
|
送り仮名の変更 |
『新青年』での表記→このページでの表記
冷い→冷たい
聞えた→聞こえた
相変らず→相変わらず
頸飾→頸飾り
飛び上った→飛び上がった
後→後ろ
手掛り→手掛かり
お引取り→お引き取り
申訳→申し訳
引揚げた→引き揚げた
終る→終わる
果して→果たして
変った→変わった
気持→気持ち
取返せる→取り返せる
有り合せ→有り合わせ
持主→持ち主
素晴しさ→素晴らしさ
お恥しい→お恥ずかしい
伸して→伸ばして
起し→起こし
変り者→変わり者
打明ける→打ち明ける
向って→向かって
差上げて→差し上げて
於て→於いて
面持→面持ち
引とらえて→引っとらえて
金持→金持ち
惹き起された→惹き起こされた
盛場→盛り場
果→果て
下した→下ろした
押えつける→押さえつける
上りました→上がりました
聞覚え→聞き覚え
向い合う→向かい合う
少くとも→少なくとも
捕えました→捕らえました
取調べ→取り調べ
話合って→話し合って
登場順。
|
+
|
誤植と思われるものの修正 |
時下九千元というそのダイヤの頸飾は、 → 時価
十五年も勤めてれば、多少は役徳もあるだろうさ。 → 役得
正真正酩 → 正真正銘
賭博 → 賭場
そんな位地には惜しい程の → 地位
|
+
|
その他 |
劉國雄の「國雄」には「コーシュン」とルビが振られているが、一度だけ「コウシュン」になっている。これは「コーシュン」に統一した。
余世野には「イユシフイエ」とルビが振られている。「シフ」は旧仮名遣い風の表記だと判断し、「シュー」とした。
行末の句点、読点の脱落と思われる箇所が数か所あったので補った。
会話文はすべて二重カギカッコ『』で括られていたが、通常のカギカッコ「」に直した。
一文字の接続詞「が」(6か所)、「で」(2か所)のあとに読点を補った。
(実際は「が無い!」「が曙生はまだ帰らない。」「が解らなかった。」「でその巡邏は」「で夫人達を洗うつもりで」など、読点なしで文頭についている。)
「茶房」に「ばんとう(番頭)」というルビが振られている。「茶房(Chafang)」(発音:チャーファン)は中国語の古い言葉で、雑用係という意味。
|
入力・校訂:松川良宏
使用テキスト:『新青年』1931年新春増刊号(12巻3号、1931年2月20日発行)、pp.278-290
※訳者および挿絵を描いた人物に心当たりがある方はご連絡ください。
2011年12月15日公開
最終更新:2011年12月15日 10:52