ソ連/ロシア推理小説翻訳史 > ロマン・キム(1899-1967)

2011年5月9日-30日

ロマン・キム (Роман Николаевич Ким, 1899-1967, ロシア語版Wikipedia(1言語))
  • 長編
    • 『切腹した参謀達は生きている』 (高木秀人訳、五月書房、1952年1月)※一部がカットされている
    • 『切腹した参謀たちは生きている』 (長谷川蟻訳、晩聲社、1976年12月)※完訳

Index

ソ連のスパイ小説作家 ロマン・キム

『切腹した参謀達は生きている』(五月書房、1952年)

 ロマン・キムの名はほとんど日本では――少なくとも日本のミステリ界隈では知られていない。作品を読んだことがあるミステリファンは数えるほどだろうし、その邦訳が刊行されていることを知る人も少ないだろう。あるいは熱心な江戸川乱歩ファンであれば、その随筆に名前が登場するソ連の推理作家として、彼のことを記憶にとどめているかもしれない。江戸川乱歩は2人の「キム氏」と文通をしている。1人は韓国の推理作家の金来成(キム・ネソン、1909-1957)であり、もう1人は、ここで紹介するソ連の推理作家のロマン・キム(1899-1967)である。
 ロマン・キムは、たとえば権田萬治編『海外ミステリー事典』(新潮社、2000年)にも項目がないが、邦訳状況を考えるとこれは仕方がないと言える。ロマン・キム作品で邦訳されているのは、第二次世界大戦および朝鮮戦争を背景とするスパイ小説『切腹した参謀達は生きている』の1作のみである。これは、乱歩がロマン・キムと文通を始める4年前の、1952年に刊行されている。

  • ロマン・キム 『切腹した参謀達は生きている』 (高木秀人訳、五月書房、1952年1月)/ Тетрадь, найденная в Сунчоне (1951)

 原題は直訳すると 『スンチョン(順川)で発見されたノート』 で、1951年にソ連作家同盟の機関誌『ノーヴイ・ミール(Новый мир/新世界)』に発表された。翌1952年1月には早くも日本語になったわけだが、この作品は先にも述べたように第二次世界大戦と朝鮮戦争を背景としており、日本やアメリカの人物が()()()登場するスパイ小説であったため、GHQの管理下にあった当時の日本ではそのまま刊行することができず、4分の1ほどが自主的にカットされている。それから24年経った1976年に、完訳版 『切腹した参謀たちは生きている』 (長谷川蟻訳、晩聲社、1976年)(「達」が平仮名表記になった)が刊行された。

 ソ連の推理小説の邦訳は、1920年代末から30年代初めにかけて刊行されたマリエッタ・シャギニャン(ジム・ドル名義)『革命探偵小説 メス・メンド』、アレクセイ・トルストイ『ソヴエト・ロシア探偵小説集1 技師ガーリン』以来、少なくとも単行本の刊行は皆無だったと思うが、戦後にはわりと早い段階でソ連の推理小説が単行本で登場していたことになる。もっとも、この作品が()()()()()()()刊行されたとは言えない。1952年の版を刊行した五月書房はレーニンなどの著作を出していた共産党系の出版社で、ソ連の大使館筋が日本での出版を急がせたという話がある(津村1976)。ロマン・キム自身は、政治的な思惑とは関係なくさまざまな地域を舞台にスパイ小説を書いていたようだが、『切腹した参謀達は生きている』の日本での刊行は、政治的な意図を強く感じさせるものだった。その24年後の完訳版も、推理小説とはゆかりのない出版社から刊行されている。

 その出版意図はどうあれ、「(当時の)現代のソ連にも推理小説がある」と知らしめることになったという点で、この作品が刊行された意義は大きかった。このことについて、翻訳家の 袋一平 (1897-1971、日本語版Wikipedia)氏は以下のように述べている。袋氏は、1930年にモスクワの大学に映画の勉強をしに行ったときに、その大学の講師をしていたロマン・キムと会っており、映画輸入のことで手助けしてもらったり、自宅に招いてもらったりしている。いつ頃からかは分からないが、1965年ごろには文通もしていたようだ。

袋一平(1965)「キムさんとSF」(『S-Fマガジン』1965年1月号)より
すでに戦後になって、キムさんが作家活動にいそしんでいることを新聞や雑誌で知った。そして1952年には、キムさんの作品の翻訳が日本でも出た。『切腹した参謀は生きている(ママ)』(原名『フムチョンで発見された手帖』)がそれで、推理・スパイものである。これはソ連では最も新しいジャンルの一つであり、ソ連には推理ものはない、という私たちの定説を破るものであった。ひきつづきキムさんは、『広島からきた少女』、『枕の下のコブラ』、『特務機関員』といった同じ傾向の作品を活発に書いている。(改段落)現在キムさんはシェイニン、サモイロフ、ウィリン(ママ)、アレフィエフなどとともに、ソ連有数の推理小説であり(ママ)、しかもソ連では推理小説とSFとは深い兄弟の間柄なので、SF畑にもつっこんだ関係をもっている。

 袋氏は1922年に探偵雑誌『新趣味』誌上でジヱフワリ・フアーノル(Jeffery Farnolか?)「呪ひの影」(7月号)、エドウィン・ベアード(Edwin Bairdか?)「赤い弾丸」(9月号)を訳して以来、しばらく探偵雑誌とは関わっていなかったが、この『切腹した参謀達は生きている』でソ連にも推理小説があると知ったことがきっかけとなったのか、1955年から1957年にかけて引用中に見られるソ連の推理作家S・アレフィエフL・サモイロフ=ヴィリンレフ・シェイニンアナトーリィ・ベズーグロフの短編を翻訳し、ソ連ミステリ紹介の日本における草分けとして大きな役割を果たすことになる。(1965年に早川書房より刊行されたユリアン・セミョーノフ『ペトロフカ、38』は決して「本邦初登場!」(裏表紙)のソ連の探偵小説ではない)

未訳作品と中国での刊行状況

 ロマン・キムは、スパイが活躍する国際謀略小説を主に書いた作家である。1965年の秋にモスクワで開かれた日ソ文学シンポジウムでは、日本代表の約20名のうちの1人として参加した日本のスパイ小説作家 中薗英助 (1920-2002、日本語版Wikipedia)と議論したこともあった。(中薗英助作品は英語圏・西欧では刊行されていないが、旧ソ連やポーランドなどでは刊行されている)
 邦訳された『切腹した参謀達は生きている』以外に、ロマン・キムには以下のような作品がある。

  • ロマン・キムの主要作品
    • 『広島からきた少女』/ Девушка из Хиросимы (1954)
      • 「原爆が投下されたとき広島にいながら、奇跡的に無事だった少女の運命を物語」った作品(『切腹した参謀たちは生きている』訳者あとがき)
    • 『特務機関員』/ Агент особого назначения (1959年、青少年向けの文学雑誌『若き親衛隊』に2号にわたって掲載、1962年に単行本化)
      • 「新中国における外国諜報組織の陰謀をテーマにした」作品(飯田1965)
      • 「アフリカを舞台にした」作品(佐々木1962b)
      • 「筋もかなりこみ入っていて推理もふかく、ハードボイルドな文体もなかなか新鮮味があって面白い。」(黒田1960)
    • 『枕の下のコブラ』/ Кобра под подушкой (1962)
      • 「1943年のカサブランカを舞台にしてソ連のジャーナリストに対するイギリス諜報機関の追及を描いた」作品(飯田1965)
    • 『読後焼却すべし』/ По прочтении сжечь (1962)
      • 「真珠湾攻撃前夜の日米スパイ合戦を描いた」作品(飯田1965)
    • 『幽霊学校』/ Школа призраков
(ロシア語版Wikipediaを見ると、ほかにも「Дело об убийстве Шерлока Холмса(シャーロック・ホームズ殺人事件)」などの作品を書いているようだが、ほかの文献で未確認)

 このうち、『広島からきた少女』(『広島の娘』、『ヒロシマのおとめたち』などとも)は、佐々木千世(1962a)によれば「二十数カ国語に翻訳され、評判をよんだ」そうだが、具体的にどの言語に翻訳されているのかは確認できていない。江戸川乱歩(1956)では「「スンチョン(註、朝鮮の地名か)で発見されたノート」「広島の娘」(邦訳あり)」とされているが、ほかの人がロマン・キムについて触れた文献では『広島からきた少女』に邦訳があると書いてあるものはないので、これは誤りだろうと思う。
 また、日本の下山事件に興味を持ち資料集めをしていたこともあったようだが、それが作品として結実しているのかは分からない。

 日本では1作しか読むことができない一方、中国ではソ連の推理小説を語る上では欠かせない作家の1人とされており(曹正文(そう せいぶん)『世界偵探小説史略』(1998)第14章「旧ソ連と東欧の探偵小説」第1節「旧ソ連探偵小説の形成と特徴」)、少なくとも以下の4作が刊行されている。名前の表記は、金羅曼(きん らまん/ジン ルオマン/Jin Luoman/金罗曼)または、羅曼・金。

  • 《在顺川发现的一本日记》(スンチョン(順川)で発見されたノート)=邦題:切腹した参謀達は生きている
  • 《特殊使命的间谍》(特務機関員)
  • 《枕头底下的眼镜蛇》(枕の下のコブラ)
  • 《看完烧毁》(読後焼却すべし)

乱歩とロマン・キムの文通

 乱歩はロマン・キムと1956年に文通を始めている。ロシア文学者の 原久一郎 (1890-1971、日本語版Wikipedia)氏が、ソ連および中華人民共和国から正式な招待を受けて両国を視察することになったため、以前にソ連で自分の作品が話題になったということを耳にしていた乱歩は、完成したばかりの自分の英訳短編集を原久一郎氏に託したのである(乱歩が日本探偵作家クラブ会員のJ・B・ハリス(平柳秀夫、1916-2004、日本語版Wikipedia)と二人三脚で作り上げた初の英訳短編集『Japanese Tales of Mystery & Imagination』は、1956年5月中旬に完成した)。

江戸川乱歩「探偵小説の世界的交歓 チェーホフの長篇探偵(?)小説」(『宝石』1956年10月号)より
 原久一郎さんは日ソ親善協会の文化使節団長としてソ聯、中共を視察、六月九日出発、七月二十日帰国された。(中略)モスクワの一行の旅宿へは文化関係のソ聯人や岡田嘉子さんなどが次々と訪ねてきた中に、ソ聯作家同盟の一員であり、ソ聯では冒険小説作家(探偵小説を含む)と呼ばれているロマン・キム氏があった。
 このキム氏のことは私は三十年前から知っていた。
 昭和二年【1927年】、平凡社の「現代大衆文学全集」の「江戸川乱歩集」の附録月報に、平凡社編集長の志垣氏が、ロシヤで私の作品が話題にのぼっているという記事を書き、東洋語学院教授ニコライ・キンという人が、志垣氏も列席したモスクワの会合で私の作品のことを噂したことを紹介したので、これが深く記憶に残っていた。そのキン氏が今もモスクワで活動しておられることを、近頃も何かで読んだので、原さんが出発するとき、私の英訳短篇集を托し、キン氏に会ったらあげてくれるように頼んでおいた。それがキン氏の方から原団長を訪ねてきたわけである。志垣氏の書いたニコライ・キンは間違い。ロマン・キム(Roman Kim)が正しいのである。
 (中略)
 原さんは前記の私の英訳本をキム氏に贈り、私の伝言をつたえてくれたのだが、するとキム氏は私あての長い手紙を原さんに托し、数日前、私はこれを受け取った。

 ロマン・キムからの手紙は、原久一郎氏の息子でロシア文学者の 原卓也 (1930-2004、日本語版Wikipedia)氏が訳し、全文が『宝石』1956年10月号に転載された。乱歩が8月末に返事を送ると、続いて第二信が届き、これも同じく原卓也氏の訳で、全文が『宝石』1957年1月号に転載されている。
 第三信は、乱歩が文通を始める以前の1955年ごろからすでにロマン・キムとの文通を開始していたロシア文学者の 木村浩 (1925-1992、日本語版Wikipedia)氏経由で届いた。これは木村氏が訳し、その大部分が『宝石』1957年8月号に転載されている。
 (その後については、未調査)

 これらの手紙でロマン・キムは、日本のミステリに関して驚くべき博識ぶりを示している。彼は乱歩の『幻影城』や『探偵小説三十年』を読んでおり、彼が当時企画していた日本の推理小説のアンソロジーでは、収録予定の作家として乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、城昌幸のほか、当時まだ新人だった高木彬光や島田一男の名を挙げている。ロマン・キムは小学校・中学校時代に日本に留学した経験があり日本語が読めたため、多数の日本の推理小説を収集し、原文で読んでいたのである。乱歩はロマン・キムの求めに応じて、少なくとも自著の『猟奇の果』や『プロメテ』1947年1月号(推理小説特輯号)、雑誌『密室』、雑誌『黄色い部屋』を送っている。ほかにロマン・キムは手紙の中で、乱歩の『黄金仮面』『十字路』、木々高太郎『美の悲劇』(※未完)、坂口安吾『不連続殺人事件』、中島河太郎『探偵小説事典』などをもしできれば送ってほしいと乱歩に頼んでいるので、これらもおそらく送っているだろう。
 ロマン・キムは手紙の中で、推理小説に対する自分の立場を以下のように表明している。「私は文学的本格派(つまり探偵小説の興味を保持しながら、出来るだけ文学的にする)の道こそ探偵小説の本道であるという点で、先生と同意見です。先生は「幻影城」やその他の著書、論文の中で、探偵文学がその文学的レベルを高め探偵小説の中にも充分性格が描き出された人物が登場し、背景や生活などが充分示されるべきことを強調しておられます。私も全く同意見です。」(第一信)

 ロマン・キムの手紙には、帝政ロシア末期以降のロシア・ソ連ミステリの歴史や、当時のソ連ミステリ界の最新状況、ソ連ミステリ界と中国ミステリ界の交流などの貴重な情報が詰まっているが、このページではロマン・キム本人についてまとめるにとどめ、ロマン・キムの手紙の内容については、別のページでまとめる。

ロマン・キムの生涯

 ロマン・キムについては、乱歩より先にロマン・キムとの文通を開始し、乱歩への第三信を訳した人物として上で名前を挙げたロシア文学者の木村浩氏による 「〈ある作家の肖像〉ソ連の推理作家 ロマン・キムの謎の部分 三つの祖国を持ち歴史に翻弄された男の一生」 (『文藝春秋』1984年1月号、pp.316-332)がおそらく日本語で読める最も詳しい評伝である。木村浩氏は1955年頃にロマン・キムと文通を開始し、1958年以降、何度かモスクワのロマン・キム邸を訪れている。ロマン・キムの晩年まで付き合いがあった木村浩氏が、彼の口から直接聞いた証言に加え、さらに詳細な調査を行って執筆したもので、今後もこれ以上の評伝はなかなか現れないだろう。


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生い立ち~日本留学時代

 それによれば、 ロマン・ニコラエヴィチ・キム は1899年7月20日(新暦8月1日)にロシアのウラジオストックで生まれた。両親は朝鮮人であったが、反日派の政治家だった父が帝政ロシアに政治亡命しており、ロマン・キムはそこで生まれたのである。朝鮮名は金夔龍(きん きりゅう/キム ギリョン/김기룡)。母は北京のカトリック系女学院を卒業した才女で、フランス語が堪能だったという。1906年9月、ロマン・キムは日本の慶應の幼稚舎(=小学校)に入学する。これは「敵国日本」を知るためには日本の教育を知らなければならないという父の方針だった。預けられた先は、若き日の昭和天皇の教育係も受け持った杉浦重剛(すぎうら じゅうごう、1855-1924、日本語版Wikipedia)の家だった。最初は学校でいじめられることもあったが、ロシアの観光団が学校に見学にやって来たときにその通訳をやってみせて、株が急に上がったという。ほかに本人の証言によれば、『明星』の与謝野鉄幹のためにロシアのシンボリズムの詩を訳したこともあり、「金先生」と書いた礼状が届き、級友に自慢したという。1913年には、杉浦家の親戚の子供のない家庭に養子として迎えるという話も出たが、それを聞いた彼の父は彼をロシアに呼び戻している。退学時の慶応普通部(=中学校)の学籍簿では名前は「杉浦龍吉」となっているそうだ。(慶応の学籍簿では1913年に退学と記録されているそうだが、一方で、1917年にロシアに戻ったとの情報もあり、木村浩氏も、この辺りについては分からなかったとのこと)

 ロマン・キムの慶応時代の同級生に、志賀直哉の弟の 志賀直三 がいる。志賀直三は、自伝『阿呆伝』(新制社、1958年)でロマン・キムについて書いている(この本ではロマン・キムは「金基劉」と表記されている)。ただし、木村浩氏がほかの同級生からもさまざまな証言を集めたところ、『阿呆伝』にはかなりの誤りがあることが分かったそうだ。また、浮世絵研究家の高見澤忠雄も当時ロマン・キムと親しかったという。

ソ連での大学生~教員時代

 今まさに「帝政ロシア」から「ソビエト連邦」へと国が変わっていくただなかにロマン・キムは帰国した。ウラジオストック大学(極東連邦大学)東洋学部に入学し、1923年に卒業。このころには、のちに作家となるアレクサンドル・ファジェーエフ(1901—1956、ロシア語版Wikipedia)と交流があったそうだ。ロマン・キム本人によれば、ファジェーエフの長編『壊滅』(1927)の初版には「学生キムが黒板にストライキ万歳と書いた」という一節があり、これはロマン・キムのことだったが、この一節は後にロマン・キムとファジェーエフの仲が悪くなったため削られてしまったのだという。

 1920年(※「シベリア出兵」の時期)、ウラジオストック大学の学生だったロマン・キムは、沿海州電報通信社の特派員としてニコリスク市(現・ウスリースク市、ウラジオストックから北に約70km)で開かれた「ソビエト極東勤労民代表者大会」に参加するが、その帰路、外国およびロシアの記者団を乗せてウラジオストックに向かっていた列車が日本の憲兵に停止させられ、臨検が始まる。そこでロマン・キムは、憲兵に見咎められてしまう。
 彼らは、私の持っていた鞄の中に、外国の占領軍のことを悪く書いた私の手記やポスターなどを見つけました。憲兵将校は私を『不逞鮮人』として逮捕すると宣告しました。
 憲兵らは私の手を摑んで客車の出口の方へ引張っていこうとしました。すると、その瞬間でした。ひっそりとした車内の緊張――恐ろしき沈黙――を破って落ちついた声が聞えてきました。『これは私の秘書で日本人です。車内に置いといて下さい』この言葉の主はわたしがこの旅行のなかで知り合いになった、日本の新聞記者大竹博吉であったのです。

 この後、ロマン・キムはなんとか事なきを得るが、木村氏が聞いたところによれば、ロマン・キムと大竹博吉が知り合ったのは、このほんの一時間ほど前だったという。さて、ここで急に出てきた「大竹博吉」という名前に心当たりがある人はあまりいないだろうが、1920年代末から1930年代初めにかけて、ソ連の〈赤い探偵もの〉、『メス・メンド』や『技師ガーリン』を日本に翻訳紹介した広尾猛は、本名、大竹博吉(1890-1958、日本語版Wikipedia)。ここでロマン・キムの命の恩人となった人物と同一人物である。この後、ロマン・キムと大竹博吉(広尾猛)は、生涯にわたる特別な友となった(上に引用した文は、大竹博吉が亡くなったときにロマン・キムがモスクワから寄せた文章の一部、木村氏の記事より孫引き)。ロシア・東欧SFの翻訳で知られる深見弾(1936-1992、日本語版Wikipedia)氏は、大竹博吉の訳業について、「大衆文芸小説もしくは冒険推理小説の変型としてかれが日本へ紹介した作品は、ソ連では今日でも読まれている名作ばかりであることから考えても、その選択眼の確かさには驚かされる」(深見1978)と述べているが、そこにはロマン・キムの協力があったのかもしれない。

 ロマン・キムは1923年にウラジオストック大学を卒業し、1923年から1930年まではモスクワの大学で中国文学と日本文学を教えている。袋一平氏がロマン・キムと会ったのはこのころである。女優の岡田嘉子の本によれば、「なかなかのダンディで、ダンスがうまく、機智に富み、座談が巧みで、しかも流暢な日本語をしゃべるキムさんは、一時教鞭をとっていた外語大学の日本語科に学ぶ女子学生の間で、ものすごい人気だったと聞きました」とのこと(岡田嘉子『心に残る人びと』(早川書房、1983年)、木村氏の記事より孫引き)。

1930年~1947年の「謎」

 さて、1930年から1947年までのロマン・キムについては、木村氏のことばを借りれば、「謎にみちみちている」。この時期のことについてはロマン・キム本人はあまり語らなかったが、木村氏が見聞したところによれば、どうやらKGB(カー・ゲー・ベー/ソ連国家保安委員会)の前身の組織のNKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー/内務人民委員部)に所属し、スペイン内戦(1936-1939)に参加したりしていたらしい。スペイン内戦の時の友人として、ロマン・キムは作家のレフ・スラーヴィン(Лев Исаевич Славин、1896-1984、ロシア語版Wikipedia)とサーヴィチ(Овадий Герцович Савич、1896-1967、ロシア語版Wikipedia)の名を挙げ、実際にこの2人を自宅に招き、木村氏に紹介している。

 ソ連のスペイン内戦への介入は失敗し、スペイン内戦に参加した人々の中には粛清に倒れた人もいた。木村氏が見聞したところによれば、ロマン・キムはスペイン内戦後、スターリン時代の収容所でも特に苛酷だったことで知られるコルイマ収容所に収容されていたらしい。第二次世界大戦ではベルリン戦線に参加したとロマン・キム本人が木村氏に語っており、木村氏は、収容所からの出征でベルリンに行ったのだろうと推測している(収容所から前線へいくことを志願して許可されるケースは実際にあったとのこと)。

 一方で、ロシア語版Wikipediaのロマン・キムの記事をロシア語→英語(ロシア語→日本語よりは幾分かましだろう)の機械翻訳で読むというはなはだ不確かな方法によると、ロマン・キムは1930年にソ連の対外諜報機関に入り日本で活動したが、1937年に日本のスパイだとして捕まり、その後は逮捕されたまま翻訳者・通訳者として従事し、1946年に釈放されたのだという。少なくとも、スペイン内戦に参加したというのは、木村氏がロマン・キム本人の口から聞いていることなので間違いないのだと思うが、この辺りについてはより新しい文献などで確認した方がいいかもしれない。

作家としての活動

 その後の経緯は分からないが、戦後になってロマン・キムは、本格的に作家としての道を歩み始める。その主な著作は、先にページ上部で示した。当時のソ連では、推理小説、探検小説、SF小説を総称して冒険小説と呼んでおり、ロマン・キムも冒険小説作家と認識されていたようである。ロマン・キムが『切腹した参謀達は生きている』を発表した1951年には、一般の犯罪を描いた推理小説の執筆は許されておらず、このころに書くことができたのは国家的な犯罪・謀略を描くスパイ小説だけだった。ロマン・キムが当時のソ連の唯一の推理作家だなどと書かれている場合があるが、まったくそんなことはなく、1951年当時にスパイ小説を書いていた作家はほかにレフ・シェイニンやニコライ・トマンらがいる。スターリンの死後の1956年ごろからは、一般の犯罪を描く推理小説も発表できるようになったが、以降もロマン・キムは、日本語の文献からわかる限りでは、国際謀略小説を書き続けていたようである。
 ほかに文学とのかかわりでは、若い頃に芥川龍之介の「藪の中」のロシア語訳をしたこともあり、晩年には志賀直哉の短編を訳したがっていたという。これは病気のため実現しなかった。

 戦後はモスクワに、ポーランド系のリューバ夫人とともに暮らした。非常に社交的な人物だったようで、モスクワを訪れた日本人で、ロマン・キムの世話にならなかった人はいないぐらいだと言われている。日本人とは日本語で歓談したが、その日本語は慶応調の綺麗な日本語だったという。また一方で、ロシア語に関しても、作家仲間でも評判の美しさだったという。
 ソ連作家同盟国際局幹部、日ソ協会幹部などを務め、年鑑アンソロジー『冒険の世界』(推理、探検、SF)の編集委員のひとりにもなっている。また作家グループの一員として、中国の北京や上海を訪れ中国の推理作家と交流したり、東西ヨーロッパやアメリカをまわったりしたこともあったそうだ。当時のソ連の作家がこんなにも国外の作家との交流が活発だったとは意外である。ほかにエジプトやエチオピアなども訪れており、アフリカを舞台にした作品も執筆している。しかし、日本を再訪できる日はついに訪れなかった。1958年には、慶應義塾百年祭に招かれているが、このときも仕事関係の旅行でヨーロッパをまわっており、来日は叶わなかった。

 1966年秋、木村氏が作家の安部公房を伴ってロマン・キム邸を訪れると、胃潰瘍の手術の後だったロマン・キムは体調が思わしくなく、寝そべったままで話をしたという。その約8か月後の1967年5月14日、モスクワの自宅で息を引き取った。享年67歳。その数日前、ある特派員夫人の好意で50年ぶりに日本の味付けの蒲焼きを食べ、涙していたという。

ソ連の文学、SFの邦訳への協力

 邦訳された作品はスパイ小説1作品に過ぎず、ロマン・キムの名が日本の文学史上で取り上げられることはないが、日本でのロシア文学の紹介に関して、見えないところで大いに貢献している。
 たとえば、スペイン内戦について多くのページを割いているイリヤ・エレンブルグ(1891-1967、日本語版Wikipedia)の回想録『わが回想 ――人間・歳月・生活』を木村氏が翻訳するときは、ロマン・キムはエレンブルグのところを再三訪れて木村氏のために資料を入手したりしている。また、木村浩氏がソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』(→Amazon(新潮文庫版))を翻訳する際には、自身の収容所での経験をもとにしたものか、ソ連の収容所の俗語リストとその詳しい注釈をつけた分厚い資料を作成し、翻訳を助けた。

 1930年前後にソ連の空想科学探偵小説を翻訳した広尾猛(大竹博吉)との関係はすでに述べたとおりだが、ほかにも袋一平(1965)によれば、ロマン・キムは1965年当時は日本の『S-Fマガジン』を毎月入手しており、袋一平氏にお薦めのソ連SF作家を教えたり、ソ連のSFアンソロジーの原書を送ったりしている。袋氏は1960年代に、ソ連SFの翻訳で有名な深見弾氏に先駆けてソ連のSFを日本に紹介しているが、ここにもロマン・キムの協力があったと思われる。

 しかし一方で、ロマン・キムが乱歩への手紙で紹介したソ連の推理小説は、現在にいたるまでまったく邦訳が出ていない。アルカージイ・アダモフの『雑色事件』などは木村浩氏が翻訳するという話も乱歩への手紙の中で出ているが、結局訳されなかった。この作品は、中国では1998年に、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティ、夏樹静子、松本清張、森村誠一らの作品と並んで、第1回北京偵探推理文芸協会賞を受賞したソ連を代表する推理小説である。翻訳が実現しなかったことが悔やまれる。

ロマン・キム企画の雑誌・アンソロジーは実現したか

袋一平「ソヴエト推理小説の動向」(『探偵倶楽部』1955年10月号)
ソヴエトでも近来は科学空想小説、冒険小説、そして推理小説が非常に盛んになってきました。ジュール・ヴェルヌやコナン・ドイル、ジャック・ロンドンやアラン・ポーなどはいわゆるベストセラーの中にはいっております。またモスクワでは作家ロマン・キム氏などを中心として推理・探偵もの専門の雑誌を発行する、というような計画も聞いています。ソ連としては真に破天荒な話といわなければなりません。

キム第一信(『宝石』1956年10月号)
現在私は探偵文学史の仕事を準備中ですが、そのあとで、イギリス、アメリカ、フランスの作家たちの優れた作品を翻訳したいと思っております。またこの全集には江戸川乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、島田一男、高木彬光、城昌幸その他の人々の作品をも収録したい考えです。

キム第三信(『宝石』1957年8月号)
唯今、小生はまず最初に欧米作家の、次に日本作家の、短篇探偵小説傑作集を出すはこびになったと申上げていいと思います。最初の集は「若き親衛隊」社から出版される予定です。この選集の編集は小生に一任されており、小生は一連の信頼すべき翻訳家たちに仕事をしてもらっています。(中略)そして、この仕事と並んで、日本のすぐれた短篇探偵小説選集を編むというプランが生れたのです。この選集のなかへどんな作品を加えたらいいか、先生からご忠言をいただければ幸甚に存じます。先生の作品からは「ザクロ」「二銭銅貨」「二廃人」をいれたいと考えています。ただ今のところこの選集がどのくらいの規模のものになるかは分っておりません。つまり、まだ企画中というわけですが、しかし、小生は何としても日本の探偵作家のすぐれた作品をソヴェトの読者に紹介したいと考えております。この点について、先生から翻訳をすいせんされる作品のリストをお送りいただければ幸いです。

 1962年の段階で、「推理・探偵もの専門の雑誌」はまだ実現していないが、欧米の推理作家のアンソロジーについては実現している。

佐々木千世(1962b)
氏【=ロマン・キム】の探偵小説に注ぐ熱情はたいへんなもので、数年来、ミステリーの月刊誌の発行を計画している。ただこれがまったく新しい企てだけに、《雪どけ》模様のソ連文壇でもさすがに慎重で、微妙な政策変更のニュアンスに左右されているという現状らしい。(改段落)雑誌発行の宿願は果たせぬながらそのかたきというわけでもなかろうが、彼が積極的に乗り出し、編集に当たったミステリーの翻訳がようやく日の目を見た。――「欧米探偵小説傑作集」がそれで、なかなか評判だったらしい。

 『ミステリマガジン』1991年12月号の深見弾「ソビエト・ミステリ界の現状」によれば、ソ連最初のミステリ専門誌は、ロシア共和国推理作家同盟の総裁だったアナトーリィ・ベズーグロフが編集長を務めた1991年頃創刊の『インターポール・モスクワ』なので、ロマン・キムが計画していたミステリ専門誌は実現しなかったようである。
 日本の推理作家のアンソロジーが実現したかどうかは、現時点では確認できていない。

  • 朝鮮名の漢字表記について
    • 文藝春秋の記事では「金虁龍」となっているが、韓国では冠が「北」になっている「虁」よりも草冠の「夔」を使うのが普通なので、ここでは草冠の「金夔龍」を採用しておく。

参考文献

ロマン・キムおよびその作品についての文献
  • 袋一平(1965)「キムさんとSF」(『S-Fマガジン』1965年1月号)p.75
  • 秘密兵器(1976)「時標 政治 "切腹した参謀達は生きている"」(『新日本文学』1976年5月号)pp.9-10
  • 津村喬(1976)「ロマン・キム『順川で見つけた手帖』を読みかえす ――朝鮮戦争二六周年に」(『新日本文学』1976年7月号)pp.46-55
  • 木村浩(1984)「〈ある作家の肖像〉ソ連の推理作家 ロマン・キムの謎の部分 三つの祖国を持ち歴史に翻弄された男の一生」(『文藝春秋』1984年1月号)pp.316-332

ロマン・キムに言及している文献
  • 袋一平(1955a)「ソヴエト推理小説の動向」(『探偵倶楽部』1955年10月号)p.271
  • 江戸川乱歩(1956)「探偵小説の世界的交歓 チェーホフの長篇探偵(?)小説」(『宝石』1956年10月号)pp.68-77 - ロマン・キムからの第一信の全文が転載されている(原卓也訳)
  • 江戸川乱歩(1957)「ソ連と中共の近況 ――ロマン・キム氏から第二信――」(『宝石』1957年1月号)pp.137-140 - ロマン・キムからの第二信の全文が転載されている(原卓也訳)
  • 江戸川乱歩(1957)「海外近事 ――アメリカ、ソ連、オランダ――」(『宝石』1957年8月号)pp.238-243 - ロマン・キムからの第三信の大部分が転載されている(木村浩訳)
  • 黒田辰男(1960)「ソヴェトの推理・科学小説 善人・英雄など肯定的人物を描く」(『日本読書新聞』1960年11月28日、6面)
  • 佐々木千世(1962a)「ソ連の推理作家 上 数奇な半生のロマン・キム氏」(『東京新聞』1962年1月13日夕刊、8面)
  • 佐々木千世(1962b)「ソ連の推理作家 下 読者の要望に応じたスパイ物」(『東京新聞』1962年1月14日夕刊、8面)
  • 飯田規和(1965a)「ソ連の探偵小説」(『EQMM』1965年4月号)pp.70-72
  • 飯田規和(1965b)「ソ連の探偵小説と『ペトロフカ、38』」(ユリアン・セミョーノフ『ペトロフカ、38』(早川書房、1965年)巻末、pp.251-258) 上の文献とほぼ同じ

その他
  • 深見弾(1978)「ロシヤ・ソビエトSFはこんなに訳されている(戦前)」(ナウカ株式会社『窓』1978年3月号(24号)、pp.40-47)
  • 深見弾(1991)「ソビエト・ミステリ界の現状」(『ミステリマガジン』1991年12月号)pp.50-52
  • 曹正文(そう せいぶん)『世界偵探小説史略』(1998)第十四章 前苏联与东欧的侦探小说 (旧ソ連と東欧の探偵小説) 第一节 前苏联侦探小说的形成与特点 (旧ソ連探偵小説の形成と特徴)

また、以下の書籍の「訳者あとがき」類を参考にした。
  • ロマン・キム『切腹した参謀たちは生きている』(長谷川蟻訳、晩聲社、1976年)

 Wikipediaの記事にリンクを貼った箇所が複数あるが、Wikipediaの記事は、ロマン・キムの経歴がWikipediaでどう書かれているかを説明した箇所以外では、情報源として使用していない(ただし、主要人物以外の生没年に関しては、Wikipediaの記載を検証せずにそのまま書いている場合がある)。

リンク

 木村浩(1984)「〈ある作家の肖像〉ソ連の推理作家 ロマン・キムの謎の部分 三つの祖国を持ち歴史に翻弄された男の一生」(『文藝春秋』1984年1月号)を韓国語で要約した記事を見つけたので、韓国語がわかる方はこちらをどうぞ。