2011年4月30日
最近、日本で北欧ミステリが注目を集めている。その一番の要因としては、スウェーデンの作家であるスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』(1~3、各上下巻、早川書房)が2008年末から2009年にかけて日本のミステリ界を席巻したことが挙げられるだろう。『ミステリマガジン』2010年11月号では北欧ミステリの特集が組まれ、今年に入って以降も、4月にハヤカワ・ポケット・ミステリからスウェーデンの作家ヨハン・テオリンの『黄昏に眠る秋』が出て話題になっているのみならず、5月にはノルウェーの作家カリン・フォッスムの『湖のほとりで』の刊行が予定されており、また年内にはアイスランドの作家アーナルデュル・インドリダソンの長編2作品の東京創元社からの刊行も予定されている(※2012年に延期)。
このページでは、逆に北欧では日本のミステリがどれほど読まれているのかを知るため、国際交流基金が作成している「
日本文学翻訳書誌検索」を基礎資料として、それに独自に調査した分を加え、北欧諸言語に翻訳された日本のミステリをまとめている。なお、国際連合の区分では、バルト海を挟んでスウェーデン・フィンランドの対岸にあるバルト三国、すなわちエストニア、ラトビア、リトアニアも北欧5カ国とともに「北ヨーロッパ」に分類しており、また言語系統的にも北欧5カ国の一部とバルト三国の一部は関係があるため、このページではバルト三国での翻訳状況も一緒に扱うことにする。
北欧およびバルト三国の言語について
北欧に「ガラスの鍵賞」というミステリの賞がある。これは、北欧5カ国、すなわち、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランドの5カ国で1年間に発表されたミステリの中で、最優秀ミステリを決定しこれを表彰する賞である。この5カ国ではどの国でも国名に「 - 語」を付けた言語が使われていて、つまりこの賞は言語の壁を越え、5つの異なる言語で書かれたミステリから最優秀作を選ぶという、非常に手間のかかっていそうな賞なのである。
『ミステリマガジン』2009年10月号でミステリ評論家の松坂健氏は、「仮にアジアでこのようなミステリ大賞をつくって、日本、韓国、台湾、中国などとミステリ作品を競わせることができるだろうかと考えると、難しいだろうなあと思う」と述べているが、これは確かにそうだろう。北欧5カ国でこのような賞が可能になっているのは、その言語の近さによるものだと思われる。北欧5カ国の言語は、まったく言語系統の異なるフィンランド語を除けば、どの言語も北方ゲルマン語群(英語やドイツ語の親戚)に属し、「知識人であればどの北欧語も読めるというほど互いに似通っている」のである。なかでもノルウェー語話者は、特に訓練をしなくても、「スウェーデン人とデンマーク人の間では両者の仲介が出来、アイスランド人の発言の通訳が出来る」のだという。また、唯一系統の異なる言語を使用しているフィンランドでも、フィンランド語とともにスウェーデン語が公用語となっており、国民の94%を占めるフィンランド語母語話者の中にはスウェーデン語を理解できる人も多いという。東アジアの日本、韓国、台湾、中国は同じ漢字文化圏に属するとはいえ、言語は日本語・韓国語・中国語でまったく異なっており、翻訳の手間だけを考えても、北欧の「ガラスの鍵賞」と同じような賞の実現は難しいと言わざるを得ないだろう。
北欧5カ国の言語の中で唯一系統の異なるフィンランド語は、バルト三国のうちのエストニアの公用語であるエストニア語と非常に近い関係にある言語で、「相互理解も困難ではない」という。ただし、バルト三国の言語の中でフィンランド語に近い関係にあるのはエストニア語だけで、ラトビア語とリトアニア語は、北欧5カ国の言語やエストニア語とは異なる別系統の言語である。(言語に関する引用箇所は『世界のことば』(朝日選書、1991年)より)
Index
以下、ISBNをクリックすると、現地のネット書店等の該当ページが開くようになっている。
「★追加」と注記した書籍は、国際交流基金のデータに掲載されていないものである。
アイスランド (Iceland)
アイスランド語:母語話者数 約32万人(北欧5カ国およびバルト三国の中で最少)
桐野夏生 (Natsuo Kirino)
アイスランド語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、イルサ・シグルザルドッティル『魔女遊戯』(集英社文庫、2011年)、アーナルデュル・インドリダソン『湿地』(東京創元社、2012年6月)、『緑衣の女』(仮題/東京創元社から出版予定)などがある。
ノルウェー (Norway)
ノルウェー語:母語話者数 約500万人
桐野夏生 (Natsuo Kirino)
- 翻訳者のIka Kaminka氏は、ほかに村上春樹や夏目漱石、パトリシア・ハイスミスのノルウェー語訳を手掛けている。(日本の作品は、英語からの重訳だろうか?)
高見広春 (Koushun Takami)
- 翻訳者のYngve Johan Larsen氏は、ほかに村上春樹の翻訳などを手掛けている。
戸川昌子 (Masako Togawa)
ノルウェー語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、ベルンハルト・ボルゲ『夜の人』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、アンネ・ホルト『女神の沈黙』、『土曜日の殺人者』、『悪魔の死』(集英社文庫、1997-1999年)、トム・エーゲラン『狼の夜』(扶桑社ミステリー、2008年)、ジョー・ネスボ『コマドリの賭け』(ランダムハウス講談社文庫、2009年)、カリン・フォッスム『湖のほとりで』(PHP文芸文庫、2011年5月)などがある。
スウェーデン (Sweden)
スウェーデン語:母語話者数 約1000万人(北欧5カ国およびバルト三国の中で最多)
桐野夏生 (Natsuo Kirino)
- 翻訳者のLars Vargö氏は、ほかに夏目漱石や安部公房の翻訳を手掛けている。
戸川昌子 (Masako Togawa)
- 英語からの重訳。翻訳者はÖjevind Lång氏。
ほかの北欧の国々と比べると、スウェーデンのミステリの邦訳は以前からそれなりになされており、古くは『新青年』にS・A・ドゥーゼやフランク・ヘラーの作品が邦訳されていた。1970年代から80年代にかけては、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーのマルティン・ベックシリーズ全10作(角川書店)や、ヤーン・エクストレム『誕生パーティの17人』(創元推理文庫、1987年)が注目を集め、その後もヤン・ギルー(1995年)、シャスティン・エークマン(1998年)の邦訳が刊行されている。21世紀に入ってからは、2001年にヘニング・マンケルのミステリ作品が刊行されたのに続いて、リサ・マークルンド(2002年)、ホーカン・ネッセル(2003年)、カーリン・アルヴテーゲン(2004年)、アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム(2007年)、オーサ・ラーソン(2008年)、スティーグ・ラーソン(2008年)、カミラ・レックバリ(2009年)、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト(2009年)、ラーシュ・ケプレル(2010年)、ヨハン・テオリン(2011年)と、次々に新たな作家の邦訳が続いており、日本ではスウェーデンは、英米やフランスに次ぐミステリ大国として認知されているといっていいだろう。
デンマーク (Denmark)
デンマーク語:母語話者数 約600万人
桐野夏生 (Natsuo Kirino)
鈴木光司 (Koji Suzuki)
戸川昌子 (Masako Togawa)
宮部みゆき (Miyuki Miyabe)
- 題名から判断して、英訳版『Shadow Family』からの重訳だろう。
デンマーク語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、アーナス・ボーデルセン『轢き逃げ人生』、『罪人は眠れない』、『殺人にいたる病』、『蒼い迷宮』、アイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)『復讐には天使の優しさを』、ペーター・ホゥ『スミラの雪の感覚』(新潮社、1996年)、『ボーダーライナーズ』(求龍堂、2002年)などがある。
フィンランド (Finland)
フィンランド語:母語話者数 約600万人
高木彬光 (Akimitsu Takagi)
- 翻訳者はMarjukka Iizuka氏。名字から判断して、日系の人が日本語から訳したのかなと思ったが、WorldCatによれば英語からの重訳だそうだ。
松本清張 (Seicho Matsumoto)
- 翻訳者はKristiina Kivivuori氏。
フィンランド語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、マウリ・サリオラ『ヘルシンキ事件』(TBS出版会、1979年)、ペンッティ・キルスティラ『過去よさらば』(新樹社、2000年)などがある。
――北欧5カ国まとめ――
フィンランドを除く4カ国
- 桐野夏生『OUT』が4カ国すべてで翻訳されているのは、やはりエドガー賞の候補になったというのが大きいのだろう。またアイスランドを除く3カ国では、戸川昌子『猟人日記』が翻訳されている。戸川昌子は、ジュリアン・シモンズの推理小説研究書『ブラッディ・マーダー』でも取り上げられており、欧米ではある程度知名度があるようだ。あとは宮部みゆきの作品がデンマークで刊行されているぐらいで、有名どころの江戸川乱歩、松本清張、夏樹静子の本が出ていないか各地のネット書店等で検索してみたが見つからなかった。広義のミステリまで目を配ると、ノルウェーで高見広春『バトル・ロワイアル』、デンマークで鈴木光司の『リング』、『らせん』が訳されている。
フィンランド
- 言語系統が違うことが影響しているのか、翻訳されている作品もほかの4カ国とは異なっている。北欧5カ国およびバルト三国の8カ国の中で、唯一、高木彬光の作品が刊行されている。
上では単行本として刊行されたもののみまとめたが、短編では、スウェーデンの雑誌『CDM』(Short Stories of Crime, Detection & Mystery)に宮部みゆき「うそつき喇叭」が掲載されている(情報源:『ミステリマガジン』2009年1月号、p.37)。また、国際交流基金のデータによると、ノルウェーのHalldis Moren Vesaas氏(
英語版Wikipedia)が1988年に岡本綺堂の「平家蟹」(
青空文庫)を翻訳している(ノルウェー語タイトル: Heike krabbane )。
ほかに、小松左京『日本沈没』(日本推理作家協会賞受賞作)のスウェーデン語訳(Japan sjunker、1980年刊行)もある。
(フィンランドでは、国民の6%が母語とするスウェーデン語も公用語になっている)
(母語話者数は、国外居住者も含む)
バルト三国のミステリ
国名 |
人口 |
公用語とその母語話者の数 |
エストニア |
134万人 |
エストニア語(105万人) |
ラトビア |
223万人 |
ラトビア語(150万人) |
リトアニア |
325万人 |
リトアニア語(400万人) |
(比較:横浜市の人口が約370万人)
(母語話者数は、国外居住者も含む)
バルト三国のミステリについて書かれている日本語の文献は今までに見かけたことがない。乱歩が世界のミステリについて手紙のやり取りをして苦労して情報を集めた時代とは異なり、現代ではインターネットという便利なものがある。
Google翻訳を使いつつWikipediaの記事を辿っていくと、以下の記事が見つかった。北から順に並べる。
- エストニア語版Wikipedia
- ラトビア語版Wikipedia
- リトアニア語版Wikipedia
エストニア (Estonia)
エストニア語:母語話者数 約105万人
松本清張 (Seisho Matsumoto)
Mäng sõiduplaaniga / 『点と線』
ISBN不明 (1974年版)
- 1974年?(国際交流基金のデータでは1972年)、エストニアの出版社「Eesti Raamat」から刊行。翻訳者はAgu Sisask氏。
- エストニアでの刊行が確認できる日本のミステリはこの一作のみ。エストニアでの刊行とほぼ同じ時期に、フィンランドでも『点と線』が刊行されている。フィンランド語とエストニア語が非常に近い言語であることが関係しているのだろうか。
ほかに、国際交流基金のデータによれば、1962年に江戸川乱歩の短編「人間椅子」が翻訳されているとのこと(エストニア語タイトル: Inimtooi )。
ラトビア (Latvia)
ラトビア語:母語話者数 約150万人
国際交流基金のデータでは翻訳なし(ミステリに限らず、ラトビア語への翻訳のデータが1件もない)。上で示したように、日本のミステリのデンマーク語への翻訳については、国際交流基金のデータではゼロだったが実際には翻訳があったので、ラトビア語訳も実際には刊行されているかもしれない。
リトアニア (Lithuania)
リトアニア語:母語話者数 約400万人
小林久三 (Kyuzo Kobayashi)
Rugpjūtis be imperatoriaus / 『皇帝のいない八月』
ISBN不明 (1984年)
- 1984年、リトアニアの出版社「Mintis」から刊行。翻訳者は(国際交流基金の記述では)Damute Skuoziuniene氏(正しくは Danutė Skuodžiūnienė か?)。
- 英訳やフランス語訳、ドイツ語訳も出ていない作品が突如出てきたが、この作品はロシア語訳が出ているので、おそらくロシア語からの重訳だろう(翻訳者の名前 Danutė Skuodžiūnienė で検索すると、ロシア語からリトアニア語への翻訳者であったことが推察できる)。表紙に書かれた作者名は「K. Kobajasis」となっている。
鈴木光司 (Koji Suzuki)
松本清張 (Seisho Matsumoto)
- 1969年、リトアニアの出版社「Vaga」から刊行。翻訳者はJuozas Vaišnoras氏。
- 松本清張の作品の中で、なぜ英訳もフランス語訳もドイツ語訳も出ていないこの作品が?と思ってしまうが、この作品もロシア語訳が出ているので、その重訳だろう。なお、リトアニア語では清張の名前は「Seitė Macumotas」と書くようだ。発音は「セイチョー・マツモタス」でいいんだろうか。
森村誠一 (Seiichi Morimura)
Mirties konteineriai/ 『死の器』
ISBN不明 (1986年)
- 1986年、リトアニアの出版社「Mintis」から刊行。翻訳者はStanislovas Nekrašius氏。国際交流基金のデータではタイトルの綴りに誤りがある。表紙に書かれた作者名は「S. Morimūra」。
- 国際交流基金のデータでは原題が書かれていないが、1986年以前にロシアで刊行された森村誠一作品を探したところ『Контейнеры смерти』(死の器)が見つかったので、リトアニア語版のタイトルからみても、これの翻訳と見て間違いないだろう。
参考文献
- 北欧5カ国のミステリについて:『ハヤカワミステリマガジン』2010年11月号【特集 北欧ミステリに注目!】(早川書房、2010年9月)(小山正「北欧ミステリ徒然草」、およびその他の北欧ミステリ特集記事)
- 北欧5カ国およびバルト三国の言語について:『世界のことば』(朝日選書、1991年)(池上佳助「アイスランド語」、大島美穂「ノルウェー語」、本間晴樹「スウェーデン語」、村井誠人「デンマーク語」、百瀬宏「フィンランド語」、松村一登「エストニア語」、志摩園子「ラトビア語」、村田郁夫「リトアニア語」)
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最終更新:2011年04月30日 22:15