東アジアミステリの源流

2011年2月21日

※未完成

 このページでは、欧米ミステリが伝来する以前の東アジアミステリの源流について紹介している。これらは現在の意味での「ミステリ」と必ずしも同じものではなく、やはり現在のミステリは欧米ミステリ(及びその伝来)に始まると言って差し支えないが、中国や日本、そして韓国などが欧米からミステリを受け入れる時の基層になったものなので、東アジアのミステリ史を語る際にまったく触れないわけにはいかないだろう。

 以下はもともと、「中国ミステリ史」を完成させた後に「韓国ミステリ史 前編」の一部として書いたものだが、予想以上に書くことが多くなってしまったためページを独立させた。「中国ミステリ史」と「韓国ミステリ史」両方の第零章にあたる。

目次

第零章 東アジアミステリの源流

第一節 中国の裁判物語とその日本への影響/中国の裁判エピソード集『棠陰比事』(とういんひじ)と日本の「三比事」

 「中国ミステリ史」は、中国ミステリの歴史を欧米探偵小説の受容の時点から紹介したものなのでほとんど触れていないが、韓国を含む東アジアの漢字文化圏のミステリの歴史を語るには、中国の裁判物語(裁判小説、法廷ミステリ)にやはり触れる必要がある。

 まず、中国の裁判物語と日本文学との関わりを見ていく。江戸川乱歩によれば、中国の裁判物語のうち、最初に日本で翻訳出版されたのは1649年の『棠陰比事物語』(とういん ひじ ものがたり)である。これは中国の宋の時代(960 - 1279)に成立した裁判エピソード集『棠陰比事』(とういん ひじ)(桂万栄(けい ばんえい)編、1207年)を翻訳したもので、「棠陰」は「裁判所」という意味、「比事」は「事件・案件を比べる」という意味なので、タイトルを分かりやすく和訳すれば『名裁判くらべ』となる。似通った2つの事件を一対として、七十二対、計144のエピソードが収録されていることからこのタイトルがつけられている。収録されているエピソードはすべて実話とされている。
 この邦訳は圧倒的な人気を博し、その後日本では、井原西鶴が1689年に『本朝桜陰比事』(ほんちょう おういん ひじ)を刊行。日本初の創作探偵小説とされる黒岩涙香「無惨」の発表のちょうど200年前、有栖川有栖や北村薫のデビューのちょうど300年前のことである。さらにその後、月尋堂(げつじんどう)の『鎌倉比事』(けんそう ひじ)(1708年)、作者不明の『本朝藤陰比事』(ほんちょう とういん ひじ)(1709年)などが出ている。推理小説家・研究家の小酒井不木が推理小説の日本における源流を探求した『犯罪文学研究』では、この「桜陰」、「鎌倉」、「藤陰」(桃陰)を合わせて「三比事」と呼んでいる。

(「棠」(とう)は"梨の木"であり、「棠陰」(とういん)は"梨の木のこかげ"転じて「裁判所」という意味。井原西鶴の『本朝桜陰比事』は、「梨」を日本風の「桜」にしたタイトル)

 宋の時代の『棠陰比事』ののち、中国の明の時代(1368 - 1644)には、その流れをくむ「包公案(ほう こうあん)/バオ公案」(別名:龍図公案(りゅうと こうあん))などの裁判物語があり、公案もの公案小説などと呼ばれる。「公案」は「裁判で扱う事件、案件」という意味である。その後、清の時代(1636 - 1912)の18世紀末には、中国初の長編探偵小説「施公案(し こうあん)/シー公案」が書かれている。また、正確な年代は不明だが、推理作家のロバート・ファン・ヒューリックが自身のミステリ小説の原型として利用したことで知られる「狄公案(てきこうあん)/ディー公案」もこのころに成立している。
 バオ公案の包拯(ほうじょう/バオ ジョン、999 - 1062、Wikipedia)や、ディー公案の狄仁傑(てき じんけつ/ディー レンチエ、通称「ディー判事」、630 - 700、Wikipedia)は実在の人物である。シー公案の裁判官役の施仕綸(し しりん/シー シールン)がどういった人物なのかはよく分からない。

  • 中国探偵小説史の時代区分(中国文学者の辛島驍(からしま たけし)氏の座談会での発言をまとめた)
    • 第一期 唐末(9世紀) 犯罪を主題にした小説や暗号が出てくる小説などが初めて登場。
    • 第二期 宋の時代 裁判エピソード集『棠陰比事』成立。密室物もある。探偵として奉行所の同心・冉貴(ぜんき)が活躍するものは本格的な探偵小説として通用するという。
    • 第三期 元の時代 劇文学でたくさんの裁判物。包拯(ほう じょう)、王修然(おう しゅうぜん)、張鼎(ちょう てい)のそれぞれを主人公とする三系統がある。包拯は人情に重きを置き、張鼎は知的な捜査を行うという。
    • 第四期 明の時代 『棠陰比事』の流れをくむ公案小説が大量に出てくる。裁判の参考書でもあり、読みものでもある。
    • 第五期 明末(17世紀) 短編の通俗小説が多く書かれ、その中に犯罪小説も見出される。この時期まではすべて短編。
    • 第六期 清朝の中ごろ(18世紀末) 最初の長編探偵小説『施公案』(折り畳み式長編、螺旋階段式長編)や『于公案』(長編)など。1つの事件が解決しないうちに次の事件が起き、エピソードが200回、300回と重ねられていくタイプの長編。
    • 第七期 中華民国になる前後 西洋探偵小説の輸入時代。

(これ以降を付け加えるのならば、第八期=上海探偵小説の時代(中国ミステリ史 第一章)、第九期=反特小説の時代(第二章)、第十期=公安法制小説の時代(第三章)、第十一期=オンライン創作に端を発する多様化の時代(第四章・第五章)とまとめられるだろう)

 乱歩によれば、公案小説は本になった時代が新しいため日本への影響は少なく、「日本の裁判物語はほとんどことごとく宋時代の「棠陰比事」の模倣から出発しているといってよい」という。「棠陰比事」の影響下に生まれた「三比事」についてはすでに触れたが、中国の公案小説の影響を受けたものとしては、乱歩は、鎌倉時代の武士・青砥藤綱(あおと ふじつな)を裁判官役とする滝沢馬琴の『青砥藤綱摸稜案』(あおと ふじつな もりょうあん)(1811 - 1812)を挙げている。また、推理作家の北村薫が日本初の本格ミステリだとしている都賀庭鐘(つが ていしょう、1718 - 1794?、Wikipedia)の「白水翁(はくすいおう)売卜(まいぼく)直言(ちょくげん)()(しめ)(こと)」(『古今奇談 英草子』、1749年)は、バオ公案の翻案である。

 日本の町奉行・大岡忠相(おおおか ただすけ、通称「大岡越前」、1677 - 1752、Wikipedia)を名裁判官役とする大岡政談や、現在ではあまり有名ではないが大岡政談以前に成立していた板倉政要(板倉勝重と、その子である板倉重宗を裁判官役とする)などは、『棠陰比事』や公案小説の影響下に生まれたものである。
 また乱歩は、日本の捕物帳は、「中国の裁判ものと西洋のシャーロック・ホームズをまぜ合わしたものに日本独特の江戸の雰囲気を加味したもの」だとしている。

第二節 韓国への影響

 韓国もやはり、中国の裁判物語、特に公案小説の影響を受けている。その影響下に成立した物語は韓国では同じように「公案小説」(공안소설)と呼ばれるか、または「訟事小説」(しょうじ しょうせつ、송사소설)と呼ばれる。
 中国のバオ判事ディー判事、日本の大岡忠相に相当する韓国の人物は、パク・ムンス(朴文秀/박문수、1691 - 1756)である。パク・ムンスは暗行御史(あんぎょうおんし/アメンオサ/암행어사)という役職に就いていた実在の人物で、パク・ムンスを主人公にしたファンタジー漫画『新暗行御史』(しん あんぎょうおんし、全17巻)が小学館の漫画雑誌に2001年から2007年まで連載されていたので、名前を聞いたことがある人もいるだろう。彼を主人公とする物語は文献として伝わるものだけでなく、口承伝承としても全国に分布している。実話に基づく場合もフィクションの場合もある。19世紀末ごろには、パク・ムンスが活躍するエピソードを集めた編者未詳の『パク・ムンス伝』(朴文秀伝、박문수전)がまとめられている。韓国ではパク・ムンスの知名度は現在でも非常に高く、21世紀に入ってからもパク・ムンスを主人公にしたテレビドラマが制作されている。

 また、1906年に「ファソン新聞(화성신문)」に連載された『神断公案(신단공안)』は裁判の判例集のようなものだが、推理小説の要素をたくさん持っているという。

江戸川乱歩『子不語随筆』(講談社 江戸川乱歩推理文庫63、1988年)に収録の「欧亜二題」(朝鮮の探偵小説)より引用(初出:「読切小説集」1952年11月号(未確認))
 中国の「棠陰比事」の類の影響で書かれたものは丁茶山の「欽々新書」三十巻だと云う。著者の丁茶山若鋪は憲宗丙申年七十五歳で歿した人だが、博学好古の士で、官に登っては兵曹参議の職にもついた大の天主教徒であったために、康津の配所に流されその十九年間を著述に専念し、二百数十巻の書を残した。その一つである「欽々新書」は犯罪とその捜査に関する機知に富んだ多くの判例を集めたものだと云う。
 朝鮮の数百種にのぼる野史の類の集大成と見るべきものに「大東野乗」「燃藜記述」「三国遺事」などがあるが、そのうちの「大東野乗」の中に犯罪と捜査に関する実話物語が幾つか含まれている。例えば、「謏聞鎖録」【正しくは「謏聞瑣録」】「青坡劇談」「海東野言」「東閣雑記」「荷潭破寂録」などがそれで、いずれも今から二百乃至四五百年前の事実或いは伝説に属するものである。
 探偵小説ではないが、李朝世祖時代に、金時習が著した「金鰲新話」は、中国の「剪灯新話」を模倣した怪奇小説乃至怪談の書で、これが朝鮮の説話文学の嚆矢とされている。
 金君は朝鮮文学の専門家の意見も聞いて見たが、右のほかにはこの種の作品はないようだと云う。次に現代の朝鮮探偵小説については、金君は左のように書いている。
「結局一般読者が探偵小説を認識しはじめたのは、欧米からではなく、日本から輸入されたものにあったと思います。それには欧米のものの翻訳と創作とを含みますが、ポー、ルブラン、ドイル、ガボリオなどをはじめ、江戸川乱歩、森下雨村、水谷準、大下宇陀児、横溝正史、小酒井不木等の諸氏の作品が入って来ました。中にもルパン(ルブランではないのです)と、江戸川乱歩(明智小五郎ではないのです)と、ホームズ(ドイルではないのです)が大いに受けました。昔の黒岩涙香を知っていたのは私一人であったかも知れません」。
 そのあとに、金君は自分の諸作品について、詳しい報告をしているが、それは別の機会に、探偵雑誌に紹介したいと思っている。

第三節 読書案内

中国





  • 『棠陰比事』桂万栄(けい ばんえい)編、駒田信二訳(岩波文庫、1985年)
  • 『中国ミステリー探訪 ― 千年の事件簿から』井波律子(日本放送出版協会、2003年)
  • 『沙蘭の迷路』ロバート・ファン・ヒューリック、和爾桃子訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2009年)

 日本の裁判物語の原点とされる中国の裁判"実話"エピソード集『棠陰比事』(1207年)は、最初に日本語訳が出たのは1649年のことだったが、2011年現在も新たな日本語訳が岩波文庫で新刊で手に入る。法廷ショートショート(というと聞こえはいいが、そんなに大層なものではない)七十二対、計144編を収録。
 井波律子『中国ミステリー探訪』は、4世紀から20世紀初頭までの中国ミステリを紹介する本。「研究書」のような堅苦しいものではなく、欧米探偵小説伝来以前の中国ミステリ作品のあらすじを軽妙な語り口でたくさん紹介していて読み応えがある。2004年の第4回本格ミステリ大賞で評論・研究部門の候補にもなっている。(2011年現在、品切れ)
 『沙蘭の迷路』は、中国文学に造詣が深く日本語も堪能なオランダ人外交官ロバート・ファン・ヒューリックが、中国の『棠陰比事』や公案小説に題材を取って英語で執筆した小説の日本語訳。中国の公案小説「狄公案(てきこうあん)/ディー公案」の主人公である実在の人物・ディー判事を探偵役とするディー判事シリーズの1作目。なおこの作品にはヒューリック自身による中国語訳があるそうで、その語学力には驚かされる。

 ほかに、有坂正三氏が以下の3冊を刊行している(未見)。

 『『半七捕物帳』と中国ミステリー』は、岡本綺堂の半七捕物帳シリーズ(1917年~1937年)への中国ミステリの影響を論じたもの。上で述べたように、半七捕物帳などの日本の捕物帳は、「中国の裁判ものと西洋のシャーロック・ホームズをまぜ合わしたものに日本独特の江戸の雰囲気を加味したもの」(乱歩)と言えるが、この本はその内、中国の裁判ものとの関連を論じたものである。
 『包青天奇案』(ほうせいてん きあん)は、中国の公案小説「包公案(ほうこうあん)/バオ公案」のエピソードを紹介する本。『狄仁傑(てきじんけつ)の不思議な事件簿』は、中国の公案小説『狄公案(てきこうあん)/ディー公案』を三分の一程度に縮めて翻訳したもの。『ディー公案』はヒューリックによる英訳は刊行されているが、日本語の完訳は今のところ存在しない。
 なおこの3冊については、有坂氏がご自身のブログで内容紹介を書いているので、そちらも見ていただきたい(有坂正三の壺中天内、お知らせ)。有坂氏のブログには、ほかにもミステリに関する興味深い情報が多く掲載されている。
 ほかに以下のようなものもある。

  • 浪野徹訳『中国犯科帳』(平河出版社、1989年)、浪野徹訳『中国悪僧物語』(平河出版社、1990年)
    • 明代の『廉明公案』、『皇明諸司公案』、『律条公案』、『明鏡公安』から50余話を選び忠実に翻訳したもの。
  • 尾上八郎(尾上柴舟)訳『中国名裁判物語』(修文館、1952年)
    • 諸書から39話を選び紹介したもの。
  • 荘司格一『中国の名裁判』(高文堂出版社、1987年)
    • 30話あまりを紹介している。

 中国ミステリについては、ほかに大阪府立中央図書館が作成した特集ページ「中国ミステリーの世界」も参考になる。

日本




  • 『決定版 対訳西鶴全集 第11巻 本朝櫻陰比事』(明治書院、1993年) (未見)
  • 『日本推理小説の源流『本朝桜陰比事』』(上下巻)杉本好伸(清文堂出版、2009年6月) (未見)

 黒岩涙香の「無惨」のちょうど200年前、有栖川有栖や北村薫のデビューのちょうど300年前に刊行された井原西鶴の『本朝桜陰比事』(ほんちょう おういん ひじ)(1689年)は、『決定版 対訳西鶴全集 第11巻 本朝櫻陰比事』で読むことができる。この本には原文と口語訳が収録されている。中国の『棠陰比事』の影響下に生まれた裁判エピソード集(全44編)である。
 『日本推理小説の源流『本朝桜陰比事』』は、「西鶴を楽しむ」というシリーズの5巻と6巻。「日本推理小説の源流」という気になるタイトルが付けられているが、このページを作成するまでこのような本が出ていることに気づいていなかった。早急に読みたい。

 ほかに、以下のものも参考になる。

小酒井不木『犯罪文学研究』

日本のそれ以外のミステリ
  • 昼夜用心記と世間用心記
  • 世界探偵小説全集のポー以前のもの。

韓国

  • 『朝鮮民譚集(復刻)』孫晋泰(勉誠出版、2009年) (未見)

 『朝鮮民譚集』は、朝鮮の口承文芸を集めたもので、1930年に刊行された。勉誠出版から2009年に復刻版が出ている。パク・ムンスに関する説話が2編(この本で5ページ分)収録されている。

参考文献

江戸川乱歩「」『探偵小説の「謎」』
小酒井不木『犯罪文学研究』+インターネット上の資料
中国の探偵小説(座談会)
北村薫「中国公案小説と日本最初の本格ミステリ」(『謎のギャラリー 名作博本館』新潮文庫、2002年)pp.51-76

韓国の公案小説についての資料(ウェブサイト パク・クァンギュ)

江戸川乱歩『子不語随筆』(講談社 江戸川乱歩推理文庫63、1988年)に収録の「欧亜二題」(朝鮮の探偵小説)より引用(初出:「読切小説集」1952年11月号(未確認))
最終更新:2011年02月21日 23:06