■初代執行部(1981.06~1981.12)部長:村磯金得氏


村磯金得氏(初代部長),斎藤圭介氏(初代),塚本理氏(2代部長)の3名が中心となって,1981年6月に

「東京大学ディスコダンス研究会」
~T.U.Disco Dancing Club~(略称 DDC)


を設立。

「渋谷ダンスアカデミー」(サークル設立前に村磯氏が通っていた)に当時所属していた「上島雪夫氏」にレッスンを依頼し,「週1回練習」を定着させながら,その年の12月には最初の主催イベントとなる「ダンスパーティー」を成功させる。

ところが,その翌週に村磯氏が突然サークルを脱退してしまい,わずか半年で2代執行部へと引き継がれることとなる。

■2代執行部(1981.12~1983.03)部長:塚本理氏

村磯氏の脱退を受け,設立半年後に急遽塚本氏が部長に就任。

サークル名を

「 T.U.Dancing Club WISH 」

へと改名し,年間2回の「ダンスパーティー」を主催する本格的な「ダンスサークル」としてのスタートを切ることとなる。

「平日+日曜日の週2回練習」を根付かせ,試行錯誤しながらも「サークル運営」の雛形を作ってくれた,尊敬すべき「実質的な」初代。

■3代執行部(1983.04~1984.03)部長:坂本龍平氏

「ダンスパーティー」で培った「イベントノウハウ」を活用して積極的に活動領域を拡大。

まずは,新人勧誘も兼ねて,5月に「五月祭におけるストリートパフォーマンス」を開始。続いて6月に恒例の「ダンスパーティー」を主催した後,サークル設立当初からの念願であった「ダンス公演」にも果敢にチャレンジ!!

幾多の苦労を乗り越えてついに初の「12月公演」を実現する。

あらゆる意味で現在の「WISHの活動基盤」を確立した「金字塔」的な代。

■4代執行部(1984.04~1985.03)部長:藤川一壽氏

「五月祭ストリートパフォーマンス」「6月のダンスパーティー」「12月公演」を年間イベントとして「定例化」することに注力。

効率的な運営体制の確立を模索しながら,後続のために様々な「ノウハウの蓄積」を積極的に推進してくれた。

さらに,他大学サークルのイベントにも積極的にゲスト出演し,「 WISH 」というサークル名を「対外的に広める」ことにも大いに貢献した代。

■5代執行部(1985.04~1986.03)部長:宮島聡司氏

諸先輩方の努力によって「定例化」した年間イベントを順調にこなしながら,「サークル母体の強化」を目指し,着実に部員数を増加させることに成功。12月公演時で約80名にまでサークル規模を拡大した。

また,この年「関東学生ダンス連盟」(関東近郊の大学ダンスサークルの集まり)なるものを作ろうという動きがあり,その中核メンバーとしてリーダーシップを発揮。WISHの発言力と影響力を極めて大きなものにした代。

■6代執行部(1986.04~1987.03)部長:鶴巻法義氏

部員数が増えたことによって拡大しつつあった部員間の「ダンスレベル格差」を解消すべく,徹底した「スパルタ運営」を展開。

結果,「全体のダンスレベル底上げ」と「ダンスレベル格差の縮小」には確実に成果を上げることとなったが,一方で80名近かった部員数は40名を切るところまで減少。

さらに,これまでずっとレッスンや振付を担当してくれていた上島氏が多忙のためにWISHと「疎遠」になってしまい,サークル設立以来最大の「存続の危機」を経験した代。

※ただし,この代の「スパルタ運営」を生き残ったメンバー(7,8代)が「新生WISH」を築き上げていくことを考えると,ある意味でWISHの一つの「色(カラー)」を作った代とも言える。

■7代執行部(1987.04~1988.03)部長:藤井省吾氏

6代執行部から180度運営方針を転換し,「平和的穏健運営」によって部員数を再び増加させることに成功。

短期間で5代当時の80名規模まで戻し,見事に「存続の危機」からの脱出を果たした。

上島氏不在の中でも、数人のダンサー&コリオグラファーを招聘し、なんとか練習体制を確立。「新生WISH」の礎を築き上げた,WISHの「中興の祖」と呼ぶべき代である。


※4年になっていた7代島崎百合と、志佐美保がある日上島雪夫氏にばったり再会!「サークル生き残っています、ぜひ教えて」とぶしつけに御願いしたことが、その後の8代執行部による上島氏とWISH「復縁」のきっかけに。

■8代執行部(1988.04~1988.12)部長:米本慎太郎氏

6代の「スパルタ運営」と7代の「平和的穏健運営」の双方の「いいとこ取り」によって理想のサークル運営を目指し,「体育会系硬派サークル」でも「仲良し系軟派サークル」でもない,WISH独自のスタイル確立に奔走した代。

また,新入生男子が「ブレイクダンス志望」に集中することへの対応策として,「新入男子メンバーに対するジャズダンス強制期間(夏合宿まで)」を設置した。

※6代以降多忙のために「疎遠」になってしまっていた上島雪夫氏を「アポ無し訪問」し,半ば強引にWISHと「復縁」させたのもこの代の功績!

■9代執行部(1989.01~1989.12)部長:小寺雄太氏

それまで通例として「4月から3月まで」とされていた「執行部年度」(3月の春合宿にて執行部引継ぎを実施していた)を,「1月から12月まで」に変更。(第8代執行部との連携作業)

12月公演の終了直後に「執行部」も代替わりさせることによって,「12月公演から春合宿までの中途半端なダラダラ期間」を排除し,1~3月を「ダンスレベル向上と新勧準備」のために有効活用できるようにした代。

■10代執行部(1990.01~1990.12)部長:山口剛氏

通年イベントの大きな一つとして,毎年6月に実施していた「ダンスパーティー」をこの年に廃止。

その代わりに,「WISH創立10周年記念パーティー」と称して,今のところ「WISH史上唯一」となる,「ASHとWISH」のためだけの「内輪イベント」を「八芳園」で開催した。

いまだにWISH年次一桁世代の間では「話題」にのぼるほど画期的(かつ初期メンバーにとっては感動的)なイベントであり,WISHがもはや「いつ潰れてもおかしくない弱小サークルではない」ことを実感させてくれた代

■11代執行部(1991.01~1991.12)部長:山代悟氏

一学年あたりのメンバー数も順調に増加し,執行部を終えた「4年生」が12月公演で果たさなければいけない役割がかなり軽減されてきたことを受け,卒業を間近に控えた(既に卒業後?)3月に「4年生」をメインにした「卒業公演」を初めて開催した代。

現役執行部との軋轢も予想される中,調整に苦労しながらも見事に「卒業公演」を成功させたことにより,この代以降「卒業公演」がWISHの通年イベントに加わることとなる。

ユーモアに長けた人材が多い年。ジュースの自販機の前で、副部長が待機しており、指はリアルゴールドのボタンの上。自分が飲みたい物を獲得するには、彼よりも早く目的のボタンを押さねばならないという、罰ゲームのような事を嬉々としてやらかしていた。


■12代執行部(1992.01~1992.12)部長:田中森彦氏

男子部員における「ジャズダンサー比率」の減少傾向を危惧し,8代が設置した 「新入男子メンバーに対するジャズダンス強制期間」を一年間に延長。

※しかしながら結果として「熱心なブレイクダンス志望者」が定着せずに一年以内に退部してしまうことになり,翌年(13代執行部)は再び期間を短縮することになる。

男子部員にスパッツ禁止令を発令。足のラインを確認するのに適しているスタイルではあるものの、「やっぱり、面食らっちゃうでしょ」と余計な危惧をする。

練習の場は、駒場、代々木オリンピックセンター、高井戸、茗荷谷等。高井戸は埼玉勢に「遠いったらありゃしない。」と不人気。

なにか変ったことをしようと、「夏の宴」を開催。OB、OGの方を招いて茶会を開く。(といっても飲食するだけ)

やっぱり変ったことをしたくて、卒業する方への贈り物を「白いジグソーパズルにメッセージ」にしてみる。案の定、バラバラになったパズルを手にして、「面倒だから、作ってよ」と、その辺の1男(1年生男子)に押し付けるという絵面が見受けられる。

著作権法改正となり、洋楽のレンタルCDが1年間経過しないと借りれなくなった為、曲選びに困窮する。暇をみては、レコ屋で視聴するも、基本お金ないので買うに至らず。

 
■13代執行部(1993.01~1993.12)部長:小川太郎氏

後に劇団四季で大活躍することになる藤川和彦氏を4年生にいだき、3年5名、2年数名の一大ジャズ集団を成し、WISH史上ジャズ男が質量ともに『最盛期』を迎えた時期であったといえる。

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すべての中途で入部した部員に、繰り上がって執行部に入るチャンスを与えた、最初の代。立候補者の中から、精神面・技術面で3年生に追いつくヤル気があると認められた2名が、執行部入りした。また、部長・副部長はジャズ・ブレイクに全くこだわらないということで、部長がジャズなら副部長はブレイクから、ということで選ばれた。

とても仲間を大切にする温かいメンバーだった。

6月のダンスパーティーの復活を願う声がOBから起こり、執行部とOBが合同で芝浦の「O Bar」にて、ダンスパーティーを開催。神田うのさんら芸能人も数名招待された。

7月には、有志による公演が行われ、2年生が積極的に起用され、ジャズとブレイクが希望によって自由に入り交じることも認められた。

12月公演では、出演者が100名を突破。4年生の部員も積極的に迎え入れたこともあり、ジャズ男が賑わう一方で、ブレイク志願者も大切にしたいということで、ジャズダンス強制期間を撤廃できないかという議論が起こった。

部員間の恋愛が活発であった代でもあり、その後、結婚したカップルも多い。

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■14代執行部(1994.01~1994.12)部長:所裕之氏

8代から継続されていた「新入男子メンバーに対するジャズダンス強制期間」をこの代に撤廃。結果,この代の新入生(16代)以降,男のHIP-HOP人口が一気に増加することになる。

■15代執行部(1995.01~1995.12)部長:貝原裕次郎氏

前後の代で先に書かれているため、ネタ不足・・・
・15代執行部のときの新入生から、人数がブレーカー>ジャズになる
・詳細は割愛するが、会計のシステム・後輩への引継ぎ方法を改善
・公演の形式は色々模索したが、前半オムニバス/後半ストーリーを踏襲

■16代執行部(1996.01~1996.12)部長:斎藤大彰氏

HIP-HOP人口の増加により,WISHが「ジャズダンス,ブレイクダンスのサークル」から「HIP-HOPを中心としたストリートダンスのサークル」へと転換していく,その大きな流れを作った代。

同時に「ジャズダンサー男子」が「絶滅危惧種」に指定されるようになる。

(以下、16代部長 齋藤様からいただいた文面です。  2014/5/16 32代部長 般若)

16代が新入生の時にはジャズ必須はなくなっていました。ブレイカーと言えばオールドスクールだったところに、ヒップホップが持ち込まれたのは二代上からでした。我々が執行部になった時には、男子の過半はヒップホップでした。かくいう私はロックダンスでした。、、。
、、我々が執行部の頃には、後輩男子の殆どはヒップホップに傾倒してました。部員数は100名くらいいた気がします。 練習は週二回、水、日。五月祭と十二月公演前は毎日だったですかね。 当時の練習場所は、週末は駒場の剣道場で、平日は、高井戸、中村橋、その他小中学校でした。今はどうされてるか分かりませんが、僕らが二年の頃くらいに定番練習場所だった参宮橋の代々木オリンピックセンターが建て替えで21世紀になるまで使えなくなりましたね(90年代半ばの話)。 公演のストーリーなどは忘れてしまいました。ブレイカーの舞台にストーリーを付けるのが難しかったのを覚えています。 右も左も分からなかったですが、皆で一生懸命頑張ったセピア色の思い出です。


■17代執行部(1997.01~1997.12)部長:筒井慎介氏

部員数の増加に伴って12月公演にかけられる予算も増え,舞台装飾(&演出)はますます豪華に!!

この代のときに舞台演出手段として初めて「映像」を使用。

また,ジャズダンス主体の公演と,ストリートダンス主体の公演の二つの「卒業公演」を上演するなど,規模(スケール)面においても,方向性(性格付け)の面においても,確実に一つの「ターニングポイント」となった代。

※サークル設立当初からずっと(一時ちょっとだけ疎遠になった時期があったものの)WISHをサポートし続けてくれた「上島雪夫氏」との「繋がり」が完全に途絶えてしまったのも,残念ながらこの代。

■18代執行部(1998.01~1998.12)部長:栗山幸介氏

■19代執行部(1999.01~1999.12)部長:山口敏明氏

19代は一言で言うと、とにかく雰囲気がよい代だったと思います。

ダンサーのレベルが凄く高かった18代からバトンを受け取り、部長として、どうしていこうと考えた時に、とにかく3年生がWISHを楽しみ、仲良しで、それでいて熱い思いをぶつけ合えるような代であろうと意識しました。
 

ダンスでは理三のカリスマダンサー岸本修一氏がロックダンスに加え、新たにパンキングというジャンルを本格的に導入。修教と言われるほど熱心に教えを乞う後輩達が数多く存在!

12月公演の「19BOX」では、文字通り19代による様々なジャンルのSHOWを披露することが出来ました。また、新たな試みとして、17代副部長の橘氏に12月公演のQ出しをお願いしました。Qシートも刷新して、事前の照明の作りこみを入念に行い、Q出しも、ダンスと12月公演の経験があるOB/OGが担当することで、これまでずれていた照明の切り替わりがきちんと音にはまり、照明とダンスが融合したより本格的な舞台を作りあげることが出来るようになりました。以降、照明のQ出しは、代々WISHの人格が担当することになっているはず(多分)。自分も翌年Q出しを担当し、その重要さと裏方の大変さをもの凄く感じました。OB/OGとして、後輩の舞台を下支えできるという喜びを感じたのも覚えています。ちなみに、今も大変お世話になっている永野拓さんに本格的にお世話になったのは19代からです。感謝感謝。

また、卒業公演「BET」では、伊藤匡氏の発案により、公演を迎えるまでの準備期間を一つのストーリーとして映像化し、公演の一番最初に本格的なムービーとして上映するという初の試みを行いました。今でこそ映像の編集はハードルが下がりましたが、当時は、20GBの外付けハードディスクでも数万円もするような時代であり、ノウハウもお金も無い中、悪戦苦闘しながらも、会場にまでPCを持ち込み、本番の直前まで編集し、1日目より2日目のほうがさらにストーリーが追加されている等、最後まで作品に懸ける(賭ける)思いが伝わった公演でした。

主役であった橘秀徳氏の大根役者っぷりも笑えますw

ちなみに、お金がなかったので、皆でバイトしたり、コズミックのような高い練習場ではなく、区の安い施設を徹底的に探して、部長自ら抽選に行きまくり、都内の様々な練習場で練習したり、渋谷の歩行者天国で皆でダンスしているのを撮影したりと、卒公までの過程を本当に楽しんでいました。

とにかく19代はWISHを心の底から愛し、楽しみ、その素晴らしさを身をもって後輩に伝えることが出来た代だったと思います。(その結果、3年時に1年生だった21代は相当な人数が最後までWISHを続けました〜)

 


■20代執行部(2000.01~2000.12)部長:土橋順氏

執行部の特色としては,ジャズが半数を占めるなどジャズの勢力が強かった。また,ブレイカーの男子の多くは2年生のときに12月公演に出演しておらず,その他のメンバーとの溝を埋めるのに苦心した。

そのような事情もあり,コンテスト形式の新歓イベントを行い,その練習に春合宿を当てた。

12月公演はパルテノン多摩にて行った。前年までの流れ(SHOWとSTORYの2部構成)を引き継ぎつつも,出演者は170名となり,部員の増加を踏まえ2日間3回公演へと公演回数を増やした。

卒業公演は,12月公演でテーマ性が弱かったことを改善し,出演者の色にこだわり,「VYBGYOR」(虹色の7色の意)とタイトルを定め,小道具大道具にも配慮した。会場は,北沢タウンホール。

■21代執行部(2001.01~2001.12)部長:安達和英氏

 

これまでのWISHは 

「ジャザー」&「ブレイカー(Hiphop、Lock、House)」と大きく二つに分類しながら運営していたが、

ブレイカー3ジャンルの人数が増えてきたこと、および、

ジャズとブレイカーの間にできてしまった妙な壁を取り除くため、その分類を廃止。

駒場剣道場での練習も、右半分はジャザー、左半分でブレイカー3ジャンル、ではなく、

Jazz、Hiphop、Lock、Houseの4ジャンルが時間制で回すことになった。

WISH入部希望者の数(つまり23代の数)は歴代で最多だったのではないか。

4月~5月の練習時、入部希望者の出欠をとり、ちゃんと出席したひとたちを入部させた。

と言っても、ほぼ全員の120人ぐらい入部させてしまった。

これは、19代譲りのやさしさか。

12月公演は、

それまでのストーリー内容にメルヘンチックさを感じており、

あまりミュージカルっぽくない、大人なストーリーにチャレンジした。

公演初日の舞台挨拶で、

あまりの達成感に興奮冷めやらぬ部長が

「すごくいい舞台を作っちゃいましたーー!!」

と思ったことをそのまま口にしてしまい、

多方面から怒られた。



■22代執行部(2002.01~2002.12)部長:亀尾将之氏
Jazz、Hiphop、Lock、Houseの4ジャンルを中心にバランスよく運営。

とても仲の良い代で、卒業後は部長を含む中心メンバーの一部が地方に飛んでしまったにも関わらず、

旅行やら飲み会やらイベントを毎年続けている。

夏合宿ではそれまでの旅行代理店(関係者の方すみません!)を利用せず、苗場のホテルエフと直接契約。

浮いたお金は12月公演での3面スクリーンの派手な演出に繋がった。

卒業公演「あしたのカケラ」は卒業後バラバラになってしまったメンバーが偶然の再会をきっかけに、

またメンバーを集めて公演をする、という内容であった。これを実際にやりたい、というのが22代執行部の

長年の思いであったが、遂に2010年、執行部 佐々木康太朗を中心に多くの方々(特に後輩のみなさん!)

の協力を得て、OB公演「Re:award」を実現。

 

■23代執行部(2003.01~2003.12)部長:乙供竜一氏


23代が1年の時の人数で120から130人程度、3年時、卒業公演時点で50人程度という人数の多い代であった。

21代に対する憧れが強い代であった。

代の始動当初、通常練習からJAZZ消滅の危機を迎えるが、他ジャンルの部員も協力することなどにより、なんとか危機を乗り越える。

数年間途絶えていたオールドスクールのBREAKINGが復活する。

新歓イベント、五月祭、夏合宿、屋外イベントのほぼ全てにおいて雨天を経験し、部長は「雨男」の異名をとる。

12月公演では通例と思われた、SHOWとSTORYの2部構成の舞台を止め、SHOWを2分割して後半を2段ステージによる演出の部とし、STORYと併せて全体で3部構成の公演形式を採用。

卒業公演では一人演出責体制のもと、全編ストーリー形式の公演を行った。


■24代執行部(2004.01~2004.12)部長:大山晋輔氏

恐らく近年では珍しく飲みが激しい代であった。新刊コンパの時点から1年生だけでコールをかけ一気を続け、酒にまつわるエピソードはこと欠かない。

男性陣だけが飲み、女性陣は諦めと愛情から優しく見守ってくれていたのかと思いきや、女性陣も非常によく飲む代。

2年生の積極的なサークルへの関与やサークル運営への意識付けを狙いとして2年生が中心となって運営する2年イベントを夏にやり始めた。

12月公演では、1部Show、2部Storyという流れは変更しなかったものの、1部と2部で話が関連しているという演出を行った。またこの公演で予算を上回る費用がかかってしまい、3年生が一人ずつ不足分の金額を補填した。

また、卒業公演をクラブ(Club Citta)で行い始めた代でもある。

引退後にGASHというOB・OGによるダンス合宿を毎年企画し、紆余曲折はあるものの、未だに継続している。


■25代執行部(2005.01~2005.12)部長:上野史靖氏
 

執行学年が12月公演(LINE)時で80人強も残っており、近日本の人口ピラミッドに逆行する代構成となった。

故に上は社会人、フリーター、院生、就活組、といった環境にいるものも多く、なかなか全員でまとまった時間が取れず、

11月に実施した会場リハからストーリーを全面的に見直す等のバタバタ劇もあり、改めて観客からお金をとって

お見せするという舞台公演の難しさを痛感させた代。自虐的に言えば下級生の反面教師になってしまった

部分もあり、現在のWISHに活きていると信じたい。

(但しこの経験をもとに、25代のメンバーは社会人となって大活躍!は言い過ぎか)

また、スタッフの方々には大変お世話になり、連夜の深夜ミーティングにもご出席頂き、本当に感謝しております。

 

基本的には派手好き、パーティ好きの代であった。上記の反省を生かし、24代が切り開いてくれたクラブでの

公演というツールを存分に使って、愛するダンスの追求と観客を巻き込む工夫を両立させる卒業公演(Jack in the Box)を企画。

執行学年の人数の多さを今度は活かし、様々な人脈を通じて一味違った公演を作り上げた。

だったが、部長はこの卒公の準備にはまりすぎて就職直前で留年。最後まで詰めの甘い代であった。あぁ。


■26代執行部(2006.01~2006.12)部長:太田和磨氏
 

入部時に80人弱の代であったが、年々減少し、3年時には30人強になってしまった。

しかしその反面、残ったメンバーの仲間意識が強くなり、いい意味でも悪い意味でも平等感の強い代となる。

BREAKINGからWISH初(?)の部長選出。

オールドスクール人口の増加がこの代以降加速する。

新歓イベント「JOKER」は新宿CODEで実施。3部構成。

5月祭「P’s」は公園と時間軸をテーマに2部構成で実施。5月祭ならではのジャンルである、「AFRICAN」「MIX」はそのまま踏襲。外部サークルとの交流を目的に外部ダンサーに数ナンバーに出演してもらった。天気は2日目のみ晴れ。そのため2日目の2回だけ実施。この時頂いたアンケートが12月公演のストーリーのきっかけとなる。

6月に1年生の歓迎を目的とした1年と3年のみ参加の新歓合宿を例年通り実施。より親睦を深められるよう、1年3年混合チーム戦によるゲーム企画を1日中行った。

12月公演「FOR YOU」は目黒パーシモンホール。ショー、ストーリーの2部構成。

卒業公演「!」は横浜BLITZ。

この代より駒場キャンパスにコミュニティプラザがOPENし、練習場所には困らなかった。


■27代執行部(2007.01~2007.12)部長:可児俊典氏

新歓イベント「DIVE」は新宿CODEで行い、3部構成。入部条件を広げ、大学生だけでなく、専門学校生等も入部。

五月祭「AtoM」は、例年通りの銅像前で行った。WISH外部のダンサーにも参加してもらい、スキルの向上を図る。

1部は各班で各々のテーマを設定し、2部はストーリー形式に。(主人公が一人で色々な国で旅をしながら成長していく。)4回とも快晴。

外部に閉鎖的な状況を打開しようと、他大学のサークルと交流を図る。しかし、交渉の結果、スケジュール等の都合で断念。

12月公演「MOVE」は25代の時と同じルネ小平。ショー、ストーリーの2部構成。

卒業公演「STEP」の総指揮は牧野彩。

イベントの場所や演出スタッフ等、先輩方の財産に恵まれた代であった。


■28代執行部(2008.01~2008.12)部長:鈴村将史氏

新入生歓迎イベントでここ数年毎年利用していた新宿CODEが潰れ、この年から新歓イベントの会場が各代によって変わることに。

五月祭では銅像周りの立ち入りが禁止され、この年から楽屋や音響ブースを坂の途中に作る形に変更する。また、はしかが大流行し、参加者全員の健康診断書が必要となった。

ストリートダンスの認知度が高まり、大学生ダンスサークルのメディア露出が盛んに。WISHも雑誌「ダンススタイル(リットーミュージック)」、TV「スーパーチャンプル(中京テレビ)」に数度出演。

この年からHPをリニューアルし、更に広報ブログがスタート。新歓や公演の宣伝に利用し、現在も広報ブログは存続中。

12月公演のSTORYでは、映像を使った演出(文字など)を使わず、演技主体の構成に。そのため曲中演技やシーンが増え、公演におけるSTORYのミュージカル的要素が強くなった。

卒業公演は行っていない。

■29代執行部(2009.01~2009.12)部長:長尾 俊氏

 ダンスはオールドスクール(POP,BREAK,LOCK)とニュースクール(HOUSE,HIPHOP,JAZZ)の6ジャンルを主体としていた.それまでオールドスクールの人数が少なかったが,徐々に増えていった.

5月祭でのストリートパフォーマンスでは楽公演の途中から滝のような大雨になるが,最後まで実施.

メディアによる取材を幾度か受ける.ダンスバスタやギャツビーのインターネット動画にWISHが出演.

夏合宿では,ダンスのレベル向上を図るためにダンスバトルを実施.また,この時期に新型インフルエンザが大流行し,数十人が発症.

12月公演では縦のつながりの弱さ,公演に対する認識の甘さが問題に.その反省を踏まえ,翌年からOBOG1年目と2年目による,現役のサポート体制を作る.


■30代執行部(2010.01~2010.12)部長:諸井秀次氏

OBOGからのサポート体制1年目として、2代上まで引き継ぎを受けること、わからないことがあればすぐにOBOGに相談することを徹底させた。

4月の新歓イベントにおいて1日2回公演を実施。

OBOGをジャッジに向かえ、春合宿及び夏合宿において「2on2ダンスバトル」を開催。

「WISH30周年」であることを節目に感じ、OBOGへの敬意を表すため、12月公演のOPENING映像において歴代公演のタイトル及びパンフレット表紙のデザインを使用させて頂いた。

WISHerの自主練場所となっている東大駒場キャンパスのコミュニケーションプラザから施設周辺の利用状況に対して苦情を受ける。学生支援課との話し合いの末、「自主練場所の領域制限」「スピーカー音量制限」「21時スピーカー音止め、22時完全撤収」を条件としてコミュニケーションプラザ周辺での自主練を許可される。

明るくユーモアの溢れる人が多く、ミーティングでは笑いの絶えない代であった。

 

■31代執行部(2011.01~2011.12)部長:関谷昌志氏 

執行代は30人強で男子の人数も比較的少なかったが、一人一人が仕事をしっかりこなしてくれたため公演まで乗り切ることが出来た代。浪人生、2年生以上からの入部者が多く平均年齢の高い代でもあった。

震災の影響で前半期は練習場の使用や活動そのものに制限がかかったため、新歓イベントの開催や入部者の激減が危ぶまれた。しかし結果的には無事イベントは開催され、例年並みの新入部員を迎えることが出来た。

五月祭ではおそらく歴代でも稀に見るほど雨に降られ、1度は中止をしたものの残り3回は強行。激しい雨に打たれながらの公演は強く心に残るものとなった。

毎年合宿で使用していたホテルエフと契約の見直しを行い、その後非常に良好な関係を築くことができ様々な面で優遇して頂いた。また、公演後に打ち上げ合宿をエフで行った。

12月公演「One Last Piece」はWISHでは初めて練馬文化センターを使用。舞台を覆うほどの大きな大道具を取り入れた。各大道具に様々な仕掛けを希望したため、スタッフの方々には非常にお世話になりました。

 

■32代執行部(2012.01~2012.12)部長:般若正大氏

意識面での部員との温度差に苦しんだが、30代から始まった「OBOGのサポート体制」に支えながら1年間の運営を行った。

新歓イベントでの1日2回公演、五月祭での2日4回公演、7月の2年イベントなど、先輩方の築いた形式をそのまま踏襲した。

 

「五月祭までは自分たちのために、公演はお客様のために行う」という意識が部員の中に根強かった。

そのせいもあり、五月祭で執行代男子全員による「メンスぺ(メンズスペシャル)」を始めたが、一方で飲酒しながらステージに立つ部員が多く後でお叱りを受けた。

12月公演では、2日間3回公演、1部Show, 2部Storyの形式を踏襲し、全体で200名程度の部員が出演した。

 

■33代執行部(2013.01~2013.12)部長:高島大斗氏

70人弱の執行部は当初から部員のモチベーションの温度差が懸念されたが、引退まで大きな仲違いもなく平穏に過ごした。

 

広報・渉外活動に力を入れ、複数のテレビ番組に出演した他、パイオニア マーケティングやDHC、WORLD DANCE COLOSSEUM等、新規の協賛を多く頂いた。

その努力が実ってか、調布グリーンホールで開催した12月公演「Signo」では全三回公演で満席御礼を達成し、立ち見も出るほどであった。

 

男女共にエネルギーに満ちあふれた代で、「楽しむ時は楽しむ、やる時は楽しみながらしっかりやる」という姿勢を一年間貫いた。

部長が恐れていた飲酒事故も最後まで起こらず、結果的に根がまじめな代であったことがわかった。

 

 

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最終更新:2014年05月17日 13:40