GS たのしい知識

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Emerson「ユートピア」((Roger L. Emerson, «Utopia», &italic(){Dictionary of the History of Ideas}, vol.4, Charles Scribner’s Son, 1973))(岡崎一訳) &font(#696969){●} 四方田犬彦「ガリヴァーの誤謬 スウィフト『ガリヴァー旅行記・第四篇』を読む」&font(#696969){〔→『空想旅行の修辞学:『ガリヴァー旅行記』論』七月堂、1996.6〕} ● Pierre Klossowski「ガリヴァー最後の御奉仕 G・ドゥルーズのための狂言」((Pierre Klossowski, «Les Derniers Travaux de Gulliver», &italic(){L'Arc}, no.49, Aix-en-Provence, 1972. Repris dans &italic(){Roberte et Gulliver}, Fata Morgana, 1987))(西成彦訳) ● Charles Fourier「テクスト『愛の新世界』を横断する 抄訳の試み」((Charles Fourier, &italic(){Le nouveau monde amoureux,} ?, 1979. 〔福島知己訳『愛の新世界』作品社、2006〕))(浅田彰・市田良彦訳)/浅田彰・市田良彦「『愛の新世界』への旅」 ● Robert C. Elliott「ユートピアへの恐怖」((Robert C. Elliott, «The Fate of Utopia», &italic(){The Shape of Utopia: Studies in a Literary Genre}, Chapter 5, University of Cicago Press, 1970.))(岡崎一訳) ● 伊藤俊治構成「DEATHTOPIA DOZEN ユートピア・イメージをめぐる12のブリ・コラージュ」 ● 鈴木晶「『われら』を十倍楽しく読む方法 ザミャーチン・神話・エントロピー」 ● 伊藤俊治「さかしまのヌーディズム 裸体とユートピア幻想」 ● 松山巌「『ナチ・ドイツ 清潔な帝国』を読む」 ● 三宅晶子「ユートピアから反ユートピアへ ドイツ『第三帝国』前史」 ● 関和朗・菊地誠・赤坂善顕「ピラネージそして/あるいは不在のグラフィック」 ● Ivanka Stoïanova「エルンスト・プロッホによる音楽 ユートピアと現代の西洋音楽」((Ivanka Stoïanova, «La musique-utopie d’après Ernst Bloch et la musique occidental contemporaine», &italic(){Le discours utopique}, U.G.E., 1978))(笠羽映子訳) &font(#696969){●} 梅本洋一「空間・速度・光 フリッツ・ラングについて」&font(#696969){〔→『映画のたのしみ』青土社、1984.12〕} ● 細川周平「ゴール!ディノ・ゾフに 旋回するボールのユートピア」 ● 旦敬介「黄金(ユートピア)幻想の超克あるいはローペ・デ・アギーレの立腹」 ● マージョリー・H・ニコルソン「宇宙旅行 厭離穢土の観念史」(高山宏訳) &font(#696969){●} 高山宏「ユートピアのことば、ことばのユートピア ユートピアとしての十七世紀〈普遍学〉」&font(#696969){〔→『メデューサの知 アリス狩り3』青土社、1987.8〕} ● 武邑光裕「未完の霊人 出口王仁三郎 言語パフォーマンスと『霊界物語』」 &font(#696969){●} 中上健次「異界にて」&font(#696969){〔→『中上健次エッセイ撰集 青春・ボーダー篇』恒文社、2001.8〕} その他 ● 山口昌男(絵・文)「痴の最前線1 ポスト・コゾウ主義の怪」 &font(#696969){●} Jacques Derrida「ロラン・バルトの複数の死(者)」((Jacques Derrida, «Les Morts de Roland Barthe», &italic(){Poétique}, no.47, septembre 1981. Repris dans -, -. [國分功一郎訳「ロラン・バルトの複数の死」、『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉1』岩波書店、2006、pp.79-159.]))(千葉文夫訳) ● 松浦寿輝「不眠をめぐる断章 あるいは否定について」 **vol.2、1984.11「特集=POLYSEXUAL~複数の性」 &bold(){浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦責任編集}  発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン・本文レイアウト:戸田ツトム、表紙写真:宮内勝 狂言回廊 &font(#696969){●} 草野進「管理野球とは、火事場泥棒の倫理である」&font(#696969){〔→『プロ野球批評宣言』冬樹社、1985.3→『世紀末のプロ野球』角川書店(角川文庫)、1986.7→『プロ野球批評宣言』新潮社(新潮文庫)、1988.1〕} ● ねじめ正一「五福星はわんこそば大全」 ● 豊崎光一「正統と異端あるいはラグビーとフランス」 ● 如月小春「髪型勝手論」 ● ロジャー・パルバース「現実なんてうすっぺらな紙切れみたいなもんだ」(浜口稔訳) ● 高橋源一郎「変な外国雑誌が送られてきた日」 ● 坂本龍一「音楽図鑑スクラッチノート」 ● 糸井重里「無断上演を許可する。処女漫才台本「ぼくはガンなのだ」」 ● 細川周平「フィレンツェ・サッカー」 ● 関曠野「現前の神話と西欧の暴力」 ● 野々村文宏「私たちは新人類じゃない」 ● 中森明夫「あまりにも『おそ松くん』な現在思想(ニューアカデミズム)」 ● 田口賢司「田中康夫のもんだい あるいは元気な20代」 ● 佐藤良明「英語基本動詞研究 連載2 I "HAVE"の巻」 特集 POLYSEXUAL 複数の性 ・ 四方田犬彦「無題(性についてはあらゆることが語られている。医学的に、法的に、社会的に……)」(巻頭言) American Polysexualアメリカン・ポリセクシャル ・ 武邑光裕「性の身体測量 Sex, Esoterics, Anthropometries」 ・ 伊藤俊治「セックスシアターのフリークス FROM POLYSEXUAL TO ASEXUAL」 ・ 生井英考「エメラルド・シティ あるいは彼らの魔窟(パンディトリウム)だったところ」 ・ Sylvère Lotoringer「defunkt sex 故人となり、機能を停止し、泥くささを脱したセックス」((Sylvère Lotoringer, «defunkt sex», &italic(){SEMIOTEXT(E)}, vol.4-no.1, 1981 &italic(){:Polysexuality}, ed. by Françoise Peraldi, pp.271-297. [[Lotoringer>http://en.wikipedia.org/wiki/Sylv%C3%A8re_Lotringer]]について邦語で読める資料は数少ない。cf. [[小林浩「編集者に徹する大学教授ロトランジェの旺盛な活躍ぶり」>http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&ct=res&cd=2&url=http%3A%2F%2Fwww.aguni.com%2Fhon%2Fback%2Fgogatu%2F19.html&ei=DWvgSZ-xEpSHkAXA5ZTOCw&usg=AFQjCNGSmrcz0DsjQMO-xpmSfeawdihasQ]]))(旦敬介訳) ● 大場正明構成「FUTURE SEX」 ● 伴田良輔構成「すぐ役立つ独身者マニュアル」 ● Félix Guattari「〈女性=生成変化(になること)〉」((Félix Guattari. «Devenir femme», &italic(){La Révolution moléculaire}, Editions Recherches, Paris, 1977. 〔杉村昌昭訳『分子革命:欲望社会のミクロ分析』法政大学出版局、1988.3〕))(岩野卓司訳) ● Félix Guattari「欲望の解放 ジョージ・スタンボリアンによるインタビュー」((Félix Guattari, «A Liberation of Desire. An Interview by George Stambolian», &italic(){Homosexualities and French Litterature: Cultural Contexts/Critical Texts}, ed. by George Stambolian and Elaine Marks, Cornell University Press, 1979, pp.56-69.))(上谷俊則訳) [思考のコラージュ]クロソウスキー断層を測量する ・ Gilles Deleuze「クロソウスキーあるいは身体-言語」((Gilles Deleuze, «Pierre Klossowski ou le corps-langage», &italic(){Critique}, no.214, pp.199-219. Repris, modifié, en appendice de &italic(){Logique du sens}, Paris; Editions de Minuit, 1969. 〔小泉義之訳「クロソウスキー、あるいは身体-言語」、『意味の論理学』下、河出文庫、2007〕))(浅田彰・市田良彦訳) ・ Gilles Deleuze・Félix Guattari「トランスセクシュアリテ 『アンチ・エディプス』からの三つの断片」((Gilles Deleuze et Félix Guattari,&italic(){ L'Anti-Œdipe}, Éditions de Minuit, 1972. 〔市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症』河出書房新社、1986;宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』上下、河出文庫、2006〕))(浅田彰・市田良彦訳) ・ Jean-Francois Lyotard「『エコノミー・リビディナル』からの二章」((Jean-Francois Lyotard, &italic(){Economie Libidinale}, Minuit, 1974. 〔杉山吉弘・吉谷啓次訳『リビドー経済』法政大学出版局、1997〕))(浅田彰・市田良彦訳) ● 花村誠一「シュレーバー論の系譜」 ● 浅田彰・伊藤俊治・植島啓司・四方田犬彦「バルチュスに始まる」 ● 松浦寿輝「バルチュスの衣裳」 ● 千葉文夫「バルチュス あたかも絵のなかに入ってゆくかのように」 ● 朝吹亮二「OPUS 47~52」 ● 西成彦(え:B・シュルツ、ぶん:にしきさひこ)「マゾヒズム・革命・馬:あるいは20世紀のロマン主義絵画」 ● 西成彦「苦痛論:快感原則とは何か」 ● Roland Barthes「フォン・グローデン男爵」((Roland Barthes, «Wilhelm von Gloden», introduction à &italic(){Taormina} par Wilhelm von Gloden, Amelio Editiore, 1978. Repris dans &italic(){L'Obvie et l'Obtus: Essais critiques III}, Éditions du Seuil, Paris, 1982. Aussi repris dans &italic(){Œuvres complètes, tome III : 1974-1980}, Éditions du Seuil, Paris, 1995. 〔第8章「ヴィルヘルム・フォン・グレーデン」、沢崎浩平訳『美術論集:アルチンボルドからポップ・アートまで』みすず書房、1986.7. 注:&italic(){L'Obvie et l'Obtus: Essais critiques III}は沢崎訳『第三の意味』と本書を合わせたものに相当している。原著全集版は3巻構成だが、邦訳版では10巻構成となっており、本文章は石川美子訳『ロラン・バルト著作集10 新たな生のほうへ 1978-1980』(みすず書房、2003.2)に収められていると思われる〕))(西野嘉章訳) ● Roland Barthes「ベルナール・フォーコン」((Roland Barthes, «Bernard Faucon»(lettre à Bernard Faucon, 1977), &italic(){Zoom}, no.47, Sté Publicness, octobre 1979. Repris dans &italic(){Œuvres complètes, tome III : 1974-1980}, Éditions du Seuil, Paris, 1995. 〔石川美子訳「ベルナール・フォコン」、『ロラン・バルト著作集10 新たな生のほうへ 1978-1980』(みすず書房、2003.2〕))(西野嘉章訳) ● Philippe Sollers「サドという文字(レットル)」((Philippe Sollers, «Lettre de Sade», &italic(){Revue de psychanalyse}, VEL, no.1, 1975: Matière et pulsion de mort, Editions Marsilio et Union Générale d’Édition. Publié aussi dans &italic(){Tel Quel}, LXI, 1975, pp.40-50. Repris dans &italic(){Théorie des Exceptions}, Gallimard, 1985. 〔宮林寛訳「サドの手紙」、『例外の理論』せりか書房、1991.7〕))(千葉文夫訳) ● 四方田犬彦「ブニュエルと神学」 ※「神学」に打ち消し線 ● 兼子正勝「皮膚の言葉 バタイユからバルトへ」 &font(#696969){●} 梅本洋一「ある劇作家の誕生 衣裳交換とサーシャ・ギトリ」&font(#696969){〔→第4章、『サッシャ・ギトリ:都市・演劇・映画』勁草書房、1990.11〕} ● 西野嘉章「愛(エロス)と場(トポス) 接吻のイコノロジー」 ● 夏石番矢「性的犠論」 ● Michel Foucault「両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて」((Michel Foucault, «Présentation»[223], introduction à H&italic(){erculine Barbin dit Alexina B}, Gallimard, 1978. Repris dans «Introduction»[276], Michel Foucault, ed., &italic(){Herculine Barbin}. Eng. New York, 1980, pp.VII-XVIII. «Le vrai sexe»[287], &italic(){Arcadie}, vol.27-no.3, novembre 1980, pp.617-625. Trois textes est repris dans &italic(){Dits et Ecrits}, III([166]-[274]) et IV([275]-[364]), Gallimard, 1994. 〔[223]鈴木雅雄訳「紹介文」、『ミシェル・フーコー思考集成8』筑摩書房、2001.9;[276]「序文」大西雅一郎訳、[287]蓮實重彦訳「両性具有者の性」、『海』1980年9月号→『ミシェル・フーコー思考集成8 1979-1981』筑摩書房、2001.9〕 ※浜名訳・蓮實訳はともにフーコーによる序文のみだが、書籍の本文にあたるHerculine Barbin dit Alexina Bには邦訳がある。大杉重男訳「エルキュリーヌ・バルバン、通称アレクシナ・B」、『重力』02、発行:「重力」編集会議、発売:作品社、2003.4、pp.204-287.)〕))(浜名恵美訳)&font(#696969)〔→須永朝彦編編『書物の王国9 両性具有』国書刊行会、1998.2〕} ● Eugénie Lemoine-Luccioni「服装倒錯から性転換症へ」((Eugénie Lemoine-Luccioni, «Du travestisme au transsexualisme», &italic(){La robe. Essai Psychanalytique Sur Le Vetement}, Editions du Seuil, 1983.))(西澤一光・加川順治訳) &font(#696969){●} 松浦理英子「性と生の彼方 両性具有とプラトニック・ラブ」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} &font(#696969){●} 渡部直己「A感覚とE感覚 『少年愛の美学』の余白に」&font(#696969){〔→『リアリズムの構造・批評の風景』論創社、1988.9〕} ● 石井辰彦「弟の墓 I」 ● 出口逸平「機巧(からくり)の性 鶴屋南北『桜姫東文章』を繞って」 &font(#696969){●} 藤井貞和「『源氏物語』の性、タブー」&font(#696969){〔→『物語の結婚』創樹社、1985.7→ちくま学芸文庫、1995.10〕} &font(#696969){●} 金塚貞文「オナニーという迷路(ラビリンス)」&font(#696969){〔→『オナニズムの仕掛け』青弓社、1987.12〕} &font(#696969){●} 宮西計三(作画)「うつくしきかしら」&font(#696969){〔→『エステルEsther あふれてくるもの 宮西計三作品集』ペヨトル工房、1990.8〕} ● Jean Baudrillard「オージーノアト、キミ、ナニシテル?」((Jean Baudrillard, «&italic(){What are you doing after the orgy}?», &italic(){Traverses}, no.29, 1983&italic(){: L’obscène}, pp.2-15. ; trans. eng.: &italic(){Artforum}, October 1983, pp.42-46.))(上田知則・加川順治訳) ● Christine Buci-Glucksmann「ウィーンにおける他者性の形(フィギュール) 女性性とユダヤ性」((Christine Buci-Glucksmann, «Figures viennoise de l’altérité, Féminité et judaïté», &italic(){L’Ecrit du temps}, no.5, hiver 1984 &italic(){:Que stions de Judaïsme}, sous la direction de Marie Moscovici et Jean-Michel Rey, Minuit. Repris dans &italic(){La Raison Baroque: De Baudelaire à Benjamim}, Galilée, 1984. 〔杉本紀子訳「補足・他者性のウィーン的形象」、『バロック的理性と女性原理:ボードレールからベンヤミンへ』筑摩書房(バロック・コレクション)、1987.12〕))(立川健ニ訳) &font(#696969){●} 荒俣宏「植物の閨房哲学 進化論とのかかわりに向けて」&font(#696969){〔→『目玉と脳の大冒険:博物学者たちの時代』筑摩書房、1987.4→ちくま文庫、1992.12〕} ● Daniel Charles「声の官能(エロティック)論 あるいはひとつの音楽とみなされたエロティスムについて」((Daniel Charles, «D’une érotique de la voix, ou, de l’érotisme considéré comme une musique», &italic(){Revue d’Esthétique}, no.1-2, 1978 &italic(){:Erotique}))(笠羽映子訳) 浅田彰構成「性を横断する声」((構成者序言「負の両性具有者ともいうべきバロック・オペラの去勢歌手(カストラート)たちから、奇抜なファルセット・ヴォイスで次々に女声のアリアに挑み、ついにはAIDSにたおれたオペラ・ロックの怪人クラウス・ノミまで――青ざめた虚像としての彼らは、その背後に、生の強度に満ちたトランスセクシュアルな欲望のざわめきを秘めているのではなかったか。(改行)ここではその消息を、ドミニク・フェルナンデスの問題提起と、それをうけたドゥルーズ=ガタリの問題提起を手がかりとして、たどってみることにしよう」))(下記三本のうちドゥルーズ+ガタリを上段に、フェルナンデスを下段に抜粋し並列配置) ・ Gilles Deleuze・Félix Guattari「生成する音楽 『ミル・プラトー』からの二つの断片」((Gilles Deleuze et Félix Guattari, &italic(){Milles Plateaux}, Éditions de Minuit, 1980. 〔宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳『千のプラトー』河出書房新社、1994〕))(浅田彰・水嶋一憲訳) ・ Dominique Fernandez「料理万歳! 『チューダーの薔薇』La rose des Tudors (Julliard,1976) 第一章」((Dominique Fernandez, &italic(){La Rose des Tudors}, Julliard, 1976. ))(浅田彰・水嶋一憲訳) ・ Dominique Fernandez「『ポルポリーノ』からの断片」((Dominique Fernandez, &italic(){Porporino ou les Mysteres de Naples, Grasset}, coll. «Cahiers rouges», 1974, réédition, 2005.〔三輪秀彦訳『ポルポリーノ』早川書房、1981.2〕))(三輪秀彦訳) &font(#696969){●} 宇野邦一「「ヘリオガバルス」論」&font(#696969){〔→加筆修正、第3章、『アルトー:思考と身体』白水社、1997.5〕} **vol.2 1/2「特集=GODARD SPECIAL」 &bold(){vol.2 1/2、1985.3、浅田彰・四方田犬彦責任編集}(編集協力:梅本洋一)  発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン・本文レイアウト:戸田ツトム・鈴木一誌 狂言回廊 &font(#696969){●} 草野進「プロ野球とは、輝きへの嫉妬が交錯する場でなければならない」&font(#696969){〔→『世紀末のプロ野球』角川書店(角川文庫)、1986.7〕} &font(#696969){●} 香山リカ「リカと自転車と平滑筋肉腫」&font(#696969){〔→『リカちゃんコンプレックス』太田出版、1991.7→早川書房(ハヤカワ文庫)、1994.9〕} ● 豊崎光一「スタイルの闘い1」 &font(#696969){●} 松浦理英子「優しい去勢のために2 欲望の処方箋」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} ● 細川周平「応援席から ユヴェントス対トリノ」 ● 北村昌士「ノイズ 脱経済カテゴリーの逆襲」 ● 田中康夫「この頃やたらと女の子が元気がいいわけについての二、三の考察」 特集 Godard Special ゴダール・スペシャル ● 四方田犬彦「世界の起源の映像」 ● 松浦寿輝「売春制度としての映画」 ● 梅本洋一「おじさんは怒ってるんだゾー ハリウッド・シネマとゴダール」 ● Suzanne Schiffman「ヌーヴェル・ヴァーグ二五年を回想する ジェラール・ラングロワによるインタビュー」((Suzanne Schiffman, «Suzanne Schiffman, par Gérard Langlois», &italic(){La nouvelle vague 25 après}, Les Editions du Cerf, 1983.))(鈴木圭介訳) ● 内藤誠「マイナー映画をめぐって」 ● 奥村昭夫・黒沢清「現実の反映ではなく、反映の現実を」 ● 「シアター・ゼロが『ゴダール/映画史』を模倣するに至るニ、三の真実(プラウダ)」 ● Jacques Drillion「映像としての音 『カルメンという名の女』撮影ルポタージュ」((Jacques Drillion, «Le son comme une image», &italic(){Le Monde de la musique}, no.55, avril 1983.))(奥村昭夫訳) &font(#696969){●} 「ゴダール、不断の半勃起」(松浦寿輝との対談、1984.7.7.六本木シネ・ヴィヴァン開館時の公開イヴェント)、『GS』vol.2 1/2「Godard Special」、1985.3 &font(#696969){〔→『ゴダールの肖像』とっても便利出版部、1997.4.→増補改定版、2000.12.25→改題「ゴダールを語る1:松浦寿輝との対話」、『映画の世紀末』新潮社、2000〕} ● 四方田犬彦構成「ゴダール・グラフィティ」 ● Jean-Luc Godad「弦楽四重奏曲を演奏するのと同じように映画をつくること ジャック・ドリヨンによるインタビュー」((Jean-Luc Godard, «Faire un film comme on joue un quatuor», L&italic(){e Monde de la musique}, no.55, avril 1983.))(奥村昭夫訳) 四方田犬彦編「ゴダールとTV」 ・ 四方田犬彦「カインとアベル」 ・ Jean-Luc Godad・Anne-Marie Miéville「6×2」(西澤一光訳) ・ Jean-Luc Godad・Anne-Marie Miéville「二人の子供・フランス漫遊記」(藤井契訳) ・ Colin MacCave「ゴダールとTVメディア」((Colin MacCabe, «?», &italic(){Godard: Images, Sounds, Politics}, BFI, 1980, Chapter 6. (Chapter 5: 鈴木聡訳「女のイメージ・性のイメージ」、『ユリイカ』1983年5月号「増頁特集=ゴダール 映画の未来」)))(鈴木圭介訳) ● Jean-Luc Godard・Paulin Kael「映画批評の経済学」((Jean-Luc Godard and Paulin Kael, «The Economics of Film Criticism», &italic(){camera obscura}, no.8-9-10, Fall 1982))(早川光敬訳) ● 坂本龍一「『気狂いピエロ』をめぐって書かれなかった日記」 ● 如月小春「ゴダールはかっこいい」 ● 蓮實重彦「破局的スローモーション」 ● 松枝到「中国女、おまえは誰だ?」 ● 武邑光裕「アルファヴィルのターザン リメイク・オブ・ゴダール」 ● 落合一泰「民族誌学の「受難」 『パッション』覚書」 ● 「この私を見よ 私がパロディアス・ユニティ君だ」 ● 兼子正勝「映画史の回廊から 『パッション』について」 ● 松浦寿夫「クロマポリティーク F.Bへの手紙」 ● 宇野邦一「名前のまえには何もない?」 ● [[樫村晴香「『革命の諸要素』」>http://www.k-hosaka.com/kashimura/kakumei.html]] ● Alan Williams「ゴダールにおける音の用法」((Alan Williams, «Godard’s Use of Sound», &italic(){camera obscura}, no.8-9-10, Fall 1982.))(鈴木圭介訳) ● Stephen Heath「映画のセクシュアル・ポリティクス」(加藤幹郎訳) ● 加藤幹郎「新しい映画のために フェミニスト・エッセイ」 その他 ● 松浦寿輝「不眠をめぐる断章、ふたたび」 ● 菊地誠・篠崎元・彦坂裕・関和明「logo-gramme/logo-graphe 2 ルドゥー:快楽の館・愉悦の園」 **vol.3、1985.10「特集=千のアジア」 &bold(){浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦責任編集}  発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン・本文レイアウト:戸田ツトム、表4写真撮影:宮内勝 狂言回廊 ● 豊崎光一「スタイルの闘い2」 &font(#696969){●} 松浦理英子「優しい去勢のために3 肛門、此岸のユートピア」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} ● 島田雅彦「アルカゴーリク(アル中)について」 ● 橋爪大三郎「ゲームと社会」 ● 宮内順子「北京服飾事情」 ● 石井康史「オン・ザ・ボーダー 禁酒法とメキシカン・ラス・ヴェガス」 ● 法貴和子「床下のフランク・チキンズ」 ● 佐藤良明「英語基本動詞研究 連載3 “KNOW”の巻」 特集 千のアジア ● 松枝到「外のアジアへ、複数のアジアへ」 &font(#696969){●} 柄谷行人・浅田彰「〈オリエンタリズム〉をめぐって」&font(#696969){〔→改題「オリエンタリズムとアジア」、柄谷行人『ダイアローグIII (1984-1986)』第三文明社、1987.1.〕} ● Edward W. Said「オリエンタリズム 序説」((Edward Wadie Said, &italic(){Orientalism}, Pantheon Books, 1978, Vintage Books, 1979))(板垣雄三訳)〔→「序文」、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳『オリエンタリズム』平凡社、1986.10→平凡社ライブラリー、上下、1993.6〕 ● 丹生谷貴志「Trans Europe-Asie Ex-press 歴史の〈外部〉」 ● 笠井潔「〈オリエンタリズム〉とライダー・ハガード」 ● ドナルド・F・ラック「キャセイ ヨーロッパの鏡、解釈の織布」 ● 高山宏「〈アジア〉のフェイクロア」 ● Hélène Larroche「なぜ〈マカオ或いは差異に賭ける〉なのか?」((Hélène Larroche, «Pourqoui «Macao ou jouer la différence»?», &italic(){Macao ou jouer la différence}, Editions du Centre Pompidou / Centre de Création Industrielle, 1983))(鈴木圭介訳) ● Jerzy Wojtowicz「我々の町の過去と現在の記憶」((Jerzy Wojtowicz, «Mémoire passée et présente de nos villes», &italic(){Macao ou jouer la différence}, Editions du Centre Pompidou / Centre de Création Industrielle, 1983))(鈴木圭介訳) ● 山口幸夫「上海 ふたつの通りから」 ● 村松伸「天安門にゴジラが出没する日」 ● 文:島尾伸三、写真:潮田喜久子「繒圖增註朱子治家格言」 ● 郭中端(編訳)「上海之騙術世界」 ● 玖保キリコ「ゲイ・シンガポールGAY SINGAPORE シンガポール絵日記」 ● Éric Alliez・Michel Feher「ソフィスティケーテッド・シティ」((Éric Alliez et Michel Feher, «La ville sophistiquée», &italic(){Chage international}, no.3, 1985. ; trans. by David Beriss and Astrid Hustvedt, «Notes on the Sophisticated City», &italic(){Zone}, vol.1-no.2, 1986: The Contemporary City, New York; Urzone, pp.40-55.))(浅田彰・市田良彦訳) [[«Notes on the Sophisticated City»>http://www.kt3d.com/pratt/ivan_rupnik/Alliez_and_Feher_The_Sophisticated_City.pdf]] ● 朝吹亮二「詩的東洋 I.Y.への手紙」 ● 松浦寿夫「東紅」 ● 藤井省三「魯迅における「白心(イノセンス)」の思想 エーデンの童話と蕗谷虹児の抒情画」 ● 西澤治彦「飲茶の話」 ● 国吉和子「功夫(カンフー)映画 「見せる武術」の装置」 ● 杉山太郎「中国映画『舞台姉妹』のシネマツルギー」 &font(#696969){●} 市田良彦「毛沢東の戦争論」&font(#696969){〔→改題、第2部「防御の唯物論とテロルの観念論」第3章「毛沢東の戦争論」、『闘争の思考』人文書院、1993.6〕} ● 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日 Vietnam War Monograph」 ● 荒俣宏「環太平洋ユートピア構想ノート あるいは大東亜共栄圏の不可能性」 ● 伊藤俊治「南島論1[ヌレック・アイランド] バリ 神々と遊ぶ、神々と死ぬ BALI TRAVELLING INTO THE LIFE, DYING IN THE NATURE」 ● 菅洋志「バリ」 ● 小沢秋広「アルトー・バリ島演劇・メキシコ アジアを通って」 ● 岩瀬彰「「洗練(ハルース)」の変容 インドネシアの衣装について」 ● 浅田彰・四方田犬彦「ナム・ジュン・パイクへの質問」 ● 金両基・四方田犬彦「ハングルの世界」 ● 上垣外憲一「ハングル論」 ● 四方田犬彦「タルチェムからマダン劇へ」 ● 李康列「マダン劇小考 仮面劇の現代的伝承のために」(青木謙介訳) ● 催仁浩「訪日エッセイ」(青木謙介訳) ● 関川夏央「ソウルの練習問題」 **vol.1 考察  (以下、記事は[[薔薇十字制作室>http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20050807]]から引用・修正)  1984年6月10日刊行というタイミングからして、「反ユートピア」という特集が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(早川文庫)のブームに呼応したものであることは疑い得ない。事実、浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦による対談「オーウェル・スウィフト・フーリエ」では、1984年現在の『一九八四年』のブームは、史上二番目のものであるという話題を四方田がするところから始まっている。一回目のブームは、鉄のカーテンが出来て、東西の冷戦が激化した頃だという。vol.1「特集・反ユートピア」の基本路線は、「古い管理社会のイメージを前提とした上で、それに対するイエスかノーかという二項対立の図式におさめてしまう」(浅田彰、p.27)という『一九八四年』の読み方を批判し、オーウェルのスウィフト論「象を撃つ」、スウィフトの『ガリバー旅行記』(岩波文庫)を媒介に、「究極といった観念、理想や真理といった観念そのものを危機に陥れる書物」として「一つの文学の喜劇的伝統のなかでとらえてみる観点」(四方田犬彦、p.27)を提示しようとするものである。  オーウェルの『一九八四年』は、ハックスリの『すばらしい新世界』(講談社文庫)、ザミャーチンの『われら』(岩波文庫)などの反ユートピア文学の系譜のなかに組み込まれて、再考察されている。また、浅田彰は、アンソニー・バージェスの『一九八五年』(サンリオ文庫)にも注目している。  (...)シャルル・フーリエと、フーリエの現代版であるピエール・クロソウスキーの紹介が成されていることにも注目されたい。  浅田彰は、当時ペヨトル工房から『IQ84』を刊行している。これはドクトル梅津バンド(後にDUBと改称)のカセットと浅田によるブックレットから成り立っていた。ここに反ユートピアの主題が、コンパクトにまとめられ(...)、そこで浅田はオーウェルの管理社会像は、「目に見える父権的な中心がすべてを集中的に掌握していて」、その権力の中心から発せられる「以外の情報はすべて遮断されている」というものであるが、今日の状況は「分散的・母性的な包摂」が特徴になっており、「可視的な中心をもたない分散的なメディアが全体として母性的なフィールドとなって人々を包み込む」タイプになっており、情報がむしろ「氾濫」することで、資本主義の一定の縛りが効くようになっているとし(この種の批判は「エレクトロニック・マザー・シンドローム」批判として『逃走論』「スキゾ・カルチャーの到来」で触れられている)、オーウェルタイプの管理社会像を「時代遅れ」とする。一方、アンソニー・バージェスの『一九八五年』は、オーウェルの『一九八四年』は「一九四八年」の現実そのものを写しており、それは悲惨だが、「原爆投下や強制収容所の現実を見た後」では、それさえも「ブラック・ユーモア状況」に見えるといっており、こちらの方を評価する。(引用箇所は、pp.8-9)ちなみにアンソニー・バージェスの『一九八五年』は、前半小説で、後半がインタビュー形式の評論になっている。  このブックレットには、クロソウスキーとフーリエのことも出てくるが、これは第2号の特集に絡むので、別の機会に触れることにする。  この号には、浅田彰や中沢新一の師匠格にあたる文化人類学の山口昌男のよる漫画が載っている。山口は、アフリカなどのフィールド・ワークの際のコミュニケーション・ツールとして漫画を使用していたという。 **vol.2 考察  この本の基本コンセプトは、フェリックス・ガタリ編集の雑誌『ルシェルシュ』十二号からの影響を得ているのではないか、と愚考する。『ルシェルシュ』十二号は、日本では市田良彦編訳・フェリックス・ガタリ協力『三〇億の倒錯者』(インパクト出版会刊行・イザラ書房発行)で刊行されている。  浅田彰は『構造と力』で、文化記号論批判の一環で、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』(二見書房)を取り上げた。そこでは、バタイユは構造とその外部の弁証法の側に立つ人ということになるが、「クラインの壷」と化した現代資本主義社会からすると、バタイユ的侵犯の持つシステムに対する質的差異は、直ちに貨幣の量的差異に変換され、エクスプロイット(開発=利用=搾取)され、なしくずしになる、とされた。  バタイユを批判して、クロソウスキーを評価するのかという点については、第一号の考察で使用したブックレット『IQ84』(ペヨトル工房)でも触れられている(pp.20-26を参照)。そこでは、バタイユの先駆としてマルキ・ド・サドが、クロソウスキーの先駆としてシャルル・フーリエがいたとされ、前者は正常/異常、光/闇といった二元論がしっかりできていて、正常な社会に対抗する為の特権的な秘密結社を措定するタイプとする。これに対し、フーリエの『愛の新世界』のヴィジョンの根本には、シミュラークル交換があって、どんどん差異化と新しい組み合わせを加速して、多種多様な倒錯を生み出せそうとしているとする。  プレ・モダンな専制的な権力の中心がしっかりある社会では、バタイユ的叛逆でも効果があるかも知れないが、構造を解体すること自体を構造化した資本主義という怪物的システムに対しては、多種多様性を認め、これを推し進める『愛の新世界』のフーリエ、および『生きた貨幣』(青土社)のクロソウスキーの方が有効であると、浅田は考える。資本主義は、ドゥルーズ=ガタリの理論では、脱コード化が進んでいるとはいえ、公理系に支配されている。公理系とは、利益追求の方向にしか進めないという生成を一定方向にする縛りのこである。この縛りを開くために、浅田はクロソウスキーを導入しようとするのである。というわけで、本号の特集におけるマイノリティー擁護の姿勢も、そういった思想的背景を押さえて置けば、了解できるであろう。 **vol.3 考察  「千のアジア」という言葉は、ドゥルーズ=ガタリの『千の高原(ミル・プラトー)』や坂本龍一の『千のナイフ』を連想させるが、さしあたり、基本コンセプトは、四方田犬彦の序文(これは目次に書かれていない。pp.16-17)を見れば、理解できる。そこには「アジアは一である、と岡倉天心は宣言した。」とあり、「いま、われわれはあえて天心に逆って、宣言する。アジアなるものはどこにもない。いや、それは千の身体に砕け散って、ここ・かしこに実在している」と書かれている。要するに、「外のアジアへ、複数のアジアへ」(松枝到)がテーマということである。このようなテーマが浮上したのは、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)の存在があったからであろう。  柄谷行人・浅田彰の対談「〈オリエンタリズム〉をめぐって」 では、日本の〈オリエンタリズム〉を鋭く批判している。ポイントとなるのは、次のような箇所である。「浅田 朝鮮となると、日本古代史は朝鮮古代史の貧弱な一章に過ぎないというくらいで、影響されているというより包含されているわけでしょう」(p.29)。この箇所は、たしか吉本隆明の反発を買った箇所であると記憶する。  「浅田 まぁ、天皇については、スケープゴート理論なんかを使って、天皇は共同体の中から排除されて析出した外部であるとか、そういう上方の外部として下方の外部である被差別民と通底しているとかいうわけだけど、事実性としていえば、天皇は端的に外から来たわけでしょう。そこには、端的に外であるようなものを、内なる外部として究極的に内部化する、そういうメカニズムが働いているんじゃないか。つまるところ、それは〈交通〉の遮断によるものですけど。」(p.29)。ここで批判されている理論は、山口昌男、網野善彦のそれである。浅田が依拠しているのは、文明の交通史観(マルクス+エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』から柄谷行人が、交通という概念を引っ張り出し、生産性の意味合いを除去し『マルクスその可能性の中心』に使用したという経緯がある)であり、共同体と共同体の交通によって、文明が栄えたとする考え方である。(...)
目次作成は[[薔薇十字制作室:はてな出張所>http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20050807]]と[[MIL BOOKS>http://www.milbooks.com/shop/detail.php?code=BK050798]]を参考にした。 GS: &bold(){1984.6-1988.9} [[→vol.4-7>http://www36.atwiki.jp/aabiblio/?page=GS%20%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%84%E7%9F%A5%E8%AD%98%20vol.4-7]] **&bold(){GS・たのしい知識、vol.1-3 1984.6-1985.10} #contents(fromhere) **vol.1, 1984.6「特集・反ユートピア」 &bold(){浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦責任編集}   発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン:戸田ツトム、本文レイアウト:戸田ツトム+GS編集部 GS狂言回廊 ● 佐藤良明「英語基本動詞研究宣言」 &font(#696969){●} 草野進「プロ野球は外見が実力につながる表層的な見世物である」&font(#696969){〔→改題「プロ野球は外見が実力につながる見世物である」、『どうしたって、プロ野球は面白い』中央公論社、1984.9→『世紀末のプロ野球』角川書店(角川文庫)、1986.7〕} &font(#696969){●} 松浦理英子「優しい去勢のために1 去勢への旅立ち、新たなるタイム・トリップ」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} &font(#696969){●} 渡部直巳「『プレジデント』あるいは勝者の愚鈍なる陽根」&font(#696969){〔→『ロラン・バルト風味 現代口語狂室:爆発するポップ・ヒーローたち』河出書房新社、1984.12〕} &font(#696969){●} 高橋源一郎「レイモンド・カーヴァーをアーヴィング・ハウがほめていた」&font(#696969){〔→『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』宝島社、1985.5→新潮社(新潮文庫)、1989.6〕} ● 如月小春「男装のメッセージ」 ● 絓秀実「「青春」歌謡とタリランおじさん」 ● ロジャー・パルヴァース「わたしのソウルをイカセたいんでしょう」(岸川典生訳) &font(#696969){●} 岩井克人「ホンモノのおカネの作り方」 &font(#696969){〔→『ヴェニスの商人の資本論』筑摩書房、1985.1→ちくま学芸文庫、1992.6〕} ● 三浦雅士「ボルヘスと小島信夫」 特集 反ユートピア ● 四方田犬彦「ユートピアからの遁走」 ● 浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦「オーウェル・スウィフト・フーリエ 反ユートピア論の系譜」 ● Roger L. Emerson「ユートピア」((Roger L. Emerson, «Utopia», &italic(){Dictionary of the History of Ideas}, vol.4, Charles Scribner’s Son, 1973))(岡崎一訳) &font(#696969){●} 四方田犬彦「ガリヴァーの誤謬 スウィフト『ガリヴァー旅行記・第四篇』を読む」&font(#696969){〔→『空想旅行の修辞学:『ガリヴァー旅行記』論』七月堂、1996.6〕} ● Pierre Klossowski「ガリヴァー最後の御奉仕 G・ドゥルーズのための狂言」((Pierre Klossowski, «Les Derniers Travaux de Gulliver», &italic(){L'Arc}, no.49, Aix-en-Provence, 1972. Repris dans &italic(){Roberte et Gulliver}, Fata Morgana, 1987))(西成彦訳) ● Charles Fourier「テクスト『愛の新世界』を横断する 抄訳の試み」((Charles Fourier, &italic(){Le nouveau monde amoureux,} ?, 1979. 〔福島知己訳『愛の新世界』作品社、2006〕))(浅田彰・市田良彦訳)/浅田彰・市田良彦「『愛の新世界』への旅」 ● Robert C. Elliott「ユートピアへの恐怖」((Robert C. Elliott, «The Fate of Utopia», &italic(){The Shape of Utopia: Studies in a Literary Genre}, Chapter 5, University of Cicago Press, 1970.))(岡崎一訳) ● 伊藤俊治構成「DEATHTOPIA DOZEN ユートピア・イメージをめぐる12のブリ・コラージュ」 ● 鈴木晶「『われら』を十倍楽しく読む方法 ザミャーチン・神話・エントロピー」 ● 伊藤俊治「さかしまのヌーディズム 裸体とユートピア幻想」 ● 松山巌「『ナチ・ドイツ 清潔な帝国』を読む」 ● 三宅晶子「ユートピアから反ユートピアへ ドイツ『第三帝国』前史」 ● 関和朗・菊地誠・赤坂善顕「ピラネージそして/あるいは不在のグラフィック」 ● Ivanka Stoïanova「エルンスト・プロッホによる音楽 ユートピアと現代の西洋音楽」((Ivanka Stoïanova, «La musique-utopie d’après Ernst Bloch et la musique occidental contemporaine», &italic(){Le discours utopique}, U.G.E., 1978))(笠羽映子訳) &font(#696969){●} 梅本洋一「空間・速度・光 フリッツ・ラングについて」&font(#696969){〔→『映画のたのしみ』青土社、1984.12〕} ● 細川周平「ゴール!ディノ・ゾフに 旋回するボールのユートピア」 ● 旦敬介「黄金(ユートピア)幻想の超克あるいはローペ・デ・アギーレの立腹」 ● マージョリー・H・ニコルソン「宇宙旅行 厭離穢土の観念史」(高山宏訳) &font(#696969){●} 高山宏「ユートピアのことば、ことばのユートピア ユートピアとしての十七世紀〈普遍学〉」&font(#696969){〔→『メデューサの知 アリス狩り3』青土社、1987.8〕} ● 武邑光裕「未完の霊人 出口王仁三郎 言語パフォーマンスと『霊界物語』」 &font(#696969){●} 中上健次「異界にて」&font(#696969){〔→『中上健次エッセイ撰集 青春・ボーダー篇』恒文社、2001.8〕} その他 ● 山口昌男(絵・文)「痴の最前線1 ポスト・コゾウ主義の怪」 &font(#696969){●} Jacques Derrida「ロラン・バルトの複数の死(者)」((Jacques Derrida, «Les Morts de Roland Barthe», &italic(){Poétique}, no.47, septembre 1981. Repris dans -, -. [國分功一郎訳「ロラン・バルトの複数の死」、『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉1』岩波書店、2006、pp.79-159.]))(千葉文夫訳) ● 松浦寿輝「不眠をめぐる断章 あるいは否定について」 **vol.2、1984.11「特集=POLYSEXUAL~複数の性」 &bold(){浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦責任編集}  発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン・本文レイアウト:戸田ツトム、表紙写真:宮内勝 狂言回廊 &font(#696969){●} 草野進「管理野球とは、火事場泥棒の倫理である」&font(#696969){〔→『プロ野球批評宣言』冬樹社、1985.3→『世紀末のプロ野球』角川書店(角川文庫)、1986.7→『プロ野球批評宣言』新潮社(新潮文庫)、1988.1〕} ● ねじめ正一「五福星はわんこそば大全」 ● 豊崎光一「正統と異端あるいはラグビーとフランス」 ● 如月小春「髪型勝手論」 ● ロジャー・パルバース「現実なんてうすっぺらな紙切れみたいなもんだ」(浜口稔訳) ● 高橋源一郎「変な外国雑誌が送られてきた日」 ● 坂本龍一「音楽図鑑スクラッチノート」 ● 糸井重里「無断上演を許可する。処女漫才台本「ぼくはガンなのだ」」 ● 細川周平「フィレンツェ・サッカー」 ● 関曠野「現前の神話と西欧の暴力」 ● 野々村文宏「私たちは新人類じゃない」 ● 中森明夫「あまりにも『おそ松くん』な現在思想(ニューアカデミズム)」 ● 田口賢司「田中康夫のもんだい あるいは元気な20代」 ● 佐藤良明「英語基本動詞研究 連載2 I "HAVE"の巻」 特集 POLYSEXUAL 複数の性 ・ 四方田犬彦「無題(性についてはあらゆることが語られている。医学的に、法的に、社会的に……)」(巻頭言) American Polysexualアメリカン・ポリセクシャル ・ 武邑光裕「性の身体測量 Sex, Esoterics, Anthropometries」 ・ 伊藤俊治「セックスシアターのフリークス FROM POLYSEXUAL TO ASEXUAL」 ・ 生井英考「エメラルド・シティ あるいは彼らの魔窟(パンディトリウム)だったところ」 ・ Sylvère Lotoringer「defunkt sex 故人となり、機能を停止し、泥くささを脱したセックス」((Sylvère Lotoringer, «defunkt sex», &italic(){SEMIOTEXT(E)}, vol.4-no.1, 1981 &italic(){:Polysexuality}, ed. by Françoise Peraldi, pp.271-297. [[Lotoringer>http://en.wikipedia.org/wiki/Sylv%C3%A8re_Lotringer]]について邦語で読める資料は数少ない。cf. [[小林浩「編集者に徹する大学教授ロトランジェの旺盛な活躍ぶり」>http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&ct=res&cd=2&url=http%3A%2F%2Fwww.aguni.com%2Fhon%2Fback%2Fgogatu%2F19.html&ei=DWvgSZ-xEpSHkAXA5ZTOCw&usg=AFQjCNGSmrcz0DsjQMO-xpmSfeawdihasQ]]))(旦敬介訳) ● 大場正明構成「FUTURE SEX」 ● 伴田良輔構成「すぐ役立つ独身者マニュアル」 ● Félix Guattari「〈女性=生成変化(になること)〉」((Félix Guattari. «Devenir femme», &italic(){La Révolution moléculaire}, Editions Recherches, Paris, 1977. 〔杉村昌昭訳『分子革命:欲望社会のミクロ分析』法政大学出版局、1988.3〕))(岩野卓司訳) ● Félix Guattari「欲望の解放 ジョージ・スタンボリアンによるインタビュー」((Félix Guattari, «A Liberation of Desire. An Interview by George Stambolian», &italic(){Homosexualities and French Litterature: Cultural Contexts/Critical Texts}, ed. by George Stambolian and Elaine Marks, Cornell University Press, 1979, pp.56-69.))(上谷俊則訳) [思考のコラージュ]クロソウスキー断層を測量する ・ Gilles Deleuze「クロソウスキーあるいは身体-言語」((Gilles Deleuze, «Pierre Klossowski ou le corps-langage», &italic(){Critique}, no.214, pp.199-219. Repris, modifié, en appendice de &italic(){Logique du sens}, Paris; Editions de Minuit, 1969. 〔小泉義之訳「クロソウスキー、あるいは身体-言語」、『意味の論理学』下、河出文庫、2007〕))(浅田彰・市田良彦訳) ・ Gilles Deleuze・Félix Guattari「トランスセクシュアリテ 『アンチ・エディプス』からの三つの断片」((Gilles Deleuze et Félix Guattari,&italic(){ L'Anti-Œdipe}, Éditions de Minuit, 1972. 〔市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症』河出書房新社、1986;宇野邦一訳『アンチ・オイディプス』上下、河出文庫、2006〕))(浅田彰・市田良彦訳) ・ Jean-Francois Lyotard「『エコノミー・リビディナル』からの二章」((Jean-Francois Lyotard, &italic(){Economie Libidinale}, Minuit, 1974. 〔杉山吉弘・吉谷啓次訳『リビドー経済』法政大学出版局、1997〕))(浅田彰・市田良彦訳) ● 花村誠一「シュレーバー論の系譜」 ● 浅田彰・伊藤俊治・植島啓司・四方田犬彦「バルチュスに始まる」 ● 松浦寿輝「バルチュスの衣裳」 ● 千葉文夫「バルチュス あたかも絵のなかに入ってゆくかのように」 ● 朝吹亮二「OPUS 47~52」 ● 西成彦(え:B・シュルツ、ぶん:にしきさひこ)「マゾヒズム・革命・馬:あるいは20世紀のロマン主義絵画」 ● 西成彦「苦痛論:快感原則とは何か」 ● Roland Barthes「フォン・グローデン男爵」((Roland Barthes, «Wilhelm von Gloden», introduction à &italic(){Taormina} par Wilhelm von Gloden, Amelio Editiore, 1978. Repris dans &italic(){L'Obvie et l'Obtus: Essais critiques III}, Éditions du Seuil, Paris, 1982. Aussi repris dans &italic(){Œuvres complètes, tome III : 1974-1980}, Éditions du Seuil, Paris, 1995. 〔第8章「ヴィルヘルム・フォン・グレーデン」、沢崎浩平訳『美術論集:アルチンボルドからポップ・アートまで』みすず書房、1986.7. 注:&italic(){L'Obvie et l'Obtus: Essais critiques III}は沢崎訳『第三の意味』と本書を合わせたものに相当している。原著全集版は3巻構成だが、邦訳版では10巻構成となっており、本文章は石川美子訳『ロラン・バルト著作集10 新たな生のほうへ 1978-1980』(みすず書房、2003.2)に収められていると思われる〕))(西野嘉章訳) ● Roland Barthes「ベルナール・フォーコン」((Roland Barthes, «Bernard Faucon»(lettre à Bernard Faucon, 1977), &italic(){Zoom}, no.47, Sté Publicness, octobre 1979. Repris dans &italic(){Œuvres complètes, tome III : 1974-1980}, Éditions du Seuil, Paris, 1995. 〔石川美子訳「ベルナール・フォコン」、『ロラン・バルト著作集10 新たな生のほうへ 1978-1980』(みすず書房、2003.2〕))(西野嘉章訳) ● Philippe Sollers「サドという文字(レットル)」((Philippe Sollers, «Lettre de Sade», &italic(){Revue de psychanalyse}, VEL, no.1, 1975: Matière et pulsion de mort, Editions Marsilio et Union Générale d’Édition. Publié aussi dans &italic(){Tel Quel}, LXI, 1975, pp.40-50. Repris dans &italic(){Théorie des Exceptions}, Gallimard, 1985. 〔宮林寛訳「サドの手紙」、『例外の理論』せりか書房、1991.7〕))(千葉文夫訳) ● 四方田犬彦「ブニュエルと神学」 ※「神学」に打ち消し線 ● 兼子正勝「皮膚の言葉 バタイユからバルトへ」 &font(#696969){●} 梅本洋一「ある劇作家の誕生 衣裳交換とサーシャ・ギトリ」&font(#696969){〔→第4章、『サッシャ・ギトリ:都市・演劇・映画』勁草書房、1990.11〕} ● 西野嘉章「愛(エロス)と場(トポス) 接吻のイコノロジー」 ● 夏石番矢「性的犠論」 ● Michel Foucault「両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて」((Michel Foucault, «Présentation»[223], introduction à H&italic(){erculine Barbin dit Alexina B}, Gallimard, 1978. Repris dans «Introduction»[276], Michel Foucault, ed., &italic(){Herculine Barbin}. Eng. New York, 1980, pp.VII-XVIII. «Le vrai sexe»[287], &italic(){Arcadie}, vol.27-no.3, novembre 1980, pp.617-625. Trois textes est repris dans &italic(){Dits et Ecrits}, III([166]-[274]) et IV([275]-[364]), Gallimard, 1994. 〔[223]鈴木雅雄訳「紹介文」、『ミシェル・フーコー思考集成8』筑摩書房、2001.9;[276]「序文」大西雅一郎訳、[287]蓮實重彦訳「両性具有者の性」、『海』1980年9月号→『ミシェル・フーコー思考集成8 1979-1981』筑摩書房、2001.9〕 ※浜名訳・蓮實訳はともにフーコーによる序文のみだが、書籍の本文にあたるHerculine Barbin dit Alexina Bには邦訳がある。大杉重男訳「エルキュリーヌ・バルバン、通称アレクシナ・B」、『重力』02、発行:「重力」編集会議、発売:作品社、2003.4、pp.204-287.)〕))(浜名恵美訳)&font(#696969)〔→須永朝彦編編『書物の王国9 両性具有』国書刊行会、1998.2〕} ● Eugénie Lemoine-Luccioni「服装倒錯から性転換症へ」((Eugénie Lemoine-Luccioni, «Du travestisme au transsexualisme», &italic(){La robe. Essai Psychanalytique Sur Le Vetement}, Editions du Seuil, 1983.))(西澤一光・加川順治訳) &font(#696969){●} 松浦理英子「性と生の彼方 両性具有とプラトニック・ラブ」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} &font(#696969){●} 渡部直己「A感覚とE感覚 『少年愛の美学』の余白に」&font(#696969){〔→『リアリズムの構造・批評の風景』論創社、1988.9〕} ● 石井辰彦「弟の墓 I」 ● 出口逸平「機巧(からくり)の性 鶴屋南北『桜姫東文章』を繞って」 &font(#696969){●} 藤井貞和「『源氏物語』の性、タブー」&font(#696969){〔→『物語の結婚』創樹社、1985.7→ちくま学芸文庫、1995.10〕} &font(#696969){●} 金塚貞文「オナニーという迷路(ラビリンス)」&font(#696969){〔→『オナニズムの仕掛け』青弓社、1987.12〕} &font(#696969){●} 宮西計三(作画)「うつくしきかしら」&font(#696969){〔→『エステルEsther あふれてくるもの 宮西計三作品集』ペヨトル工房、1990.8〕} ● Jean Baudrillard「オージーノアト、キミ、ナニシテル?」((Jean Baudrillard, «&italic(){What are you doing after the orgy}?», &italic(){Traverses}, no.29, 1983&italic(){: L’obscène}, pp.2-15. ; trans. eng.: &italic(){Artforum}, October 1983, pp.42-46.))(上田知則・加川順治訳) ● Christine Buci-Glucksmann「ウィーンにおける他者性の形(フィギュール) 女性性とユダヤ性」((Christine Buci-Glucksmann, «Figures viennoise de l’altérité, Féminité et judaïté», &italic(){L’Ecrit du temps}, no.5, hiver 1984 &italic(){:Que stions de Judaïsme}, sous la direction de Marie Moscovici et Jean-Michel Rey, Minuit. Repris dans &italic(){La Raison Baroque: De Baudelaire à Benjamim}, Galilée, 1984. 〔杉本紀子訳「補足・他者性のウィーン的形象」、『バロック的理性と女性原理:ボードレールからベンヤミンへ』筑摩書房(バロック・コレクション)、1987.12〕))(立川健ニ訳) &font(#696969){●} 荒俣宏「植物の閨房哲学 進化論とのかかわりに向けて」&font(#696969){〔→『目玉と脳の大冒険:博物学者たちの時代』筑摩書房、1987.4→ちくま文庫、1992.12〕} ● Daniel Charles「声の官能(エロティック)論 あるいはひとつの音楽とみなされたエロティスムについて」((Daniel Charles, «D’une érotique de la voix, ou, de l’érotisme considéré comme une musique», &italic(){Revue d’Esthétique}, no.1-2, 1978 &italic(){:Erotique}))(笠羽映子訳) 浅田彰構成「性を横断する声」((構成者序言「負の両性具有者ともいうべきバロック・オペラの去勢歌手(カストラート)たちから、奇抜なファルセット・ヴォイスで次々に女声のアリアに挑み、ついにはAIDSにたおれたオペラ・ロックの怪人クラウス・ノミまで――青ざめた虚像としての彼らは、その背後に、生の強度に満ちたトランスセクシュアルな欲望のざわめきを秘めているのではなかったか。(改行)ここではその消息を、ドミニク・フェルナンデスの問題提起と、それをうけたドゥルーズ=ガタリの問題提起を手がかりとして、たどってみることにしよう」))(下記三本のうちドゥルーズ+ガタリを上段に、フェルナンデスを下段に抜粋し並列配置) ・ Gilles Deleuze・Félix Guattari「生成する音楽 『ミル・プラトー』からの二つの断片」((Gilles Deleuze et Félix Guattari, &italic(){Milles Plateaux}, Éditions de Minuit, 1980. 〔宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳『千のプラトー』河出書房新社、1994〕))(浅田彰・水嶋一憲訳) ・ Dominique Fernandez「料理万歳! 『チューダーの薔薇』La rose des Tudors (Julliard,1976) 第一章」((Dominique Fernandez, &italic(){La Rose des Tudors}, Julliard, 1976. ))(浅田彰・水嶋一憲訳) ・ Dominique Fernandez「『ポルポリーノ』からの断片」((Dominique Fernandez, &italic(){Porporino ou les Mysteres de Naples, Grasset}, coll. «Cahiers rouges», 1974, réédition, 2005.〔三輪秀彦訳『ポルポリーノ』早川書房、1981.2〕))(三輪秀彦訳) &font(#696969){●} 宇野邦一「「ヘリオガバルス」論」&font(#696969){〔→加筆修正、第3章、『アルトー:思考と身体』白水社、1997.5〕} **vol.2 1/2「特集=GODARD SPECIAL」 &bold(){vol.2 1/2、1985.3、浅田彰・四方田犬彦責任編集}(編集協力:梅本洋一)  発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン・本文レイアウト:戸田ツトム・鈴木一誌 狂言回廊 &font(#696969){●} 草野進「プロ野球とは、輝きへの嫉妬が交錯する場でなければならない」&font(#696969){〔→『世紀末のプロ野球』角川書店(角川文庫)、1986.7〕} &font(#696969){●} 香山リカ「リカと自転車と平滑筋肉腫」&font(#696969){〔→『リカちゃんコンプレックス』太田出版、1991.7→早川書房(ハヤカワ文庫)、1994.9〕} ● 豊崎光一「スタイルの闘い1」 &font(#696969){●} 松浦理英子「優しい去勢のために2 欲望の処方箋」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} ● 細川周平「応援席から ユヴェントス対トリノ」 ● 北村昌士「ノイズ 脱経済カテゴリーの逆襲」 ● 田中康夫「この頃やたらと女の子が元気がいいわけについての二、三の考察」 特集 Godard Special ゴダール・スペシャル ● 四方田犬彦「世界の起源の映像」 ● 松浦寿輝「売春制度としての映画」 ● 梅本洋一「おじさんは怒ってるんだゾー ハリウッド・シネマとゴダール」 ● Suzanne Schiffman「ヌーヴェル・ヴァーグ二五年を回想する ジェラール・ラングロワによるインタビュー」((Suzanne Schiffman, «Suzanne Schiffman, par Gérard Langlois», &italic(){La nouvelle vague 25 après}, Les Editions du Cerf, 1983.))(鈴木圭介訳) ● 内藤誠「マイナー映画をめぐって」 ● 奥村昭夫・黒沢清「現実の反映ではなく、反映の現実を」 ● 「シアター・ゼロが『ゴダール/映画史』を模倣するに至るニ、三の真実(プラウダ)」 ● Jacques Drillion「映像としての音 『カルメンという名の女』撮影ルポタージュ」((Jacques Drillion, «Le son comme une image», &italic(){Le Monde de la musique}, no.55, avril 1983.))(奥村昭夫訳) &font(#696969){●} 「ゴダール、不断の半勃起」(松浦寿輝との対談、1984.7.7.六本木シネ・ヴィヴァン開館時の公開イヴェント)、『GS』vol.2 1/2「Godard Special」、1985.3 &font(#696969){〔→『ゴダールの肖像』とっても便利出版部、1997.4.→増補改定版、2000.12.25→改題「ゴダールを語る1:松浦寿輝との対話」、『映画の世紀末』新潮社、2000〕} ● 四方田犬彦構成「ゴダール・グラフィティ」 ● Jean-Luc Godard「弦楽四重奏曲を演奏するのと同じように映画をつくること ジャック・ドリヨンによるインタビュー」((Jean-Luc Godard, «Faire un film comme on joue un quatuor», L&italic(){e Monde de la musique}, no.55, avril 1983.))(奥村昭夫訳) 四方田犬彦編「ゴダールとTV」 ・ 四方田犬彦「カインとアベル」 ・ Jean-Luc Godard・Anne-Marie Miéville「6×2」(西澤一光訳) ・ Jean-Luc Godard・Anne-Marie Miéville「二人の子供・フランス漫遊記」(藤井契訳) ・ Colin MacCave「ゴダールとTVメディア」((Colin MacCabe, «?», &italic(){Godard: Images, Sounds, Politics}, BFI, 1980, Chapter 6. (Chapter 5: 鈴木聡訳「女のイメージ・性のイメージ」、『ユリイカ』1983年5月号「増頁特集=ゴダール 映画の未来」)))(鈴木圭介訳) ● Jean-Luc Godard・Paulin Kael「映画批評の経済学」((Jean-Luc Godard and Paulin Kael, «The Economics of Film Criticism», &italic(){camera obscura}, no.8-9-10, Fall 1982))(早川光敬訳) ● 坂本龍一「『気狂いピエロ』をめぐって書かれなかった日記」 ● 如月小春「ゴダールはかっこいい」 ● 蓮實重彦「破局的スローモーション」 ● 松枝到「中国女、おまえは誰だ?」 ● 武邑光裕「アルファヴィルのターザン リメイク・オブ・ゴダール」 ● 落合一泰「民族誌学の「受難」 『パッション』覚書」 ● 「この私を見よ 私がパロディアス・ユニティ君だ」 ● 兼子正勝「映画史の回廊から 『パッション』について」 ● 松浦寿夫「クロマポリティーク F.Bへの手紙」 ● 宇野邦一「名前のまえには何もない?」 ● [[樫村晴香「『革命の諸要素』」>http://www.k-hosaka.com/kashimura/kakumei.html]] ● Alan Williams「ゴダールにおける音の用法」((Alan Williams, «Godard’s Use of Sound», &italic(){camera obscura}, no.8-9-10, Fall 1982.))(鈴木圭介訳) ● Stephen Heath「映画のセクシュアル・ポリティクス」(加藤幹郎訳) ● 加藤幹郎「新しい映画のために フェミニスト・エッセイ」 その他 ● 松浦寿輝「不眠をめぐる断章、ふたたび」 ● 菊地誠・篠崎元・彦坂裕・関和明「logo-gramme/logo-graphe 2 ルドゥー:快楽の館・愉悦の園」 **vol.3、1985.10「特集=千のアジア」 &bold(){浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦責任編集}  発行所:冬樹社、表紙・目次デザイン・本文レイアウト:戸田ツトム、表4写真撮影:宮内勝 狂言回廊 ● 豊崎光一「スタイルの闘い2」 &font(#696969){●} 松浦理英子「優しい去勢のために3 肛門、此岸のユートピア」&font(#696969){〔→『優しい去勢のために』筑摩書房、1994.9〕} ● 島田雅彦「アルカゴーリク(アル中)について」 ● 橋爪大三郎「ゲームと社会」 ● 宮内順子「北京服飾事情」 ● 石井康史「オン・ザ・ボーダー 禁酒法とメキシカン・ラス・ヴェガス」 ● 法貴和子「床下のフランク・チキンズ」 ● 佐藤良明「英語基本動詞研究 連載3 “KNOW”の巻」 特集 千のアジア ● 松枝到「外のアジアへ、複数のアジアへ」 &font(#696969){●} 柄谷行人・浅田彰「〈オリエンタリズム〉をめぐって」&font(#696969){〔→改題「オリエンタリズムとアジア」、柄谷行人『ダイアローグIII (1984-1986)』第三文明社、1987.1.〕} ● Edward W. Said「オリエンタリズム 序説」((Edward Wadie Said, &italic(){Orientalism}, Pantheon Books, 1978, Vintage Books, 1979))(板垣雄三訳)〔→「序文」、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳『オリエンタリズム』平凡社、1986.10→平凡社ライブラリー、上下、1993.6〕 ● 丹生谷貴志「Trans Europe-Asie Ex-press 歴史の〈外部〉」 ● 笠井潔「〈オリエンタリズム〉とライダー・ハガード」 ● ドナルド・F・ラック「キャセイ ヨーロッパの鏡、解釈の織布」 ● 高山宏「〈アジア〉のフェイクロア」 ● Hélène Larroche「なぜ〈マカオ或いは差異に賭ける〉なのか?」((Hélène Larroche, «Pourqoui «Macao ou jouer la différence»?», &italic(){Macao ou jouer la différence}, Editions du Centre Pompidou / Centre de Création Industrielle, 1983))(鈴木圭介訳) ● Jerzy Wojtowicz「我々の町の過去と現在の記憶」((Jerzy Wojtowicz, «Mémoire passée et présente de nos villes», &italic(){Macao ou jouer la différence}, Editions du Centre Pompidou / Centre de Création Industrielle, 1983))(鈴木圭介訳) ● 山口幸夫「上海 ふたつの通りから」 ● 村松伸「天安門にゴジラが出没する日」 ● 文:島尾伸三、写真:潮田喜久子「繒圖增註朱子治家格言」 ● 郭中端(編訳)「上海之騙術世界」 ● 玖保キリコ「ゲイ・シンガポールGAY SINGAPORE シンガポール絵日記」 ● Éric Alliez・Michel Feher「ソフィスティケーテッド・シティ」((Éric Alliez et Michel Feher, «La ville sophistiquée», &italic(){Chage international}, no.3, 1985. ; trans. by David Beriss and Astrid Hustvedt, «Notes on the Sophisticated City», &italic(){Zone}, vol.1-no.2, 1986: The Contemporary City, New York; Urzone, pp.40-55.))(浅田彰・市田良彦訳) [[«Notes on the Sophisticated City»>http://www.kt3d.com/pratt/ivan_rupnik/Alliez_and_Feher_The_Sophisticated_City.pdf]] ● 朝吹亮二「詩的東洋 I.Y.への手紙」 ● 松浦寿夫「東紅」 ● 藤井省三「魯迅における「白心(イノセンス)」の思想 エーデンの童話と蕗谷虹児の抒情画」 ● 西澤治彦「飲茶の話」 ● 国吉和子「功夫(カンフー)映画 「見せる武術」の装置」 ● 杉山太郎「中国映画『舞台姉妹』のシネマツルギー」 &font(#696969){●} 市田良彦「毛沢東の戦争論」&font(#696969){〔→改題、第2部「防御の唯物論とテロルの観念論」第3章「毛沢東の戦争論」、『闘争の思考』人文書院、1993.6〕} ● 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日 Vietnam War Monograph」 ● 荒俣宏「環太平洋ユートピア構想ノート あるいは大東亜共栄圏の不可能性」 ● 伊藤俊治「南島論1[ヌレック・アイランド] バリ 神々と遊ぶ、神々と死ぬ BALI TRAVELLING INTO THE LIFE, DYING IN THE NATURE」 ● 菅洋志「バリ」 ● 小沢秋広「アルトー・バリ島演劇・メキシコ アジアを通って」 ● 岩瀬彰「「洗練(ハルース)」の変容 インドネシアの衣装について」 ● 浅田彰・四方田犬彦「ナム・ジュン・パイクへの質問」 ● 金両基・四方田犬彦「ハングルの世界」 ● 上垣外憲一「ハングル論」 ● 四方田犬彦「タルチェムからマダン劇へ」 ● 李康列「マダン劇小考 仮面劇の現代的伝承のために」(青木謙介訳) ● 催仁浩「訪日エッセイ」(青木謙介訳) ● 関川夏央「ソウルの練習問題」 **vol.1 考察  (以下、記事は[[薔薇十字制作室>http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20050807]]から引用・修正)  1984年6月10日刊行というタイミングからして、「反ユートピア」という特集が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(早川文庫)のブームに呼応したものであることは疑い得ない。事実、浅田彰・伊藤俊治・四方田犬彦による対談「オーウェル・スウィフト・フーリエ」では、1984年現在の『一九八四年』のブームは、史上二番目のものであるという話題を四方田がするところから始まっている。一回目のブームは、鉄のカーテンが出来て、東西の冷戦が激化した頃だという。vol.1「特集・反ユートピア」の基本路線は、「古い管理社会のイメージを前提とした上で、それに対するイエスかノーかという二項対立の図式におさめてしまう」(浅田彰、p.27)という『一九八四年』の読み方を批判し、オーウェルのスウィフト論「象を撃つ」、スウィフトの『ガリバー旅行記』(岩波文庫)を媒介に、「究極といった観念、理想や真理といった観念そのものを危機に陥れる書物」として「一つの文学の喜劇的伝統のなかでとらえてみる観点」(四方田犬彦、p.27)を提示しようとするものである。  オーウェルの『一九八四年』は、ハックスリの『すばらしい新世界』(講談社文庫)、ザミャーチンの『われら』(岩波文庫)などの反ユートピア文学の系譜のなかに組み込まれて、再考察されている。また、浅田彰は、アンソニー・バージェスの『一九八五年』(サンリオ文庫)にも注目している。  (...)シャルル・フーリエと、フーリエの現代版であるピエール・クロソウスキーの紹介が成されていることにも注目されたい。  浅田彰は、当時ペヨトル工房から『IQ84』を刊行している。これはドクトル梅津バンド(後にDUBと改称)のカセットと浅田によるブックレットから成り立っていた。ここに反ユートピアの主題が、コンパクトにまとめられ(...)、そこで浅田はオーウェルの管理社会像は、「目に見える父権的な中心がすべてを集中的に掌握していて」、その権力の中心から発せられる「以外の情報はすべて遮断されている」というものであるが、今日の状況は「分散的・母性的な包摂」が特徴になっており、「可視的な中心をもたない分散的なメディアが全体として母性的なフィールドとなって人々を包み込む」タイプになっており、情報がむしろ「氾濫」することで、資本主義の一定の縛りが効くようになっているとし(この種の批判は「エレクトロニック・マザー・シンドローム」批判として『逃走論』「スキゾ・カルチャーの到来」で触れられている)、オーウェルタイプの管理社会像を「時代遅れ」とする。一方、アンソニー・バージェスの『一九八五年』は、オーウェルの『一九八四年』は「一九四八年」の現実そのものを写しており、それは悲惨だが、「原爆投下や強制収容所の現実を見た後」では、それさえも「ブラック・ユーモア状況」に見えるといっており、こちらの方を評価する。(引用箇所は、pp.8-9)ちなみにアンソニー・バージェスの『一九八五年』は、前半小説で、後半がインタビュー形式の評論になっている。  このブックレットには、クロソウスキーとフーリエのことも出てくるが、これは第2号の特集に絡むので、別の機会に触れることにする。  この号には、浅田彰や中沢新一の師匠格にあたる文化人類学の山口昌男のよる漫画が載っている。山口は、アフリカなどのフィールド・ワークの際のコミュニケーション・ツールとして漫画を使用していたという。 **vol.2 考察  この本の基本コンセプトは、フェリックス・ガタリ編集の雑誌『ルシェルシュ』十二号からの影響を得ているのではないか、と愚考する。『ルシェルシュ』十二号は、日本では市田良彦編訳・フェリックス・ガタリ協力『三〇億の倒錯者』(インパクト出版会刊行・イザラ書房発行)で刊行されている。  浅田彰は『構造と力』で、文化記号論批判の一環で、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』(二見書房)を取り上げた。そこでは、バタイユは構造とその外部の弁証法の側に立つ人ということになるが、「クラインの壷」と化した現代資本主義社会からすると、バタイユ的侵犯の持つシステムに対する質的差異は、直ちに貨幣の量的差異に変換され、エクスプロイット(開発=利用=搾取)され、なしくずしになる、とされた。  バタイユを批判して、クロソウスキーを評価するのかという点については、第一号の考察で使用したブックレット『IQ84』(ペヨトル工房)でも触れられている(pp.20-26を参照)。そこでは、バタイユの先駆としてマルキ・ド・サドが、クロソウスキーの先駆としてシャルル・フーリエがいたとされ、前者は正常/異常、光/闇といった二元論がしっかりできていて、正常な社会に対抗する為の特権的な秘密結社を措定するタイプとする。これに対し、フーリエの『愛の新世界』のヴィジョンの根本には、シミュラークル交換があって、どんどん差異化と新しい組み合わせを加速して、多種多様な倒錯を生み出せそうとしているとする。  プレ・モダンな専制的な権力の中心がしっかりある社会では、バタイユ的叛逆でも効果があるかも知れないが、構造を解体すること自体を構造化した資本主義という怪物的システムに対しては、多種多様性を認め、これを推し進める『愛の新世界』のフーリエ、および『生きた貨幣』(青土社)のクロソウスキーの方が有効であると、浅田は考える。資本主義は、ドゥルーズ=ガタリの理論では、脱コード化が進んでいるとはいえ、公理系に支配されている。公理系とは、利益追求の方向にしか進めないという生成を一定方向にする縛りのこである。この縛りを開くために、浅田はクロソウスキーを導入しようとするのである。というわけで、本号の特集におけるマイノリティー擁護の姿勢も、そういった思想的背景を押さえて置けば、了解できるであろう。 **vol.3 考察  「千のアジア」という言葉は、ドゥルーズ=ガタリの『千の高原(ミル・プラトー)』や坂本龍一の『千のナイフ』を連想させるが、さしあたり、基本コンセプトは、四方田犬彦の序文(これは目次に書かれていない。pp.16-17)を見れば、理解できる。そこには「アジアは一である、と岡倉天心は宣言した。」とあり、「いま、われわれはあえて天心に逆って、宣言する。アジアなるものはどこにもない。いや、それは千の身体に砕け散って、ここ・かしこに実在している」と書かれている。要するに、「外のアジアへ、複数のアジアへ」(松枝到)がテーマということである。このようなテーマが浮上したのは、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)の存在があったからであろう。  柄谷行人・浅田彰の対談「〈オリエンタリズム〉をめぐって」 では、日本の〈オリエンタリズム〉を鋭く批判している。ポイントとなるのは、次のような箇所である。「浅田 朝鮮となると、日本古代史は朝鮮古代史の貧弱な一章に過ぎないというくらいで、影響されているというより包含されているわけでしょう」(p.29)。この箇所は、たしか吉本隆明の反発を買った箇所であると記憶する。  「浅田 まぁ、天皇については、スケープゴート理論なんかを使って、天皇は共同体の中から排除されて析出した外部であるとか、そういう上方の外部として下方の外部である被差別民と通底しているとかいうわけだけど、事実性としていえば、天皇は端的に外から来たわけでしょう。そこには、端的に外であるようなものを、内なる外部として究極的に内部化する、そういうメカニズムが働いているんじゃないか。つまるところ、それは〈交通〉の遮断によるものですけど。」(p.29)。ここで批判されている理論は、山口昌男、網野善彦のそれである。浅田が依拠しているのは、文明の交通史観(マルクス+エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』から柄谷行人が、交通という概念を引っ張り出し、生産性の意味合いを除去し『マルクスその可能性の中心』に使用したという経緯がある)であり、共同体と共同体の交通によって、文明が栄えたとする考え方である。(...)

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