楽進


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楽進 (がくしん)


三国志大戦3より

Wikipedia
楽進(がくしん、? - 218年)は、中国、後漢末期に曹操に仕えた武将。字は文謙。楽綝の父、
楽肇の祖父。

并州陽平郡衛国県の人。身体は小柄だが、性格が剛毅果断な勇将だったという。曹操の挙兵時より
従った古参の武将である。間もなく曹操が董卓討伐軍を起こした時、仮司馬・陥陣都尉となり、以降
多くの戦いで一番乗りとして手柄を挙げた。魏の五将軍の一人。

生涯
楽進が曹操のもとへ馳せ参じた時は、武将ではなく記録係として仕えていた。しかし楽進の力を見抜いた
曹操は、一旦彼を本国へ帰らせて兵を集めさせた。すると楽進は千の兵を引き連れ帰還した。これにより
陥陣都尉に任命された。以後は武将として曹操に仕えた。

濮陽での呂布、雍丘での張超、苦での橋蕤との戦いでは、いずれも一番乗りとしての戦功を立て広昌亭侯
に封ぜられた。安衆での張繍戦、下邳の呂布包囲戦では別将を破った。射犬で眭固を破り、沛では劉備
を破り、討寇校尉に任ぜられた。

200年の袁紹との官渡の戦いでは于禁と共に兵5000を率いて黄河を渡り、獲嘉にある袁紹側の陣営を
攻撃した。また、曹操に従い烏巣を強襲し、袁紹軍の兵糧庫の守将である勇将淳于瓊を討ち取った。

その後、袁譚袁尚兄弟と戦い黎陽では袁尚軍の大将厳敬を斬った。これにより行遊撃将軍に任ぜられた。
さらに別働隊を率い楽安の黄巾賊を打ち破った。また張遼とともに陰安を落とし住民を河南に移した。
その後は鄴城包囲の軍に従軍し、鄴城が陥落すると、南皮の袁譚を攻め東門へ一番乗りとして突入した。
袁譚の敗北後には別働隊を率いて雍奴を攻撃し打ち破った。その後の206年には曹操が朝廷に
楽進・于禁・張遼の栄誉を称えてこれを上奏し、楽進は折衝将軍に任命された。

また烏丸征討中に反逆した高幹を攻める際には、別働隊を率いて北道から上党郡に入り、道を迂回して
高幹の背後に出た。高幹はこれを受けて壺関に引き揚げるが、これを攻めて敵兵を打ち破る。その後は
高幹が壺関に引き籠り堅守していて陥落させることができなかったが、曹操自身が征討することになり、
ようやく陥落した。その後に淳于に布陣した曹操の命令で、李典と共に海賊の管承を攻撃した。管承
は敗れて海島に逃げ込み、海岸付近は平定された。

楽進は劉表が治めていた荊州の抑えとして陽翟に派遣された後、荊州平定戦に従軍した。曹操が
劉備・孫権に敗れて荊州から撤退した後は襄陽に駐屯し、関羽とその配下の蘇非を撃破した。これに
より、山間などに蛮居していた異民族はことごとく降伏した。その後、劉備軍の臨沮の長の杜普、旌陽の
長の梁大を征伐し、大破している。

孫権征討に従軍した際、軍の指揮権を有す証とされる節を授かり、曹操が引き揚げると張遼や李典らと
共に合肥に駐屯して、敵軍の侵攻を防いだ。楽進は城の守りを担当し、それらの武功から最終的には
右将軍にまで出世し、1200戸の禄高を食む身にまでに至った。

218年逝去。死後、それまでの功績を賞されて威侯と諡された。


三国志演義

演義では弓を得意とする武将として描かれている。濮陽の地で呂布軍と戦った時には敵将の成廉
射殺し、また南皮での袁譚との戦いでは敵将の郭図を射殺した。

濡須口の戦いでは凌統と一騎打ちを行い、数十合の討ち合いを展開した。しかし一騎打ちの最中に
甘寧の矢を顔に受けて矢傷を負い、その後は登場していない。
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