郭汜


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

郭汜 (かくし)


三国志大戦3より

Wikipedia
董卓の娘婿に当たる中郎将牛輔の部曲として史書に登場する。董卓が洛陽を放棄すると東方諸侯に
備える一角を担い、李傕らと共に中牟で朱儁を破った。

192年、董卓が王允らによって暗殺された際、李傕・郭汜らは東方にあったが、賈詡の進言を容れて
董卓の報復に乗り出し、諸軍を集めて長安を奪回した。
裴松之が三国志の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布に一騎討ちを挑まれて応じ、
敗れたとされる。

献帝を擁して王允を殺すと後将軍の地位に昇り、李傕、樊稠らと朝廷を支配した。この専横の間、
兵を放って城邑を略奪させたため、三輔の民衆は飢餓に陥り「二年の間にことごとく食らいあった」。
(三国志董卓伝)

194年、馬騰が李傕に私的な交際を求めたが断られたため、韓遂らと結託し長安を攻撃。郭汜は
樊稠と共に出撃し、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破している。

同僚で幼馴染の李傕とは酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲であった。しかし、李傕が郭汜
に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになる。この二人が争って
いるのを見て、張済は二人の争いを仲裁し、献帝を洛陽に送ることとなった。だが、郭汜は献帝の護衛中
に変心して官軍に対して攻撃を仕掛ける。李傕、張済を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込んだが、
献帝を捕らえる事は出来なかった。

その後、錦の御旗を失った郭汜は衰退し、197年、曹操が派遣した謁射僕射の裴茂に長安を追われ、
部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操のもとへ送られた。

剛勇の士であり、のちの董承の述懐によると、李傕との抗争では兵数百を以って、李傕軍数万を破った
という。(先主伝注「獻帝起居注」)


演義では献帝は自力で脱出し、李傕・郭汜が献帝を追いかけて曹操に惨敗するということになっている。
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。
添付ファイル