郭皇后 (曹丕)


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郭皇后(かくこうごう)



三国志大戦3より

Wikipedia
郭皇后(かくこうごう)、光和7年3月10日(184年) - 青龍2年2月(235年))は、魏の文帝(曹丕)の
皇后。諡は徳。 父は後漢末に南郡太守を務めた郭永。安平郡広宗県(山東省西部)の出身。
名は不詳。字は女王。

幼い頃に両親を失い、家が没落したために止むなく召使として働いていたが、当時魏公であった曹操
に見出され、東宮の女官となり、その美貌によって曹丕の寵愛を得て、やがて貴妃となる。曹丕に様々な
献策をし、曹丕立太子に大いに尽力したという。

甄氏が死を賜ると、文帝は郭氏を皇后に立てようとしたが、没落して低い立場のために反対を受けたが、
文帝はこれを押し切って皇后に取り立てた。郭氏はそうした経緯もあってか、身内へ適度に便宜を図ること
はあったが、それ以上は堅く戒めており、「嫁を貰うならば、同郷で家柄の釣り合う家から貰うべきです。
権勢を利用して、無理に他国(ここでは諸侯の封土を指す)の女性を娶ってはいけない」「それぞれ
自戒して、処罰を受ける人間とならないようにしなさい」といった言行を残している。

明帝が即位すると、皇太后の称号を贈られ永安宮に住まう。青龍3年に許昌で崩御し、その遺言に従って
首陽陵の西に陪葬された。




『魏略』や『漢晋春秋』といった史書には、甄氏の死は郭氏の差し金によるものとなっている。 「曹丕が文帝
として即位し、そのうちに野心を抱くようになった郭貴妃は、文帝に讒言して皇后・甄氏が死を賜るように
仕向け、自らは新しい皇后に収まった。しかし、嗣子に恵まれず、甄皇后の生んだ曹叡(後の明帝)を猶子
とせざるをえなかった。文帝の死後、皇太后の尊称を贈られたものの、やがて即位した明帝により過去の罪
を糾弾され、死を賜った。」という内容である。
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