郭嘉


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郭嘉 (かくか)


三国志大戦3より

Wikipedia
郭嘉(かくか、170年 - 207年)は中国後漢末期に曹操に仕えた謀臣。字は奉孝。郭奕の父、郭深・
郭敞の祖父、郭猟の高祖父。頴川の人。

郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に優れていた。20歳になると名前や経歴を隠して、ひそかに
英傑たちと交際を結び、俗世間から離れて暮らしていた。郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを
訪れたが仕官せずに去っていった。その後、荀彧が戯志才の後継者として曹操に郭嘉を推挙した。
曹操のもとに召しだされた郭嘉は天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、
この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「まことにわが主君だ」と言って喜んだ。
そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。

曹操が郭嘉に河北において大勢力を有する袁紹への対応を相談したところ、郭嘉は「公には十の勝因
があり、袁公には十の敗因があります。それは道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武でございます」といい、
袁紹の北進に合わせて呂布を撃破するように進言した。

198年、曹操が呂布を討伐した際、下邳に籠城する呂布を攻めあぐね、曹操が退却を決意しかけた時、
荀攸とともに攻囲を継続することを進言し、呂布を捕らえることに成功した。曹操が袁紹と官渡で対峙
している最中、孫策が許都を急襲する構えを見せ、人々は戦々恐々となったが、郭嘉は孫策が暗殺
されるであろうと予測した。また、袁紹の死後、一気に袁家を滅ぼそうという諸将に対し、袁尚袁譚
内紛を起こさせてから滅ぼす策を進言し、袁家を自壊させた。

曹操が袁尚討伐と烏丸征伐の遠征を計画した時、部下の多くは劉表劉備を使って許都を襲わせる
のではないかと危惧した。しかし郭嘉は、劉表は自分が劉備を使いこなす器でない事を自覚しているので
重用する事は出来ず、安心して遠征する事ができるとして懸念を打ち払った。曹操の遠征軍が易県に
到達すると、郭嘉は「兵は神速を貴びます。いま千里先の敵を襲撃するゆえ輜重は多く、有利な地へ
たどり着くことは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、
軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くべきです」と献策した。曹操はこの策を採用して
烏丸族を討伐することに成功した。袁尚らは遼東へ落ちのびていった。

郭嘉は物事に深く通じていて、的確な見通しを持っていたので、曹操から「奉孝だけが、わしの真意を
理解している」と絶大な信頼を寄せられていた。 38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま
死去した。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉
ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平のあかつきには、後事を彼に託すつもりだったが……」と嘆いた。
曹操は天子に上奏し、八百戸を加増し、合わせて千戸とした。貞侯と謚された。208年の赤壁の戦い
の敗戦の際、曹操は「奉孝が生きていれば敗北することはなかったろうに」とも語っている。

陳羣は生前の郭嘉が行状を治めない事を理由にしばしば弾劾した。しかし郭嘉は意に介さず、曹操
も郭嘉の才能を愛し、彼を重用し続けた。その一方、公正で人物鑑定に優れた陳羣も重用していた。
曹操の人材好きを物語る逸話といえよう。


『三国志演義』

郭嘉は、『三国志演義』においても正史と同様に天才的な洞察力を持つ軍師として描かれている。
曹操に仕える事になった経緯は、荀彧が程昱を推挙し、程昱が郭嘉を推挙するという形になっている。
そして郭嘉自身は劉曄を推挙している。
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