大東亜戦争概略

大東亜戦争 概略

前史

20世紀前半、東アジアでは清朝が崩壊、各軍閥が割拠し、それに乗じて欧米諸列強も各自に勢力線を設定しその圏内を租借権等を行使して半植民地化、大陸は四分五裂の様相を見せていた。こうした中、日清・日露の両戦争に勝利した日本は、「先物買い」の視点から、大陸を俯瞰、孫文ら革命政府の大規模支援を始める。これには、日本政府にも思惑があった。 要するに、日本の国力では、中国全土の制圧や所有は不可能である、欧米の植民地や息のかかった政権が出現するのは避けられない、それは日本にとって経済的にも軍事的にも脅威である、ならば日本資本の中華統一政権が大陸に成立して長期間、同盟国でいてくれた方が有益である、というわけである。

結果として、日本は都度都度高額借款を孫文らに付与、黄埔軍官学校も日本陸軍の指導で建設され、中国軍の近代化と精鋭化が始まった。 また、その対価として、日本は満洲に駐屯、緩衝国の暫定的な設置を認められる。旧名満洲国である。

満洲に展開する日本陸軍と航空隊の援助の下、孫文、彼の意志を継いだ蒋介石の中華民国は、各地の軍閥を攻撃、1936年までに、新疆や西北三馬を含めた諸軍閥を征服、37年には完全自立の兆候を見せていたチベットも攻撃、これを併呑、ここに中国を統べる漢民族主体の政権が再び誕生した。


大東亜戦争 前夜

しかし、日中にとって、東南アジア・インド・中東・・・・見渡す限り周囲の殆ど全てのアジア地域が欧米の勢力下にある現状は脅威であった。 第一に資源の自給が困難である。他の面での諸貿易でもあまりにも不利である。軍事面では言うまでもない。 当時、石油は満洲で採掘が始まってはいたものの、深層油田であったことから産出量はまだ少なく、日中首脳は、周辺アジア植民地の解放による事態打開の道を模索し始めた。 そんな中、ドイツ帝国のヒトラーは、ベルサイユ体制打破のスローガンの下、ポーランドに侵攻、英仏は対独宣戦布告、ここに第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。 折から、軍事的な具体的行動も視野に入れつつ欧州列強のアジア植民地への干渉を企図していた日中にとって、ヨーロッパでの戦争は渡りに船であった。 両国は、泰、隣国アフガニスタン、さらには反欧的なレザー・シャー治めるペルシアとも提携し、ユーラシアを横切る広域な軍事同盟を結成、軍の拡張や船舶の量産など、戦争の開始に備えた。 また、英軍の東洋への分散を願うドイツと、東南アジア進出を目論む日本と思惑は一致、日本はビシー政府の認可の下、一時的なインドシナへの進駐を認められる。 しかし、こうした露骨なアジア人勢力の列強植民地への浸透は、欧米列強を著しく刺激した。 1941年、米国政府は、ついに日本と中国による東南アジアやインドへの独立勢力扇動や武器密輸出、ならびにインドシナ進駐を問題視、日中に対し、行為の停止ない場合の資源輸出の全面停止を発表、これを受けて戦争を企図していた日中両国は、米英蘭豪両国に対してアジア解放を目的に宣戦を布告、1941年8月15日、ここに大東亜戦争の火蓋が切って落とされた。


大東亜戦争 勃発

数日のうちに、両国と同盟関係にあった泰、アフガニスタン、ペルシア政府、ならびに日本の傀儡政権であった満洲国政府も四国に宣戦布告、既に各方面国境に集結していた日中連合軍は大挙してビルマ、ブータン、マレー各地の陸路から進撃を開始、また太平洋では日本軍がフィリピン、ならびにグアム島を攻撃、戦争は瞬時にアジア・オセアニア全域に拡大した。 また、対日戦勃発で既に戦争状態に置かれた米国はUボートによる商船沈没を理由に9月にはドイツ、イタリアら枢軸同盟にも宣戦を布告、ここに戦争は大筋において、アジア諸連合と枢軸同盟に対して、欧米連合国諸国とソビエト社会主義連邦が全世界において互いに提携しつつ相見えるという二極化の様相を見せた。 既に戦時体制にあり、動員令がかかっている以上、軍の派遣先が数国増えようと、国民の感情は変わるまい、そうした見地からの対独宣戦であった。 ただし、この戦争、日中と枢軸同盟の間には、戦争目的の不一致的な理由により協調関係はあったものの、公式な同盟関係は存在せず、またソビエトと日中の間には不戦条約が結ばれるという、大規模ではありつつも、複雑で歪な性質を持っていた。


大東亜戦争 前半

英国首相チャーチルは、米国の参戦に狂気したが、喜びもつかの間、10月には米艦隊の全空母を含めた主力艦の過半、補助艦艇の3分の1がマリアナ沖にて、待ちうける日本主力艦隊と空軍の前に沈没、開戦早々にして制海権は日中側の手に完全に移ってしまった。軍縮条約失効後、アジア勢力の拡張を警戒した米国は、グアム島に要塞を建設、一個師団が駐屯しており、その救援も兼ねての艦隊来援であった。 米海軍の再建にはおそらく膨大な時間がかかるだろう。なぜなら、連合国の大規模な生産力を活かせば、艦隊の物としての復活は可能だが、しかし艦艇と共に沈んだ船員の訓練となれば問題は別である。 古参の海軍士官や水兵の厚い層がなければ、教官の選任も不十分だ。ましてや、大型艦の大半を失ってしまった現状では・・・ そんなわけで、少なくともある程度の期間の米軍の太平洋での攻勢は不可能とみた日中両軍は、太平洋では、蘭印、ニューギニア、フィリピン方面に、陸路からはビルマ、ブータンに侵攻を開始、1942年の序盤にはニューギニア東部・南部を除いてその全域をほぼ制圧し、現地人主体の政権を発足させた。 また、1月には、海陸両路からインドへ侵攻、かねてから戦闘状態にあったインド国内のゲリラ勢力も大規模に蜂起、5月には英軍と米国の応援軍はボンベイに包囲され降伏、30年代前半に日本に亡命していたスバス・チャンドラボース率いるインド政府が発足し、英国からの完全独立を宣言、以後前線は中東に移ることになる。


大東亜戦争 中盤

開戦と同時にアジア戦線の東部では日中による攻勢が続いたが、西部では事情が違った。 ペルシア軍は防衛線を固めたが、士気、装備、訓練、数、いずれにも勝る英軍・イラク軍連合軍は難なく戦線を突破、北部からアフガニスタン軍が来援したものの、42年序盤には戦線はテヘラン近郊まで後退、インド国境でも、当初ペルシア軍は英印軍に対して攻勢にあったが、41年の暮には敗走、半年のうちのペルシアは全面降伏の危機に見舞われた。 しかし、上述したように、ボンベイで英軍が降伏、インド戦役が終了すると、優勢な日本海軍の支援の下、海路より日中両国の陸空軍が来援、戦局は逆転する。 8月にはペルシアは全土を回復、イラクへの反攻が始まる。


大東亜戦争 後半

北アフリカでもロンメル軍団を前に敗走中の英軍は十分な援軍を送るゆとりもなく、イラクでは戦線が崩壊、10月には全土がアジア同盟軍の手に帰してしまう。 イラクでの英軍の敗走を受け、サウド家治めるサウジアラビアは、日中側について連合国諸国に戦線を布告、これには同盟国側につかなければ、中東に展開中に同盟軍に全土を占領されかねない、という受動的な理由もあった。 また、イラク侵攻と同期して、インドの日中両軍は、海路よりオマーン、イエメンなどサウジアラビアを除く、アラビアの君主国諸国に上陸、1942年11月には、中東全域を制圧、前線はパレスチナなど近東・地中海方面、及びアフリカ方面に移行しようとしていた。


大東亜戦争 講和

しかし、日本・中国を主力とするアジア側諸国はパレスチナ侵攻を前に進撃を中止、これには幾つも理由があった。 第一に、スエズ運河やキリスト教の聖地であるエルサレムを、アジア勢が奪ってしまえば、欧米連合国ばかりでなく、人種蔑視的傾向の強い枢軸側諸国も警戒し、アジア側を以後敵視するようになるのではないか、ということ。 第二に、英国占領下のソマリランドは、大半部は元来イタリア領である。 もし、日中両軍が戦線前進の原則に基づいて上陸した場合、占領後の処遇を巡って、問題が起こる。 イタリアに返還するのか、しかしそれは植民地解放を旨とする開戦のスローガンに矛盾する、では、解放を宣言し、現地政権を立てるべきか、でもそうなるとドイツやイタリアは一層、アジア勢を警戒するだろう、場合によってはそれを理由に、連合国や共産主義諸国と段階的に講和、かつてソ連にしたように、ある日突然、アジア諸国に戦線を布告する危険性もある。 そうなれば、両面に敵を抱えたアジア勢力に勝ち目はない、そのような政治的打算からの進撃中止であった。 しかし、純軍事的に考えると、近東やアフリカの放置は危険であった。 生産力に勝る連合国は、日中が進撃を停止すれば、その輸送力を活かしてなんとか北アフリカを保守、かつパレスチナとソマリアは要塞化されるだろう。 イラクや紅海を挟んでの大規模な消耗戦が発生すれば、生産力でも海上輸送力でも不利な日中両軍にとって、戦線の崩壊は時間の問題である。 そうなれば、段階的に撤退の流れは止まらず、結局はこの戦争に両国含めアジア諸国は敗北するのではないか。 そのような見地から、膨大な戦費の負担も嵩んだ日中両国にとって、そろそろ連合国との休戦を必要とする理由があった。 一方、連合国にとっても、予期せぬ敗北に継ぐ敗北と、アジア人によるアジア全域の解放は脅威であった。 この先、近東、東アフリカがなし崩し的にアジア勢の勢力下に入れば、そしてアジア勢によって独立政権が樹立されれば、かつ枢軸側もその攻勢に加担すれば、連合国は地球上の殆ど全植民地を失うのではないか。それはアングロサクソン文明の凋落を意味する、第一、そうなれば英国はドイツからの自衛は困難である、あしか作戦によって全土を制圧されるか、降伏するかは、時間の問題であろう。 双方の思惑と利害の一致の結果、1942年12月8日、両国はアンマンで休戦条約を締結、ここに大東亜戦争は終了したのであった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年02月09日 22:29