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ハルヒと親父3−家族旅行プラス1 その8

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haruhioyaji

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 シャワーの音が止まった。
 少し経って浴室のドアがゆっくりと開く。
 俺はベッドの端に、そっちには背を向けて座っていた。
「スケベなこと考えてる顔ね」
「そんなことはない」
「だとしたら失礼な話よね」
こっちに近づいてきた奴が、後ろから俺の首に両手を回してくる。
「だいたい、うしろからじゃ見えないはずだろ」
「あんた、背中までポーカーフェイスのつもり?」
「ただの仏頂面だ」
「ホテルの最上階。二人っきり。邪魔が入る恐れなし。タオル一枚の美女が背中に体重をかけてくる。これで何が不足か、聞こうじゃないの?」
 俺はゆっくりと口を開いた。
「子供の名前を考えてた」
「うっ。……なかなかやるわね」
「うそだ。最悪のタイミングで、ムードぶち壊しのことを言うことになるかもしれんが、この旅行ももうすぐ終わりだ。だから率直に聞くぞ」
「……いいわよ。あんたが空気を読めないで不躾なことを聞くのは、べつに今に始まったことじゃないわ。どうせ……」
「あのケンカの後、親父さんはめずらしく本気で怒ってた。おまえ、『足で砂を目に投げた』って、意味わかるか?」
「その通りの意味でしょ。あのとき、あたしははだしだったし、足の指で少しくらいなら砂をつかめるわ。手でするみたいに、足を振って握ったものを離せば、投げるみたいなことはできるわね」
「それは、涼宮ハルヒがやることか?」
「どういう意味よ」?
「買いかぶりならそう言ってくれ。俺の知ってるハルヒは、そりゃ時にはめちゃくちゃなやり方をすることはあるが、それでもおまえなりの筋ってものを守る奴だ。あれは親父さんのいうとおり『汚い手』なのか?」
「そうよ」 ハルヒは挑むような目で言った。「だから、何?」
「何故だ?」
「勝ちたかったからよ、当たり前じゃない!」
「当たり前じゃない。お前と親父さんのケンカはそういうんじゃなかっただろ?」
「何も知らないくせに、勝手なこというな!」
「ああ、何も知らんさ。だけどな!」
「うるさい!うるさい、うるさい!」
「ハルヒ!」
「どうせガキっぽいひがみよ、あんたが!……あんたはひどい目にあっても親父をかばって……、あんたはそういう奴よ。あたしの親で無くても、そうするだろうって、分かってる、でも……」
「おまえの母さんや親父さんこと、俺は正直すごいと思ってる。まあ、おまえの親じゃなくても、そう思うかもしれないが……、あの人たちに会ったり話したり昔のことを聞く度にな、俺がまだ気付いてないハルヒに光があたって、今まで見えなかったハルヒが見えるような気がするんだ」
「あたしはあんたにむちゃくちゃ言って、むちゃくちゃさせて、でもそういう風に許されるのは、甘えられるのは、あたしだからだ、って思いたかった。だから、だからあんたが親父をかばって、あたしは完全に頭に血がのぼったわ。あんたをどんなことをしてでも取り返さなきゃ、どんな手を使っても勝たなきゃって。あんたにだってわかるように、親父とのケンカは勝つとか負けるとか、そういうんじゃなかったのに。親父が怒るのも、悲しく思うのも当然よ」

「あーもう、ぼろぼろ泣いて、めちゃくちゃ。……こっちみるな!」
「どうして?」
「あんた、変態? どS? 人泣かしといて、楽しむなんて」
「べつに楽しくはない。……ちょっと抱きしめていいか?」
「このエロキョン! いいに決まってんでしょ!!」


「雨になりそうね、お父さん」
「気圧の変化か。つらいのか?」
「少しはね。でも、起きられないほどではないわ」
「置き引きシスターズも雨天は休業か」
「人気のない浜辺も悪いものじゃないけど。一緒に歩く?」
「その前に朝飯だ。いや、起きなくていい。ベッドに持ってくる。フランス人も裸足で逃げ出すような、甘いカフェオレ付きだ」
「そんなの、いつ用意したの?」
「これからだ」
「ベッドで食べるのが好きね」
「だらしがないのが好きなんだ。このまま雨が上がるまで、ぐずぐずしていよう」
「帰りの飛行機が飛んでいっちゃうわ」
「それもいいな」
「ふふ。そうね」
「残念ながら明日には止むさ。いや、今日中かもしれない」
「天気予報?」
「いや、これ」
「てるてるぼうず。そんなの、いつ用意したの?」
「夜なべした。リビングのソファは占拠したぞ」
「お父さんって、何でもありね」
「『一途』と『馬鹿』は、ちょっとした綴りの違いなんだ」


「キョン?」
「ああ、すまん。起こしたか?」
「うん、ううん、ああ、そうね」
「どっちだよ?」
「もしかして雨降ってる?」
「ああ。窓から外見ると、水の中にいるみたいだぞ。……調子よくないのか?」
「そうじゃないわ。昔のことを思い出しただけ。……夢を見たんだけどね」
 ハルヒは言葉をつづけた。
「小さい頃、溺れたことがあってね。親父が飛びこんで、母さんが人工呼吸してくれたんだって。覚えてるわけじゃないけど」
「……だから、おまえも助けに飛び込んだのか?」
「そうじゃないわ。泳ぎは得意だと思ってたし、そんなことで泳げなくなるのも悔しいから、ちょっとムキになってたこともあるけど。助けたのには理由なんてない。気付いたら、やっちゃってた、って感じね」
「そうか」
「溺れたのは覚えてないけど、その後、自分が謝ったのは鮮明に覚えてる。親父に謝ったのなんて、あんたからしたらバカみたいだと思うかもしれないけど、あれっきりよ」
「……」
「親父があたしの頭にぽんと手を置いて、『間違えたと気付いたら、ごめんなさいと言えばいい。それだけだ』って。どれだけ泣いたか分かんないし、どれだけ謝ったかもわからない。ただ延々と涙が止まらなくて、繰り返し繰り返し『ごめんなさい』って言ってた」

 ポットから聞こえる音が変わって、お湯が沸いたことを知らせていた。
 二人分のコーヒーを入れて戻ってくると、ハルヒはベッドの端に座って、窓の外を見ていた。
 ホテルはこのあたりで一番高い建物で、座ったまま窓から見えるのは雨雲と窓ガラスを叩く水滴だけだった。
「飲むか?」
「ん」
「……あとで、海に行かないか?」
「どうして? 今日みたいな日に行ったって、あるのは砂と水だけよ」
「こっちに来て、まだおまえと泳いでない」
「でも水着も何もないわよ」
「水着どころか傘だってないぞ」
「買いにいく? でも、この土砂降りの中、泳ぐの?」
「泳がなくてもいいさ」
「何しに来たのよ、あたしたち」
「さあな。だが、なんでここにいるかは俺にだって分かる」
「なんでよ?」
「おまえがここにいるからだ」
 ハルヒは軽く衝撃を受けたように軽く口を開いて、すぐに、このバカ何を言い出すんだ、という顔になった。
「キザキョン」
 はて、おれは何かキザなことを言ったか? おまえが連れてきたから、おれはこんな亜熱帯の島に来たんだろう。
「はあ。わかんないのが、あんたよね。それはもう、よーく知ってるはずなんだけど」
 ハルヒは、となりの部屋にいたって聞こえるくらい、大きなため息をついた。
「もう、こうなったら海でも何でも行くわよ!」


「ごちそうさま。おいしかったわ」
「朝からカツカレーはなかったかもしれんが」
「ベッドでとる朝食向きじゃなかったかも。出張中、いつもこんなの食べてるの?」
「海外旅行も7合目くらいになると、急に日本食を食べたくならないか?」
「カツカレーを?」
「よそでまずい寿司なんか食うよりはな。どういう訳だかトンカツよりもうまいと感じる」
「おいしいと思うものを食べる方が、食事は楽しいわ」
「何を食べるかより、誰と食べるかじゃなかったか?」
「時には一人で食事をしなきゃならないこともあるもの」
「それはそうだ」
「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」
「なんだ、それ」
「昔の誰かが言った言葉ね、きっと」
「俺のくちばしは黄色いな」
「誰だって、完璧にはほど遠いわ」
「完璧な奴は、どこからも何からも遠い訳か」
「そして誰からも、ね」
「好きなものくらい、好きに食わせろ、だ」
「お腹もふくれたわ。仕事にかかりましょう」
「雨なのにか?」
「雨だからよ。人が少ない方が探しやすいわ」
「母さんだけが分かってることがある気がするんだが。教えてくれないか?」
「そうかしら? 私が思ったのは、意外と簡単なことよ」
「というと?」
「溺れている真似というのは結構難しいわ。何しろ泳げる人相手に嘘をつく訳だから」
「そりゃそうだな」
「ぶっつけ本番では無理だと思わない?」
「なるほど」
「練習するなら、カモになってくれる観光客のいないときにむしろ、やりたくないかしら」
「合点がいった」
「今日は私を信じてみません?」
「いつだって信じてる。出掛けよう」


「で、なんなのよ、このデカイ傘は?」
「ゴルフ用らしいぞ」
「あたしが言ってるのは、そういうことじゃなくて」
「ホテルが貸してくれたんだ。傘なんて、この辺りじゃ売ってないとさ」
「だから、そういう……」
「ゴルフをやる外国人ぐらいしか、この島じゃ傘なんてささないんだと。雨が降ったら街も道も人も濡れる。当たり前じゃないか、と言われた」
「その通りだわ」
「その通りだけどな」
「あんた、泳ぎにいくんじゃないの? どうせ濡れるじゃないの」
「水着も売ってないそうだ」
「この辺りじゃみんな裸で泳ぐ訳?」
「さっきからビービー鳴ってるのは何だ?」
「持たされたケータイよ。電源は切ってあるけど、濡れると救難信号が出るそうよ」
「それくらいの音で周囲に聞こえるのか?」
「ずぶぬれになれば、ワンワン鳴り出すらしいわ。雨くらいじゃ周りも助けようがないでしょ?」
「やっぱり傘があって正解じゃないか」
「音だけなら、ビニール袋にでも入れておけばいいのよ」
「ケータイをか?」
「そう」
「この辺りじゃ、雨の日は、みんな着衣で泳ぐんじゃないのか?」
「どうせ濡れるから?」
「そうだ」
「晴れの日は、大抵トップレスだけどね」
「なんだと?」
「水着の跡が残るように日に焼けるのが嫌なんじゃないの?」
「俺が言ってるのは、そういうことじゃなくてな」
「じゃあ、どういうことよ?」
「……目の毒だ」
「はあ? 毒はあんたの頭にたまってんじゃないの?」


「かあさん、当たりだな。おきびきシスターズだ。雨なのにご苦労なこった」
「あら、ほんと」
「びっくりしてるのか?」
「少しね。あてずっぽですもの」
「母さんのあてずっぽが外れたことなんてあったか?」
「そりゃありますよ。じゃないと、生きていても楽しくないでしょ?」
「人生には他にも楽しいことがいろいろあるぞ」
「そうね。『たとえば?』って聞いていい?」
「もちろん」
「じゃ、たとえば?」
「水泳とか」
「お父さん、泳げたの?」
「海外か、でなきゃ人命救助のとき限定だけどな」
「そういえば、小さい頃ハルが溺れたこと、ありましたね」
「自分の指や腕を無くしても、最初から無かったことにすればいいし、忘れる自信もあるが、女房や娘はそうはいかん。だから、ちょっと本気出したんだ」
「どうして、いつもは本気出さないの?」
「知ってる奴に見られたら、恥ずかしい。あ、水泳の話だぞ」
「わたしも、お父さんとこうして話すのは楽しいわ。これも人生の楽しみのひとつね」
「俺がどういうことを話すかくらい、母さんなら分かるだろ?」
「いい映画やお芝居は、結末が分かっていても、何度見たって、楽しいのよ」
「ちがいない。……車はこの辺りにとめておくか」
「彼女たちがいる波打ち際まで、砂浜を歩いて行くの?」
「うん。なんか、まずいかな?」
「お父さん、遠くからでもすぐ分かる方だから、多分彼女たち、蜘蛛の子散らすように逃げて行くと思うわ」
「悪魔の親父だからなあ。『ハルヒを出せ〜。隠すとためにならんぞ〜』って感じか?」
「うずうずしてる。やってみたいのね?」
「悪役ほどおもしろいもんはないぞ、母さん」
「人生、楽しくって仕方がないって感じね」
「悩み事は、時間と精力があり余ってる若いやつらにまかせよう」
「とりあえず、どうします?」
「やっぱりこの手しかないか」
「何に使うの、このバット?」
「やりたいのは「矢ぶみ」だったんだが、拳銃はそこいらでいくらでも買えるのに、弓矢とか手に入らなくてな。とりあえず、このバットをあいつらの近くまでぶん投げるから、バットに油性マジックでハルヒ宛のメッセージを書いてくれ」
「なんでバットなの?」
「非常識だし目立つだろ。あと重心が端のほうにある長いものは遠心力をその分使えて、より遠くへ投げられるんだ」
「文面はどうします?」
「そうだな。『ハルヒへ、夕刻、この浜で待つ。おまえも女なら一人で来い。親父』でいいだろう。そうそうハルヒはHARUHIと書いといてくれ。でないとシスターズの連中が、あのバカ娘のことだと分からんかもしれん」


 察するに、災難だったのは、置き引きの姉妹たちだった。
 彼女たちは、この街の路地という路地、水路という水路を知り尽くしていたが、大きな街でたった二人の人間を(たった半日で)捜し出すのは相当な苦労だった。
 俺たちを最初に見付けたのは、昔ハルヒが「助けた」このある少女だった。彼女が姉妹たちを呼び、一番小さい女の子が俺たちにバットを差し出した。
 ハルヒはそれを左手で受け取った。


「来たわよ、バカ親父。なんか用?」
「よく逃げずに来たな。ご褒美にハンデをやろう。泳ぎで勝負なら、そっちも異存あるまい。但し、俺は「人命救助」じゃないと本気が出せんから、誰かに『溺れる役』を頼むことにしよう。指名はおまえにまかせる」
 さすがに悪魔と呼ばれるだけの親父である。罠が何重にも仕掛けてある。
 相手に選ばせるように見える個所はすべてまともな選択肢ではない。しかも選択の前提として、一方的な条件が提示されている。選ぶためにはそうした前提を飲まねばならず、普通なら自由意思を発揮できる選択という行為自体が、どちらの選択肢を選んだにせよ選択者を拘束していくのだ。
 最後の「おまえにまかせる」も同様にえぐい。その含んだ意味は「まかせる」とは名ばかり、この勝負を受けるなら、危険な目に合う役割をハルヒが選ばなければならないという、命令なき命令、強要なき強要だ。
 ハルヒの母さんは、親父さんの言葉を、おきびきシスターズに同時通訳していた。ワンテンポ遅れて、その意味を理解したシスターズたちは激高し、そして二人の少女が前に歩み出た。
 ひとりは、ハルヒが「助けた」ことのある、ベテランの「溺れ役」だった。
 もうひとりは、ハルヒとシスターズたちの家である船にいたとき、部屋を覗いていた、あの少女だった。
 ハルヒの母さんが事情をおれに説明してくれた。
「人見知りらしいの、彼女。だから浜で大人たちの手を引くより、泳ぎがうまくなって、次代の「溺れ役」を目指しているそうよ。今日も先代のあの娘に稽古をつけてもらってたですって」
 気付くと、おれも一歩前に出ていた。どう考えても、彼女たちを巻き込む話じゃない。シスターズの義侠心には心打たれるが、その手のものこそ、悪魔親父に狙い打たれるだろう。
 ハルヒは前に出た3人を見て、ため息をついた。
「落ちたものね、他人を巻き込まないと勝負もできないなんて」
「ふん、さすがに引っかからんか。頭は冷えたようだな」
「おかげさまでね」
「その目……泣いたか。なるほど、ちっとは見れる面になった訳だ」
「言ってなさい。わかってるだろうけど、ハンデはいらないわよ」
「母さん、風向きが変わった。こりゃ、ひょっとすると、ひょっとするぞ」
「お赤飯なら準備してありますよ」
「だそうだ。思いっきり来い」
「言われなくても!」

 勝負は一瞬でついた。それが勝負と呼ぶべきものだったとすれば。
 いつもはハルヒのすべての攻撃を受け切ってから動く親父さんが、先に突きを放った。
 ハルヒはそれを知っていたかのように左側に倒れながらよけ、親父さんの腕が伸びきったところで、それを鉄棒の要領でつかみ、腕を軸にして一回転した。回転の最中にもハルヒのカカトは、親父さんの顎とみぞおちを打った。親父さんは膝を突き、後ろ向きに倒れた。

「親父、ごめん」
「おいおい、マウント・ポジションとってから言うセリフじゃないぞ」
 と言いながら、親父さんはハルヒの打ち降ろす掌打を、残った腕一本で奇跡的にさばいてる。
「あたし、あいつといっしょになる。そして幸せになる」
「まさか、こんな情けない状態で聞くことになるとはなあ。娘の顔とセリフは感動的なのに」
 ハルヒは打ち降ろす手は止めないまま、涙を流していた。期待と不安と感謝の気持ちでいっぱいになった、明日の式を控えた花嫁のように。多分、ハルヒと親父さんの間で何かが終わり、また変わろうとしているのだろう。
 掌打がひとつ、ふたつ、とクリーン・ヒットした。さすがの親父さんも、表情を歪ませる。
 とどめだった。ハルヒの両手が親父さんの側頭部をつかむ。親父さんもこの機会を待っていたのか、ハルヒの手を払うかわりに、ブリッジのため頭の横に手をつく。ハルヒが自分の頭を、親父さんの鼻先に叩きつけた、ように見えた。ハルヒの体重がその瞬間前に移るのに合わせて、親父さんは足を突っ張り脱出をはかろうと目論んでいたのだろう。しかし親父さんの全身から力が抜けた。ハルヒの唇が、親父さんの額に「決まった」ので。
「やれやれ、おでこ、か」
「あ、あたしとしては最大限の努力と妥協の結果よ」
 ハルヒは跳ね起きて、ぱっと立ち上がった。
「さあ、敬意は払ったわよ」
「オーケー。それで手を打とう」
 親父さんは仰向けに倒れたまま、肩をすくめた。
「あー、もったいねえ。こんないい女に育って他人にやることになるんなら、あの時、死ぬ気で助けるんじゃなかった」
「なによ、それ」
「しかたがないか。思わず飛びこんじまったんだから」
「ツンデレよ、ハル」
 ハルヒの母さんが、あの透明な笑顔で笑った。
「お父さん、照れてるのよ」
「母さん、あっさりとどめを刺さないでくれ」
 いや、それはここにいる誰もが知ってると思います。
「あー、もったいねえ、もったいねえ」
「うるさいわよ、そこ。もっと他に、先に言うべき言葉があるでしょ?」
「ちぇっ、わかったよ……。ま・い・り・ま・し・た。 ……これでいいか?」
「結構よ……それと」
 ハルヒがちらっと俺の方を見た。おれはうなずく。ハルヒもうなずき返す。
「それとね。……ふう、あの、いろいろ、その……ありがとう、お父さん」


 その日の夕食は、すばらしいものだった。ハルヒの母さんが「本気」を出したのだ。

「赤飯まで!ほんとに準備してあったんですか?」
「昔の人の知恵って偉いわね。ほら、お手玉。」
「へ?」
「あれの中って、小豆が入ってるの。もち米だとか、蒸すためのせいろとかは、中華街に行くと手に入るし。中華街なら世界中の大抵の都市にあるわ」
「ってことは、お手玉をいつも?」
「旅行って、待ち時間ばっかりでしょ。手を動かすとまぎれる退屈さもあるの。うるさいのが二人もいて、私は退屈しないと思ってた?」
「いや、そんなことは」
「キョン君は、明日みたいにお天気のいい朝を寝坊するのが幸せなタイプね」
「ははは。そうですね」
「ちょっと、キョン!いつまで食べてんのよ! 花火するって言ってあったでしょ!」
 いつもの奴が、いつものようにズカズカとやって来た。
「ほらほら」
 とハルヒの母さんは笑う。
「もう食べ終えたさ。ちょっと話をしてただけだろ」
「なに、母さんに見とれてたの? 何度もいうけど人妻よ」
「おまえはおれに、あの人と死闘しろっていうのか」
「悪魔の親父よ。手加減しないわよ」
「花火をやろう。その話は、夢に見そうだ」
 俺はハルヒの手を引いて、コテージのベランダから、夜の砂浜へ出た。コテージの光が落ち着くくらい暗くなるところまで言って、なにかずるい手で持ち込んだのだろう、火薬の固まりの袋を取り出した。
「あんた、線香花火なんてベタなもの、いきなり出してどうするつもりよ」
「どうするって、火をつける」
「それは最後にするもんでしょ。で、じーっと火の玉を見て、自分のが落ちたらがっかりして、相手のが落ちたらバカにすんの」
「それこそベタだろ」


 そして、「家族旅行」の最後の日の朝。
 目が覚めると、ベランダにひとり親父さんが残っていた。
「何か、食うか? サンドウィッチなら作れるぞ。あと時間さえあれば大豆から豆腐もつくる」
「親父さんが?」 片手でか?
「人間、不便すると、なんとかするもんだ。実をいうと、ここに作った奴がある。サンドウィッチだけだが、好きなの食え。……母さんの大好物なんだぞ」
 親父さんは、トレイを俺の前に置いてくれた。俺はひとつ食い、二つ目に取りかかろうとした。
「うまいです。……あれ、その本?」
「ん?ああ。昔、読んだことがあるんだがな。昨日、置き引きシスターズにもらったんだ。連中は、悪魔がいつも日本語に飢えていると思ってやがる。つまりお供え物って訳だ」
「おもしろいんですか?」
「穴があったら飛び越えて、どこかに走り去りたくなるほどだ。猫マニアのロリコンが、コールド・スリープとタイム・マシンを使って、出会った時には6歳だった女の子を『俺の嫁』にする話だ。今なら発禁ものだな。福島正実入魂の訳だと、こうだ。『もしあたしがそうしたら——そうしたら、あたしをお嫁さんにしてくれる?』。萌えるだろ?」
「ええ、まあ」と俺はあいまいな返事をした。誰だって、この場合、こうするだろ?
「なんだ、つまらん」
 俺が乗ってこないのがわかると、親父さんはテーブルの上に本を投げ出した。
「食えるだけ食ったら、ちょっと歩かないか? ここの海もしばらくは見おさめだ」
「また来たいです」
「今度はおまえらが、おれたちを連れて来い。海外でやると余計な奴を呼ばなくていいから、意外に手間も楽らしいぞ。ちなみに俺の兄貴は神主をやってる、本職は教師だが。よくある話だな」
「実家、神社なんですか?」
「俺も資格だけはとったぞ」
 絶対にちがう神様のにしようと、この時の俺が硬く誓ったとしても、誰も責められまい。


 親父さんと二人、海に添って歩いた。
「あれで腕、折れてなかったんですね」
「途中で手を離しやがったんだ。娘に手加減されるようじゃ、おしまいさ。まあ、いい時期だ。子離れ、親離れ。俺たちにも時間はたっぷりある」
 親父さんはにやりと笑って言った。
「ボコられながら、あんなセリフを聞いた親父なんて、世界で俺くらいだぞ。ほんとに、あんな奴でいいのか?」
「はい」
「まあ、どうしようもないバカだが、あれでも大事な娘なんだ。よろしく頼む。……返すといっても、引き取らんぞ」
「はい」

 その後、聞いた話をひとつだけ記しておきたい。
 いつもはハルヒに先手を取らせる親父さんが、なぜあの時に限って先に動いたのか?
「勝ち急いだんだ。小便に行きたかった」
 親父さんがゲラゲラ笑ったので、おれもつられて笑った。この話はこれで終わりにした方がいいという意味だと思ったので、俺は思うところはあったけれど、それ以上聞かなかった。
「まあ、なんといおうと負けは負けだ。そうだろ?」

 砂浜をしばらくいくと、二人分の足跡が残っていた。足跡の先には、美しい母親とその娘が歩いていた。おおきな身振りをまじえて、髪をくくった娘の方が何かを熱心に話している。
「ハルヒたちだ」
「キョン君、伏せろ」
 親父さんに、いきなり砂浜に押しつけられるように倒された。
「ててっ。……どうして隠れるんですか?」
「あー、つまり……」
 親父さんは小さく咳払いした。
「いい絵はな、少し離れて見るのがいいんだ」
 そして横を向いて、アヒルの口になる。どこかの誰かにそっくりだ。
「……つぶされて倒れてる俺一人カッコ悪いですね」
「ひがむな。そのうち、おまえの時代が来る」
「……」
「その時がきたらメールででも教えてやる」

  * * * *

 旅から帰った次の日はもちろん、一日中眠った。
 ハルヒからは再三、俺の安眠を妨害するメールや電話が矢のようにかかってきたが。その度、眠そうに対応したせいか、ハルヒの電話の声はいつも怒っていた。
「なんで、あんたは、そんなにグーグー、いつも寝てるのよ! どんなのび太よ! 今のあたしほど、暗記パンとどこでもドアを必要としている人間はいないわね。もちろん食べるのはあんたよ!」
 まあ、いつもと、ホンの少し違っているという程度だと、その時は思ったのだが。
「要するに、端的に言い換えて、短く言えば、独り寝がさびしいって言ってんのよ、あたしは! ……げ、親父、なんでそんなとこに立ってんのよ!」
「よお、キョン。時代がきたな!じゃ」
「こら、親父!待ちなさい! キョン、いまのどういう意味? 後でしっかり聞くからね!」

 「そのうち」ってのは、早速ですか! というより、帰ってきていきなりですか、親父さん。
 電話の向こうで、遠ざかる二人の足音を聞きながら、あの親父さんに一矢報いるためにあいつにまた「逃避行」でも持ちかけたらどうだと、不意に頭を占拠したアイデアを、俺は心の中で両手をクロスしながら、懸命にダメ出しするのに忙しかった。


ーーーおしまいーーー




ハルヒと親父3 — 家族旅行プラス1 シリーズ








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