【翻案ホームズ】「まだらの紐」の朝鮮版翻案作品「深夜の恐怖」(1939年)

2012年3月10日:韓国版翻案ホームズ譚 翻訳紹介

深夜の恐怖 (雑誌『朝光(조광)』1939年3月号[5巻3号]に掲載、原語:韓国語、原題:심야의 공포 [深夜의 恐怖])

翻案:金来成 (きん らいせい、キム・ネソン、1909-1957) 原作:コナン・ドイル

作品紹介/韓国でのホームズ受容史

 この作品はコナン・ドイル(1859-1930)が1892年に発表したシャーロック・ホームズ物の短編「まだらの紐」(The Adventure of the Speckled Band)の金来成(キム・ネソン)による翻案作品である。1939年、韓国(朝鮮)の雑誌『朝光』(ちょうこう/チョグァン)に掲載された。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、シャーロック・ホームズ譚は欧米のみならずアジアでも次々と翻訳・翻案されて人々を楽しませていた。このころには物語の舞台や登場人物を読者が親しみやすいように変更することが普通に行われており、たとえば日本でも初期の翻訳・翻案ではホームズの名前が「小室泰六」や「堀見猪之吉」などとなっているものもあるという。
 日本以外に目を向けると、ミャンマーでは作家のシュエウーダウン(1889-1973)が1910年代から1960年代にかけてホームズ物の翻案にオリジナル作品を加えた《名探偵サンシャー》シリーズを発表している(『ミステリマガジン』2012年2月号[アジアミステリ特集号]掲載の高橋ゆり「ミャンマー・ミステリ事情」参照/当サイトの「ミャンマーのホームズ、《名探偵サンシャー》シリーズの邦訳一覧」も参照のこと)。

1910年代~1940年代のホームズ受容史

 韓国の国文学研究者パク・チニョン(박진영)氏のブログ記事【注1】によると、ホームズ物が最初に韓国語(朝鮮語)になったのは1918年のことだそうだ。この年、文芸誌に「三人の学生(The Adventure of the Three Students)」の翻訳が掲載されている。1921年には東亜日報に『緋色の研究(A Study in Scarlet)』のキム・ドンソン(金東成、1890-1969)による韓国語訳『赤い糸』が連載され、1923年には単行本化された(2011年8月、《古典推理傑作》シリーズの1冊としてパク・チニョン氏の編集で再刊されている→ネット書店アラジン)。キム・ドンソンは十数年のアメリカ留学の経験があり、キム・ドンソン訳の『赤い糸』(緋色の研究)は当時としては珍しく日本語からの重訳ではなく英語から直接訳したものだったという。基本的に原典に忠実な訳だそうだが、ホームズの名前はハン・ジョンハ(한정하)、ワトソンの名前はチョ・グンジャ(조군자)に変更されている。

 ここに翻訳掲載した「深夜の恐怖」(1939)は韓国推理小説の始祖とされる金来成(キム・ネソン)(1909-1957)が翻案したものである。ラジオドラマ用に執筆され、のちに雑誌に掲載されたようだ。金来成(キム・ネソン)は早稲田大学留学中の1935年に日本語で書いた短編探偵小説「楕円形の鏡」が探偵雑誌『ぷろふいる』に掲載されてデビューした作家で、江戸川乱歩(1894-1965)や光石介太郎(1910-1984)らと交流があった。1937年以降は韓国(朝鮮)で探偵作家・大衆小説作家として活躍。創作のみならず、『赤毛のレドメイン家』の韓国語への翻訳、『巌窟王』や『ルルージュ事件』の翻案、ホームズ物やルパン物の翻案なども行った【注2】

 金来成(キム・ネソン)翻案の「深夜の恐怖」(1939)では探偵の名前はペク・リン(白麟)となっている。「まだらの紐」が韓国語になったのはこれが初めてだったようだ。金来成(キム・ネソン)によるホームズ譚の翻案は全部で3編あり、ほかの2編は「六つのナポレオン」の翻案である「ヒトラーの秘密」(히틀러의 비밀)と、「赤毛連盟」の翻案である「白髪連盟」(백발 연맹)である。どちらもやはりペク・リンが探偵役を務めている。これらの3編はのちに「金縁の鼻眼鏡」と「ボヘミアの醜聞」の翻訳(翻案ではない)と合わせて短編集『深夜の恐怖』(1947)として刊行された。パク・チニョン氏のブログ記事【注3】によれば、これが韓国で刊行されたコナン・ドイルの最初の短編集である(長編では前述の『赤い糸』が刊行されている)。

 韓国では研究が進んでいるのかもしれないが、金来成(キム・ネソン)がどの言語から翻訳・翻案を行っていたのかは分からない【注4】金来成(キム・ネソン)は平壌(ピョンヤン)の高等普通学校の英語の授業で探偵小説の魅力を知ったとされているので英語もある程度は理解出来たと思われるが、日本語から翻訳・翻案を行ったと考える方が自然だろう。なお、金来成に探偵小説の魅力を教えた英語教師とは、後に翻訳家としてドイルの『失われた世界』などを翻訳する龍口直太郎(たつのくち なおたろう)(1903-1979)である。

1950年代~21世紀初頭のホームズ受容史

 ホームズ譚の翻案を行った作家は金来成(キム・ネソン)だけではない。1940年代後半から1960年代半ばにかけては、パン・イングン(方仁根、1899-1975)が探偵チャン・ビホ(張飛虎)シリーズを発表しているが、李建志(り けんじ)氏によればこれはホームズ物の翻案だったという【注5】。パン・イングンは戦前から恋愛小説などで有名だった文学作家で、日本の中央大学を卒業している。戦前には探偵小説に近い長編小説『魔都の香火』(1934)を発表しているほか(韓丘庸「翻訳時評 「韓国ミステリー」の課題と展望(1)」参照)、ルブランの『813』等の探偵小説の翻訳もしていた。パン・イングンは戦後も多数の作品を発表しているが、すべての作品がホームズ物などの翻案だったのか、それとも創作も含まれていたのかは分からない。チャン・ビホシリーズは現在の韓国では忘れ去られており、新刊書店で入手することはできない。この時期には翻案の探偵チャン・ビホシリーズだけでなく、主に日本語からの重訳でホームズ物の翻訳も刊行されていた。

 韓国では1970年代後半に翻訳ミステリ叢書の創刊ブームが起きた。当時最大のミステリ叢書《東西推理文庫》(1977年~1980年頃?、全128巻、一部SF作品も含む)ではホームズ物のすべての作品(長編4編と短編集5冊【注6】)が刊行されたほか、ドイルのSF作品『マラコット深海』も刊行された。ほかに、《河西推理選書》(1977年~1978年、全36巻、ラインナップ紹介)では『バスカヴィル家の犬』、《三中堂ミステリ名作》(1978年~1981年、全40巻、ラインナップ紹介)では『緋色の研究』、『恐怖の谷』と短編集2冊が刊行された。このころの翻訳もまだ日本語からの重訳が多かったようである(韓国が万国著作権条約に加盟したのは1987年である)。

 韓国推理作家協会(1983年創設)の会員だったミステリ評論家・翻訳家の故チョン・テウォン(鄭泰原、1954-2010)氏は1992年以来、原典から直接翻訳したホームズ全集の企画を多くの出版社に持ち込んだが、特に当時の韓国では「文学」に対して推理小説を下に見る傾向が強く、「誰が大人になってまでシャーロック・ホームズを読むのか」と断られ続けたという。出版のあてのない中でもチョン・テウォン氏は個人的に翻訳を続け、2002年にはついに全8巻の《シャーロック・ホームズ全集》(時間と空間社)として実を結んだ(ネット書店アラジンの該当ページ)。この全集の刊行は韓国内で「原典からの翻訳ブーム」を引き起こしたという【注7】。チョン・テウォン氏はほかにニコラス・メイヤー『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険』、W・S・ベアリング=グールド『シャーロック・ホームズ : ガス燈に浮かぶその生涯』の翻訳もしている。氏は日本語の翻訳者でもあり、赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズなどの翻訳もした。

 2009年にはハン・ドンジン(韓東珍、1972 - )のミステリ短編集『京城探偵録』が刊行されている。これは1930年代の京城(けいじょう、現在のソウル)を舞台に、シャーロック・ホームズをもじった探偵ソル・ホンジュと、ワトソンをもじった漢方医ワン・ドソンが活躍するシリーズである。ハドソン(ハドスン)夫人をもじったホ・ドスン夫人や、やや無理があるがホームズ譚に登場する刑事の名前をもじった日本人の零七礼島(れいしち・れいとう)警部、拝田名神(はいだ・めいしん)警部も登場する(それぞれ、LestradeとWhite Masonのもじり)。この短編集は韓国のミステリファンに好評を持って迎えられ、2011年には韓国の日本ミステリ翻訳レーベル《BOOK HOLIC》で特別に《京城探偵録》シリーズの第二短編集『血の絆』が刊行されている(以前に書いた『京城探偵録』の紹介記事は「こちら」、また《BOOK HOLIC》の刊行作一覧は「こちら」)。

 2012年3月にはホームズ物の短編全56編の新訳がレスリー・S・クリンガー(Leslie S. Klinger)の注釈本を底本として刊行されている。



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 Wikipediaの記事は情報源として利用していないが、参考までに示しておく。



深夜の恐怖 金来成(きん らいせい、キム・ネソン)

 私は八年近くの間、私立探偵として最も名高い白麟(ペク・リン)君と交際してきたが、あの「まだらの紐」事件ほど奇怪でぞっとする恐ろしい事件はほかになかった。(ペク)君は実際、凡人では到底持ち得ないような明晰な頭脳の持ち主だった。この「まだらの紐」事件にしても、彼の非凡な想像力と緻密な観察力でなかったら到底あのように見事な解決を見ることは出来なかっただろう。
 この事件が発生した当時、私と(ペク)君は太平通り【現在の太平路(テピョンノ)、ソウル中心部の大通り】の中央アパートで共同生活をしていた。
 ある日の朝、いつもは起きるのが遅い(ペク)君が私よりも先に起きて私を起こすのだった。
(キム)君、起きろよ、おい」
 私は目をぱちりと開いて布団から起き上がった。
(ペク)君、またなにか事件でも起こったのかい?」
「ああ、そのようなんだ。今、若い女性が一人訪ねてきて、どうしても私に面会したいというんだが、その女性の様子が普通の興奮の仕方じゃないんだよ。こんな朝早くに若い女性が私を訪ねてくるだけでも奇妙じゃないか……?」
「ああ、奇妙だ。奇妙だとも」
 こうして二、三分後に私が(ペク)君のあとについて隣の応接室に入っていくと、二十歳になるかならないかぐらいの一人の若い女性が椅子から体を起こした。(ペク)君は女性に座るよう勧めながら、
「私が白麟(ペク・リン)です。そしてこちらは私の友人の(キム)・ジュン【「ジュン」の漢字表記不明】という医学士です。私の仕事を熱心に手助けしてくれる男ですので、少しも気兼ねすることなく用件をおっしゃってくださって問題ありません。さあ、暖炉の横にどうぞ。たいへん寒そうに震えていらっしゃいますが」
「いえ、寒くて震えているのではないんです」
「それなら、どこかお体に悪いところでも……?」
「いえ、もう恐ろしくて、恐ろしくて!」
 女性の顔はなにかを恐れるように真っ青になった。
「何も心配せず、その恐れというものについてお話しください」
 女性はしばらくの間、心を落ち着かせようとするように両目を閉じて黙って座っていたが、若干顔を上げながら口を開いた。
「私が今恐れているもの、それが一体何なのか私にも分からないんです。いわば、漠然とした恐怖です。でも(ペク)先生なら私が恐れているその何かの正体を必ずつきとめてくださるだろうと信じて訪ねてきたんです。可哀そうな私を危険から救ってください」
「ええ、私の力の及ぶ限りは……」
「私は李英淑(イ・ヨンスク)と申します。京元(キョンウォン)線沿線にあるSという温泉街に住んでいます。今日の明け方の電車で京城(キョンソン)【日本語読みは「けいじょう」、現在のソウル】に参りました。ああ、先生にこうして会うことが出来て……」
 女性は少しの間言葉を切ってから再び口を開く。
「S温泉で私は父と二人で暮らしています。父といっても私の本当の父ではなく義父です。義父は若いころに医学の勉強のためインドのカルカッタに行って、十年ほど病院を開業していたそうです。それから朝鮮に戻って来て私の母と結婚しました。そのとき私は二歳で、姉の恵淑(ヘスク)は四歳でした。私の本当の父は私が生まれてすぐ、腹膜炎でこの世を去りました。母にはたくさんの財産がありました。年収が五万ウォンにもなる土地も持っています。母は義父と結婚したあとは財産をすっかり義父に譲渡しました。しかしそこには一つの条件があったんです。それはもしも母が亡くなるようなことがあっても義父は私たち姉妹の面倒を最後までみなければならないというもので、さらにいうと、私たち姉妹が結婚したら一人につき毎年一万五千ウォンずつを渡すという条件です。ところが、母はその後いくらも経たないうちに脳出血を起こしてそのまま亡くなってしまいました。それがちょうど今から八年前のことです。父はすっかり気落ちして、京城(キョンソン)で開業していた病院をたたんで、今私たちが住んでいるS温泉に好ましい洋館を建てて、私たち姉妹とわびしく暮らし始めました。それでも生活には少しも不自由なことはなく、私たちの幸せを妨げるようなものはひとつもないように見えました。しかし近年になって、父の性格がだんだんと変わっていったんです。以前はそうでもなかったんですが、だんだんと陰気になって、一日中真っ暗な部屋の中で横になってごろごろしたり、庭に出て豹やゴリラのようなそんな獣たちを引き連れてぶらぶらしたり」
「なに、豹……? ゴリラ……?」
 (ペク)君と私は驚いて尋ねた。
「はい、先生が驚かれるのも無理はありません。父はインド産の動物をたいへん好んでいて、三年前の春にインドから豹のこども一頭とゴリラのこども二頭を手に入れてきて、檻にも入れずに庭にそのまま放し飼いにしているんです。それで村の人たちもうちのことを「恐ろしい家」と呼ぶんです。召し使いたちもみんな逃げてしまって、私たち姉妹は家事を全部自分でしなければならなくなりました」
「ううん、実に異様な性格の人物ですねえ」
 そういって(ペク)君は女性の顔を見つめた。
「このような環境で育った私たちの生活がどんなふうであったか……。先生はよくお分かりだろうと思いますが、なにかはっきりとは言えませんが漠然とした恐怖が私たちの胸を抑えつけていたのです。そうするうちに、ついに可哀そうな恵淑(ヘスク)姉さんが恐ろしい死を迎えたのです」
「それでは、お姉さんはお亡くなりになったんですね?」
「はい、今から二年前のことです。私が先生にお会い出来ればと思ったのも実は姉がなぜ死んだのか、その原因を知りたいからです。姉はそのとき、温泉を訪れていたある大学生と婚約までしておりました。父は特に反対もせず、秋には式を挙げることになっていました。その結婚式の日を二週間後にひかえて、実に恐ろしい事件が起きました」
 (ペク)君は椅子に体を深く沈めて、眼を閉じる。
「そのときのことを詳細にお話しください。非常に重要な部分ですから……」
「はい。そのときのことを思い出すと今でも歯が震えてどうしようもありません。私たちのうちは二階建てです。そして私たちの寝室は一階にあります。最初の部屋が父の寝室、その次の部屋が姉の寝室で、さらにその次の部屋が私が寝る部屋です。寝室と寝室を直接結ぶ扉はなく、必ず廊下を通るようになっています。その日の夜、父は夕暮れ時から自分の部屋にいらっしゃったんですが、父の部屋と壁一つ隔てた部屋の姉はそのとき父が吸う煙草のきつい匂いのために寝つけず、私の部屋に来て自分の結婚に関してあれこれと話してから、十一時ごろになって自分の部屋に帰っていきました。その帰り際に姉は奇妙な話をしたんです。
英淑(ヨンスク)、近ごろ真夜中に、どこからか口笛を吹く音が聞こえない?』
『口笛を吹く音? 聞かないけれど……。姉さん、どうしてそんなことを訊くの?』
『いえ、ほかでもない、ここ何日も口笛を吹く音が真夜中に聞こえるでしょう……? 私はもしかして英淑(ヨンスク)が退屈で吹いているのかと思って……』
『私じゃないわ。私がどうして口笛を吹くの?』
『ああ、異様で耐えなれない! どこから聞こえてくるのかしら?』
『うん……、どこからかしら』
 姉はそうして自分の部屋に戻っていき、部屋に鍵をかける音が聞こえました」
「というと、あなたがたは毎晩扉に鍵をかけてお休みになっていたのですね?」
 そう(ペク)君が尋ねる言葉に英淑(ヨンスク)
「はい、先ほども言いました通り、庭には父が飼っているゴリラや豹が歩きまわっていますから恐ろしくて」
「はい、よく分かります」
「それで私がベッドに横になって口笛は一体どこから聞こえるのかとあれこれ考えていたところ、突然姉の『あっ』と叫ぶ声が聞こえるじゃないですか。跳ね起きて姉の部屋へ走ったとき、私は異様な口笛の音を聞いたように思います。いいえ、それだけでなく、『ガチャッ』というなにかの金属音が聞こえました。そのとき姉の部屋の扉がすうっと開いて、髪を乱して顔が真っ青になった姉が私を見るなり倒れかかるように体を預けてきました。そして中風患者のように手足をぶるぶると震わせながら、『ああ恐ろしい! 英淑(ヨンスク)! 紐が! まだらの紐が!』と叫んで倒れたきり、だんだんと生気がなくなっていってそのまますぐに亡くなってしまいました。そのとき隣りの部屋でお休みになっていた父も走って来て、手足をさすってワインを飲ませましたが、なんの効果もありませんでした」
「ちょっと待ってください。異様な口笛の音と金属音は間違いなく聞きましたか?」
 (ペク)君はなにかのヒントを得たように両の眼を閃かせた。
「はい、間違いなく聞きました」
「それで、そのまだらの紐という言葉が何を意味しているか、心当たりはありますか?」
「ありません。姉がなぜまだらの紐という言葉を残して亡くなったのか、まったく見当がつきません」
「ううむ、この事件は非常に難しい事件だ。それで……、お姉さんの死体を調べた検視官はどのような結論を出しましたか?」
「検視官も満足のいく結論を出すことは出来ませんでした。廊下に通じる扉は姉が鍵をかけるのを私が見ましたし、明かり取りの窓もしっかりと閉めてあったので、いわば四方を固く閉ざされた部屋でどうして死ぬことになったのか分かりません。それから……」
「それからどうなったんです? さあ、続きをお話になってください」
「その後二年が経って、最近私はある男性と婚約いたしました。元山(ウォンサン)【朝鮮半島東海岸の港町、現在は北朝鮮】にあるとても大きな文具店に勤めているまじめな青年です。父もよい縁談だと喜んでいらして、二か月後には式を挙げる予定です。そんなとき、二、三日前から私の部屋が雨漏りするようになってしまい、空いたままになっていた姉の部屋で寝るようになりました。ところが、まさに昨日の夜です。ベッドで横になって、恐ろしい死を迎えた姉のことを考えていると、真夜中ごろになってどこからか異様な口笛の音が聞こえるじゃないですか。ああ恐ろしい! 姉の死を予告した恐ろしい口笛の音! 全身がぞくぞくと震えます! それで私は起き上がってランプに火をともしましたが部屋の中にはなにも見えません。私は恐ろしくて再びベッドには入らず夜が明けるのを待ってこうして先生を訪ねてきたのです」
 英淑(ヨンスク)はそして哀願するように名探偵白麟(ペク・リン)を見つめた。(ペク)君はしばしの間黙って座っていたが、突然顔を上げて
「今あなたの身には恐ろしい危険が迫っています。今すぐ私と(キム)君があなたとともにS温泉に参ります。お父さんに知られないようあなたが今使っている部屋を見せていただくことはできますか? これは非常に重要なことです」
「ありがとうございます、先生! 折り良く父は今日、なにか用事があって京城(キョンソン)に来ていますから、今すぐ十時の汽車で発てば父より早くS温泉に到着できると思います」
「それじゃあ(キム)君、朝食は汽車の中でとることにして、服を着替えるんだ。万一のことに備えてピストルを必ず持って行かないといけないな!」
「オーライ!」
 こうして三十分後には私たち三人は京元(キョンウォン)線を東へ東へと進んでいた。(ペク)君は窓の外を黙って眺めながら、ときどき独り言で「口笛の音! 『ガチャッ』という金属音! まだらの紐!」とぶつぶつとつぶやいていた。
 S温泉に降り立ったのは十二時を少しまわったころだった。英淑(ヨンスク)の父親はやはりまだ京城(キョンソン)から帰っていなかった。家の門をくぐるや否や、向こうの垣根の下からゴリラが二頭、こっちへのそりのそりと歩み寄ってきて、すぐさま草むらの方へ走っていった。右の花壇の横では豹がしゃがんでこちらを眺めている。
「人に危害を加えたりはしませんか?」
 私は英淑(ヨンスク)に尋ねた。
「危害を加えたりはしませんが、見慣れない人を見ると興奮して飛び掛かることがあるので注意なさってください」
 (ペク)君はそのとき、
「うん、あれがお父さんの部屋で、真ん中がお姉さんの部屋、その隣りがあなたの部屋ですね?」
「はい、でも三日前から私がこの真ん中の部屋で寝ているんです」
 (ペク)君はまずこの三つの部屋を外から綿密に調査した。それから中央の部屋、英淑(ヨンスク)の姉が恐ろしい死を遂げた部屋に入っていった。そこは特に日用品の類はなく、ただ父親の部屋と接する方の壁際にベッドが置かれていて、ベッドの枕元にまで長々とした紐が垂れていた。(ペク)君は紐を引っ張ってみながら、
「これは何の紐ですか?」
「それを引いて召し使いたちを呼んでいました。一種の旧式の呼び鈴です。でも今は召し使いたちがみんな逃げていなくなってしまったので使い道もなくなりました」
 (ペク)君はベッドに上がって紐に沿って壁を仔細に調べていたが、天井のすぐ下に十銭硬貨大の穴がひとつあいているのを見つけて叫んだ。
「そら! どうせこんな穴があいているだろうと思っていたんだ!」
 私は不思議に思って、
「それを見もせずにどうして分かっていたというんだ、(ペク)君?」
「君はもう忘れてしまったのかい? 英淑(ヨンスク)さんの姉がその日の晩、隣室で父親が吸っていた煙草のきつい匂いのために寝つけなかったという言葉を忘れたか……? こういう穴でもなけりゃ、煙草の匂いがどうやって忍び込んでくるというんだい? さあ、それではお父さんの部屋を早く見せてください」
 こうして三人は隣室に移動した。医学書の(たぐい)がぎっしり詰まった本棚、ベッド、テーブル、椅子、そして隣室へと通じる穴のちょうど真下にとても大きな金庫が一つ置かれている。
「この中には何が入っているんですか?」
「いろいろな書類などが入っています」
「それでは、以前にこの金庫の中をご覧になったことがあるんですね?」
「はい、一年ぐらい前に見ました」
「ふむ、私はまた猫かなにかの動物が中にいるのかと。ははは……」
「あらまあ、冗談もお上手なんですね」
「でもこれをご覧ください」
 見ると、金庫の上には小さな皿があって、その皿には牛乳が注がれていた。
「あら、奇妙ですわね。父が牛乳をお皿で飲んだりもしないでしょうし……」
「なんだか分かりませんが、見ていると何もかも異様に見えてきます。ところで、これはまたなんの(むち)でしょうか?」
 それはベッドに掛けてある小さな鞭だった。
「ああ、世の中は恐ろしい! 特に、知恵のある人間が悪事を働いたようなときには……。ああ、こんな恐ろしい計画があるだろうか!」
 このときほど憂鬱な顔をした(ペク)君を私はそれまで見たことがなかった。
英淑(ヨンスク)さん! 私はあなたに危害を加えようとする物が何であるのか分かりました。あなたは今、恐ろしい危険の中にいます。英淑(ヨンスク)さん! あなたはどんなことがあろうとも私の指示に絶対に従いますか?」
「はい、先生のお言葉であれば絶対に従います」
 英淑(ヨンスク)はぶるぶると震える。
「それでは今夜はお父さんが帰ってきたあと、英淑(ヨンスク)さんは寝たふりをして、お父さんが寝入ったようだったら明かり取りの窓を開けてランプの火を少しの間ともしてから消してください。そうしてから英淑(ヨンスク)さんは本来のご自分の寝室に移っていてください。今夜は天気がいいですから雨が漏る心配もないでしょう」
「それなら先生方はどうなさるおつもりですか?」
「我々はあそこに見える宿屋の二階からその灯りを見たらこちらに来て、英淑(ヨンスク)さんに代わって部屋を監視します。英淑(ヨンスク)さんを怖がらせるその口笛の正体を明らかにします」
 こうして私と(ペク)君は向かい側の宿屋の二階から英淑(ヨンスク)のいる部屋を見下ろしながら日が沈むのを待った。七時ごろになって英淑(ヨンスク)の義父と思われる人物が駅の方から歩いてきて英淑(ヨンスク)の家に入っていった。
「あれが英淑(ヨンスク)の父親だ!」
 (ペク)君は興奮した口ぶりで私を見つめた。
(キム)君、十銭硬貨大の穴と呼び鈴の紐と、そして英淑(ヨンスク)の姉の死……、この三つの間にどんな関連性があるか君は見当がついたかい?」
「うん、私も君がいった意味をぼんやりとではあるけど分かりかけてきたようだよ。実にぞっとするような恐ろしい犯罪が行われているのではないか、(ペク)君?」
「うん……、実に巧妙な犯罪だ! 医者が悪事に手を染めるようになると、それは最も恐ろしい犯罪者へと変わるのだ。彼らは大胆である上に知識もあるのだからね」
「うん、恐ろしい犯罪だ!」
 私と(ペク)君がこんな話をしていたとき、十一時を知らせる時計の音がゴンゴンと鳴り響いたかと思うと、突然向かい側の英淑(ヨンスク)のいる部屋でランプの灯がぽっとともり、そして消えた。
「合図の灯りだ!」
 (ペク)君と私はそう叫びながら宿屋を飛び出した。外は真っ暗だ。芝生を過ぎて英淑(ヨンスク)の家の門まで至ったが、門は閉ざされていた。私たちはロープで塀を越えて中に入った。そして足音を殺し、息をひそめて英淑(ヨンスク)が先ほどまでいた寝室に潜り込んだ。部屋の中は真っ暗だ。(ペク)君が私の耳元に口を寄せた。
「ちょっとでも声を出したら我々の計画は水の泡だ。それに居眠りをしたらいけないよ。万一居眠りをしたら大変なことになる! 君の命がなくなるかも分からないから……。ピストルを手に持ってその椅子に静かに座っているんだ」
 そして(ペク)君はいつ準備しておいたのか、細い鞭を片手に持ってじっと闇の中を見据えているようだった。
 ああ、今また考えてみるだけでもその日の夜の恐ろしい出来事が体を震えさせる。私は一体この闇の中から何が出てくるのかと神経を針のようにとがらせてピストルを力強く握りしめた。相手の正体を察することが出来ないだけにより一層恐ろしかった。しかし私は名探偵の(ペク)君を信じる。彼がしろという通りにしていれば私は自分の責務を全うできるはずだ。
 いつの間にか十二時が過ぎ、さらに一時、そして二時も過ぎた。そして時計が三時を打ったちょうどそのときだった。
 突然天井のすぐ下の壁にあいた十銭硬貨大の穴の辺りがぼんやりと明るくなった。そして隣室、つまり英淑(ヨンスク)の父親の部屋で人の動く気配がするじゃないか! 私は体をぶるぶると震わせながら、そのぼんやりと明るくなった穴に向かって銃の狙いを定めた。そうすること約三十分、その瞬間今度は異様な音が聞こえてきた。なんとも形容しようのない音、絹の衣服をそろそろと引きずるのとも似た音だ。その瞬間、(ペク)君はマッチに火をともすや否や、持っていた鞭をベッドまで垂れている呼び鈴の紐にひゅっと打ちつけた。そして、
(キム)君、見たか? 今あれを見たか?」
 そう叫んだ。しかし私には何も見えなかった。(ペク)君がマッチをすった瞬間、どこからか口笛の音が聞こえたが、彼が垂れ下がった呼び鈴の紐に鞭を打ちつけたの以外には何も見えなかった。いや、その瞬間に私が見たものがあるとしたらそれは、恐怖と嫌悪でいっぱいになった(ペク)君の蒼白な顔だけだった。
 (ペク)君は鞭を打つ手を休めて貫くように穴を見つめた。その瞬間、隣室から恐ろしい悲鳴が聞こえてきた。苦痛と恐怖と怒りをこらえきれずにあげるうめき声だ! しかし次の瞬間、その恐ろしいうめき声も聞こえなくなり、四方は再び静寂に包まれた。
「一体、あれは何の声だ?」
 そう問う私の言葉に、
「ううむ、恐怖は去った! この事件はこれで終わったのだ! さあ、ピストルを持って隣室に行こう!」
 (ペク)君は一人でそういうと火をともしたランプを持って隣室に入っていった。私も彼のあとに続いた。
 ああ、これはどうしたことか……? それは実に異様なことこの上ない光景だった。大きな金庫は扉があいていた。英淑(ヨンスク)の義父は寝巻きを着たまま椅子に腰かけて異様な鞭を片手に持って天井の片隅を貫くように見つめているじゃないか! いや、それだけではなく、彼はまだら模様の真っ黄色い紐を頭に縛りつけて黙って座っているのだ。
「紐だ! (キム)君、よく見ろ! あれが例のまだらの紐だったのさ!」
 (ペク)君の言葉に私はなんの気なく差し出した足をびくりと止めざるを得なかった。それは実に奇怪なことこの上ない紐だった。動く紐だ。瞬間、私は「蛇だ! 蛇だ!」と叫び声を上げた。
「うむ! インド産の毒蛇(どくへび)だ」
 (ペク)君が説明した。
「あいつはインドの沼にだけ棲息する毒蛇だが、あいつに咬まれたら十秒も経たずに死んでしまうよ。英淑(ヨンスク)の父親もたった今あいつに咬まれて絶命したのさ。暴力は自身の体に返ってくるという言葉があるが、人に危害を加えようと陥穽を掘る者は必ず自分がその陥穽に嵌まるものだ。さあ、それじゃああいつを自分の家の中に追い払って、英淑(ヨンスク)さんに警察を呼ぶように言わないと」
 (ペク)君は死体に変わった英淑(ヨンスク)の義父の手から異様な蛇用の鞭を取り上げると、それを毒蛇の頭部に引っかけてるようにして、毒蛇を金庫の中に押し込んで扉を閉じた。
 いつの間にか夜が明けた。警官たちに詳細な説明をした(ペク)君と私はS温泉の駅まで英淑(ヨンスク)の見送りを受けた。英淑(ヨンスク)は汽車が発つ時分に血の気のない顔をしょんぼりと上げて、
(ペク)先生、(キム)先生! この度の恩はどのようにお返ししたらいいか……。先生方お二人とも、私たちの結婚式には必ずいらっしゃってくださいね」
 そう言いながら、純白のハンカチーフを振っていた英淑(ヨンスク)の姿が目の前におぼろげに浮かんでくる。
 (ペク)君は窓の外を眺めながら、
「さっきも言ったように、呼び鈴の紐と穴を見たとき、すでに私はその穴を出入りできるような細い蛇を思い浮かべていたよ。その上、金庫の上に載った牛乳の皿と蛇用の鞭を見たらすべてを推察することが出来た。彼は英淑(ヨンスク)姉妹が結婚したら毎年一人につき一万五千ウォンずつを渡さなければいけないんだ。それで彼は英淑(ヨンスク)姉妹を巧妙な手段で亡きものにしようと決心したのさ。彼は若いころにインドで暮らしていたぐらいだから、インドの沼蛇を使えばどのようにして死んだのか検視官の目をまんまと欺くことができ、蛇が元々細いだけに咬んだ跡も極めて小さくそれなりの注意力では傷跡を発見できないのみならず、沼蛇の毒は医学でも検出できない毒だということをよく知っていただろう。彼が金庫の奥に入れておいた蛇を蛇用の鞭で引っぱり出して天井近くにあいた小さな穴から出て行かせると、向こう側の部屋に垂れている呼び鈴の紐をつたってベッドまでするすると降りていくんだ。しかしいくら毒蛇だといってもたった一回で人を咬むとは限らないだろ。それに蛇をそのままにしておいたら翌朝に人に見つかってしまうだろうから、三十分ほどしたら口笛を吹いて蛇を呼び戻して牛乳を飲ませるということを繰り返していたんだ。分かったか?」
「うん、よく分かった。『ガチャッ』という金属音は蛇を金庫に入れて扉を閉じる音だったんだろう?」
「もちろんそういうことだとも。今回も蛇が紐をつたって降りて来ているところに、私がつづけざまに鞭を打ちつけてやったんだよ」
「それで蛇はまた這いあがって向こうの部屋へと逃げていったということだろう?」
「その通り! そして私の鞭で三、四回打たれた蛇はかっとなって自分の主人を咬んだということだ。したがって、蛇が彼を咬むようにした私自身にももちろん彼の死に対して間接的な責任はあるだろうが、だからといって別に良心の呵責までは感じられない。悪い行いは結局その本人に返って行くものだから……。いずれにせよ、英淑(ヨンスク)さんの結婚式にはぜひとも出席することにしよう!」
「ああ、当然だとも!」
 汽車は西へ西へとたゆみなく疾駆していた。


翻訳:Dokuta
原語(韓国語)から翻訳
使用テキスト:『金来成傑作シリーズ 怪奇・翻案編 白蛇図』(ペーパーハウス、2010年)

2012年3月10日公開
最終更新:2012年03月10日 23:54