綺譚・恋文往来 (『モダン日本』1935年9月号(第6巻第9号))
柳不乱(金来成)
1
幻の影、H子さま! 一面識もない貴嬢さまに突然このような書簡を差上げる無礼を御許し下さい。然しこの以外にどんな手段が僕に残っているのでしょう。面と向っては僕はとても自分の心の中を打明ける勇気を持って居ないのです。
幻の影、H子さま! 朝な夕な天使のような貴嬢の容姿を僕は生垣の内から眺めているのです。高からず低からざる脊丈、個性美に富んだ素晴しいプロフィル! 琢磨された大理石のような肌! そしてあの髪を何というのですか、僕はあの結方が堪らなく好きなんです。すたすたと歩いて来てすたすたと去って行くあの何十秒かの間――おお、神在さば神よ! 財も名も命もなくもがな!
幻の影、H子さま! 浅間しいとお叱り下さるな。遂に僕は駆り立てる心を制し切れず、貴嬢の勤務先とお名前と、そして住所をも調べたのです。お許し下さい。お許し下さい。
では――
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不良の出来そこないのKさま! 今頃あんな恋文流行りません。読んだだけでも私頭痛がしてならないのです。もっともっと恋文の書方を練習なさい。あれではどう贔屓眼に見ても先ず先ず四十点そこそこ。字もまずい。もう一年間おダブりなさい。そしてロマンティックなヴェールのかかっていない観察の習慣をおつけなさい。後になって幻滅の悲哀を感じないように――。鼻の低い私に素晴しいプロフィルは一寸御無理でしょう。大理石どころか、隅田川のように濁った肌です。賞められて喜んだのは昔々その昔の娘達のこと――。
噫々! 折角の日曜日の朝を、何処の馬の骨だかも知らない有閑階級のモヤシ息子のために滅茶滅茶にされた。これも搾りの一形態なのかしら! Kさま! 茲に貴方の大切な恋文を御返ししますから、どうぞ冷汗をかかずに読み直して御覧なさい。
御忠告まで
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何処の羊の骨だか知りませんが、貴女はH子さまとやら申しましたね。ではH子さん! 不良の出来そこないとは何です。モヤシ息子とは何です。女なら女らしい物の言方がある筈です。本当は僕、貴女の御忠告に背いて冷汗を一杯かきました。僕が出したというあの恋文の字体と現に僕が今書いているこの文字とを比較して御覧なさい。あの全で中学校の鼻ったれ小僧が書いたような文体と字体――その差出人が僕だとおっしゃるのですか。失礼も甚しい!
女の出来そこないのH子さん! 序でだから言って置くが、あの手紙に依るとその青年は純真な人のようです。貴女のような高慢な女には一寸勿体ない感じがする。そのことに就いてはとくと鏡と御相談なさい。貴女御自慢の低鼻と隅田川のような肌が映る筈ですから。高くもない鼻を高くしようたって、貴女を敬愛するその青年でなければ御無理な相談。頑張りようが度を過ぎると相手は離れて行きます。――ああ、折角のランデーブーの晩だというのに、無閑階級の、どす黒い大根娘の低鼻自慢で台無しか。兎に角、方角違いの手紙は今後一切お断りします。そして折角ですが御手紙を全部御返しします。僕がそんな下手な字と文章を書いたのは小学校六年の時だったと思いますよ。
4
図々しいのにも程がないKさま! 成程両方の文字は一見相違して居りました。私も最初は吃驚したのです。すると差出人は一体何処の誰なんでしょう? 封筒にも間違いのない貴方の住所と名前――。だが、男らしくもないKさま! 自分の行為に責任と信念をお持ちなさい。射外れた時の逃腰根性、そんな心構えでは恋愛は出来ません。最初のは貴方の左手が書いたもの、今度のは貴方の右手が書いたもの。
Kさま! 今からでも遅くはありませんから正直に告白なさい。悔ゆる者は責むべからず。それを貴方は逆に私を侮辱しました。大根娘の、無閑階級のと――。
永久に済度し難き愚衆なるKさま! 良心の鏡を御磨きなされ。
5
H子さん! 僕は真面目です。僕は怒って居ります。僕は本当にあんな下らぬ恋文を書いた覚えがありません。貴女はキッと何かを誤解しているのです。失礼ですが、何処かで逢って頂けないでしょうか。手紙では益々事が縺れ行く一方です。逢って、僕が差出人でないことを実証的に証明します。そして僕の手蹟でなかった場合、僕は決して黙っては居ない積りですから――。
6
Kさま!
貴方は何処までも隠し掩うせる積りですね。よろしゅう御座います。お逢い致しましょう。私も毒口を吐いた責任もあることだし、それに私の探偵眼に狂いはないと思いますから――。
明日午後五時三十分――新宿駅待合室まで御来駕を――
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H子さん!
昨日あの喫茶店で、僕は自分の両方の手蹟を貴女に御目にかけた筈です。そしてあの恋文との間には何等の共通点もなかったことを貴女も認めて下すった筈です。御自分の行為に責任と信念を持って居られる貴女でもある筈でした。
H子さん! 僕は貴女に損害賠償を請求します。約一週間、僕は貴女の御手紙に依って莫大なる精神的損傷を受けたのです。僕は直接に貴女の手で、この攪乱された精神を旧態に復して貰います。そうするには是非共、僕は貴女と結婚しなければなりません。これ以外の賠償の方法を僕は絶対に認めないのであります。一目で僕は貴女が好きになりました。個性美に富んだ素晴しいプロフィル! 琢磨された大理石のような肌! あの髪を何というのですか、僕はあの結方が堪らなく好きなんです。すたすたとやって来てすたすたと去り行く君の後姿――いや、あの恋文を書いた人は実に頭のいい人でしたよ。それを隅田川のような肌だとか低鼻だとか言った貴女の心が憎いですね。
幻の影H子さん! 明日逢ったら僕も一つ調べたいことがある。貴女はどうしても僕の眼の前で、あの恋文と同じ文句を貴女の左手で書かねばなりません。いいですか。
明日午後六時――銀座千疋屋まで――
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Kさま!
昨晩は私生れて以来の最幸の夜――。
私の非常戦術の功を奏した夜――だって私、神に願かけてやった仕事ですもの。でも貴方の探偵眼も相当なもの――。
でもよかったわ。幸い貴方が私を好いて下すって――。
私のKさまへ
底本(初出):『モダン日本』1935年9月号(第6巻第9号)pp.62-63、発行所:モダン日本社、発売元:文藝春秋社
2011年9月16日作成
※タイトルと筆名の読みは推定。
※金来成が1938年に発表した韓国語作品「恋文綺譚」の原型となった作品である(詳細は下記の「解説」参照)。
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解説
「綺譚・恋文往来」の作者は、韓国ミステリの始祖とされる金来成(きん らいせい/キム・ネソン/김내성[金來成]、1909-1957)である。
金来成は早稲田大学留学中の1935年、日本の探偵雑誌『ぷろふいる』に投稿した短編探偵小説
「楕円形の鏡」が入選、1935年3月号に掲載されデビューした(
写真:「楕円形の鏡」冒頭)。同年には、『ぷろふいる』創刊2周年記念の特別懸賞募集に投じた短編探偵小説
「探偵小説家の殺人」も入選し、1935年12月号に掲載されている(
写真:「探偵小説家の殺人」冒頭)。
このページに全文掲載した「綺譚・恋文往来」(新聞広告や目次では「綺譚恋文往来」)は、金来成が柳不乱というペンネームで日本の雑誌『モダン日本』の「懸賞シヨオト・ストリイ大募集」に応じて投稿し入選、1935年9月号に掲載されたものである(この号は表紙や目次では「九月特別号」となっており、新聞広告では「九月特輯号」となっている。奥付けでは単に「第6巻第9号」とされていて「×月号」の表記はない。このページでは単に「9月号」としておく)。「探偵小説家の殺人」には探偵役として劉不乱という人物が登場しているので、おそらくこのペンネームも柳不乱と読むのだろう。なおこれは、ルパンシリーズの作者、ルブランの名をもじったものだと言われている。
『モダン日本』の懸賞募集とはどのようなものだったのか。「綺譚・恋文往来」が掲載された1935年9月号の奥付けページには以下のように書かれている。
◎懸賞シヨオト・ストリイ大募集
本社が先に発表したシヨオト・ストオリイ懸賞募集は、各方面に非常なるセンセエシヨンを巻き起し、応募原稿殺到し、選ばれた珠玉の名篇は続々発表中ですが、更に引続いて新鮮明朗なシヨオトストオリイを募集します。
題材自由、四百字詰原稿用紙八枚まで、一人一篇限り、賞金拾円を呈します。特に優秀なものには金貳拾円を進呈。
〆切は毎月十五日。
金来成が受け取った賞金が10円だったのか20円だったのかは分からない。『モダン日本』のこの号の定価が30銭なので、10円というのは『モダン日本』が33冊買える程度の金額である。今の金額でいえば、10円が15000円、20円が30000円程に相当すると思われる。
金来成は1936年に早稲田大学を卒業するとすぐに帰国。以降は、韓国で探偵作家・大衆文学作家として活躍した。金来成が日本で発表した作品は以上の3短編のみだが、ほかに日本語で執筆したものの発表されなかった長編『血柘榴』がある。これらはのちに本人の手で韓国語に翻訳され、韓国で(再)発表されている。対応関係は以下のようになる。
- 「楕円形の鏡」(타원형의 거울)(1935年) → 「殺人芸術家」(살인 예술가)(1938年)
- 「探偵小説家の殺人」(탐정소설가의 살인)(1935年) → 「仮想犯人」(가상 범인)(1937年)
- 「綺譚・恋文往来」(기담 연문 왕래)(1935年) → 「恋文綺譚」(연문기담)(1938年) … 「恋文綺譚」は韓国のサイト「ネイバーキャスト 今日の文学」で全文公開されている
- 未発表長編『血柘榴』(1936年) → 『思想の薔薇』(사상의 장미)(1955年)
日本で発表された3短編のうち、「綺譚・恋文往来」は今まで研究者の間で現物が確認されたことがなかったらしく、「綺譚・恋文往来」と「恋文綺譚」がどのような関係にあるのかは定かではなかった。実際に見てみると、確かに「綺譚・恋文往来」は「恋文綺譚」の原型であることが分かるが、「恋文綺譚」はかなりの加筆がなされており、ほぼ別作品と言っていいものになっている。「綺譚・恋文往来」が手紙の内容だけが示されたごく短い作品である一方、「恋文綺譚」ではその手紙の差出人の男女双方の詳しい描写が作者によってなされ、手紙のやり取りをするにいたった背景も詳しく描かれている。
今までは「恋文綺譚」と「綺譚・恋文往来」は同じものだと思われていたため、「恋文綺譚」は1935年の作品とされていた。実際には両者には大きな差異があるので、「恋文綺譚」は1938年の作品とするべきだろう。
『モダン日本』に「恋文綺譚」の元になった作品が掲載されているというのは以前から知られていたが、その掲載号が1935年8月発売の号であり、タイトルは「綺譚恋文往来」、ペンネームは柳不乱であるということを突き止めたのは、『創元推理』に何度か韓国ミステリについての記事を寄せている李建志(り けんじ)氏である。李建志氏は新聞広告(
写真)を見ることで掲載号とタイトル、ペンネームを突き止めたが、雑誌の現物を手に入れる事はできなかったという。
李建志「韓国「探偵小説」事始め ――韓国ミステリーの創始者・金來成と『ぷろふいる』誌」(『創元推理5』(1994年夏号)、p.111)
『モダン日本』誌に載った「恋文綺譚」という小説について考えてみよう。この雑誌は保存状態が悪く、金來成が小説を発表したと思われる昭和十年前後は欠本が多い。だからこの「恋文綺譚」も、直接に見る事はできなかった。手段としては新聞の広告をあたるという方法が残されよう。『東京朝日新聞』昭和十年【注:1935年】八月五日の「酷暑征服号」と題された『モダン日本』の広告には、その左隅に「懸賞當選シヨオトストリイ」として「綺譚戀文往來・・柳不亂」の名前が見える。「年譜」が伝えているのはこれだろう。
2009年には金来成の生誕100周年を機に金来成の再評価の機運が高まり、新たな年譜も作られたが、その時にもこの「綺譚・恋文往来」の現物は確認されなかったようである。
ところが、先月末に改めて調べてみたところ、いくつかの大学にこの『モダン日本』1935年9月号が所蔵されていることが分かった(
NACSIS Webcat)。そのうちの1つに複写を依頼し、該当ページのコピーを入手することができた。
(なお、国立国会図書館にも1935年9月号は所蔵されているようだが、『モダン日本』は整理中のため少なくとも2012年春までは利用できないとのことだった)
金来成の生涯や、金来成と江戸川乱歩の交流についての詳細は、以前に作成した以下のページをご覧ください。
リンク(韓国語)
校訂
すべて新字新仮名遣いに直した。また、少々原文に手を入れたところがある。以下に示す。
- 1節:「琢磨された大理石のような肌!」――原文では「啄磨」となっているが、単なる誤植と考え、「琢磨」に直した。
- 1節:「神在さば神よ!」――原文のルビは、「神在さば神よ!」となっている。「在す」の読み方としては「います」「まします」「おわします」等が考えられるが、振り仮名が3文字である事を考慮して「まします」を採った。
- 3節:「一寸勿体ない感じがする。」――原文では、「感し」となっている。単なる誤植(あるいは印刷の不鮮明)だと考え、濁音に直した。
- 7節:「貴女の心が憎いですね。」――原文では句点(。)がない。Kの手紙では、それぞれの手紙の末尾の一文を除いて、すべて句点がつけられている。ここでは句点が行末に来たため省略されたと考え、句点を付加した。(行末の句点が省略されてしまうことは、この時代の印刷物だとよくある)
- 8節:「私生れて以来の最幸の夜――。」――原文では句点(。)がない。上と同じ理由で、句点を付加した。
- 6節:「隠し掩うせる」――これは原文のまま残した。おそらく「隠し遂せる」の「おお」の部分を「掩う(覆う)」の意味だと勘違いしたことによる誤用だろう。
最終更新:2011年09月16日 22:49